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DEUTEROS
―濡朝―
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四月。
田舎町H県O市F村。
夜明け前の雨がまだ舗道の継ぎ目に残り、
町全体が湿った息を吐いているようだった。
JR駅前を出て一本道。
角倉美咲はキャリーケースのタイヤ音を響かせながら、
青く濡れた道を歩いた。
古い家並み、雨粒の残る瓦、
流れるような肥料と湿気の匂い。
田舎の朝は都会の乾いた空気とはまるで違う。
美咲は一歩ごとに、
スカートの裾が湿るような感覚を覚えていた。
(空気が重い……湿ってる。でもここが、今日から私の“現場”)
緊張と期待、そして説明できない違和感が、
美咲の胸に入り混じっていた。
大学を卒業して教壇に立つ――
それだけを目標にしてきたのに、現実は甘くなかった。
教員採用試験は壁のように高く、
結果が出ないまま時間だけが過ぎる。
周囲は「次があるよ」と軽く言うが、
そう言われるたびに、自分だけが置き去りにされていく気がした。
このまま塾講師として働きながら、来年また挑むしかない。
そう腹を括りかけた矢先だった。
「臨時だけど、村立中学で国語の講師を探してる。
面談、受けてみない?」
知人からの電話は、唐突で、妙に具体的だった。
場所は実家からそれほど遠くない、H県O市F村のO中学校。
欠員が出たらしいが、理由ははっきりしない。
ただ「急ぎなんだ」とだけ言われた。
面談は、拍子抜けするほど早く決まった。
会議室に通され、履歴書を出し、
形式的な質問をいくつか受ける。
校長は穏やかに頷き、教頭の羽柴は終始、
薄い笑みを浮かべていた。
その笑みがなぜか胸の奥に引っかかったが、
美咲は「考えすぎ」と自分に言い聞かせた。
数日も経たないうちに、採用の連絡が来た。
臨時採用――それでも、教壇に立てる。
誰かに必要とされる場所がある。
「運が良かった」
美咲はそう思い込むことで、不安を丸め込もうとした。
都会育ちの自分に田舎が務まるのか、
そんな迷いは残っている。
それでも――「大丈夫。私ならやれるはず」
キャリーケースの取っ手を握り直し、
美咲は校門へ向かった。
すれ違う人影はなく、
開け放たれていない民家の窓には、まだ白く曇りが残る。
そのガラス越しに、誰かがじっと見ている気配を背中で感じた。
犬の遠吠え、カラスの濁った鳴き声、
空を漂う曇天。どこか現実味の薄い朝だった。
O中学校の二階建てコンクリート校舎。
壁は灰色にくすみ、窓には水滴と手垢の筋。
校庭の片隅にはひび割れたプール。
金網越しにグラウンドを覗くと、
古ぼけた遊具と歪んだサッカーゴール。
美咲は思わず深呼吸するが、
吸い込んだ空気が喉の奥に重く絡みつく。
昇降口に着くと、靴箱の下にうっすらと水たまり。
美咲は自分の下駄箱を開けた。
(……え?)
靴の中敷きがしっとり濡れ、
甘ったるく生ぬるい異臭が鼻を突く。
思わず顔をしかめるが、声には出せない。
誰も気に留めず通り過ぎていく。
心臓がきゅっと萎みそうになるが、
平静を装い、靴を取り出す。
(なにこれ……気持ち悪い。
でも、新任早々こんなことで騒ぐわけにいかない)
気を取り直して昇降口のガラス戸を開けると、
職員室の奥から誰かの視線を感じた。
自分だけが見張られているような、不自然な静けさ。
美咲はキャリーケースを引いて職員室へ向かう。
職員室に入ると、羽柴教頭が真っ先に寄ってきた。
「ようこそ。田舎は不便なことも多いけど、
みんな温かいからすぐ慣れますよ」
明るい口調で出迎えたが、距離が近い。
顔の数十センチ先まで迫り、
笑顔の奥の皺と、
呼気の中に漂う消毒薬と古紙が混じったような生暖かさ。
(うっ……近い。この距離、嫌だ。
なぜこんなに……もっと下がって)
それでも美咲は表情を変えず、
笑顔で「ありがとうございます」と返す。
心の中のざわつきが、皮膚の下で静かに泡立っていく。
他の教員たちはちらりと視線を投げては、
何事もなかったように自分の作業に戻る。
空気の隙間に沈黙が流れ、歓迎の拍手もない。
美咲は自分が「まだ部外者」であることを痛感しながら、机へ向かう。
美咲は職員室でスマホを取り出し
両親に「今日から教師がんばります」と自撮り写真をLINEで送った。
始業式の前、美咲は自分の机に着く。
机の片隅には前任者の名札が残り、
その表面に薄くこびりついたカビ。
ロッカーを開けると、湿った紙の匂いが鼻を刺した。
(前任の先生、ここで何を思っていたんだろう……)
心の中に違和感が広がるが、笑顔を崩さず資料を整える。
会議が終わり、初めて担任する2年1組の教室へ。
教室の入り口、窓の外から女子生徒—望月玲奈がじっと見ている。
細い指でノートを広げ、黒いペンでページの隅を塗りつぶしていた。
近づいて見ると「先生の顔」と書かれた小さな丸がいくつも。
だがその輪郭はどれも滲み、黒いシミの塊になっている。
(……気持ち悪い。なぜこんな絵を……
でも、担任として話しかけるしかない)
できるだけ明るい声で
「おはよう。新しい担任の角倉です」と声をかけるが、
玲奈は目を合わせず、
ノートの黒いシミを無心で指先でなぞり続ける。
始業式が終わるころ、
午後の空気はさらに重く湿り気を増していた。
廊下を歩くと、
どこからともなく誰かの視線が背中にまとわりついてくる。
保健室に資料を届けに行くと、
市川養護教諭が無言で立っていた。
窓は閉ざされ、
部屋の中には消毒薬とカビが混じった独特の匂い。
一言二言話をした後、市川はぽつりと呟いた。
「あなたの前任の先生、急に来なくなったのよ」
「え?」
(急にって何で?…………)
美咲は保健室の奥、誰もいないベッドや曇った窓を見つめながら、
足元から何かが崩れていきそうな不安を感じた。
田舎町H県O市F村。
夜明け前の雨がまだ舗道の継ぎ目に残り、
町全体が湿った息を吐いているようだった。
JR駅前を出て一本道。
角倉美咲はキャリーケースのタイヤ音を響かせながら、
青く濡れた道を歩いた。
古い家並み、雨粒の残る瓦、
流れるような肥料と湿気の匂い。
田舎の朝は都会の乾いた空気とはまるで違う。
美咲は一歩ごとに、
スカートの裾が湿るような感覚を覚えていた。
(空気が重い……湿ってる。でもここが、今日から私の“現場”)
緊張と期待、そして説明できない違和感が、
美咲の胸に入り混じっていた。
大学を卒業して教壇に立つ――
それだけを目標にしてきたのに、現実は甘くなかった。
教員採用試験は壁のように高く、
結果が出ないまま時間だけが過ぎる。
周囲は「次があるよ」と軽く言うが、
そう言われるたびに、自分だけが置き去りにされていく気がした。
このまま塾講師として働きながら、来年また挑むしかない。
そう腹を括りかけた矢先だった。
「臨時だけど、村立中学で国語の講師を探してる。
面談、受けてみない?」
知人からの電話は、唐突で、妙に具体的だった。
場所は実家からそれほど遠くない、H県O市F村のO中学校。
欠員が出たらしいが、理由ははっきりしない。
ただ「急ぎなんだ」とだけ言われた。
面談は、拍子抜けするほど早く決まった。
会議室に通され、履歴書を出し、
形式的な質問をいくつか受ける。
校長は穏やかに頷き、教頭の羽柴は終始、
薄い笑みを浮かべていた。
その笑みがなぜか胸の奥に引っかかったが、
美咲は「考えすぎ」と自分に言い聞かせた。
数日も経たないうちに、採用の連絡が来た。
臨時採用――それでも、教壇に立てる。
誰かに必要とされる場所がある。
「運が良かった」
美咲はそう思い込むことで、不安を丸め込もうとした。
都会育ちの自分に田舎が務まるのか、
そんな迷いは残っている。
それでも――「大丈夫。私ならやれるはず」
キャリーケースの取っ手を握り直し、
美咲は校門へ向かった。
すれ違う人影はなく、
開け放たれていない民家の窓には、まだ白く曇りが残る。
そのガラス越しに、誰かがじっと見ている気配を背中で感じた。
犬の遠吠え、カラスの濁った鳴き声、
空を漂う曇天。どこか現実味の薄い朝だった。
O中学校の二階建てコンクリート校舎。
壁は灰色にくすみ、窓には水滴と手垢の筋。
校庭の片隅にはひび割れたプール。
金網越しにグラウンドを覗くと、
古ぼけた遊具と歪んだサッカーゴール。
美咲は思わず深呼吸するが、
吸い込んだ空気が喉の奥に重く絡みつく。
昇降口に着くと、靴箱の下にうっすらと水たまり。
美咲は自分の下駄箱を開けた。
(……え?)
靴の中敷きがしっとり濡れ、
甘ったるく生ぬるい異臭が鼻を突く。
思わず顔をしかめるが、声には出せない。
誰も気に留めず通り過ぎていく。
心臓がきゅっと萎みそうになるが、
平静を装い、靴を取り出す。
(なにこれ……気持ち悪い。
でも、新任早々こんなことで騒ぐわけにいかない)
気を取り直して昇降口のガラス戸を開けると、
職員室の奥から誰かの視線を感じた。
自分だけが見張られているような、不自然な静けさ。
美咲はキャリーケースを引いて職員室へ向かう。
職員室に入ると、羽柴教頭が真っ先に寄ってきた。
「ようこそ。田舎は不便なことも多いけど、
みんな温かいからすぐ慣れますよ」
明るい口調で出迎えたが、距離が近い。
顔の数十センチ先まで迫り、
笑顔の奥の皺と、
呼気の中に漂う消毒薬と古紙が混じったような生暖かさ。
(うっ……近い。この距離、嫌だ。
なぜこんなに……もっと下がって)
それでも美咲は表情を変えず、
笑顔で「ありがとうございます」と返す。
心の中のざわつきが、皮膚の下で静かに泡立っていく。
他の教員たちはちらりと視線を投げては、
何事もなかったように自分の作業に戻る。
空気の隙間に沈黙が流れ、歓迎の拍手もない。
美咲は自分が「まだ部外者」であることを痛感しながら、机へ向かう。
美咲は職員室でスマホを取り出し
両親に「今日から教師がんばります」と自撮り写真をLINEで送った。
始業式の前、美咲は自分の机に着く。
机の片隅には前任者の名札が残り、
その表面に薄くこびりついたカビ。
ロッカーを開けると、湿った紙の匂いが鼻を刺した。
(前任の先生、ここで何を思っていたんだろう……)
心の中に違和感が広がるが、笑顔を崩さず資料を整える。
会議が終わり、初めて担任する2年1組の教室へ。
教室の入り口、窓の外から女子生徒—望月玲奈がじっと見ている。
細い指でノートを広げ、黒いペンでページの隅を塗りつぶしていた。
近づいて見ると「先生の顔」と書かれた小さな丸がいくつも。
だがその輪郭はどれも滲み、黒いシミの塊になっている。
(……気持ち悪い。なぜこんな絵を……
でも、担任として話しかけるしかない)
できるだけ明るい声で
「おはよう。新しい担任の角倉です」と声をかけるが、
玲奈は目を合わせず、
ノートの黒いシミを無心で指先でなぞり続ける。
始業式が終わるころ、
午後の空気はさらに重く湿り気を増していた。
廊下を歩くと、
どこからともなく誰かの視線が背中にまとわりついてくる。
保健室に資料を届けに行くと、
市川養護教諭が無言で立っていた。
窓は閉ざされ、
部屋の中には消毒薬とカビが混じった独特の匂い。
一言二言話をした後、市川はぽつりと呟いた。
「あなたの前任の先生、急に来なくなったのよ」
「え?」
(急にって何で?…………)
美咲は保健室の奥、誰もいないベッドや曇った窓を見つめながら、
足元から何かが崩れていきそうな不安を感じた。
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