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TRITOS
―違和―
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新任から一週間が過ぎた。
春の湿気が増すたび、角倉美咲の心にはざらつく波紋が重なっていった。
朝、職員更衣室で着替えを済ませ、
ふと服の袖口に黒いものが絡んでいるのに気づく。
指で摘まむと、細く長い髪の毛。
自分のものではない。
色も質感も、どこか他人の残り香を孕んだような不快な感触。
(いつから付いてたんだろう。生徒かな、同僚?)
振り払っても、なぜか爪の間に絡みつく感触が残る。
朝の空気はやけに湿っぽく、
ロッカーの中にも微かな甘い匂いが漂っていた。
職員室で教材を揃えていると、他の教師はまだ誰もいない。
窓際のカーテンが風もないのに揺れている。
コピー機の作動音、廊下を行き来する生徒たちの足音。
そのどれもが、やけに遠く響いた。
ふと、背後からかすかな囁き声。
(え……?)
「せんせい……せんせい……」
はっきりとは聞こえない。
それでも、自分に呼びかけているのだと直感する。
振り返っても誰もいない。
戸口の影にも誰も立っていない。
美咲は肩を竦め、深く息をつく。
窓の外は薄曇りで、遠くの山並みもぼやけていた。
その日はなぜか、教室でも廊下でも視線を強く感じた。
玲奈は相変わらずノートの隅に黒いシミを増やし続けている。
昼休み、職員室で一人書類整理をしていると、
また背後から「……ねえ」と小さな声が響いた気がする。
帰りがけ、トイレの個室に入ると、どこかの戸がギシリと軋む。
誰かが入ってきたのかと思うが、下から覗いても人影はない。
個室を出ると、洗面台の鏡に誰もいないはずの“背後の気配”が
滲んでいる気がして、思わず早足で出た。
放課後、更衣室で着替えようとした瞬間、
ロッカーの奥にもう一度、今度は短い黒髪が絡みついていた。
朝とは違う質感。
明らかに“誰かの髪”が日に二度も付着する不自然さに、鳥肌が立つ。
(気のせい。きっと、たまたま……でも、何かがまとわりついている)
下校の時刻になっても、校舎の奥から遠く誰かの声がする。
誰もいない空き教室、机や椅子のきしむ音。
どこかから「みさき先生……」という呼びかけが
混じったような幻聴まで聞こえた。
重たい空気を押し分けるように帰宅の途につく。
家までの帰り道も、
街灯の下で誰かの視線が首筋に貼りつくように感じられた。
アパートの玄関を開けると、ふわりと“生臭い”においが鼻を突く。
自分の部屋なのに、どこか他人の生活臭。
生乾きのタオル、濡れた髪、古いカビのような生臭さが混じる。
靴を脱ぐと、玄関マットの上にも、昨日はなかったはずの細い黒髪。
脱いだ制服の襟元にも一本、知らない髪が絡みついている。
台所の排水口の奥、風呂場のタイルの隅。
どこを見ても微かな“異物”が残されていた。
夜、寝床に入ろうと布団をめくると、
掛布団の裏地にもまた一本、黒い髪が落ちている。
さっきまで気配を感じていた廊下の暗がりから、かすかな囁き声。
「——みさき先生……」
美咲は思わず布団をかぶり、
瞼を固く閉じた。耳の奥で残響のように声が渦巻く。
(こんなの……おかしい。絶対、おかしい)
自分で自分の腕を抱きしめ、
震えをこらえながら、ひと晩じゅう眠れないまま朝を迎えた。
翌朝、目覚ましの音に重く体を起こす。
寝不足のせいか、全身がだるい。
鏡を見ると、目の下にうっすらとしたクマ。
頬にはひと筋、見覚えのない小さな引っかき傷が走っていた。
寝ぼけて掻いたのかと思うが、どこか腑に落ちない。
洗濯したはずのブラウスの袖を通すと、
濡れたような冷たさが腕に貼りついた。
思わず袖をめくると、内側の縫い目にまた短い黒髪が一本挟まっている。
ぞっとして引き抜くと、何かぬるっとした感触が指先に残る。
朝の職員室。
今日はなぜか教頭も同僚も、机を並べているのにやけに遠く感じる。
向こうから見つめる目だけが、壁越しに迫ってくるような圧を放っていた。
資料のプリントを取りにいく途中、廊下で玲奈にすれ違う。
玲奈はじっと無言で美咲を見上げ、
「先生、髪の毛……落ちてるよ」
とだけ呟く。指差した美咲の肩には、また一本の黒髪。
(やっぱり……なぜ、こんなに……)
昼休み、職員室で一人になると、
どこからかコツコツと机を叩くような音が聞こえた。
静かに耳を澄ますと、間延びした呼吸音。
誰もいないはずの空間で、背中にじっとりと貼りつくような気配。
音の正体を確かめようと椅子から立ち上がるが、廊下は静まり返っていた。
コピー機の機械音、校庭の遠い子供の声。
それらが不自然なほど現実感を失っていく。
放課後、教室の机を回っていると、
机の裏に黒いインクのような染みが点々と続いているのに気づく。
自分が拭いたわけでもないのに、
椅子の脚元にもうっすらと何かがこびりついている。
触れると少し粘り気があり、
さっとティッシュで拭いながら心の奥でぞわりと寒気が走る。
そのまま更衣室に行くと、ロッカーを開けた瞬間、
強い生乾きの臭いが鼻を刺した。
昨日入れたはずの予備のストッキングの中に、
また黒い髪が数本絡まっている。
毎日きちんと管理しているはずなのに、
日に日に髪の量が増えている気がしてならない。
帰宅してからも不快な気配は消えなかった。
夕食を作る手元、
包丁の刃先がまるで誰かの視線を反射しているようで落ち着かない。
テレビをつけても内容が頭に入らず、何度も部屋を見回す。
入浴後、バスタオルで髪を拭いていると、タオルの端にまたもや黒い髪。
自分の髪とは明らかに太さも長さも違う。
他人の髪がここまで生活の隅々に入り込むことがあるだろうか。
どこかで見ている者がいる、
そんな妄想めいた感覚が次第に現実味を帯びてくる。
夜になると、部屋の中の気配がさらに濃くなる。
布団に入るとき、ベッド脇のカーテンがわずかに揺れる。
換気もしていないのに冷たい風のようなものが足元を撫でた。
天井の隅で、誰かが小さく笑ったような音が聞こえ、
金縛りのように体が動かなくなる。
瞼を閉じても、耳の奥に「……せんせい……」という囁きが残り続ける。
美咲はとうとう、机の引き出しにお守りを入れるようになった。
実家の母から送られてきた、古い神社の小さな護符。
(こんなもの、役に立つはずないのに……)
けれど、何もせずにはいられなかった。
ベッドに横たわったまま、手のひらで護符を握り締め、深呼吸してみる。
だが、どこか遠くでまた誰かの「くすくす笑う声」がする。
自分の暮らしが、じわじわと誰かに侵食されていく。
そう感じた夜、美咲はもう一度、
鏡に映った自分の顔をまじまじと見つめた。
額の生え際に、また一本、知らない黒髪が貼りついている。
春の湿気が増すたび、角倉美咲の心にはざらつく波紋が重なっていった。
朝、職員更衣室で着替えを済ませ、
ふと服の袖口に黒いものが絡んでいるのに気づく。
指で摘まむと、細く長い髪の毛。
自分のものではない。
色も質感も、どこか他人の残り香を孕んだような不快な感触。
(いつから付いてたんだろう。生徒かな、同僚?)
振り払っても、なぜか爪の間に絡みつく感触が残る。
朝の空気はやけに湿っぽく、
ロッカーの中にも微かな甘い匂いが漂っていた。
職員室で教材を揃えていると、他の教師はまだ誰もいない。
窓際のカーテンが風もないのに揺れている。
コピー機の作動音、廊下を行き来する生徒たちの足音。
そのどれもが、やけに遠く響いた。
ふと、背後からかすかな囁き声。
(え……?)
「せんせい……せんせい……」
はっきりとは聞こえない。
それでも、自分に呼びかけているのだと直感する。
振り返っても誰もいない。
戸口の影にも誰も立っていない。
美咲は肩を竦め、深く息をつく。
窓の外は薄曇りで、遠くの山並みもぼやけていた。
その日はなぜか、教室でも廊下でも視線を強く感じた。
玲奈は相変わらずノートの隅に黒いシミを増やし続けている。
昼休み、職員室で一人書類整理をしていると、
また背後から「……ねえ」と小さな声が響いた気がする。
帰りがけ、トイレの個室に入ると、どこかの戸がギシリと軋む。
誰かが入ってきたのかと思うが、下から覗いても人影はない。
個室を出ると、洗面台の鏡に誰もいないはずの“背後の気配”が
滲んでいる気がして、思わず早足で出た。
放課後、更衣室で着替えようとした瞬間、
ロッカーの奥にもう一度、今度は短い黒髪が絡みついていた。
朝とは違う質感。
明らかに“誰かの髪”が日に二度も付着する不自然さに、鳥肌が立つ。
(気のせい。きっと、たまたま……でも、何かがまとわりついている)
下校の時刻になっても、校舎の奥から遠く誰かの声がする。
誰もいない空き教室、机や椅子のきしむ音。
どこかから「みさき先生……」という呼びかけが
混じったような幻聴まで聞こえた。
重たい空気を押し分けるように帰宅の途につく。
家までの帰り道も、
街灯の下で誰かの視線が首筋に貼りつくように感じられた。
アパートの玄関を開けると、ふわりと“生臭い”においが鼻を突く。
自分の部屋なのに、どこか他人の生活臭。
生乾きのタオル、濡れた髪、古いカビのような生臭さが混じる。
靴を脱ぐと、玄関マットの上にも、昨日はなかったはずの細い黒髪。
脱いだ制服の襟元にも一本、知らない髪が絡みついている。
台所の排水口の奥、風呂場のタイルの隅。
どこを見ても微かな“異物”が残されていた。
夜、寝床に入ろうと布団をめくると、
掛布団の裏地にもまた一本、黒い髪が落ちている。
さっきまで気配を感じていた廊下の暗がりから、かすかな囁き声。
「——みさき先生……」
美咲は思わず布団をかぶり、
瞼を固く閉じた。耳の奥で残響のように声が渦巻く。
(こんなの……おかしい。絶対、おかしい)
自分で自分の腕を抱きしめ、
震えをこらえながら、ひと晩じゅう眠れないまま朝を迎えた。
翌朝、目覚ましの音に重く体を起こす。
寝不足のせいか、全身がだるい。
鏡を見ると、目の下にうっすらとしたクマ。
頬にはひと筋、見覚えのない小さな引っかき傷が走っていた。
寝ぼけて掻いたのかと思うが、どこか腑に落ちない。
洗濯したはずのブラウスの袖を通すと、
濡れたような冷たさが腕に貼りついた。
思わず袖をめくると、内側の縫い目にまた短い黒髪が一本挟まっている。
ぞっとして引き抜くと、何かぬるっとした感触が指先に残る。
朝の職員室。
今日はなぜか教頭も同僚も、机を並べているのにやけに遠く感じる。
向こうから見つめる目だけが、壁越しに迫ってくるような圧を放っていた。
資料のプリントを取りにいく途中、廊下で玲奈にすれ違う。
玲奈はじっと無言で美咲を見上げ、
「先生、髪の毛……落ちてるよ」
とだけ呟く。指差した美咲の肩には、また一本の黒髪。
(やっぱり……なぜ、こんなに……)
昼休み、職員室で一人になると、
どこからかコツコツと机を叩くような音が聞こえた。
静かに耳を澄ますと、間延びした呼吸音。
誰もいないはずの空間で、背中にじっとりと貼りつくような気配。
音の正体を確かめようと椅子から立ち上がるが、廊下は静まり返っていた。
コピー機の機械音、校庭の遠い子供の声。
それらが不自然なほど現実感を失っていく。
放課後、教室の机を回っていると、
机の裏に黒いインクのような染みが点々と続いているのに気づく。
自分が拭いたわけでもないのに、
椅子の脚元にもうっすらと何かがこびりついている。
触れると少し粘り気があり、
さっとティッシュで拭いながら心の奥でぞわりと寒気が走る。
そのまま更衣室に行くと、ロッカーを開けた瞬間、
強い生乾きの臭いが鼻を刺した。
昨日入れたはずの予備のストッキングの中に、
また黒い髪が数本絡まっている。
毎日きちんと管理しているはずなのに、
日に日に髪の量が増えている気がしてならない。
帰宅してからも不快な気配は消えなかった。
夕食を作る手元、
包丁の刃先がまるで誰かの視線を反射しているようで落ち着かない。
テレビをつけても内容が頭に入らず、何度も部屋を見回す。
入浴後、バスタオルで髪を拭いていると、タオルの端にまたもや黒い髪。
自分の髪とは明らかに太さも長さも違う。
他人の髪がここまで生活の隅々に入り込むことがあるだろうか。
どこかで見ている者がいる、
そんな妄想めいた感覚が次第に現実味を帯びてくる。
夜になると、部屋の中の気配がさらに濃くなる。
布団に入るとき、ベッド脇のカーテンがわずかに揺れる。
換気もしていないのに冷たい風のようなものが足元を撫でた。
天井の隅で、誰かが小さく笑ったような音が聞こえ、
金縛りのように体が動かなくなる。
瞼を閉じても、耳の奥に「……せんせい……」という囁きが残り続ける。
美咲はとうとう、机の引き出しにお守りを入れるようになった。
実家の母から送られてきた、古い神社の小さな護符。
(こんなもの、役に立つはずないのに……)
けれど、何もせずにはいられなかった。
ベッドに横たわったまま、手のひらで護符を握り締め、深呼吸してみる。
だが、どこか遠くでまた誰かの「くすくす笑う声」がする。
自分の暮らしが、じわじわと誰かに侵食されていく。
そう感じた夜、美咲はもう一度、
鏡に映った自分の顔をまじまじと見つめた。
額の生え際に、また一本、知らない黒髪が貼りついている。
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