不快

不幸中の幸い

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HEKTOS

―同調―

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最初に異変を感じたのは、教室でも廊下でもなかった。
職員室の中央、ふいに響いた一度きりの拍手だった。

昼下がり、羽柴教頭が唐突に手を叩いた。

「角倉先生、少しよろしいですか」

それだけで、職員室中の空気が微かに震える。
同時に、同僚の全員が、
まるで事前に合図を受けていたかのように美咲の方を振り向く。

その一瞬、背中に這い上がる粘着質な圧力。
窓のガラス越しには、クラスの生徒たちが揃って立ち尽くし、
無表情でじっと美咲を見つめていた。
ただの偶然、で済ませたい。
しかし、誰の目にも生気がなかった。

「先生、何かお困りのことはありませんか」
「先生、体調はいかがですか」
「先生、今夜は眠れましたか」

言葉がまるで、同じ録音テープのリピートのように流れる。
誰か一人が発したのではない。
羽柴教頭、安藤教諭、市川養護教諭、高城PTA副会長その他の教員、職員…
望月玲奈をはじめとした生徒たち。
全員の口元が同じ笑みを浮かべている。
“集団”というものをここまで不快に感じたことはなかった。

誰も目を逸らさない。
美咲の心臓が強く収縮する。
体内のどこかに、知らない誰かの息遣いが忍び込んでくる。

(みんな同じ動き……同じ声、同じタイミング……)

廊下に出れば、生徒たちが一列に並び、
一糸乱れぬタイミングで
「おはようございます、角倉先生」
と挨拶する。
口元の弧、瞳の光の鈍さ、まばたきのリズム、
全てがあまりにも揃いすぎている。

「先生、元気ですか」
「先生、髪がきれいですね」
「先生、昨日は何をしてたんですか」

質問攻め。
それも、誰がどの台詞を言ったか分からないほど同一化されている。
教室の扉脇で玲奈がノートを広げていた。
「先生、みんなで描いたよ」
ノート一面に、“黒いシミ”で塗りつぶされた“美咲の顔”が
何重にも描かれている。

「先生、全部、見てるからね」

玲奈が言うと、教室の生徒たちが同時に「見てる」と唱和した。
空気が薄くなる。何かが皮膚の下を這い回る。

放課後、職員室に戻ると、
机の配置がわずかに変わっていた。
美咲の机だけが、中央に孤立し、
周囲を他の机や椅子が結界のように囲んでいる。
どこにも逃げ道がない。

机に座ると、安藤が隣にぴたりと椅子を寄せてきた。

「角倉先生、昨日は遅くまで灯りがついていましたね」
「え、どうして……」
「みんな知ってますよ」

その時、他の教師や事務員も一斉に頷いた。

羽柴教頭が不自然な笑みで囁く。
「先生のこと、みんなが見守っているんです」
同僚やPTAの女性たちも、まるで歌のリフレインのように
「大丈夫、大丈夫」
「何も心配いりません」
と繰り返す。
全員の言葉が、まるで事前に決められていたかのように、
完璧に一致していた。

昇降口へ歩くと、生徒たちが列を作り、美咲が近づくと一斉に振り返る。
「先生、靴にシミがついていますよ」
「先生、ストッキング、破れてます」
声が重なる。
違う声質なのに、同じ抑揚、同じ笑い。
視線の束が、美咲の動きを追い詰めていく。

校舎の窓すべてに、生徒や教師の顔が並んでいる。
手を振れば、一斉に手が振り返される。
階段を上がれば、足音が追いかけ、下りれば同じ足音が交差する。
トイレに入ると、全ての個室に“誰かの息”が充満しているようだった。

職員室の隅では、ちょうどPTAの定例会が開かれていた。
高城副会長は来客用の席に堂々と腰かけ、
職員と変わらぬ顔で談笑している。

(PTAの会議とはいえ、どうしてここまで当たり前のように職員室に……?)

そんな違和感を覚えた瞬間、
高城がすっと美咲の方へ近づいてきた。
「先生、昨日の炊き込み御飯と茶碗蒸し、どうでした?」と問いかける。
「なぜ、それを……」と聞き返すと、
「みんな知っていますから」と、全員が同時に答えた。
会話の内容も、タイミングも、全てが同期している。

その日は給食の配膳も異様だった。
生徒たちが机を囲み、美咲が一口食べるごとに
「美味しいですか」
と全員が首を傾げて微笑む。
何かを食べるたび、口腔の中に異物が混じるような違和感。
見回すと、誰一人、箸もスプーンも使っていない。
ただ美咲を見ているだけ。

(みんなが、私のためだけに存在しているみたい……)

自宅に戻る道もおかしかった。
帰路の途中、家々の窓から、
カーテンの隙間から、無数の視線が降り注ぐ。
玄関ドアを開けると、廊下に濡れた足跡が続いている。
台所の流し台には、使った覚えのない食器が洗って伏せられていた。
洗面所には、濡れたタオルと、見知らぬ髪の毛が残っている。

リビングの机には、見覚えのないメモ用紙が散らばる。
「先生、ずっと見てます」
「先生、あなたは私たちのもの」
同じインク、同じ筆跡、同じメッセージ。

夜になると、部屋の壁や天井の隅々、
クローゼットや窓の外から「先生」と囁く声が次々と押し寄せる。
耳の奥、髪の毛の根本、皮膚の下、
臓腑の奥深くまで、他者の囁きが響いてくる。

ベッドに入っても、眠るどころか全身の細胞が
“誰か”に見張られ、操られているような感覚が消えない。
涙が止まらなくなった。
口を塞ぎ、声を殺しても、
どこまでも「先生、先生」という呼吸が美咲の中に満ちていく。

頭の中をよぎるのは、警察に相談するという選択肢だった。
けれど、その考えが浮かぶたび、背筋が凍った。
もしも誰かに話せば、きっとすぐに村中に伝わる。
警察だって、この村の“外”ではないのかもしれない。
「相談した瞬間、もっとひどいことが起きる」
そんな予感だけが、全身に重くのしかかってきた。
気づけば、助けを求めるという発想すら、どこか遠ざかっていた。


翌朝、学校の門をくぐると、
校舎全体が“生き物”のようにうごめいていた。
窓、壁、扉、天井、床、
あらゆる面から無数の目が美咲を見つめている。
廊下を歩くだけで、床のきしみ、窓の曇り、水滴、
すべてが「先生、先生」と反響しているようだった。

教室に入ると、生徒たちが美咲の一挙手一投足を完璧にトレースし、
美咲が口を開くたび、同じ言葉が“こだま”のように返ってくる。
黒板に書けば、同じ図形がノートに現れ、
背中を向ければ、全員が同じタイミングで椅子を引く。

何をしても、どこにいても、
「一つの意思」となったこの世界すべてが、
美咲を取り囲み、染み込み、絡みついて離れない。

“自分のすべてが監視され、操られている”
その感覚が皮膚の内側にまで入り込み、
美咲の鼓動さえも、集団のリズムと同期していく。

誰も彼もが
「先生、あなたは私たちのもの」
「もうすぐ終わります」
「お疲れさまでした」
と微笑む。
そのたびに、恐怖と絶望が美咲の思考を支配する。

「逃げたい、消えたい」そう思っても、
もう“自分の意志”すら残っていないのだと、
どこかで理解していた。

その夜、窓の外を見上げると、
闇の中に“美咲自身の顔”が無数に浮かび、同じ口元で笑っていた。
校舎全体が、村全体が、世界全体が“美咲のため”だけに、
一つの意思として動いている。

もはや、逃げ場はどこにもない。
このまま、美咲は「この村の不快そのもの」と
同化していくしかなかった。
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