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4章 主人は誰か
⑤
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「失礼するわ。」
一瞬の沈黙を破ったのは、マルグリットだった。
誰よりも先に立ちあがり、足音高く礼拝堂を後にする。
侍女はあわてて立ち上がると、皆への挨拶もそこそこにマルグリットを追いかけていった。
騒々しさに、ラシードが片目を瞑る。
「機嫌を損ねたな。」
まぁ、いい。と肩を竦め、リアナに視線を移す。
何事かを察したリアナは、「はい。」と立ち上がった。
「バーリ、本日も健やかにお過ごしください。」
「お前もな。」
丁寧に淑女の礼をする。
薄桃の柔らかな布の裾が、ふわりと揺れた。
しっかりと編み込まれたハージーとは、違う揺れ方をする。
この国ではあまり見ない生地に、アリムは釘付けになった。
「アリム様。」
リアナはにこりと微笑んで、アリムにも会釈をした。
「近いうちにサロンでお茶でもいたしましょうね。今度こそサミーのお茶をご馳走しますわ。」
アリムは体良く追い出された侍女を不憫に思いながら、曖昧に頷いた。
きっと社交辞令で済まないだろう。
ラシードが2人の交流を快く思っているようなので、まぁいいかと軽く考える。
リアナが出ていったのを見送り、アリムも席を立った。
「バーリ。私も失礼……。」
「座れ。」
突然重たい声でラシードがそう命じた。
「!」
初めて聞く威圧感のある命令に、おもわず竦みあがる。
ラシードの目つきは鋭い。
近づいてくる背後に、重たい空気を背負っている。
アリムはその勢いに押されて、尻餅をつくように椅子に座った。
ラシードの膝が無遠慮にアリムに触れる。
「なんだ、その腕は。」
アリムは近づいてきた膝の分だけ、後ずさった。
「昨日の今日だぞ。どういうことだ。」
「……あの……。」
昨日セイラムにした説明をするつもりだった。
だがラシードの威圧感に押されて、咄嗟に言い澱んでしまう。
ラシードはその瞬間、弾かれるようにアリムに手を伸ばした。
「っ!?」
パチンッと金具が弾かれて、三角巾がほどける。
支えを失った右腕は、当然がくんっと落ちる。
突然の事に、肩が悲鳴をあげた。
「何をするんですかっ!」
「3妃っ!」
キシュワールの厳しい声が飛ぶ。
「お控えなさい。」
「……っ!」
グッと唇を噛み、2つの怒りに耐える。
ラシードは断りなくアリムの服の前を開き、腕を引き抜いた。
そして今朝巻いたばかりの包帯を解いてしまう。
腕に触れる手には気遣いを感じるが、行動に躊躇や容赦はない。
その無体に、腸が煮え繰り返りそうだった。
「これは……。」
腕は薬が効いたのか、幾分腫れが収まってはいた。
それをマジマジと見つめ、ラシードが低い声を上げた。
「キシュワール。」
「……はい。」
「指の跡だな。」
キシュワールの目元が強張った。
「どういうことだ。」
地を這う声音に礼拝堂の空気が張り詰める。
据わった眼は、まるで獅子が獲物を威圧するようだった。
ラシードの呼吸一つ一つに、静かな致死量の電流が宿っている。
初めて目の当たりにする王の怒りに、アリムの頭に上っていた血が、一気に下がっていく。
「圧迫による内出血と、肩の脱臼でございます。脱臼は昨夜、宮医が治しました。」
ラシードと付き合いの長いキシュワールは、澱みなく症状を答える。
しかしラシードの眉間の皺はどんどん深くなっていった。
「俺の妃にどうして傷がついたんだ、と聞いているんだ。」
キシュワールは姿勢を崩さず、真っ直ぐにラシードを見つめた。
その眼は、なにかを語るつもりのない硬い目だった。
ラシードはキシュワールを睨めつけるように、目を細める。
「お前か。」
「……。」
「ならば、許しがたいな。」
ラシードは立ちあがり、キシュワールの胸ぐらを指差した。
そしてゆっくりと喉仏に手刀を押し付ける。
グゥっとキシュワールの喉が潰れた音を漏らした。
気管を狭められて呼吸が苦しくなったはずだが、キシュワールは真っ直ぐに立っていた。
アリムは剣呑になった雰囲気に、ぶるりと震え上がった。
「バーリ……!あ……。へ……っ!」
ぶぇっくしっ!!
2人はこの場にそぐわない間抜けな音に目を丸くして、アリムを振り返った。
アリムはもう一度身震いすると、耳まで赤くする。
「……冷えました。」
「……それはすまなかった。」
「手伝っていただけませんか?」
アリムは脱がされた服を視線で示した。
ラシードが目を丸くする。
「ああ。」
彼はようやくキシュワールを解放すると、手早くアリムに服を着せる。
怪我には充分注意をしてくれたが、やはりズキッと痛む。
「い……っ!」
「大丈夫か?」
「はい……。」
アリムは服のボタンをはめると、困ったように2人を見つめた。
「バーリ。キシュワールを責めないでいただけますか。先程も申し上げましたが、これは私の不注意なのです。それに……キシュワール以上に、私が怖がっています。」
本心を言えば、今度はラシードが困ったように笑う。
「そうか。……すまない。」
アリムは三角巾をラシードに渡す。
「つけてください。」
ラシードをはアリムから三角巾を受け取ると、今度は丁寧にそれを直した。
最後に何故か腕輪に触れ、わずかの間、目を閉じる。
伏せられた瞼を見ていると、ラシードの怒りが徐々に収まっていくのがわかった。
その様子を見つめながら、アリムは次に言うべきかを考えた。
「説明してくれ。」
顔を上げたラシードが、切り出した。
「叱らないでいただけますか。」
「内容によるな。」
「ならば話しません。」
信憑性を持たせたくて、警戒するフリをする。
この生意気な返答に、ラシードは大きく吹き出した。
「わかった。叱らない。だから話してくれ。」
ラシードはくっくっと肩を震わせ、アリムの顔を覗き込む。
そして何故か甘く頰を綻ばせた。
「教えてくれ。」
女性ならば一発でときめくであろう。
甘やかな表情に、一瞬たじろぐ。
そして次には、気恥ずかしさに思わず笑い出しそうになった。
この仕草は、相当女性慣れしていそうだ。
笑いを堪えているせいで、ひくっと目元が痙攣する。
まぁ、機嫌が直ったのならば、万々歳だ。
アリムは喉まで上がっていた笑いを、何とか飲み下して、息を吸い込んだ。
「私が禁域を冒しかけた所を、咄嗟に止めてくれたんです。その時に腕を……。」
「禁域?」
「……叱られたくないので、これ以上は申し上げません。」
具体的に話して、ボロが出ては元も子もない。
アリムは話をぼやかした。
「叱らないと言っているだろう。」
ラシードは盛大な笑い声をあげた。
これ以上の追求はないようで、アリムはホッと胸をなで下ろす。
「キシュワール。」
ひとしきり笑った所で、ラシードは僅かに目つきを鋭くして、キシュワールを振り返った。
「怪我の具合はどうなんだ。」
「一カ月と聞いております。」
「お前、その間しっかりと介助できるんだろうな。」
その問いに、キシュワールがこの場で初めて動揺した。
目を瞠り、数回まばたきを繰り返す。
アリムも思い至らなかった事に、目を丸くした。
「宮医が日に3回、薬を替えにくると……。」
「そんなことじゃない。」
的外れな事ばかり言うな、とラシードは渋面を作る。
「元はと言えば、お前が負わせた怪我だ。きちんと治るまでお助けしろ。アリムも遠慮せずにキシュワールを使え。」
アリムは慌てて首を振り、その提案を否定する。
自分を嫌っている人間に、身の回りの世話をされるなんて、まっぴらだ。
「まさか、キシュワールに遠慮してるのか?」
余程嫌な顔をしてしまったのだろう。
ラシードが目を細める。
ピリッと空気が張り詰めた。
「お前達は、誰が主人がわかっていないみたいだな。」
「それは、もちろんバーリでございます。」
アリムは慌てて声をひっくり返した。
ーー少し調子に乗りすぎたかな……。
後ろでキシュワールが、ぐっと言葉を飲み込んだ気配がする。
しかしラシードは「何を言っている」というように、鼻に皺を寄せた。
「キシュワールの主人はお前だろう。」
「ん?」
ラシードの不機嫌そうな言葉に、間の抜けた声が出てしまう。
「特にキシュワール。まだ俺の親衛隊長のつもりなのか?さっきの、態度は何だ。」
ラシードは肩越しにキシュワールを振り返り、不愉快そうに口元をゆがめた。
「お控えなさい?誰に向かって言っている。妻が夫に対して、自由に振舞うことの何が悪いんだ。控えるのはお前の方だぞ。わきまえろ。」
長年仕えてきた近臣に向かって、辛辣な言葉だった。
キシュワールはラシードと視線を合わさず、祭壇をまっすぐに見ている。
こういう時に視線を合わせる事は失礼にあたる。
城内のマナー講義でそう教わった。
だがそういう作法を抜きにしても、キシュワールがラシードを見ることはなかっただろう。
無表情から滲み出てくる惨めさを感じ取り、彼の矜持を改めて理解する。
「誠心誠意お仕えしろ。お前の主人は、アリム・イスファール・ラ・アレジャブルだ。」
キシュワールはアリムに顔を向けると、膝をついて拝礼の姿勢を取った。
重たい動作。
顔を伏せる前に垣間見えた、歪んだ表情。
硬く握り締めた拳。
アリムは彼の本意を全て見逃さなかった。
「仰せのままにいたします。我が主人。」
声の冷静さは流石だった。
キシュワールのラシードへの深い敬愛を感じる。
それゆえに、王付きを外された怒りが、アリムに向けられるのも理解はできた。
ーーだけど、俺が何をしたっていうんだ……。
アリムはキシュワールのつむじを見下ろした。
悲しいような、惨めなような、複雑な思いがない交ぜになる。
王妃になりたい訳ではない。
キシュワールの主人になりたい訳でもない。
アリムは、番頭として、布を売りさばいてきただけの、普通の商人だった。
だが、今はーー
「……キシュワール、顔を上げなさい。」
そう呼びかけると、キシュワールが顔をあげる。
垣間見えたのは、反抗的な鋭い目だった。
それはすぐに鳴りを潜めて、なにも浮かばない無表情になる。
アリムは戸惑い、初めて不安になった。
ただの嫌悪とは違う、根深い憎悪に身がすくむ。
ーー……俺、殺されるんじゃないか……?
アリムはキシュワールの冷たいアイスグリーンの瞳を見つめる。
だが、どんな理由があれど、姿を露わにした敵は、こうしてアリムの前に跪いている。
ーー立ち回らなければ。
自然と背筋が伸びた。
気難しい貴族の夫人にハージーを勧めた時に似た緊張感。
気に入られなければ、店が潰されると噂の、傍若無人な女性だった。
“お前に店の命運が掛かっている!”と、真っ青になった店主の顔を思い出す。
確かにあの時は、生きた心地がしなかった。
ただその時と今とでは、賭けているものが違う。
自分の命と、店の命。
そこで、死にそうなほど顔色を青くして、事務所の陰からアリムを見つめていた店主を思い浮かべる。
あの時店主は、「失敗したならば、お前を殺して俺も死ぬっ!」と必死に目で訴えていた。
ーーははっ。同じか。
そんなことを考えていると、隣でラシードが笑った。
ちらりと盗み見ると、含みありげに唇が僅かに尖っている。
何か含みがあるような。
そんな笑い方。
アリムは怪訝に思い、主人の顔をまじまじと見つめた。
「何か……面白そうですね。」
「そうか?」
ラシードは、隠さずに口許を緩めると、アリムの頰を優しく撫で上げた。
「思いの外、賢そうだ。」
「……?」
ラシードはそれ以上何も言わずに、アリムの瞳をマジマジと見つめる。
何かに満足したかのようだ。褒めるような、ポンポンっと頭を撫でられる。
アリムは数秒とその視線に耐えられず、サッと目を逸らした。
***
その後、アルバスに戻った時にキシュワールが「何がお困りですか。」と聞いてきたのは、実に彼らしかった。必要最低限のことしかしたくない、という意思表示なのだろう。
アリムもキシュワールに側にいられるのは息苦しかったので「特にありません。」と告げた。
ならば食事、着替えはキシュワールが手伝い、必要な時はベルで呼ぶ、という事を2人で取り決めた。
結局、怪我をする前から顔を合わせる頻度は大して変わらなかったが。
しかし怪我を負わせた負い目があるのか、ほんの少しキシュワールはアリムの様子に気を配り、手を貸す回数が増えたように思う。
アリムは怪我をしてから1週間、毎晩自分の腕に語りかける。
「早く治って。お願いだから。」
しかしそんな事をしたからと言って、怪我が治るはずもない。
自分が馬鹿げた事をしていることに、アリムは毎晩ため息をつくのだった。
一瞬の沈黙を破ったのは、マルグリットだった。
誰よりも先に立ちあがり、足音高く礼拝堂を後にする。
侍女はあわてて立ち上がると、皆への挨拶もそこそこにマルグリットを追いかけていった。
騒々しさに、ラシードが片目を瞑る。
「機嫌を損ねたな。」
まぁ、いい。と肩を竦め、リアナに視線を移す。
何事かを察したリアナは、「はい。」と立ち上がった。
「バーリ、本日も健やかにお過ごしください。」
「お前もな。」
丁寧に淑女の礼をする。
薄桃の柔らかな布の裾が、ふわりと揺れた。
しっかりと編み込まれたハージーとは、違う揺れ方をする。
この国ではあまり見ない生地に、アリムは釘付けになった。
「アリム様。」
リアナはにこりと微笑んで、アリムにも会釈をした。
「近いうちにサロンでお茶でもいたしましょうね。今度こそサミーのお茶をご馳走しますわ。」
アリムは体良く追い出された侍女を不憫に思いながら、曖昧に頷いた。
きっと社交辞令で済まないだろう。
ラシードが2人の交流を快く思っているようなので、まぁいいかと軽く考える。
リアナが出ていったのを見送り、アリムも席を立った。
「バーリ。私も失礼……。」
「座れ。」
突然重たい声でラシードがそう命じた。
「!」
初めて聞く威圧感のある命令に、おもわず竦みあがる。
ラシードの目つきは鋭い。
近づいてくる背後に、重たい空気を背負っている。
アリムはその勢いに押されて、尻餅をつくように椅子に座った。
ラシードの膝が無遠慮にアリムに触れる。
「なんだ、その腕は。」
アリムは近づいてきた膝の分だけ、後ずさった。
「昨日の今日だぞ。どういうことだ。」
「……あの……。」
昨日セイラムにした説明をするつもりだった。
だがラシードの威圧感に押されて、咄嗟に言い澱んでしまう。
ラシードはその瞬間、弾かれるようにアリムに手を伸ばした。
「っ!?」
パチンッと金具が弾かれて、三角巾がほどける。
支えを失った右腕は、当然がくんっと落ちる。
突然の事に、肩が悲鳴をあげた。
「何をするんですかっ!」
「3妃っ!」
キシュワールの厳しい声が飛ぶ。
「お控えなさい。」
「……っ!」
グッと唇を噛み、2つの怒りに耐える。
ラシードは断りなくアリムの服の前を開き、腕を引き抜いた。
そして今朝巻いたばかりの包帯を解いてしまう。
腕に触れる手には気遣いを感じるが、行動に躊躇や容赦はない。
その無体に、腸が煮え繰り返りそうだった。
「これは……。」
腕は薬が効いたのか、幾分腫れが収まってはいた。
それをマジマジと見つめ、ラシードが低い声を上げた。
「キシュワール。」
「……はい。」
「指の跡だな。」
キシュワールの目元が強張った。
「どういうことだ。」
地を這う声音に礼拝堂の空気が張り詰める。
据わった眼は、まるで獅子が獲物を威圧するようだった。
ラシードの呼吸一つ一つに、静かな致死量の電流が宿っている。
初めて目の当たりにする王の怒りに、アリムの頭に上っていた血が、一気に下がっていく。
「圧迫による内出血と、肩の脱臼でございます。脱臼は昨夜、宮医が治しました。」
ラシードと付き合いの長いキシュワールは、澱みなく症状を答える。
しかしラシードの眉間の皺はどんどん深くなっていった。
「俺の妃にどうして傷がついたんだ、と聞いているんだ。」
キシュワールは姿勢を崩さず、真っ直ぐにラシードを見つめた。
その眼は、なにかを語るつもりのない硬い目だった。
ラシードはキシュワールを睨めつけるように、目を細める。
「お前か。」
「……。」
「ならば、許しがたいな。」
ラシードは立ちあがり、キシュワールの胸ぐらを指差した。
そしてゆっくりと喉仏に手刀を押し付ける。
グゥっとキシュワールの喉が潰れた音を漏らした。
気管を狭められて呼吸が苦しくなったはずだが、キシュワールは真っ直ぐに立っていた。
アリムは剣呑になった雰囲気に、ぶるりと震え上がった。
「バーリ……!あ……。へ……っ!」
ぶぇっくしっ!!
2人はこの場にそぐわない間抜けな音に目を丸くして、アリムを振り返った。
アリムはもう一度身震いすると、耳まで赤くする。
「……冷えました。」
「……それはすまなかった。」
「手伝っていただけませんか?」
アリムは脱がされた服を視線で示した。
ラシードが目を丸くする。
「ああ。」
彼はようやくキシュワールを解放すると、手早くアリムに服を着せる。
怪我には充分注意をしてくれたが、やはりズキッと痛む。
「い……っ!」
「大丈夫か?」
「はい……。」
アリムは服のボタンをはめると、困ったように2人を見つめた。
「バーリ。キシュワールを責めないでいただけますか。先程も申し上げましたが、これは私の不注意なのです。それに……キシュワール以上に、私が怖がっています。」
本心を言えば、今度はラシードが困ったように笑う。
「そうか。……すまない。」
アリムは三角巾をラシードに渡す。
「つけてください。」
ラシードをはアリムから三角巾を受け取ると、今度は丁寧にそれを直した。
最後に何故か腕輪に触れ、わずかの間、目を閉じる。
伏せられた瞼を見ていると、ラシードの怒りが徐々に収まっていくのがわかった。
その様子を見つめながら、アリムは次に言うべきかを考えた。
「説明してくれ。」
顔を上げたラシードが、切り出した。
「叱らないでいただけますか。」
「内容によるな。」
「ならば話しません。」
信憑性を持たせたくて、警戒するフリをする。
この生意気な返答に、ラシードは大きく吹き出した。
「わかった。叱らない。だから話してくれ。」
ラシードはくっくっと肩を震わせ、アリムの顔を覗き込む。
そして何故か甘く頰を綻ばせた。
「教えてくれ。」
女性ならば一発でときめくであろう。
甘やかな表情に、一瞬たじろぐ。
そして次には、気恥ずかしさに思わず笑い出しそうになった。
この仕草は、相当女性慣れしていそうだ。
笑いを堪えているせいで、ひくっと目元が痙攣する。
まぁ、機嫌が直ったのならば、万々歳だ。
アリムは喉まで上がっていた笑いを、何とか飲み下して、息を吸い込んだ。
「私が禁域を冒しかけた所を、咄嗟に止めてくれたんです。その時に腕を……。」
「禁域?」
「……叱られたくないので、これ以上は申し上げません。」
具体的に話して、ボロが出ては元も子もない。
アリムは話をぼやかした。
「叱らないと言っているだろう。」
ラシードは盛大な笑い声をあげた。
これ以上の追求はないようで、アリムはホッと胸をなで下ろす。
「キシュワール。」
ひとしきり笑った所で、ラシードは僅かに目つきを鋭くして、キシュワールを振り返った。
「怪我の具合はどうなんだ。」
「一カ月と聞いております。」
「お前、その間しっかりと介助できるんだろうな。」
その問いに、キシュワールがこの場で初めて動揺した。
目を瞠り、数回まばたきを繰り返す。
アリムも思い至らなかった事に、目を丸くした。
「宮医が日に3回、薬を替えにくると……。」
「そんなことじゃない。」
的外れな事ばかり言うな、とラシードは渋面を作る。
「元はと言えば、お前が負わせた怪我だ。きちんと治るまでお助けしろ。アリムも遠慮せずにキシュワールを使え。」
アリムは慌てて首を振り、その提案を否定する。
自分を嫌っている人間に、身の回りの世話をされるなんて、まっぴらだ。
「まさか、キシュワールに遠慮してるのか?」
余程嫌な顔をしてしまったのだろう。
ラシードが目を細める。
ピリッと空気が張り詰めた。
「お前達は、誰が主人がわかっていないみたいだな。」
「それは、もちろんバーリでございます。」
アリムは慌てて声をひっくり返した。
ーー少し調子に乗りすぎたかな……。
後ろでキシュワールが、ぐっと言葉を飲み込んだ気配がする。
しかしラシードは「何を言っている」というように、鼻に皺を寄せた。
「キシュワールの主人はお前だろう。」
「ん?」
ラシードの不機嫌そうな言葉に、間の抜けた声が出てしまう。
「特にキシュワール。まだ俺の親衛隊長のつもりなのか?さっきの、態度は何だ。」
ラシードは肩越しにキシュワールを振り返り、不愉快そうに口元をゆがめた。
「お控えなさい?誰に向かって言っている。妻が夫に対して、自由に振舞うことの何が悪いんだ。控えるのはお前の方だぞ。わきまえろ。」
長年仕えてきた近臣に向かって、辛辣な言葉だった。
キシュワールはラシードと視線を合わさず、祭壇をまっすぐに見ている。
こういう時に視線を合わせる事は失礼にあたる。
城内のマナー講義でそう教わった。
だがそういう作法を抜きにしても、キシュワールがラシードを見ることはなかっただろう。
無表情から滲み出てくる惨めさを感じ取り、彼の矜持を改めて理解する。
「誠心誠意お仕えしろ。お前の主人は、アリム・イスファール・ラ・アレジャブルだ。」
キシュワールはアリムに顔を向けると、膝をついて拝礼の姿勢を取った。
重たい動作。
顔を伏せる前に垣間見えた、歪んだ表情。
硬く握り締めた拳。
アリムは彼の本意を全て見逃さなかった。
「仰せのままにいたします。我が主人。」
声の冷静さは流石だった。
キシュワールのラシードへの深い敬愛を感じる。
それゆえに、王付きを外された怒りが、アリムに向けられるのも理解はできた。
ーーだけど、俺が何をしたっていうんだ……。
アリムはキシュワールのつむじを見下ろした。
悲しいような、惨めなような、複雑な思いがない交ぜになる。
王妃になりたい訳ではない。
キシュワールの主人になりたい訳でもない。
アリムは、番頭として、布を売りさばいてきただけの、普通の商人だった。
だが、今はーー
「……キシュワール、顔を上げなさい。」
そう呼びかけると、キシュワールが顔をあげる。
垣間見えたのは、反抗的な鋭い目だった。
それはすぐに鳴りを潜めて、なにも浮かばない無表情になる。
アリムは戸惑い、初めて不安になった。
ただの嫌悪とは違う、根深い憎悪に身がすくむ。
ーー……俺、殺されるんじゃないか……?
アリムはキシュワールの冷たいアイスグリーンの瞳を見つめる。
だが、どんな理由があれど、姿を露わにした敵は、こうしてアリムの前に跪いている。
ーー立ち回らなければ。
自然と背筋が伸びた。
気難しい貴族の夫人にハージーを勧めた時に似た緊張感。
気に入られなければ、店が潰されると噂の、傍若無人な女性だった。
“お前に店の命運が掛かっている!”と、真っ青になった店主の顔を思い出す。
確かにあの時は、生きた心地がしなかった。
ただその時と今とでは、賭けているものが違う。
自分の命と、店の命。
そこで、死にそうなほど顔色を青くして、事務所の陰からアリムを見つめていた店主を思い浮かべる。
あの時店主は、「失敗したならば、お前を殺して俺も死ぬっ!」と必死に目で訴えていた。
ーーははっ。同じか。
そんなことを考えていると、隣でラシードが笑った。
ちらりと盗み見ると、含みありげに唇が僅かに尖っている。
何か含みがあるような。
そんな笑い方。
アリムは怪訝に思い、主人の顔をまじまじと見つめた。
「何か……面白そうですね。」
「そうか?」
ラシードは、隠さずに口許を緩めると、アリムの頰を優しく撫で上げた。
「思いの外、賢そうだ。」
「……?」
ラシードはそれ以上何も言わずに、アリムの瞳をマジマジと見つめる。
何かに満足したかのようだ。褒めるような、ポンポンっと頭を撫でられる。
アリムは数秒とその視線に耐えられず、サッと目を逸らした。
***
その後、アルバスに戻った時にキシュワールが「何がお困りですか。」と聞いてきたのは、実に彼らしかった。必要最低限のことしかしたくない、という意思表示なのだろう。
アリムもキシュワールに側にいられるのは息苦しかったので「特にありません。」と告げた。
ならば食事、着替えはキシュワールが手伝い、必要な時はベルで呼ぶ、という事を2人で取り決めた。
結局、怪我をする前から顔を合わせる頻度は大して変わらなかったが。
しかし怪我を負わせた負い目があるのか、ほんの少しキシュワールはアリムの様子に気を配り、手を貸す回数が増えたように思う。
アリムは怪我をしてから1週間、毎晩自分の腕に語りかける。
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逃がしたヒトの子・アダムが美しく成長した姿でディランの元へ現れた。幼いヒト似獣人の少女を連れて。
「俺をもう一度、お側に置いてください」
そう訴えるアダムの真意が掴めないまま、ディランは彼らと共に暮らし始める。
当然その生活は穏やかとはいかず、ディランは己の罪とアダムからの誘惑に悩み苦しむことになる——
◇ ◇ ◇
獣人×ヒトの創作BLです
シリアスで重い話、受から攻へのメンタルアタック、やや残酷な表現など含みますが最終的にはハッピーエンドになります!
R描写ありの回には※マークをつけます
(pixivで連載している創作漫画のifルートですが、これ単体でも読める話として書いています)
メビウスの輪を超えて 【カフェのマスター・アルファ×全てを失った少年・オメガ。 君の心を、私は温めてあげられるんだろうか】
大波小波
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梅ヶ谷 早紀(うめがや さき)は、18歳のオメガ少年だ。
愛らしい抜群のルックスに加え、素直で朗らか。
大人に背伸びしたがる、ちょっぴり生意気な一面も持っている。
裕福な家庭に生まれ、なに不自由なく育った彼は、学園の人気者だった。
ある日、早紀は友人たちと気まぐれに入った『カフェ・メビウス』で、マスターの弓月 衛(ゆづき まもる)と出会う。
32歳と、早紀より一回り以上も年上の衛は、落ち着いた雰囲気を持つ大人のアルファ男性だ。
どこかミステリアスな彼をもっと知りたい早紀は、それから毎日のようにメビウスに通うようになった。
ところが早紀の父・紀明(のりあき)が、重役たちの背信により取締役の座から降ろされてしまう。
高額の借金まで背負わされた父は、借金取りの手から早紀を隠すため、彼を衛に託した。
『私は、早紀を信頼のおける人間に、預けたいのです。隠しておきたいのです』
『再びお会いした時には、早紀くんの淹れたコーヒーが出せるようにしておきます』
あの笑顔を、失くしたくない。
伸びやかなあの心を、壊したくない。
衛は、その一心で覚悟を決めたのだ。
ひとつ屋根の下に住むことになった、アルファの衛とオメガの早紀。
波乱含みの同棲生活が、有無を言わさず始まった……!
婚約破棄を提案したら優しかった婚約者に手篭めにされました
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ケイは物心着く前からユキと婚約していたが、優しくて綺麗で人気者のユキと平凡な自分では釣り合わないのではないかとずっと考えていた。
ついに婚約破棄を申し出たところ、ユキに手篭めにされてしまう。
ケイはまだ、ユキがどれだけ自分に執着しているのか知らなかった。
攻め
ユキ(23)
会社員。綺麗で性格も良くて完璧だと崇められていた人。ファンクラブも存在するらしい。
受け
ケイ(18)
高校生。平凡でユキと自分は釣り合わないとずっと気にしていた。ユキのことが大好き。
pixiv、ムーンライトノベルズにも掲載中
(無自覚)妖精に転生した僕は、騎士の溺愛に気づかない。
キノア9g
BL
※主人公が傷つけられるシーンがありますので、苦手な方はご注意ください。
気がつくと、僕は見知らぬ不思議な森にいた。
木や草花どれもやけに大きく見えるし、自分の体も妙に華奢だった。
色々疑問に思いながらも、1人は寂しくて人間に会うために森をさまよい歩く。
ようやく出会えた初めての人間に思わず話しかけたものの、言葉は通じず、なぜか捕らえられてしまい、無残な目に遭うことに。
捨てられ、意識が薄れる中、僕を助けてくれたのは、優しい騎士だった。
彼の献身的な看病に心が癒される僕だけれど、彼がどんな思いで僕を守っているのかは、まだ気づかないまま。
少しずつ深まっていくこの絆が、僕にどんな運命をもたらすのか──?
騎士×妖精
悪役令息を改めたら皆の様子がおかしいです?
* ゆるゆ
BL
王太子から伴侶(予定)契約を破棄された瞬間、前世の記憶がよみがえって、悪役令息だと気づいたよ! しかし気づいたのが終了した後な件について。
悪役令息で断罪なんて絶対だめだ! 泣いちゃう!
せっかく前世を思い出したんだから、これからは心を入れ替えて、真面目にがんばっていこう! と思ったんだけど……あれ? 皆やさしい? 主人公はあっちだよー?
ご感想欄 、うれしくてすぐ承認を押してしまい(笑)ネタバレ 配慮できないので、ご覧になる時は、お気をつけください!
ユィリと皆の動画つくりました! お話にあわせて、ちょこちょこあがる予定です。
インスタ @yuruyu0 絵もあがります
Youtube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます
プロフのWebサイトから、両方に飛べるので、もしよかったら!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
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