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18章 癇癪の後は…
④
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「アリム!」
浴槽に体を強かに打ち、激しい水飛沫が立ち上がる。
ラシードは慌ててアリムの体を支えた。
「キース!ノイ!アリムが倒れた!」
ラシードがドアの前で控えているはずの、キシュワールとノイを呼んだ。
程なくして、2人が浴室に飛び込んでくる。
「殿下!」
「……っ!なんでもない!」
アリムは頭を押さえながら、なんとか立ちあがろうする。
しかし体が傾き、額を抑えて蹲ってしまった。
「う……っ!」
「頭を打ちましたか?」
「いや、打っていない。ひとまず寝台に行こう。キース、そっちを支えて……。」
「殿下、ちょっと失礼しますよ。」
ラシードがキシュワールを呼ぶ前に、ノイがスルリとアリムの腕を担いだ。
ノイの行動に、ラシードは目を丸くする。
「ノイ。」
「……すみません。」
ノイは何が、とは言わずに詫びる。
「……。」
今はとやかく言っている場合ではない。
ラシードはアリムを支えると、ノイと一緒にふらつく体を運んだ。
寝台に横たえると、アリムは体を丸めて目をキツく閉じてしまう。
「吐くか?」
問いかけると、アリムは目を薄く開けて、わずかに首を横に振った。
濡れたシャツが体に張り付いている。
ラシードはアリムの横に膝をつくと、シャツのボタンに手をかけた。
「ノイ、セイラムを呼んでくれるか。」
「呼ばなくていいです。」
アリムはラシードの手を跳ね除け、自分でシャツのボタンを外そうとする。
しかし中々うまくいかないようだった。
「あぁ……っもうっ!」
アリムは目を閉じながら床にシャツを脱ぎ捨て、ブランケットを手繰り寄せた。
その際に脇腹が微かに見える。そこは赤黒く変色して、盛り上がっているように見えた。
「アリム、腫れているからセイラムを呼ぼう。吐き気どめももらったほうがいい。」
「呼ばなくていいんだって……面倒くさい……っ!」
キシュワールがバスローブをラシードに手渡す。
それを受け取ったラシードは、柔らかなそれをアリムの頬に当てた。
「わかった。それじゃあ、これだけでも着てくれ。」
アリムは眉をきつく寄せ、バスローブを掴む。
しかしラシードはその手をやんわりと握ると「任せてくれ」とアリムにバスローブを羽織らせた。
アリムは唇を噛み締めながら、子供のように唸り声をあげている。
「他の先生から、吐き気止めと湿布をもらってきます。」
ノイがそう手を上げた。
「治療はドラニア卿がするんで、それならいいでしょう?」
ーーなんだ?
ノイは何かを心得ているようだった。
アリムはまずノイを見た。ノイは小さく肩をすくめて見せる。
次にキシュワールを横目で見ると、彼は小さく会釈をした。
「……。」
アリムは奥歯で噛みしめながら頷く。
こめかみを痛めてしまうのではないかと心配になり、そっと頬を撫でる。
ノイは「すぐ戻ります。」と敬礼をして、早足で部屋を出て行った。
「すまない。追い詰めたか?」
ラシードが膝を付いたまま、アリムの額に張り付いた前髪を指で払う。
額には脂汗が浮き上がっていた。
手の甲で拭ってやると、アリムは顔を背けて逃げてしまう。
「アリム。違うんだ。責めていたんじゃない。」
「……俺が前に言ったこと、覚えてますか?」
「うん……?」
「……俺はここで安全に過ごせるように守って欲しいって言ったはずです。そしたら、あなたはなんて言ったんですか?」
その問いかけにハッとした。
アリムは涙の溜まった目で、真っ直ぐにラシードを見つめている。
「一生かけて守ると言ったな。」
アリムの瞳から、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「そうですよ!なのに、俺を反逆者にするみたいに、訳のわからない仮説ばかり立てて……!」
それからアリムは堰を切ったように涙を流し始めた。
アリムの美しい瞳の湖底から、水が溢れてくるようだった。キラリキラリと、涙の雫がアリムの白い頬を濡らす。
「……約束を破るなんて、許さない……。」
アリムはグッとふっくらした目元を歪めると、枕に突っ伏してしまった。
肩が可哀想なほどに震えている。
ーーあぁ……。泣かせてしまった……。
ラシードはアリムの肩に手をかけ、ゆっくりと撫でさする。
「すまない。すまなかった。」
ラシードはチラリと肩越しにキシュワールに視線を送った。
退出を促すつもりだった。
しかしその時のキシュワールの表情に、引っ掛かりを覚える。
キシュワールは、驚いたように目を丸くしていた。
「……?」
だが彼はすぐにラシードの視線に気がつき、ハッと居住いを正す。
そして音を立てずに部屋を後にした。
アリムがぐすっと鼻を鳴らす。
ラシードはアリムに向き直り、アリムの肩を抱いた。
「髪が濡れている。乾かしてもいいか?」
「触るなってば……!」
「頼むよ。」
ラシードはキシュワールが置いていったタオルを手に取り、優しくアリムの髪の毛を包み込んだ。
倒れ込んだ時に水を被ったせいで、濡れそぼった髪の毛を、そっと拭いていく。
「……俺はお前を怖がらせてしまったのか?」
「そういう言い方だったじゃないか……。」
「そうか。そう聞こえたんだな。」
ラシードはアリムの髪の毛の中に指を差し込んだ。
滑らかなそれを指で掬い、耳の裏を撫でる。
アリムはくすぐったさにびくりと体を跳ねさせた。
「……もし……。」
アリムがわずかに枕から顔を上げた。
「もし、俺が……王様になるって可能性がでてきたら……。」
「ん?」
「俺を捨てる?」
「俺がお前を?」
枕の隙間から僅かに見える瞳には、溢れ出しそうな涙が湛えられていた。
不安げな顔揺れるその瞳に、ラシードの胸はいっぱいになる。
ラシードはアリムの手を取ると、その手の甲に唇を落とした。
「共に国を治めようと言うかな。」
「……。」
「お前が言ってくれたんだろう?俺がお前の唯一の王だと。」
アリムの肩が震えた。
その震えは、小刻みで長く続く。
ラシードはその頼りない肩を、できるだけ優しく抱きしめる。
甘い香りがする、髪の毛に鼻を埋める。
香油の香りが強い。虫を誘う花のようだ。
この香りに、ノイもつられているのだろうかと思うと、アリムを掻き抱きたい衝動にかられた。
「キスしてください……。」
か細く、消え入りそうな声に誘われる。
ラシードが顔を上げると、アリムは体を横たえた。
涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔は、俯いていたせいで、紅潮している。
他の部分よりも赤くなった鼻が、幼く見えた。
その泣き顔に、あの日の少年が重なる。
ーー似ている。なんて……可愛い……。
ラシードはタオルでアリムの顔を拭い、柔らかく微笑む。
「喜んで。」
ラシードはアリムの顎を軽く持ち上げると、腫れてしまった唇を軽く吸い上げた。
何度も柔らかく吸い上げ、舌で宥めるように撫でていくと、アリムの体の力が抜けていく。
甘えるような手が、ラシードの首筋に回された。
「目が回る……。」
「ああ。目を閉じているといい。」
「頭もぼーっとする……。」
「それは……俺のせいだ……。」
アリムはフハッと吹き出した。
なかなか見られない、本当の笑い顔だった。
年齢よりも幼く見える、目尻が下がる笑い方。いつもの口角を上げ、目を細めただけの笑みは、作り物だった事に気がつく。
知ってはいたが、計算高さは折り紙つきのようだ。
ラシードは優しくアリムを抱きしめ、飾らない笑みに唇を寄せる。
「涙が止まったな。」
ようやく止まった涙を、心のどこかで惜しむ。
潤んだ青い瞳は、本当に湖面のようだったから。
それでも、もうアリムが涙を流さなければいいと、相反する感情も湧き上がってくる。
「そろそろノイも戻ってくるだろう。少しは落ち着いたか?」
「はい。」
「なんだ。話し方も元に戻ったな。」
ラシードは懐紙でアリムの鼻を拭く。
「……申し訳ございません。」
「構わない。俺はその方が嬉しい。」
そう言いながらも、アリムがラシードの希望を聞いてくれないことはわかっていた。
近づこうとしても、何処かで線を引かれてしまう。
それはアリムの賢さ故か、心の距離故か、もっと他の理由なのか。
案の定アリムは困ったように、首を傾げる。
ーーほら、そうやって……。
「……ラシード。」
アリムが目元をうっすら赤くして、小さく唇を動かした。
ラシードは一瞬何を言われたのか、聞き取れなかった。
アリムがもう一度「ラシード」と名前を呼ぶ。
「二人の時だけなら……。」
アリムの手が控えめにラシードの背中に回された。背中に感じるアリムの温かな手の温度。胸が締め付けられて、苦し紛れに濡れそぼった体を深く抱き込む。
「あぁ、そうだな……そうしてくれ!」
ラシードは破顔して、アリムの額に唇を落とす。
するとアリムは目を細めてラシードの耳をくすぐった。
アリムの精一杯の愛情表現に、ラシードは喉の奥で笑い、身を捩る。
その反応が嬉しかったのか。
アリムは自然と頬を緩ませた。
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