上 下
2 / 37

五 月神様の涙。

しおりを挟む



月神様の涙。



これは、とある街にある小さな神社に祀られている龍神様とお友達のお話。ここには龍之介という神様と太郎という神様が住んでいる。二人は仙人や精霊や動物、人間の子供、もちろん神様たちが気軽に遊びに来られるようにお食事処を始めてみた。そんな小さな神社の、おはなし。



龍之介は燻らせたタバコの煙が濃紺の空に溶けるように消えてゆくのを眺めていると二人の華やかな女性が声をかけてきた。一人は濃紺地に白とピンクの萩の花模様の着物に落ち栗色の帯を締め深緑の帯締めをしていた。もう一人は浅葱色に女郎花の大振りの模様の入った着物に深い秋空色の帯を締め抹茶色の帯締めをして、二人ともゆるく髪を束ねている。
「もうし、龍神様はご在宅でしょうか。わたくし萩の精霊で薄葉と申します。こちらは華夜(かや)、女郎花の精霊です。実は、お願い事がありまして参じました。ほんの少しお時間をいただけないでしょうか。」
「ふむ。入り口ではなんじゃから奥へ入りなされ。太郎さん足湯をお願いできるかの。お前さんがた今は忙しい時期じゃろうのに面倒ごとでも起きたかの。ささ、足を清めて座敷がよかろう?出来立ての月見団子じゃ。緑茶で良いかの?」
太郎が足を清めるのを手伝い、龍之介は盆に二人分のお茶と月見団子を乗せて座敷に上がった。
二人はしばらくどう話したら良いのか考えていたようだったが薄葉が先に口を開いた。
「龍之介様、わたくしたちはご存知の通り十五夜の夜に皆で舞を奉納し、月のしずくをこの安田神社に奉納するのが慣わしでございます。ところが黒一点のススキの精霊鈴弥と藤袴の精霊香野子の行方がわからなくなってしまいました。あと数日で満月となります。わたくしたちが舞わなければ月のしずくを奉納することができなくなってしまいます。あの二人を探す手立てはございませんでしょうか。」
二人は深刻そのものでお茶にも団子にも手をつけることすら忘れている。
月のしずくとは、満月から十六夜にかけて月の女神が落とす涙のことで、この涙で宝鏡を磨きこれから一年の吉凶を占うためになくてはならないものである。
「ふむ。どこぞで怪我をしておるとかそのようなことはあるまいか。拐かされるようなことも考えられんし、理由など思いつかんのかね?周りには聞いてみたのかの?」
龍之介はお茶を一口含むと二人に尋ねた。
「二人は特に仲が良く、いつもこそこそと話しては微笑みあっておりまして、その、申し上げにくいのですが、もしや駆け落ちではなかろうかと。。。」
薄葉は少し口籠もりながらそう告げた。
すると華夜は
「薄葉姉様、確かにあのお二人はとても仲がようございましたがこの大切な時期にわざわざどこかへ行ってしまわれるほど無責任だとは思えませんわ。とくに鈴弥兄様は香野子だけでなく私たちとも仲良くしてくださっていたじゃありませんか。駆け落ちだなんて早計だと思うのですが。」
華夜は、何かいいたりないのか袖の端を摘んでありもしない埃を何度も払っていた。
「華夜、何か言い足りないことでもあるのかの?些細なことでも構わぬゆえ教えてくれぬか?二人がもしも何かの災難に見舞われていては大変じゃ。早めに助けに行かねばならぬかもしれぬゆえにの。」
龍之介は優しくそういうと、華夜の目を覗き込んだ。吸い込まれそうな緑の瞳、色白な面立ちに紅い小さなくちびる。見惚れていることに気がついて、慌ててまたお茶を口にした。
「あまり悪口や告げ口は好きではないのです。どうしても話さなければいけませんでしょうか。」
華夜はなおも言い淀む。
薄葉はじれたように華夜の手を握ると
「華夜ちゃん、兄様に何があったか心配なのでしょう?龍之介様にお話ししなければ満月には間に合わないのよ。」
とぶっきらぼうに言うと、月見団子を一口頬張りもぐもぐと飲み下した。
「龍之介様!美味しゅうございます!」
薄葉は表情がくるくると変わる。本当はきっと無邪気な精霊なのだろう。嬉しそうにもう一口頬張ると今度はじっくりと味わっているようだ。その横で華夜は尚も湯呑みをなぞり考えに耽っている。
憂いを帯びたようなその横顔が龍之介の目の端で動くたび、心がゆらゆらとざわめく。
「あのう、確証はございませんの。ただ、曼珠沙華の紅緒が鈴弥兄様に言い寄っていたのを見かけたんです。その時に、今年の舞は私も参加したいと言うようなことをおっしゃっておられて。兄様は万葉の昔からの決まり事をその時の思いつきなどで変えるわけにはいかないのだよとおっしゃっておられて、その後はわたくしも用事がありましたので話がどのようになったのかはわからずじまいでございました。この話、兄様たちのことに関係ございますでしょうか。」




夕暮れが冥色に呑まれ、どこから流れてきたのか夜空の星を覆い隠すような黒い雲が闇を濃くしていた。
街からはかなり外れた田んぼのそばの古ぼけた水車小屋の中で、鈴弥は紅緒と一定の距離を保ったまま静かに話をしていた。
「なあ、紅緒。今お前がしている事はいたずらに精霊たちを傷つけ、皆の心を乱すに過ぎぬのだよ。そんなふうに香野子を閉じ込めてしまって、龍之介様が許してくださると思うのかい?今なら私たち三人だけの胸の内に留めて置ける。だから、香野子を離してやってはくれまいか。」
「どうしてですの!わたくしはいつも隠れて皆の舞を見ておりました!練習しておりました!わたくしも香野子の様に舞えますのに!鈴弥様は紅緒より香野子の方をお選びになるのですか!わたくしではなく、香野子を!」
紅緒は水車小屋の床に座らせて後ろ手に荒縄で縛った香野子を睨み据えてそう叫んだ。香野子は怯えて声を出すことも出来ずにただ涙をこぼして震えていた。長い間座ったままでいるからか手も足も痺れて、身体中がヒリヒリと痛みが走っている。
「紅緒、この舞は私達の勝手な思いで変えることのできぬ理りなんだよ。万葉の昔より私達秋の七草の精霊が舞うことに決まっている。私たちが舞うことで月の女神様は涙を下さるのだ。例えばお前の舞がどんなに美しかろうとも、月の女神様が涙をくださらなければ龍之介様が宝鏡を磨くことも吉凶を占うこともできなくなってしまう。私達の勝手な一存でそのような大ごとを決めてはいけないのだよ。解っておくれ。」
鈴弥が言葉を重ねれば重ねるほど紅緒は狂おしく激しく胸の内の炎を燃やして、嫉妬と羨望で焼けてしまいそうだった。

夜もふけ、風が皆の心をぬるく包んでゆく。
龍之介は薄葉と華夜に
「もうお帰り。明日の朝二人を探しにゆくゆえ今日は休むのじゃ。時期満月になる。お前たちは一日中まい続けねばなるまい。今は少しでも休んで力をつけねばの。」
そう言うと入り口まで送っていった。
「龍之介さん、一体どうなさった。まるで心ここに在らずじゃないですか。香野子など香りを辿ればすぐにでも見つかりそうな物ではないですか。皆を連れて帰ってから事情を聞くのはどうです?わしが一飛びしましょうか?」
太郎は、いつもはもっと案を出す龍之介が歯切れの悪い意見しか言わないことを面白がっていた。
こんな事は珍しい。というか、太郎が龍之介とこの神社を護るようになってから初めての出来事だ。龍之介は太郎の声すらも届かぬほど遠い目をしていつまでも外を眺めていた。

太郎は、龍之介のこの非常事態に一計を案じ外へと飛び出し、微かな香野子の香りをたどり山を一つ越えた里にだどりついた。
闇が、鬱々と辺りを包む。目を凝らすと山裾に小さな農具小屋があるのがわかった。
香野子の香りはそこからする。太郎は一気にそこまで飛んだ。
弱い結界が張ってある。人間ならばここに入っても中の様子はいつもと変わることのない日常に過ぎない。太郎は引き戸を開けて中に入ると
「紅緒や、皆お迎えに参った。お前も一緒にきなされ。咎めるためではない。お前の心のうちを聞きたいのじゃ。」
そう言うと丹田に力を込め「ふんっ!」と一息力を込め、四人は一瞬のうちに神社の洞穴にたどり着いた。

龍之介は、太郎が出て行ったことに気付きもせず華夜の座っていた辺りをぼーっと見つめていた。
さて、どうしたものか。薄葉が言うことが本当だとして、この満月の舞を終わらせるわけにはゆかぬ。
そういえば、紅緒はこの季節が終わると次の精霊と変わるはず。紅緒は、もしかしたら最後に舞いたいのだろうか。月に向かって、わしらに向かって。小さくも生き生きと咲き誇った証として。
ならば紅緒の衣装が必要じゃな。皆で舞うことはできまいが、代わる代わる舞うと言うのはどうじゃろう。薄葉や華夜がほんの一息つく間もできよう。そうじゃ、そうしよう。
そう思い太郎の方を振り返った。しかし、そこにはほの暗い座敷があるだけだった。
おや?わしが考え事をしている間に太郎さんは迎えに行ったのかの?
ならば豆茶でも淹れようか。きっと皆疲れていよう。
月見団子を器に盛って卓に置き豆茶を人数分の湯呑みに淹れたその時、ぼわんと空間が歪んで四人が現れた。
「うむ。ちょうどお茶が入ったよ。さてさて、まずは香野子手足の傷を診ようかの。」
そう言うと足湯もそこそこに香野子の傷を手当てして、香野子は上がり框に腰掛けられるように卓を動かし五人は向き合った。
「まずは鈴弥、香野子のことよう守ったの。香野子もよう耐えた。傷は明日には治るじゃろ。舞に差し支えはないから心配はいらぬよ。さて、紅緒。お前さんこの秋でお役を降りるのじゃろ?いくら球根で増える花じゃとはいえ、お前の球根は今年が最後の花じゃ。お前ほどの器量と舞を愛する心、わしには聞こえておったよ。どうじゃろう。皆と舞うにはちとの舞台は狭い。それでじゃ、この七精霊が休息している間、お前さんが舞うと言うのは。先程風と星の精霊にお前の衣装を頼んでおいた。明日の夜には届くじゃろう。これからは、秋の花々でその年が最後の精霊たちも舞を待ってみるのも華やかで良いとは思わんかの?太郎さん。」
「龍之介さん、紅緒を叱らんのか?ふふふ、そうじゃろうとは思うていたが、なるほどの。それは名案じゃ。紅緒はたまたま舞を隠れて練習しておったが、これからは花々の精霊たちも夏の始まりには舞の練習をする様に募るかの。月神さまもさぞ御喜びになるじゃろう。ささ、皆お茶を上りなされ。」
太郎はごくりとお茶を一口飲むと皆に優しい眼差しでお茶もお菓子をすすめた。

次の夜、薄緑から深緑までを十二単に仕立てた衣装と真っ赤な薄衣に金の彼岸花を刺繍した上掛けと銀の薄絹に真っ赤な彼岸花を縫い留めたような羽衣が届いた。今日は十四夜。明日は皆が舞を舞う夜。明日の日没から明後日の日の出まで精霊たちは舞い続ける。
紅緒は出来上がった衣装を抱きしめるように手に取ると、
「龍之介様、太郎様、この御恩もうお返しする術がございません。わたくしのわがままを、よもや聞いていただけようとは思ってもみませんでした。何もかもお見通しでいらっしゃったことも本当に恐れ入ります。このような美しい衣装で、しかも皆と舞わせていただけることを光栄に思います。本当にありがとうございます。」
そう言いぽろぽろと涙をこぼした。
「これこれ、せっかくの衣装に涙がついてしまうよ。わしらも、お前のように熱心に舞を練習している精霊を棄ておくことなどできるわけがない。しかし、お前だけに特別に、というと他の花々が嫉妬するやも知れまい?これからはお前のように辛い思いの無いようにしてゆこうの。良い案を出してくれてありがとうの。」
龍之介は紅緒の頭を優しく撫でると微笑んだ。
「紅緒!本当に良かったわね!薄葉姉様はあなたを悪く言うけれど気にしてはダメよ。香野子の傷も治ったわ。明日は私たちと一緒に月神様に祈りを捧げましょうね。」
華夜は嬉しそうに紅緒を抱きしめると、
「龍之介様、私どものわがままな振る舞いに寛大なお心で接してくださり言葉もございません。当日は皆心を込めて舞いますのでどうか、紅緒の姿心にお留置くださいませ。」
そう言い美しい瞳から涙をこぼした。

満月が、東の空を明るく照らし始める。皆がそれぞれの花の色の衣装を纏い古式ゆかしい舞を奉納し始めた。
鈴弥は大きな鈴を打ち鳴らし中央で華を添える。
でも、龍之介には華夜の控えめで甘く優しい舞が心に沁みた。

まる二日の舞の奉納を終え西の空に十六夜の月が沈んでゆくと、夜が明けるまでの静寂が辺りを包んだ。
「龍之介様、この度はわたくしの狂気的なわがままを聞いてくださり本当にありがとうございました。これで心置きなく次の精霊と交代することができます。龍之介様、太郎様、そして七草の皆様今回は誠にご迷惑をおかけしました。」
紅緒は深く頭を下げ、そして白みはじめた東の空にさらさらとかけらを舞い上がらせ解けて逝ってしまった。
皆は息をつめ、ただそのキラキラと輝くかけらを、いつまでもいつまでも見送った。


あれから何度、満月の舞が行われたことだろう。華夜もかけらとなってしらんだ空に解けて逝ってしまった。
これからも、幾度となく精霊を送り続ける。
わしらの時間は、誰とも交差することはないのだから。
しおりを挟む

処理中です...