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TETARTOS
―浸蝕―
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雨上がりの朝。
校舎の窓ガラスには無数の手形が
曇り跡のように浮かんでいる。
普段なら気にも留めないはずの痕跡が、
美咲の目には異様に多く見えた。
職員室へ向かう廊下を歩くたび、
靴の裏に微かな水気がまとわりつく。
湿った空気は、
まるで水槽の中にいるような重さで肌に貼りついて離れない。
教室の自分の机に座ると、
机の表面に淡く滲んだ掌の跡がいくつも重なっているのに気づく。
拭っても消えない。
その下にうっすらと水滴がにじみ、
袖口がじっとりと濡れた。
午前の授業。黒板のチョークが妙に滑り、指先に粉と湿りが絡まる。
玲奈が席に着いたまま、ぼんやりと美咲を見つめている。
何か言いたげな口元を動かすが、声は出ない。
ふとノートを覗くと、
「先生は夜中、何をしてたの?」
と小さな字で書かれていた。
(……なんで、そんなことまで知ってるの?)
昼休み、給食当番の生徒たちがワイワイと盛り付けをしている中で、
隣の席の男子がぽつりと
「昨日の夜、先生の部屋で音がしたよね」と言う。
美咲は背筋が凍る。
誰にも話していないはずの住所や生活音。
しかも、その瞬間、
隣の生徒が同時にこちらを見てにやりと笑った。
午後、職員室に戻ると机の上に
濡れたタオルが置かれていた。
誰の物か分からない。指でつまむと、
生乾きとカビの匂いが一気に鼻に刺さる。
椅子の背もたれにも、うっすらと濡れた手の跡。
机の下には、知らない小さなメモ用紙。
そこには「先生のこと、みんな知ってるよ」とだけ記されていた。
放課後、資料をコピーしていると、
コピー機のふたに水滴がぽつりぽつりと落ちる。
天井を見上げても、特に水漏れはない。
それでもコピーした用紙には、
まるで誰かの掌が押し当てられたような淡い染みが
一枚ずつ浮かび上がった。
廊下を歩くと、教頭が遠くから美咲に呼びかけてきた。
「角倉先生、最近お疲れみたいだね。何かあった?」
その声色はどこか他人事めいていて、
表情にも興味や心配よりも“監視”の気配が濃い。
周囲にいた同僚教師も
「先生、無理なさらないで」
「先生、大丈夫?」
と口々に声をかけるが、
そのどれもが表面だけで、
逆に自分の内側を覗かれているような寒気を覚えた。
PTAの高城が突然職員室に現れ、
「先生、おうちの玄関の鍵、
ちゃんと閉めてる?最近、泥棒とか物騒だから」
と唐突に話しかけてくる。
美咲は戸惑いながら「はい」と答えるが、
心の奥で「なんでそんなことまで」と疑念が膨らむ。
高城はそのまま「先生、この間、夜にゴミ出してましたよね。
誰か見てたって言ってましたよ」と、
不自然に詳しい生活情報を並べてくる。
帰り際、玲奈が昇降口で待っていた。
「先生の家、冷たい床だったね」
と小声で囁き、
ポケットから濡れた手ぬぐいを取り出して見せた。
「これ、先生の部屋に落ちてたよ」
と悪戯っぽく笑う。
美咲はゾクリとしながら、
それを受け取るしかなかった。
夜、自宅に戻る。
玄関のドアノブが湿っている。
電気を点けると、
廊下のフローリングに薄く水滴が残っていた。
スリッパで歩くたび、ぺたぺたと不快な音が続く。
キッチンのカウンターやリビングの机にも、
誰かの手で拭われたような曇った跡。
自分以外誰も入っていないはずなのに。
お風呂上がりに洗面台の鏡を拭くと、
そこにも指の跡が残る。
髪を乾かしながら窓を見ると、
ガラスの内側に大人の手と子どもの手が重なったような形の曇り跡。
その瞬間、背後でカーテンがゆっくり揺れる。
リビングに戻ると、
机の上のスマホが何度もバイブレーションで震えていた。
画面を見ても不在着信はない。
ただ、ロック画面には知らない子どもの笑顔が
ぼんやりと映り込んでいるように見えた。
深夜、ベッドに横になると、
床がじんわりと濡れていくような感覚がした。
足元から冷たさが這い上がり、
シーツをめくると床に薄い水滴がびっしりと並んでいる。
その奥、壁際にはかすかに足跡のような痕跡。
濡れた素足で歩き回った形が、朝まで消えなかった。
翌朝、職員室で同僚教師が会話をしている。
美咲が近づくと、急に声のトーンが落ちて、
聞き取れない早口で何かを話している。
自分が席に着くと、話題がすっと変わる。
「先生、今日も顔色悪いね」
「昨夜、遅かったんじゃない?」
なぜ自分の帰宅時間まで知っているのか、
言い知れぬ怖さが胸に残る。
ホームルーム中、玲奈が唐突に
「先生、昨日お風呂で泣いてたよね」と言った。
クラスの他の生徒も
「先生の部屋、冷たいから風邪ひくよ」
と声を重ねる。
その場で笑いが起きるが、美咲は心の底から凍りつく。
誰にも話していない、誰も知るはずのないプライベートな行動。
全身を包む空気がねっとりとまとわりつき、息をするのも苦しい。
放課後、帰宅するとまた床が濡れている。
窓のサッシには水滴が玉になって連なり、
畳の上まで薄く湿っている。
台所の流しの排水口には、
見覚えのない子どもの靴下が小さく丸めて詰まっていた。
スマホに
「みてるよ」
「いるよ」
「ずっといっしょだよ」
というメッセージが未読で何件も届いている。
差出人は表示されず、削除しても翌朝にはまた増えている。
もはや美咲は家のどこにも安堵を得られなくなっていた。
夜半。
廊下に水たまりが広がり、
ベッドの下から「先生、こっちだよ」と小さな声が響く。
美咲は震えながら布団をかぶり、
泣き声をこらえて朝を待つしかなかった。
外はすでに梅雨の気配。
校舎の窓には、また新しい手の跡が増えていた。
校舎の窓ガラスには無数の手形が
曇り跡のように浮かんでいる。
普段なら気にも留めないはずの痕跡が、
美咲の目には異様に多く見えた。
職員室へ向かう廊下を歩くたび、
靴の裏に微かな水気がまとわりつく。
湿った空気は、
まるで水槽の中にいるような重さで肌に貼りついて離れない。
教室の自分の机に座ると、
机の表面に淡く滲んだ掌の跡がいくつも重なっているのに気づく。
拭っても消えない。
その下にうっすらと水滴がにじみ、
袖口がじっとりと濡れた。
午前の授業。黒板のチョークが妙に滑り、指先に粉と湿りが絡まる。
玲奈が席に着いたまま、ぼんやりと美咲を見つめている。
何か言いたげな口元を動かすが、声は出ない。
ふとノートを覗くと、
「先生は夜中、何をしてたの?」
と小さな字で書かれていた。
(……なんで、そんなことまで知ってるの?)
昼休み、給食当番の生徒たちがワイワイと盛り付けをしている中で、
隣の席の男子がぽつりと
「昨日の夜、先生の部屋で音がしたよね」と言う。
美咲は背筋が凍る。
誰にも話していないはずの住所や生活音。
しかも、その瞬間、
隣の生徒が同時にこちらを見てにやりと笑った。
午後、職員室に戻ると机の上に
濡れたタオルが置かれていた。
誰の物か分からない。指でつまむと、
生乾きとカビの匂いが一気に鼻に刺さる。
椅子の背もたれにも、うっすらと濡れた手の跡。
机の下には、知らない小さなメモ用紙。
そこには「先生のこと、みんな知ってるよ」とだけ記されていた。
放課後、資料をコピーしていると、
コピー機のふたに水滴がぽつりぽつりと落ちる。
天井を見上げても、特に水漏れはない。
それでもコピーした用紙には、
まるで誰かの掌が押し当てられたような淡い染みが
一枚ずつ浮かび上がった。
廊下を歩くと、教頭が遠くから美咲に呼びかけてきた。
「角倉先生、最近お疲れみたいだね。何かあった?」
その声色はどこか他人事めいていて、
表情にも興味や心配よりも“監視”の気配が濃い。
周囲にいた同僚教師も
「先生、無理なさらないで」
「先生、大丈夫?」
と口々に声をかけるが、
そのどれもが表面だけで、
逆に自分の内側を覗かれているような寒気を覚えた。
PTAの高城が突然職員室に現れ、
「先生、おうちの玄関の鍵、
ちゃんと閉めてる?最近、泥棒とか物騒だから」
と唐突に話しかけてくる。
美咲は戸惑いながら「はい」と答えるが、
心の奥で「なんでそんなことまで」と疑念が膨らむ。
高城はそのまま「先生、この間、夜にゴミ出してましたよね。
誰か見てたって言ってましたよ」と、
不自然に詳しい生活情報を並べてくる。
帰り際、玲奈が昇降口で待っていた。
「先生の家、冷たい床だったね」
と小声で囁き、
ポケットから濡れた手ぬぐいを取り出して見せた。
「これ、先生の部屋に落ちてたよ」
と悪戯っぽく笑う。
美咲はゾクリとしながら、
それを受け取るしかなかった。
夜、自宅に戻る。
玄関のドアノブが湿っている。
電気を点けると、
廊下のフローリングに薄く水滴が残っていた。
スリッパで歩くたび、ぺたぺたと不快な音が続く。
キッチンのカウンターやリビングの机にも、
誰かの手で拭われたような曇った跡。
自分以外誰も入っていないはずなのに。
お風呂上がりに洗面台の鏡を拭くと、
そこにも指の跡が残る。
髪を乾かしながら窓を見ると、
ガラスの内側に大人の手と子どもの手が重なったような形の曇り跡。
その瞬間、背後でカーテンがゆっくり揺れる。
リビングに戻ると、
机の上のスマホが何度もバイブレーションで震えていた。
画面を見ても不在着信はない。
ただ、ロック画面には知らない子どもの笑顔が
ぼんやりと映り込んでいるように見えた。
深夜、ベッドに横になると、
床がじんわりと濡れていくような感覚がした。
足元から冷たさが這い上がり、
シーツをめくると床に薄い水滴がびっしりと並んでいる。
その奥、壁際にはかすかに足跡のような痕跡。
濡れた素足で歩き回った形が、朝まで消えなかった。
翌朝、職員室で同僚教師が会話をしている。
美咲が近づくと、急に声のトーンが落ちて、
聞き取れない早口で何かを話している。
自分が席に着くと、話題がすっと変わる。
「先生、今日も顔色悪いね」
「昨夜、遅かったんじゃない?」
なぜ自分の帰宅時間まで知っているのか、
言い知れぬ怖さが胸に残る。
ホームルーム中、玲奈が唐突に
「先生、昨日お風呂で泣いてたよね」と言った。
クラスの他の生徒も
「先生の部屋、冷たいから風邪ひくよ」
と声を重ねる。
その場で笑いが起きるが、美咲は心の底から凍りつく。
誰にも話していない、誰も知るはずのないプライベートな行動。
全身を包む空気がねっとりとまとわりつき、息をするのも苦しい。
放課後、帰宅するとまた床が濡れている。
窓のサッシには水滴が玉になって連なり、
畳の上まで薄く湿っている。
台所の流しの排水口には、
見覚えのない子どもの靴下が小さく丸めて詰まっていた。
スマホに
「みてるよ」
「いるよ」
「ずっといっしょだよ」
というメッセージが未読で何件も届いている。
差出人は表示されず、削除しても翌朝にはまた増えている。
もはや美咲は家のどこにも安堵を得られなくなっていた。
夜半。
廊下に水たまりが広がり、
ベッドの下から「先生、こっちだよ」と小さな声が響く。
美咲は震えながら布団をかぶり、
泣き声をこらえて朝を待つしかなかった。
外はすでに梅雨の気配。
校舎の窓には、また新しい手の跡が増えていた。
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