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三十一 虹の篝火。
しおりを挟むこれは、とある街にある小さな神社に祀られている龍神様とお友達のお話。ここには龍之介と太郎という神様が住んでいる。二人は仙人や精霊や人間の子供、もちろん神様たちが気軽に遊びに来られるようにお食事処を始めてみた。そんな小さな神社のたくさんの、おはなし。
八重桜が、花びらを青い空に舞い上げて、そろそろ初夏の気配を感じさせる午後。龍之介はちまきを笹の葉でくるみ終わると熱々の蒸し器に並べて子供達を待っていた。太郎が頼まれていたきな粉を挽き終わる頃、入り口から若い女の声がして二人は同時に振り返った。
「もうし、ここは龍神様のお食事処でございましょうか?わたくし川向こうの山の端にあるもみじヶ池のあやめと申します。少しお願いがあり参じました。」
光沢のある浅葱色の生地の所々に波紋とあやめをあしらい銀地にトンボ柄の帯を締めた姿のあやめという精霊は頭を下げたままそこに佇んでいた。
「なんと、遠いところをここまで来たのかね。ささ中にお入りなされ。冷たいお茶とちまきがあるからの。どうなされた。頭を上げなされ。」
龍之介は笑顔で招き入れると座敷にちまきと水出しの緑茶を盆に乗せ持ってきた。あやめはしばらく黙り込んでお茶を見つめていた。
「こんにちはー。たくみとこうきです。坊はもう来てますかー?」
元気な声で入ってきた人間の子供を見てあやめは体を硬くして隅に隠れてしまった。そして近くにいた太郎に小さな声でこう聞いた。
「龍神様、どうして人の子がここへ入れるのですか?ここは人には見えぬはずです。」
太郎は少し困った顔で微笑んだ。
「この子たちはの、なんと言うか特別なんじゃよ。わしらのような神の存在も仙人や精霊も仲間だと思って接することができるんじゃ。安心してわしらに話しなされ。龍之介さんがちゃんと聞いてくださるからの。」
そう言われても、あやめの顔からは不信感は拭えずにいた。
こうきは自分たちがきたことで影に隠れてしまった精霊に心を痛めた。自分たち人間を嫌っている精霊がたくさんいる、そう椒太郎は言っていた。あの精霊はもしかして僕たちのことが嫌いなんだろうか。
すると、ものおじしないたくみが声をかけた。
「こんにちは。お姉さんは精霊さんやんね?どんなお花なん?着物の模様、しょうぶなん?あやめなん?綺麗やなぁ。僕、もみじヶ池のあやめ見に行ったことあるねん。
お父さんが、ここのあやめは日本一綺麗やでって言うてはった。ほんまに綺麗やねんで。精霊さんやったら知ってるかぁ。あんなに一面にあやめとかいっぱい咲く池なんて、きっとここだけなんやろうなぁってめちゃ思ったわぁ。」
話を聞き終わるか終わらないかの時にあやめの顔色が変わっていくのにたくみは気がつかなかった。
「あなた達人間が勝手にあの池を無くするくせに!わたくしたちは消えて行かねばならないのに!身勝手に土砂を埋める場所がないからなどとわたくしたちの美しい池を壊してしまうのに!何が日本一ですか!口惜しい!こんな子供かどわかして池に浮かべて仕舞えばいいのよ!」
あやめが悲鳴のような声で涙ながらにこちらに詰め寄ってきて、たくみは後ろ向きにひっくりがえってしまった。龍之介が背中をすくうと畳に座り直させた。たくみもこうきも顔を見合わせ怯えて腰が抜けたように座り込んでしまった。
「こんにちはー。遅くなりましたー。」
小沢の坊はいつもの薄い着物に草履姿でぽとぽととやってきた、が、入り口を入るとすぐ緊迫した空気に気圧されて思わずたくみとこうきのところに走り寄り二人を抱きすくめた。
「龍之介さんどうしたの?たくみもこうきも声も出さずに泣いてるよ?このお姉ちゃんは誰?」
「ふむ。わしもまだ話を聞いておらぬゆえ詳細はわからぬのじゃがの。もみじヶ池が埋められるとはどうしたことかの?あの池はこの辺りでも隠れた名勝地じゃと記憶していたんじゃが。」
龍之介は子供達をいつもの台所に近い席に座らせるとちまきと冷たい麦茶を出してやった。たくみとこうきは坊が言うまで自分たちが泣いていることにも気がつかなかった。頬を伝う涙をぬぐいもせずあやめを見つめたままお茶を一口だけ飲んだ。
あやめは自分が狼狽したにもかかわらずこの人間の子供をみんなが庇おうとすることに不信感を持ちながらも、もみじヶ池に今起きていることについて話し始めた。
去年の夏、もみじヶ池の裏山の奥で地滑りが起き、道路が塞がれてしまったのが事の起こりであった。その道の奥にある集落にはこの道路がなくては行くも帰るもならず大量の土砂を取り除く作業が始まったのだが、土砂を捨てるところが見つからない。それで、もみじヶ池の端の方に土砂を一時的に置き始めた。ところがどけてもどけても道は開かずとうとう池を埋め立てることが決まったと言うのだ。ついでにそこに家を建て新興住宅地に変えれば一石二鳥だと言うことらしい。もみじヶ池の地主は、最初は美しい池を守ろうと頑張っていたのだが、説得に負けたのか手放すことにしてしまった。来週から池の埋め立てが始まってしまう。あの池の魚や生き物は川下へ逃げたのだけれど草花やもみじの木は自分で動くこともままならないのでどうにかならないだろうかと言うのがあやめの相談だった。
「ふむ。それはまた困ったのう。我らの森は昔から保護区として護られていての、この森や山がむやみに壊されることはないのじゃが、確かもみじヶ池の辺りはそれぞれに地主がおるはずじゃ。山も野も池もの。地主が手放してしまうと人間は好き勝手に開発をしてしまう。これは我らもどうにもならぬことでな。我らの理りと人間のそれとは相容れぬものじゃ、精霊や神を信じなくなった現代では特にの。あやめよ、そなたむやみに人間を恨むものではないぞよ。今までとてともに生きともに滅びたではないか。何故今そのように怒りをあらわにしているのじゃ?」
「私は一昨年代替わりして生まれたばかりの精霊です。やっと花が咲くと言うのにもう消えねばなりませぬか?わたくしはもっともっと咲きとうございます。そう思うのはわがままでございましょうか。もしも我が池が山崩れで埋もれたならば納得もいきまする。ですが、埋もれずともいいはずの我が池がたかが人間ごときの傲慢でなくなるのは納得がいきませぬ。」
「なるほどの。時として人の理りはわしらを不快にさせる。しかしの、この子達には何の罪もなかろう?そうは思わぬか?この子たちはお前たちの池を美しいと言っておったではないか。本来ならば我らの理りを曲げてまでお前たちのことを助けることはせぬのじゃが少し様子を見に行くことにするかの。太郎さん、たくみとこうきを連れてもみじヶ池まで行ってきてはくれまいか。どのくらいの草花があるのかをの。坊はわしと沢に行こう。お前の沢の滝壺のところを見たいのじゃ。あやめもおいで。この子たちの話をしてやろうの。」
太郎ははいよと返事をすると「ふん!」と丹田に力を込めて尻尾を引っ込め人の形に変身した。少し緑がかってはいるが作務衣を着たおじさんに見える。そして黒い帽子を深々とかぶるとたくみとこうきに行くよと声をかけた。
二人は、あやめの話にも龍之介の話にもついていけず、しかも太郎が人に化けたことでますます置いてきぼりをくらい混乱してはいたが、精霊に嫌われるのは悲しいこと、そしてもしも救えるのなら、もしも仲良くなれるのならどうにかしなくてはと言う衝動に駆られた。
「たくみ、こうき。池までは歩くと遠いからの。少しばかり力を使うよ。わしにつかまって手を離すでないぞ。」
太郎は人の形のまま「むんっ!」ともう一度丹田に力を込めた。辺りの景色がゆらゆらと揺れたかと思ったらめまいのような頭痛のような違和感が起き二人は腰が抜けたように座り込んでしまった。しばらく目の前がぼやけていたが、よく見るとそこはもみじヶ池の縁だった。池にはあやめがポツリポツリと花開き水面には蓮が芽吹いていた。葦が池の縁を飾り待宵草がしおれた花を風になびかせている。蝶がひらひらと舞い鳥がさえずっていて、とても来週から埋め立てが始まるところとは思えぬ光景だ。たくみとこうきはこれがほんの一握りの大人の意見で無くなってしまうのかと思うととても悲しい気持ちになった。
太郎の姿を見て精霊たちが集まってきた。葦の精霊は笑顔で子供達をも迎えてくれた。待宵草の精霊と蓮の精霊は眠そうな目をこすっている。
「龍神様、ようこそおいでくださいました。わたくしは紅緒と申します。あやめがわがままなことを申しておりましょう。我々はいつ何時消えるかもわからぬ存在。これも運命と受け入れよと話しましたのに、朝には出かけておりました。まさか龍神様がわざわざおいでくださるとは思いもよりませんでした。ところでそこにおりますのは人の子でございますか?噂には聞いておりましたが、本当に人の子をご寵愛とは。」
皮肉交じりに三人を迎えたのはこの池の名前の由来となったもみじの古木の精霊だった。
「ふむ。いかにもこの子達を可愛がっておるよ。良い子供達じゃ。さて、この池から移りたいと思うておるのはどの精霊じゃ?全てを移すにはわしらの森はちと狭い。」
太郎は精霊たちを見回すと少し乱暴にそう言った。この精霊は、明らかに人間を嫌っている。龍之介や太郎が護っているあの森は人間たちが手を入れて、保護された森だ。
この精霊がそれを理解しているかどうかがわからなかった。
「龍神様のおられる森はわたくしたちの池周辺とはたちが違いまする。わたくしたちがそちらに移りましても人間を拒むことをお許しにはなられませんでしょう?わたくしたちは人間が憎うございます。この池を、この辺りの森や山を、簡単に壊してしまう。それを許すことがどうしてできましょう。」
紅緒はほんの少し顔を歪めるようにして、吐き捨てるようにそう言った。この池に集う精霊たちはどうもこの紅緒に逆らうことは難しいらしい。太郎は自分たちがきた時に歓迎して見えた葦の精霊が悲しそうにこちらを見ているのに気がついた。よく見ると蓮や待宵草の精霊も寂しげに足元を見つめている。
たくみとこうきは紅緒に睨みつけられ、そして「憎い」と言われたことに呆然とした。
椒太郎が言っていたことは本当だったのだと思うと悲しかった。
「僕らはまだ子供やけど、だから何にもできひんけど、この池がなくなってしまうのはすごく悲しいし、大人がそんなふうにしてしまってごめんなさい。僕はこの池のお花が大好きで、こんなに花や木や草が好きになったのは、こうきがいたからやし、龍之介さんや太郎さんがいろんなことを教えてくれはったからやし、仙人様や精霊さんたちにたくさんたくさん会って、話して、友達になれたからやねん。僕らにはまだなんの力もなくてここの精霊さんたちをみんな救うことはできひんけど、せめて精霊さんたちや神様や仙人様の中で喧嘩をするのはやめてほしいです。勝手ってわかってるけど、僕は、みんなが大好きやから、太郎さんがこんなに怒ってはるのを初めて見て、すごく悲しいし、苦しいから、だから、みんなで仲良くできませんか?」
たくみは涙をボロボロと流しながら心の底からそう言った。こうきはたくみの手を繋ぐと一緒に涙を流しながらお願いした。
本当はこの池を魔法のようにどこか山の奥深くに運んでしまって、みんな幸せに暮らしました、っていうハッピーエンドにしたい。でも、それが無理なら龍之介さんの側にみんなが行ける方法を考えたい。だけど紅緒さんがこんなに怒っていたらうまくいかないと思うし、自分たちがいることで精霊さんに嫌な気持ちになってほしくない。
「こんなに小さな人間の子供でもお前たち精霊のことに心を痛めることがあるんじゃよ。お前たちが頑なな心を持ち続けるならば、我らの世界の理りによりここが消えるのをわしらはただ見ている。全てを救うことはできない。お前もわかっておるのだろう?紅緒よ。だが、怒りに支配されてしまうとお前の心はいつか怨霊となり還る場所すらも失う。心を開いて見んかね?」
紅緒はとてもきつい目で太郎を睨み、それでも考えを巡らせた。紅緒の意見だけでここの精霊たち全てを消してしまうのは傲慢というものだろうか。今までのように穏やかに風にそよぐことは、もはや夢幻なのか。
「子供達を連れて一度帰るとしよう。お前たちの生きる道じゃ。わしらではわからぬこともあろう。よく考えなされ。」
太郎はそう言うとたくみとこうきの手を取り風の中に薄れるように消えていった。
龍之介は黙って沢への道を歩いていた。坊も龍之介の手を握りしめてただ黙々と歩いていた。
あやめはどうしてたくみやこうきにあんなに意地悪を言うんだろう。椒太郎が言ってた滅ぼしたい精霊たちって、あやめやその池の精霊たちなのかな。誤解してると思うのに言葉にできない。坊はまだ名前もない精霊だけどいつか名前を頂いた時には人間を好きな精霊のままで居たいと思った。
沢に着くと龍之介は小さな滝壺に降り周りの岩や木々を退ける算段を始めた。龍之介はまだ一言も喋らない。坊は不安でどうしようもなくなりあやめの方を向くと、
「お姉ちゃんはさ、咲きたいって言ってたよね。ただ咲きたいの?誰にも見られず誰とも話さずただ咲いていたいの?おいらは生まれてからしばらく杉のじい様以外にほとんど話すこともなくて、じい様はもう歳だからあまり表に出てこないし、寂しくてさ。寂しくて寂しくて悪さをしちゃったんだ。この滝が凍ってキラキラしてるのを見にきた人間がたくさん出てきて、みんなが褒めてくれたから冬が終わらなかったら、もしかしたらずーっと人間が来てくれるかもしれないって思ったんだ。だけど冬が終わらなかったら、春が来なかったら精霊も仙人様も神様も人間もみんな生きられなくなるって知らなくて。それでみんなに叱られたけどたくみとこうきが友達になってくれて、それからたくさんの精霊や仙人様や神様にお話を聞いて、みんなで暮らす方法を考えようって三人で決めたんだ。お姉ちゃんは人間に見て貰わなくてもいいの?綺麗って、褒めてもらいたくないの?おいら人間も好きだな。大人ってのにはまだあったことないけど、悪い人ばっかりじゃないと思うよ。難しいことはわかんないけど、仲良くしてほしいし、お姉ちゃんとおいらたちも友達になりたいんだ。ダメかな?」
そう言いまた下を向いてしまった。
龍之介は滝壺をほんの少し大きくするのは可能だと算段するとあやめの方を向いて話し始めた。
「わしらはな、ほんの少し暇を持て余してお食事処などと称してあの洞穴の蕎麦屋を始めた。最初は誰も龍神を恐れてか来てくれなんでの、太郎さんがそうめんを小川に流し始めたんじゃ。そうしてやって来たのがたくみとこうきじゃった。本当は記憶を消してもう来ることもないようにしようと思っておったが、あの子達はわしらを慕ってくれての。色々なことをわしらで解決したり冒険を手伝ったりしたんじゃよ。そして坊の事件じゃ。あの後この子達にもわしらの世界の理りについて学んでもらおうと思っての。色々なところにお使いに出した。あの子達はもしかしたらわしらの世界と人間の世界の橋渡しをしてくれるやもしれぬ。人間を大して理解もせずに嫌うのは少しもったいない気がするんじゃがの。この滝壺であれば咲くこともできよう。じゃが、人が入ってくることもある。よからぬ輩もおろう。わしらはそんな輩すらも受け入れておる。それが我らの世界の理りじゃからの。忘れてはならぬ。わしらはみんな一蓮托生じゃ。どの種族が滅びても均衡を欠いて崩れてゆく。人間を滅ぼしたとして、そのために我らの世界すらもなくなってしまうのはやはり傲慢のなせる技じゃと思わんかの?ふむ。太郎さんが戻ったようじゃ、帰るかの。」
「おかえり。たくみもこうきも疲れたじゃろう。温かいお茶の方が良かろうの。座って休みなさい。悲しいことも、学んでうまくゆくように考えてゆこうの。」
龍之介は子供達に温かいお茶とちまきときな粉を皿に盛ったものを出してやるとあやめにもちまきとお茶を出して座敷と卓の間に座った。
「ふむ。その紅緒というもみじの精霊はきっと悲しいことをたくさん見て来たのじゃろうの。人間の時間というのは短いものじゃ。精霊の生きる時間とはまるで違う。その間に時代が流れ、人々の生き方も変わって来てしまった。仕方のないことなのじゃが、あまりにも頑なな心はわしらにもどうすることもできぬからの。」
「龍之介さん、紅緒さんは僕らが憎いって言ってはったの。きっと、せっかく綺麗な池にゴミ捨てたりする奴らもいたと思うねん。お花ちぎったり。でも、僕は紅緒さんのこと憎いってなんか思えへんし、できたらずっと精霊さん達と仲良くしたい。紅緒さんは、そんなこと言うたら笑うんかな。」
たくみが悲しそうにそう言うと、こうきも寂しそうな眼差しであやめを見つめ、
「あやめさん、僕ら人間が嫌な思いをさせてしまってごめんなさい。ここの森にはたくさんの精霊さんがいはるねん。ここの精霊さんはみんなとても優しいからきっとあやめさんも仲良くなれると思うねん。でも、僕らも精霊さんと友達やねんやんか。それ、許してください。僕らがなんか言われても我慢できるから、他の精霊さん達のことは悪く言わんといてほしいねん。」
と呟いた。
あやめは生まれてからずっと紅緒の話を聞いていた。人間というのは浅ましく身勝手で、精霊が見えないことをいいことに野も山も我が物顔で壊してしまう。昔はもみじヶ池の辺りにはほとんど人も入らず、のどかに風に揺れていたのに最近は人々の勝手で風景も様変わりしてしまったと。
だが、考えてみると自分が生まれる前の風景を見たことはないし、それがどんなにのどかだったのか騒がしかったのかもわからない。人間が悪いとは思うが、本当に悪い者ばかりなのだろうか?
「あの、わたくし帰ります。そして紅緒様に色々聞いてみようかと思います。他の精霊達にも。わたくし今とても混乱しております。だから一度帰って考えを整理してまいります。来週の埋め立て工事が始まる前にもう一度みんなの意見を持ってまいります。お世話をおかけしました。」
あやめはぺこりと頭を下げると速足に洞穴を出て行ってしまった。
もみじヶ池では紅緒が精霊達に怒りを露わにして睨みをきかせていた。自分が消えゆくのに他のものが違うところに逃げるなど許されるはずがない。わたくしが消えるのならば諸共に消えゆくのが筋であろう。
道路が造られた時、たくさんの山の精霊や動物が消えていった。見送る側には辛い経験だった。人々が訪れるために柵や塀が作られ池の周りが狭苦しくなって行った。草花が消え、虫が減り、蛙が鳴かなくなった。
そんな刻の流れの中で生きてきたのだ。自分一人がここで伐り倒されて消えてゆくなど。
あやめはその夜遅くに池に戻って来た。紅緒は未だ怒りを露わにしている。精霊達は早々と眠りにつき紅緒に触れることもやめてしまっていた。
そんな中、葦の青年がこっそりとあやめの帰りを待っていた。葦の青年は名前を碧といった。碧はあやめが帰ってくると今日あったことを説明し、あやめの報告を黙って聞いていた。沈黙が、虫の音や時折通る車の音に遮られても二人は黙ったまま葦の葉陰にうずくまって考えあぐねていた。紅緒が間違っているなどと、大それたことをどちらが言えばいいのだろう。ほんの少しでも移れる場所があるのならば、みんなで移ってもいいのではないだろうか。それとも運命を受け入れ消えゆくのが自分たちに残された道なのだろうか。
太陽が東の山の端からその光を辺りに照らし始め鳥や獣が忙しくさえずり動き始める頃、あやめと碧は紅緒の膝元にやってくるとこう切り出した。
「紅緒様、龍神様は一人一輪ずつの場所を空けてくださいました。私達がみんなで住むにはあまりにも狭いところではありますが、若い草花や木々を移してはいけませんでしょうか。人間が身勝手であることは百も承知しております。しかし、わたくし達精霊もこうして喧嘩をしているのは甚だ身勝手ではないでしょうか。もちろん本当は消えゆくさだめ。受け入れるのも1つです。ですが、この池の美しさをあの森に移して人々が愛でるのを楽しむのも一興かと思うのです。人間を憎み滅ぼすのは、もう少し様子を見てからでもいいのではないでしょうか。」
紅緒は、自分が消えゆく事を受け入れ難く思わず二人を叩いてもみじの中に隠れてしまった。
時は、刻一刻と迫っていた。
埋め立て工事を明日に控えた朝、不意に紅緒が姿を現した。
紅緒は、自分の定を受け入れる覚悟を決めると精霊達にこう告げた。
「移りたいものは龍神様に願い出なさい。わたくしは少々歳をとりすぎました。お前達のように柔軟に適応するのはもはや難しい。ただ、根付くかどうかは判らぬがわたくしの子供達の中から一番元気のいい若木を一本持って行ってはくれまいか。あの森にはもみじの林があると聞く。その端に、わたくしの子供を植えていただきたいのじゃ。行きたいものはあやめと碧について行くがいい。そして、残る者がもしもいてくれるのであれば共に今日という日を楽しもうぞ。」
あやめと碧は紅緒の若木をひと苗懐に入れるとついて行く者を募った。
しかしもう誰もが消える事を受け入れたように宴の準備を始めていた。
あやめと碧は、紅緒と精霊達に別れを告げると若木と共に旅立って行った。
宴は月の沈むまで夜通し続いた。満月の光が、精霊達の姿を土に写すように光り輝いて消えゆく時を照らしていた。
あやめと碧は小沢滝の滝壺にひっそりと根を下ろし、紅緒の若木もその側に寄り添うように植えられた。
空が、明るく深い青に染まり夏の訪れを今か今かと待ちわびている。子供達が滝壺に足を浸けて龍之介がこしらえた柏餅を頬ばっていた。消えゆく精霊達が天に虹をかけながらきらきらと昇ってゆくのを眺めながら。
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