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第一部
第18話 だから人はイヤなのだ、と
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「それで? 貴方はいつまでしょげているつもりなんですか?」
「……別に、」
「別に、別に、別に。鵺、貴方その言葉を何度いうつもりなんです?」
「……別に何回言ったっていいじゃないですか」
「言うのは構いません。構いませんが、それならば独りきりで、もしくはわたしの預かり知らぬところでやってくれませんかね? 正直言って、邪魔です」
「なっ」
「わたしは真備様の鍛錬の準備や、資料の用意と忙しいんですよ。それとも貴方、手伝ってくれますか?」
「………………」
「まったく。ついさっき桂岐と対面していたときの気概はどこに行ったのやら」
トントンッ、と手に持った紙束の端を整えながら、白澤は大きな溜息をはく。
「ちなみに、白澤。桂岐と会ったのはついさっきではなく、昨日のことですよ」
「……そんなこと、妖かしであるわたし達からしてみれば大した差ではないでしょう?」
もうすでに千年を超えて生きているのだ。人間の一日や二日なんて、大した違いを感じない。
そんなことは分かっている。分かってはいるが。
「なんで今さらなんですかね……」
「……はい?」
思わず呟いた自分の言葉に、案外ちかくにいた白澤が、眉を潜めながら自分を見たあと、大きな溜息をはく。
「貴方は……案外、鈍かったのですね」
「……は?」
やれやれ、と言わんばかりの言動に、ほんの少しの苛つきを覚えながら白澤に聞き返す。
「貴方は、真備様を護ると決めたのでしょう?」
「……だから何だと」
「真備と真備様は、別人ですか? 同じ人物ですか?」
「……何を」
何を言いたいのだ。
白澤の言いたいことがまったく掴めずに、そう言いかけた私に、「ですから」と白澤が、一冊の本を私に突きつけながら口を開く。
「貴方は、どちらかしか助けられない、そんな弱小妖怪なのか、と聞いているのです」
ツイ、と細められた白澤の瞳に、妖力が籠もる。
神獣と呼ばれる白澤。
そんな彼から、そんな風に見られれば、恐れ固まってしまうモノたちも多いが。
「…………誰に言っているのです? それ」
白澤の言葉に、パチ、と微かに静電気を飛ばしながら答えた自分に、眼の前の彼は、愉快そうに口元を歪めた。
「坊っちゃん」
自身の部屋の縁側に腰をおろし、空を見上げていた坊っちゃんに声をかければ、坊っちゃんの肩がビクリと揺れる。
近づこうと距離を縮めれば、するん、と坊っちゃんの身体に初月が纏わりつく。
まるで、近寄るな、と言わんばかりの初月の行動に、ほんの少しだけ息を吐けば、坊っちゃんがちらり、とこっちを見上げた。
「少し、昔話をしませんか?」
そう切り出した自分を、坊っちゃんはきょとん、とした表情のまま、見上げた。
「私はね、覚えていないことが多いんです」
「……どういうこと?」
「なんて言えばいいんでしょうかねぇ……」
木が多い茂る裏庭側の廊下に、坊っちゃんと初月と並んで腰をおろす。
するん、と初月が坊っちゃんとの間に入ったのも、尻尾で坊っちゃんを包んでいるのも、初月なりに坊っちゃんを守っているのだろう。
そんなことを思いながら、初月の毛に触れれば、ほんの一瞬、ビクッと反応をしめしただけで、初月は何も言ってはこない。
「人は、たくさんの事を知るかわりに、色んなことを忘れてもいく生き物でしょうが、我々、妖は違う。自分が覚えていたければ忘れないし、絶対、と誓ったこととは、否が応でも覚えていられる」
「それって……消したいくらい辛いことでも、忘れられないってこと?」
「……まぁ……そうとも言いますね」
「……なるほど……ん? でも、さっき鵺は忘れてることが多い、って言ってなかったっけ?」
そう言いながら、坊っちゃんが自分を見る。
幼いころから見てきた茶色の瞳に、自分の姿が映り込む。
「違いますよ、坊っちゃん。覚えていない、です」
「意味は一緒じゃない?」
「忘れる、は、一旦は記憶の引き出しにしまうものの、失くしてしまうこと。覚えていない、は、記憶の引き出しにすら入れていない。始めから、無かったことと同じことになってしまう」
「無かったことと、同じ……」
私の呟きを、坊っちゃんが口の中で繰り返す。
「それって」
きゅ、と指先に微かな圧力がかかる。
「なんで、そんな悲しいこと」
「はて、どうしてなのでしょうね」
私を見る坊っちゃんと初月の視線に、「まったく……ふたりとも、なんて顔をしているんです?」と少しの苦笑いを浮かべながらふたりを見返す。
「ねぇ、鵺」
「はい」
「それは、今も?」
まるで、自分のことのように泣き出しそうな顔をして、坊っちゃんが問いかける。
「いえ、今は、覚えていられますよ」
「本当?」
「ええ。なんだったら色々とお話しましょうか? 坊っちゃんが初めて立った日、坊っちゃんが初めて食べたもの、坊っちゃんがはじめて」
「も、もういい! いいよ、分かったから!」
指折りに話し始めた私を、坊っちゃんが頬を赤くしながら止める。
「おや、残念」
「ねえ鵺様! ボクもっと聞きたい!」
「初月?!」
「いいですよ、今度、話してさしあげましょう」
「ちょ、鵺?!」
「やったぁ!」
ぼふん、と尻尾を太くしながら、初月が喜びの声をあげる。
「初月。その代わりに、少しだけ、坊っちゃんと二人きりにしてくれませんか?」
初月の頭を撫でながら、そう言った私に、初月はチラ、と坊っちゃんを見たあと「いいよ」と言いながら、巻きつけていた尻尾を解いた。
「……初月」
「大丈夫だよ真備。ボクは君が呼べば、どこにだって行けるから」
ツン、と鼻先で坊っちゃんの頬をつついたあと、初月は、てとてとてと、とゆっくりと縁側を歩いていく。
そんな初月の背を見送る坊っちゃんが、「なあ、鵺」と小さく呟く。
「覚えていられるようになったのは、あの人のおかげ?」
じい、と自分を見つめる瞳は、揺れることもなく、真っ直ぐに見据えてくる。
何度も、何度も繰り返し見てきた、小さな小さな、幼子の瞳の奥に見えたものに、同じ色を感じて、思わず手が伸びる。
「ええ。坊っちゃんの言うあの人、吉備真備公です」
くしゃ、と幼子の頭を撫でれば、彼は嫌がることもせずにこの手を受け止める。
「そか。なら、何となく、納得がいく気がする」
「納得?」
坊っちゃんの言った言葉の意図が掴めず、彼を見やれば、「うん」と坊っちゃんは頷く。
「鵺が俺の中に、俺を通して、あの人を見てたことも、あの人を追いかけてきたことも、何となく、しっくり来る気がするんだ」
「それは」
何故です、と声に出さずに問いかけた私の視線を受け、坊っちゃんが口を開く。
「だって、鵺にとって、とても大切な人だったんだろう? 忘れてしまっても、覚えていなくても構わなかった日常を、大切に思えるようになったくらい、真備さんは、鵺にとって大事な人だったんだろ?」
「大事な…………」
恐る恐るに私の指先を掴んでいたはずの手は、いつの間にか、しっかりと私の手を掴んでいて。
いつの間にか、小さかった手は、大きくなっていて。
ああ、だから人は。
「……だから人は、イヤなのですよ」
「大好きなくせに」
「イヤですよ。いつだって、我々を置いて」
おいていってしまう。
そんな感情なんて、真備に会うまで、知る由もなかったのに。
こんな感情なんて、この子に出会うまで、知る必要もなかったのに。
「要らないものばかりを押しつけて、人はすぐに居なくなる」
残された者のことも、理解せぬまま。
「あなたたちは、何も、なにも知らないんです」
重くなった空気とともに吐き出した声に、「鵺」と小さな声が混ざる。
「俺は、きっと、いや、絶対に知らないことばかりだよ。知らなくちゃいけないことも、山ほどあるのも、スタートが遅かったのも、いまさらになって理解してる。でもさ。知らないからこそ、教えて欲しい」
「何をです」
「鵺が、真備さんと出会って、何を思って、何を感じてきたのか。全部なんて言わない。俺に話してもいい、って思ったことだけでいいから、少しずつでいいから、話して欲しい。俺、知りたいんだ。鵺や、白澤が真備さんとどう過ごしてきたのか。どんなことを抱えてきたのか」
「……坊っちゃん」
「俺にできることが何なのか。俺がしなくちゃいけないことが何なのか。知らなくちゃいけない気がするんだ」
グッ、と強めに掴まれた手に、真っ直ぐに自分を見る瞳に、今は亡き友の姿が重なって見えた。
そんな気がした。
「……別に、」
「別に、別に、別に。鵺、貴方その言葉を何度いうつもりなんです?」
「……別に何回言ったっていいじゃないですか」
「言うのは構いません。構いませんが、それならば独りきりで、もしくはわたしの預かり知らぬところでやってくれませんかね? 正直言って、邪魔です」
「なっ」
「わたしは真備様の鍛錬の準備や、資料の用意と忙しいんですよ。それとも貴方、手伝ってくれますか?」
「………………」
「まったく。ついさっき桂岐と対面していたときの気概はどこに行ったのやら」
トントンッ、と手に持った紙束の端を整えながら、白澤は大きな溜息をはく。
「ちなみに、白澤。桂岐と会ったのはついさっきではなく、昨日のことですよ」
「……そんなこと、妖かしであるわたし達からしてみれば大した差ではないでしょう?」
もうすでに千年を超えて生きているのだ。人間の一日や二日なんて、大した違いを感じない。
そんなことは分かっている。分かってはいるが。
「なんで今さらなんですかね……」
「……はい?」
思わず呟いた自分の言葉に、案外ちかくにいた白澤が、眉を潜めながら自分を見たあと、大きな溜息をはく。
「貴方は……案外、鈍かったのですね」
「……は?」
やれやれ、と言わんばかりの言動に、ほんの少しの苛つきを覚えながら白澤に聞き返す。
「貴方は、真備様を護ると決めたのでしょう?」
「……だから何だと」
「真備と真備様は、別人ですか? 同じ人物ですか?」
「……何を」
何を言いたいのだ。
白澤の言いたいことがまったく掴めずに、そう言いかけた私に、「ですから」と白澤が、一冊の本を私に突きつけながら口を開く。
「貴方は、どちらかしか助けられない、そんな弱小妖怪なのか、と聞いているのです」
ツイ、と細められた白澤の瞳に、妖力が籠もる。
神獣と呼ばれる白澤。
そんな彼から、そんな風に見られれば、恐れ固まってしまうモノたちも多いが。
「…………誰に言っているのです? それ」
白澤の言葉に、パチ、と微かに静電気を飛ばしながら答えた自分に、眼の前の彼は、愉快そうに口元を歪めた。
「坊っちゃん」
自身の部屋の縁側に腰をおろし、空を見上げていた坊っちゃんに声をかければ、坊っちゃんの肩がビクリと揺れる。
近づこうと距離を縮めれば、するん、と坊っちゃんの身体に初月が纏わりつく。
まるで、近寄るな、と言わんばかりの初月の行動に、ほんの少しだけ息を吐けば、坊っちゃんがちらり、とこっちを見上げた。
「少し、昔話をしませんか?」
そう切り出した自分を、坊っちゃんはきょとん、とした表情のまま、見上げた。
「私はね、覚えていないことが多いんです」
「……どういうこと?」
「なんて言えばいいんでしょうかねぇ……」
木が多い茂る裏庭側の廊下に、坊っちゃんと初月と並んで腰をおろす。
するん、と初月が坊っちゃんとの間に入ったのも、尻尾で坊っちゃんを包んでいるのも、初月なりに坊っちゃんを守っているのだろう。
そんなことを思いながら、初月の毛に触れれば、ほんの一瞬、ビクッと反応をしめしただけで、初月は何も言ってはこない。
「人は、たくさんの事を知るかわりに、色んなことを忘れてもいく生き物でしょうが、我々、妖は違う。自分が覚えていたければ忘れないし、絶対、と誓ったこととは、否が応でも覚えていられる」
「それって……消したいくらい辛いことでも、忘れられないってこと?」
「……まぁ……そうとも言いますね」
「……なるほど……ん? でも、さっき鵺は忘れてることが多い、って言ってなかったっけ?」
そう言いながら、坊っちゃんが自分を見る。
幼いころから見てきた茶色の瞳に、自分の姿が映り込む。
「違いますよ、坊っちゃん。覚えていない、です」
「意味は一緒じゃない?」
「忘れる、は、一旦は記憶の引き出しにしまうものの、失くしてしまうこと。覚えていない、は、記憶の引き出しにすら入れていない。始めから、無かったことと同じことになってしまう」
「無かったことと、同じ……」
私の呟きを、坊っちゃんが口の中で繰り返す。
「それって」
きゅ、と指先に微かな圧力がかかる。
「なんで、そんな悲しいこと」
「はて、どうしてなのでしょうね」
私を見る坊っちゃんと初月の視線に、「まったく……ふたりとも、なんて顔をしているんです?」と少しの苦笑いを浮かべながらふたりを見返す。
「ねぇ、鵺」
「はい」
「それは、今も?」
まるで、自分のことのように泣き出しそうな顔をして、坊っちゃんが問いかける。
「いえ、今は、覚えていられますよ」
「本当?」
「ええ。なんだったら色々とお話しましょうか? 坊っちゃんが初めて立った日、坊っちゃんが初めて食べたもの、坊っちゃんがはじめて」
「も、もういい! いいよ、分かったから!」
指折りに話し始めた私を、坊っちゃんが頬を赤くしながら止める。
「おや、残念」
「ねえ鵺様! ボクもっと聞きたい!」
「初月?!」
「いいですよ、今度、話してさしあげましょう」
「ちょ、鵺?!」
「やったぁ!」
ぼふん、と尻尾を太くしながら、初月が喜びの声をあげる。
「初月。その代わりに、少しだけ、坊っちゃんと二人きりにしてくれませんか?」
初月の頭を撫でながら、そう言った私に、初月はチラ、と坊っちゃんを見たあと「いいよ」と言いながら、巻きつけていた尻尾を解いた。
「……初月」
「大丈夫だよ真備。ボクは君が呼べば、どこにだって行けるから」
ツン、と鼻先で坊っちゃんの頬をつついたあと、初月は、てとてとてと、とゆっくりと縁側を歩いていく。
そんな初月の背を見送る坊っちゃんが、「なあ、鵺」と小さく呟く。
「覚えていられるようになったのは、あの人のおかげ?」
じい、と自分を見つめる瞳は、揺れることもなく、真っ直ぐに見据えてくる。
何度も、何度も繰り返し見てきた、小さな小さな、幼子の瞳の奥に見えたものに、同じ色を感じて、思わず手が伸びる。
「ええ。坊っちゃんの言うあの人、吉備真備公です」
くしゃ、と幼子の頭を撫でれば、彼は嫌がることもせずにこの手を受け止める。
「そか。なら、何となく、納得がいく気がする」
「納得?」
坊っちゃんの言った言葉の意図が掴めず、彼を見やれば、「うん」と坊っちゃんは頷く。
「鵺が俺の中に、俺を通して、あの人を見てたことも、あの人を追いかけてきたことも、何となく、しっくり来る気がするんだ」
「それは」
何故です、と声に出さずに問いかけた私の視線を受け、坊っちゃんが口を開く。
「だって、鵺にとって、とても大切な人だったんだろう? 忘れてしまっても、覚えていなくても構わなかった日常を、大切に思えるようになったくらい、真備さんは、鵺にとって大事な人だったんだろ?」
「大事な…………」
恐る恐るに私の指先を掴んでいたはずの手は、いつの間にか、しっかりと私の手を掴んでいて。
いつの間にか、小さかった手は、大きくなっていて。
ああ、だから人は。
「……だから人は、イヤなのですよ」
「大好きなくせに」
「イヤですよ。いつだって、我々を置いて」
おいていってしまう。
そんな感情なんて、真備に会うまで、知る由もなかったのに。
こんな感情なんて、この子に出会うまで、知る必要もなかったのに。
「要らないものばかりを押しつけて、人はすぐに居なくなる」
残された者のことも、理解せぬまま。
「あなたたちは、何も、なにも知らないんです」
重くなった空気とともに吐き出した声に、「鵺」と小さな声が混ざる。
「俺は、きっと、いや、絶対に知らないことばかりだよ。知らなくちゃいけないことも、山ほどあるのも、スタートが遅かったのも、いまさらになって理解してる。でもさ。知らないからこそ、教えて欲しい」
「何をです」
「鵺が、真備さんと出会って、何を思って、何を感じてきたのか。全部なんて言わない。俺に話してもいい、って思ったことだけでいいから、少しずつでいいから、話して欲しい。俺、知りたいんだ。鵺や、白澤が真備さんとどう過ごしてきたのか。どんなことを抱えてきたのか」
「……坊っちゃん」
「俺にできることが何なのか。俺がしなくちゃいけないことが何なのか。知らなくちゃいけない気がするんだ」
グッ、と強めに掴まれた手に、真っ直ぐに自分を見る瞳に、今は亡き友の姿が重なって見えた。
そんな気がした。
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