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OGDOOS
―墜界―
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柵に凭れていた美咲の手が、震えで滑りそうになっていた。
空気は、どこか粘りつく冷たさを帯びている。
背中の向こうでは、あの“合唱”がまだ続いている。
「先生、こっちにおいでよ」
「先生、一緒に帰ろう」
声はすでに誰のものでもなく、
ただこの場所そのものが唸っているようだった。
そのとき、不意に――
スマホの画面に、かすかにアンテナマークが立った。
美咲は夢中で、母・千絵の番号を押す。
ずっと「圏外」だった液晶に、今だけ、微かに波が立つ。
――プルルル、プルルル。
やっと、母の声が聞こえた。
「美咲?美咲なの?どうしたの、こんな時間に――」
千絵の声が、まるで薄いガラスを隔てた向こう側から響く。
美咲は息を詰めたまま、叫びそうな衝動を押し殺す。
「お母さん……たすけて。ここ、みんな、おかしい……
F村も……学校も……全部、全部、おかしいの。
先生たちも……PTAも……子供たちも……
誰もまともじゃない。全部、見られてる。私、……私……」
喉がひりつき、声がうまく出ない。
唇が乾き、恐怖と絶望が混ざって、言葉にならない嗚咽がこみあげる。
「美咲、落ち着いて、ねえ美咲――なにか、あったの?」
母の声は切羽詰まっていた。
「お母さん……ここ、もう……だめ、たすっ……」
“たすけて”の語尾が崩れる。
直後、ノイズがスマホを覆い、電波がまた消える。
画面の「圏外」表示が、全ての出口を塞いだ。
――バタンッ、ガチャガチャッ。
屋上のドアノブが、何度も、何度も強く回される音が響く。
金属の軋み。
内側から、外側から、
無数の手がそこに群がっているような不快な響き。
美咲は咄嗟に柵の端、影になる部分に身を潜めた。
心臓の鼓動が耳の奥で炸裂し、世界の輪郭がぐにゃりと歪む。
ドアの向こうから「先生」「センセイ」という声が混じり合う。
だが、その中に、聞き覚えのない“何か”の気配が混じっていた。
言葉というより、異質な振動。
“人間の声”ではない何かが、扉を揺らしている。
ドアが、ゆっくりと、ゆっくりと開いていく。
夕闇の中から、校舎の中から、影の波が屋上へ滲み出てくる。
美咲は震える身体を抱きしめ、
柵の隅へ、身を丸めて隠れるしかなかった。
風が一瞬止まり、世界が静止した。
そのとき――
柵の外側、すぐ背中の真横に、
“人ならざる気配”が立つ。
美咲は息を呑み、恐怖に引き攣る首筋を手で覆う。
だが、次の瞬間、ぞわりと首の皮膚を撫でる冷たいもの。
「誰か」が、柵の外…得ない場所から自分の存在に触れている。
ゆっくりと振り向こうとした刹那、
“血にまみれた手”が、美咲の首に絡みついた。
氷のように冷たい。
だが、締めつけてくるその感触。
その手は、実体も何も持たない。
ただ“力”だけを持っている。
耳元で、声がした。
「ふふふ、こっちにおいでぇ――」
その響きは、底知れぬ死者のささやきだった。
首筋を掴まれた美咲は、
全身の筋肉が一斉に痙攣するのを感じた。
抵抗しようにも、身体は金縛りのように動かない。
心臓が暴れ、肺は空気を求めてひゅうひゅうと悲鳴をあげる。
圧倒的な力で、柵の向こう。
屋上の“外側”の何もない空間へ、
美咲の身体が引きずり込まれる。
「やめて……いや、いやだ……!」
声にならない声が喉を掻きむしる。
美咲の視界は、極端に拡大と収縮を繰り返す。
景色が急速に遠ざかり、天と地がひっくり返り、
自分の身体が重力を失い、空中に浮かぶ。
――墜ちる。
屋上から、暗闇へ、何もない深淵へ。
美咲が最期に見たのは、
屋上の縁にずらりと並んだ教員、職員、PTA、生徒たちの顔だった。
全員が、白濁した目で、笑顔のまま美咲を見下ろしている。
その表情には、もう“個人”の意志や感情はどこにも残っていなかった。
不気味なまでに揃った笑い。
“歓迎”でも“憐れみ”でもない、
ただ「異物が消えた」ことへの満足の表情。
落下の途中、風の轟音と一緒に、
美咲は自分の名前を誰かが呼ぶ声を聞いた気がした。
けれど、もうその声も自分のものではなかった。
地面が迫る。
視界が真っ白に飛び、世界の境界が溶けていく。
(助けて――)
最期に聞こえたのは、自分の頭蓋が“グシャリ”と潰れる、湿った音。
すべての音と光と感触が、断ち切れる。
そして、その瞬間、世界は途切れた。
空気は、どこか粘りつく冷たさを帯びている。
背中の向こうでは、あの“合唱”がまだ続いている。
「先生、こっちにおいでよ」
「先生、一緒に帰ろう」
声はすでに誰のものでもなく、
ただこの場所そのものが唸っているようだった。
そのとき、不意に――
スマホの画面に、かすかにアンテナマークが立った。
美咲は夢中で、母・千絵の番号を押す。
ずっと「圏外」だった液晶に、今だけ、微かに波が立つ。
――プルルル、プルルル。
やっと、母の声が聞こえた。
「美咲?美咲なの?どうしたの、こんな時間に――」
千絵の声が、まるで薄いガラスを隔てた向こう側から響く。
美咲は息を詰めたまま、叫びそうな衝動を押し殺す。
「お母さん……たすけて。ここ、みんな、おかしい……
F村も……学校も……全部、全部、おかしいの。
先生たちも……PTAも……子供たちも……
誰もまともじゃない。全部、見られてる。私、……私……」
喉がひりつき、声がうまく出ない。
唇が乾き、恐怖と絶望が混ざって、言葉にならない嗚咽がこみあげる。
「美咲、落ち着いて、ねえ美咲――なにか、あったの?」
母の声は切羽詰まっていた。
「お母さん……ここ、もう……だめ、たすっ……」
“たすけて”の語尾が崩れる。
直後、ノイズがスマホを覆い、電波がまた消える。
画面の「圏外」表示が、全ての出口を塞いだ。
――バタンッ、ガチャガチャッ。
屋上のドアノブが、何度も、何度も強く回される音が響く。
金属の軋み。
内側から、外側から、
無数の手がそこに群がっているような不快な響き。
美咲は咄嗟に柵の端、影になる部分に身を潜めた。
心臓の鼓動が耳の奥で炸裂し、世界の輪郭がぐにゃりと歪む。
ドアの向こうから「先生」「センセイ」という声が混じり合う。
だが、その中に、聞き覚えのない“何か”の気配が混じっていた。
言葉というより、異質な振動。
“人間の声”ではない何かが、扉を揺らしている。
ドアが、ゆっくりと、ゆっくりと開いていく。
夕闇の中から、校舎の中から、影の波が屋上へ滲み出てくる。
美咲は震える身体を抱きしめ、
柵の隅へ、身を丸めて隠れるしかなかった。
風が一瞬止まり、世界が静止した。
そのとき――
柵の外側、すぐ背中の真横に、
“人ならざる気配”が立つ。
美咲は息を呑み、恐怖に引き攣る首筋を手で覆う。
だが、次の瞬間、ぞわりと首の皮膚を撫でる冷たいもの。
「誰か」が、柵の外…得ない場所から自分の存在に触れている。
ゆっくりと振り向こうとした刹那、
“血にまみれた手”が、美咲の首に絡みついた。
氷のように冷たい。
だが、締めつけてくるその感触。
その手は、実体も何も持たない。
ただ“力”だけを持っている。
耳元で、声がした。
「ふふふ、こっちにおいでぇ――」
その響きは、底知れぬ死者のささやきだった。
首筋を掴まれた美咲は、
全身の筋肉が一斉に痙攣するのを感じた。
抵抗しようにも、身体は金縛りのように動かない。
心臓が暴れ、肺は空気を求めてひゅうひゅうと悲鳴をあげる。
圧倒的な力で、柵の向こう。
屋上の“外側”の何もない空間へ、
美咲の身体が引きずり込まれる。
「やめて……いや、いやだ……!」
声にならない声が喉を掻きむしる。
美咲の視界は、極端に拡大と収縮を繰り返す。
景色が急速に遠ざかり、天と地がひっくり返り、
自分の身体が重力を失い、空中に浮かぶ。
――墜ちる。
屋上から、暗闇へ、何もない深淵へ。
美咲が最期に見たのは、
屋上の縁にずらりと並んだ教員、職員、PTA、生徒たちの顔だった。
全員が、白濁した目で、笑顔のまま美咲を見下ろしている。
その表情には、もう“個人”の意志や感情はどこにも残っていなかった。
不気味なまでに揃った笑い。
“歓迎”でも“憐れみ”でもない、
ただ「異物が消えた」ことへの満足の表情。
落下の途中、風の轟音と一緒に、
美咲は自分の名前を誰かが呼ぶ声を聞いた気がした。
けれど、もうその声も自分のものではなかった。
地面が迫る。
視界が真っ白に飛び、世界の境界が溶けていく。
(助けて――)
最期に聞こえたのは、自分の頭蓋が“グシャリ”と潰れる、湿った音。
すべての音と光と感触が、断ち切れる。
そして、その瞬間、世界は途切れた。
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