不快

不幸中の幸い

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HEBDOMOS

―囲呪―

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足音が、廊下に反響する。
踊り場の薄暗い蛍光灯の下、
角倉美咲は息を殺し、壁に背を預けていた。
校舎全体が湿り気を帯び、
空気の一粒一粒までもが粘りつくように身体に絡みつく。
窓の外はいつの間にか夕暮れが落ち始め、
校庭には誰一人いないはずなのに、
無数の気配が美咲を取り囲んでいる。

職員室を飛び出してから、どれほど走っただろう。
背後から「先生」「先生」と繰り返し呼ぶ声が、
何度も何度も波のように押し寄せてきた。
振り向くと、廊下の両側に教員や生徒、PTA、
見知った顔も見知らぬ顔も、
全員が並び、美咲の行く手をじっと見つめている。

(ここから、逃げなくちゃ。全部、あの人たちが……)

美咲は踵を返し、階段を駆け上がる。
振り返れば、教頭の羽柴が、
ゆっくりと笑みを浮かべて階段を上ってくる。

「角倉先生、どうしました? そんなに慌てて」

背後で安藤や市川の声も重なり、
下から玲奈や他の生徒たちが無言で追いかけてくる。

足が縺れる。
視界の端で、窓ガラスに映る自分の顔が、どこか歪んで見えた。
誰の顔にも、同じような薄い笑み、黒く縁取られた目。
その“全員”が、同じタイミングで一歩ずつ階段を上がってくる。

屋上の扉が見えた。
美咲は手を伸ばし、冷たい鉄のハンドルを引く。
扉の向こうから、潮風に似たぬめりが流れ込む。
急いで外に出て、鍵をかけようとするが、
扉はうまく閉まらない。

「先生、どこにいるの?」
「先生、一緒に帰りましょうよ」
「先生、もう、全部分かってるんですよ」

階下で聞こえる合唱のような声。
ぞわり、と背筋を撫でる集団の気配。

屋上の端、柵に追い詰められる。
夕焼けに染まる空が、不気味なほど静かだ。
教室で、廊下で、職員室で、
浴びせられ続けた視線と声が、頭の奥で反芻される。

(あの人たちは……みんなグルなんだ。
 全部、人間の仕業だったんだ)

どんなに“怪異”を疑っても、
どんなに「呪われている」と思い込もうとしても、
この学校で、この村で、
自分を苦しめてきたのは“生身の人間の悪意”だった。
黒いシミ、下着のヌメリ、家にまで押し寄せる視線、
知らぬ間に侵された身体の奥。
その全てが、人の手、人の欲望、人の陰湿さの結果だった。

息を吸うたび、校舎特有の埃と古い本の匂いに、
潮と土と汗の重さが混じる。
だが今は、その空気さえ誰かに“共有”されているような感覚だった。
屋上の鉄柵を握る手が汗ばみ、
何本もの視線が指先まで絡みついている気がする。

(自分はもう“個人”じゃない。この輪の中の、
 たった一つの“異物”として見張られているだけ)

ふと下を見ると、校舎の窓という窓に、
影のような人の形が無数に浮かび上がっている。
目の錯覚かと瞬きをしても、全員が同じ笑み、
同じ白さの目でじっと美咲を見上げている。

柵の外からは、どこからともなく
「センセイ」「先生」と呼びかける声。
遠いグラウンドには体育着姿の生徒たちが整列し、
誰一人として列を乱さず、美咲に向かって手を振る。
その腕の動きが波のように揺れて、見ているうちに気分が悪くなる。
グラウンドの端に目をやれば、PTAの保護者たちが肩を寄せ合い、
美咲の私生活や日々の行動を噂している声が風に乗って届いてくる。

(全部、知っている。全部、見ている。
 誰一人、私から目を離さない……)

美咲は膝を抱え、呼吸のたびに体の中が重くなるのを感じた。
足元のコンクリートの冷たさだけがかろうじて“自分”の証拠だったが、
その冷たささえ、今は誰か別のものの体温に奪われている気がしてならない。

「先生、こっちにおいでよ」
「先生、もう一人じゃないよ」
「先生、怖くないよ」

扉がどんどんと内側から叩かれる音が響く。

(どうして、どうして、誰も助けてくれないの……)

柵に背中を預け、スマホを震える手で取り出す。
両親の番号を必死に押すが、画面には「圏外」の表示。
もう一度、何度もかけ直すが、コール音すら鳴らない。

「先生、何してるの?」
「先生、もう遅いよ」
「先生、みんなで待ってたんだよ」

体が小刻みに震える。指先が痺れ、
胸が苦しくて息が詰まりそうだった。
柵の向こうの空は、紫がかった灰色に沈み、太陽も、
遠くの町並みも、不気味なベールに包まれている。

ふと、スマホの画面に映った自分の顔が、
普段の自分ではないと気づいた。
頬はこけ、唇は紫色に乾き、目は恐怖と絶望に濁っている。
その顔に、見たことのない薄い笑みが浮かんでいた。

夕闇に包まれていくF村。
この校舎、この村、この空気すべてが、
もはや一つの“意志”になって自分を飲み込もうとしている。

誰もいないはずのグラウンドの片隅で、
ふいに何かが動いた気がして振り向く。
でも、そこには何もいない。ただ、全ての窓、
全ての影が自分を注視している錯覚だけが消えない。

「もう無理だよ、助けて……誰か……」

足元がふらつく。
視界が滲む。
背後では、集団の足音がじりじりと間隔を詰めてくる。

(ここは現実だ。全部、人間の仕業だったんだ……
 私は霊現象に逃げていただけ。だけど……だけど……)

絶望だけが胸を満たす。
息ができない。
逃げ場がどこにもない。

柵の際で、身体を小さく丸める。
顔を覆い、すすり泣きながら、
ひたすら誰にも届かない助けを求めて祈る。

だが、背後の集団は、まるでゾンビのように、
無表情で、ゆっくりとした動きのまま輪を縮めていく。
笑顔の仮面を貼り付けた教頭、安藤、市川、高城、玲奈、生徒たち。
みんなが「おいでよ」と同じ口調で、不快に微笑む。

耳の奥でノイズのようなざわめきが響く。
言葉にならない声、嗤い、祈り、呼吸、
すべてがぐるぐると混ざり合い、
美咲の頭の中をかき乱す。
「どうして、どうして……」と心の中で繰り返しても、
その“理由”さえ今は思い出せない。

スマホの画面に映る自分の顔も、
いつしか真っ白になっていた。
その白さが、死人の顔色にも似て、ぞっとした。
頭の奥に、静かな声が響く。

(もう誰にも届かない……
 この世界に“私”だけの味方なんて最初からいなかったんだ)

遠くで誰かが「さあ、先生」と囁く。
屋上の扉の外では、
今も「さあ、こっちにおいでよ」「一緒に帰ろう」と合唱が続いている。

美咲は柵に凭れ、最後の力で空を見上げた。
その目に、
どこか遠い子供の頃に見た夕焼けの記憶が一瞬だけ蘇る。
けれど、それも今は遥か遠い夢のように薄れていった。

ただ、不快の渦の中で、
美咲は“人間の悪意”だけを胸に抱きしめ、
もう一歩も動けなくなっていた。

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