君と見上げた青い空

大串線一

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第1章 YOU

1-9 証

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 悠希と並んで校門まで来たところで、傘を教室の傘立てに忘れて来たことに気付く。
 末続さんに手渡ししてもらった傘を忘れるとは、不覚だ。

「悪い悠希。教室に傘忘れた。取りに行くから先行ってて」

 そう告げて昇降口へ引き返そうとした俺の腕を、悠希ががしっときつくつかんできた。呼び止めたいなら声に出せばいいのに、なにも言わないでそうやって俺を繋ぎ止めようとする。

「なんだよ?」

 また、刺々とげとげしい声が出てしまった。

「いいよそんなの明日で」

 ひどく冷え切った声が返ってくる。
 悠希の心が、すぐには理解できない。
 怒りとか苛立ちを含んでいるようでいて、寂しさや戸惑いや焦りの色もそこにあるような気がした。

「どうせすぐ戻ってくるし、いいだろ。なんならそれまで待っててくれてもいいけど」

 悠希の手に、さらに力が入る。爪が腕に食い込んで少し痛い。
 意図がわからず悠希の表情を窺う。
 痛いのは俺のはずなのに、顔をゆがめていたのは悠希の方だった。
 悠希が息を吐く。
 その息が、かすかに震えていた。

「もう、ムリなんだ」

 声も揺れていて、そよ風にさえ消え入りそうだった。

「ムリって、なにが」

 先を促すと、悠希は一瞬、ここから見える一年一組教室の窓を見上げた。まだ誰か残っているのか、照明はついたまま窓は開け放たれている。カーテンが風に吹かれて不規則に揺れていた。
 視線を俺に戻して、悠希が口を開く。

「葵が自分のものじゃないって思い知らされるのが……嫌なんだ」

 確か昨日も似たことを言っていた。昨日の放課後、俺と末続さんが話してるのを見て不快に思ったこととか、俺を独り占めしたいとか。
 悠希は続ける。一方的に繋がれた自分の手と俺の腕を見下ろしながら。

「当たり前なのに……。葵が誰と話そうがどこに行こうが、そんなの葵の勝手なのに。そんな当たり前のことが、嫌で嫌でたまんなくて、葵の隣にいるのはあたしじゃなきゃダメだって、他の子じゃいけないんだって。最近、そんなこと思ってばっかで……」

 言った後で、アホみたいに重いねあたし、と自嘲するように笑って、付け足す。
 その笑顔が見るからに作り物めいていて、かえって苦しく思えた。
 ようやく俺から手を離す。

「葵」

 噛み締めるように俺の名前を呼んで、悠希がまた俺をまっすぐ見据える。

「あとでさ、あたしのすっごいわがまま、聞いて?」


  ◇ ◇ ◇


 それから家の最寄り駅に着くまで、俺たちに会話はほとんどなかった。悠希の頼みにうなずいてから、『すっごいわがまま』を今か今かと待っていたけど、一向に切り出す様子がない。
 道すがら、悠希は思い詰めたような硬い表情のままで、俺の隣をただ歩いていた。
 いつも話題を振る役目は大抵が悠希で、その悠希が無口になれば、おのずと言葉のキャッチボールは少なくなってしまう。
 昨日の帰り道と同じ。俺たちはやっぱり、これまでとは違う。これまで通りでいたいのに、それが叶わない。
 息が詰まって二、三こちらから話題を振ってはみたものの、悠希は心ここにあらずと言うしかない状態で、会話が弾むことはなかった。
 電車を降り、駅舎を出てすぐにある、一段ずつの幅が広い階段を下りる。
 悠希は駅から家まで自転車だから、ごく小さな駐輪場へ足を運ぶものとばかり思っていた俺は、階段を下り切ったところで悠希を待つために立ち止まった。
 けれど、悠希は駐輪場へは向かわず、駅前広場と呼ぶにはあまりにしょぼい、車三台止めるのがやっとの空間を突っ切っていく。そしてそのまま、左右確認さえせずに駅前を横切る道路を渡ろうとする。

「悠希」

「ん?」

 たまらず呼ぶと、悠希は弾かれたように顔を上げ、足を止めた。
 振り返り、俺と目が合う。が、すぐに逸らされる。
 やはりまだ、焦点の定まらない目をしていた。

「おまえ、変だぞ」

「……うん。わかってる」

 あまりに手応えのない返事に、拍子抜けする。
 誰も使わないと思っていた電話ボックスで、学校帰りとおぼしき中学生が電話を掛けている。ガラスの壁にもたれて、身振り手振り会話していた。
 悠希が、耳にかかる髪を鬱陶うっとうしそうに掻き上げる。口が動くのがわかったけど、なにを言っているのか、わからない。きっと、聞かせるつもりもなかったのだろう。

「今日も、葵んち寄っていい?」

「いいけど」

「うん」

 そんな返事などはじめからわかっていたように、素っ気なくうなずいて、悠希はまた歩き出す。
 会話のない空気の重さを感じる暇もなく俺の家に辿り着いた。
 懐から鍵を取り出して玄関を開け、悠希を先に通す。

「早く上がれよ」

 後ろ手にドアを閉めた。
 突っ立ったまま、なかなか靴を脱ごうとしない悠希のかかとを軽く蹴飛ばし、急かす。
 悠希はそんな俺を、熱に浮かされたような、ぼんやりとした目で見上げてくる。

「……葵」

 口を小さく開いたまま、少し荒い息遣いで、俺の名を呼ぶ。

「だからさぁ、さっきからなんなんだよ? 言いたいことあるなら――」

 そこから先の言葉を、続けることができなかった。
 俺の口に、悠希の柔らかな唇が重なったからだ。
 勢いに任せた、ついばみにも似たその不器用な口付けは、瞬く間の出来事で。
 思わず、自分の唇に手を伸ばす。そこにある湿りが、今のキスが確かなものだったことの証だ。

「もっかい……」

 悠希が熱い息を吐く。悠希の両腕が俺の首に絡む。悠希が背伸びをする。悠希が瞳を閉じる。悠希の赤い頬が近付く。悠希の唇が俺のそれを塞ぐ。
 よろめいた俺が背中をドアに打ち付けてもなお、悠希は唇を離そうとはしなかった。
 視界の隅、壁にかかった鏡に、接吻せっぷんを交わす俺たちが映っている。
 そのうち呼吸がうまくできずに苦しくなってきて、悠希の肩に手を置き、その身体を押しやった。

「はぁ……はぁ……」

 悠希も苦しかったのか、ふらふらとあがかまちに座り込んでうなだれ、肩で息をする。

「どう、したんだよ……?」

 呼吸を整えながら尋ねる。
 身体に酸素が行き渡るにつれ、たった今までしていたことの意味を、もう後戻りできないかもしれないという事実を、嫌と言うほど思い知る。
 悠希が俯けていた顔を上げた。
 その顔は、張り詰めた表情をしているであろう俺とはまったく異なる、なにかから解き放たれたような、ある種のすがすがしさをたたえた、照れ笑いだった。
 その笑顔に、俺も肩の強張りが解けていく。

「……んふふ、しちゃった」

 ちろっと舌を出して、いたずらのバレた子どものように笑う。
 すぐにまた、別ないたずらをたくらんでるガキみたいな顔になった。

「もうすでに、ちゅーしてたけどね」

「俺が寝てたとき?」

「おー、せいかーい。すごいすごい」

 ぱちぱちとやる気のない拍手と、相手をたたえる気のない褒め言葉。褒められて嫌な気分になったのは初めてだ。
 昨日、駅の待合室で眠りから覚めたときに頬に感じた温もりは、悠希の唇だったというわけか。

「いやぁ、あんときはバレるんじゃないかと焦りましたわぁ」

「なんでそんなこと……」

「葵が可愛すぎたんだもん」

「か、可愛くねえって。目ぇ悪いんじゃね?」

「あっ、照れてる照れてるっ! 葵、ほんとに可愛いよ。女の子は、好きな人のことは可愛く見えるもんなんだよ」

「女の子? え、どこにいるの?」

「てめっ! このっ! せいっ! せいやぁっ! おんどりゃっ! よっしゃおらぁっ!」

 俺の照れ隠しに、容赦なく俺の足を踏みつける悠希。
 掛け声がおかしい。連続技かます格闘ゲームのキャラじゃねえんだから。
 どうやら、俺の足を踏むのが悠希のマイブームらしい。そんなブーム終わってしまえ。
 ついさっき不意打ちのキスを交わしたばかりだというのに、雰囲気もなにもあったもんじゃない。
 まあどうせ俺と悠希だからなぁと、結局はそこに帰結する。
 だからこそ俺は、雰囲気など意に介せず、悠希に告げた。

「もう一回する?」

 足を踏むのを中断して、俺に目を向ける悠希。

「……うん」 

 こくりとうなずく。
 人が変わったみたいにおとなしくなった。
 右隣に座り、悠希の腰にそっと手を回す。
 ブレザー越しに触れると、その身体がびくっと小さく跳ねた。
 目をつむって、ほんの少し顎を持ち上げ口を突き出してくる。

 ――可愛いのは、悠希だよ。

 口に出せなかったそんな言葉を、心で投げ掛ける。
 顔を近づけると、湿った唇が夕日を反射し、てらてらと光っているのがわかった。
 唇で、悠希に触れる。
 しっとり濡れたそこは、ぷにっと程良い弾力があって、気持ちよかった。
 中学のときに遊び程度の付き合いで、悠希とは別の女子とキスやそれ以上のことをしたこともあるにはあるけど、その比じゃない。
 キスがこんなに気持ちいいだなんて、知らなかった。

「んふふふふっ! えへ、えへふふふっ!」

 顔を離すと、瞳を開けた悠希が突如、腹を抱えて笑い出した。
 ここに変な人がいます。

「葵がちゅーしてくれた! やばいなにこれ! 超嬉しい!」

 言葉通りに、すごく嬉しそうに微笑んでいる。まるで幸せを噛みしめるように。
 ところで要望なんだけど、あまりに嬉しいからって人の背中をバシバシ叩くのはやめてもらえませんか。
 背中にもみじ型の跡でもできそうなくらいの力で叩きまくると、ピークが過ぎ去ったのか、ようやく静かになる。
 そして悠希は、少し俯いて、

「ところで葵」

「ん」

「なんでおっきくなってんの?」

 一番指摘してほしくないことをのたまった。

「ちゅーしただけでもおっきくなるんだね」

「あー、えーと、違う違う。これは、そう、ズボンのしわだ。そうやって勘違いされるとほんとに困る。気安く股間事情を推測するとか絶対女子の方がえっちぃことばっか考えてるよねぇ、と世界の男子が思ってるはずだ」

「ふぅーん」

 俺の説得力抜群の弁明にも悠希は納得していない様子で、股間をじーっと見つめている。それも超至近距離で。嗚呼、好奇心の恐ろしさよ。

「てか、見たことあるんじゃねえの?」

「小学生の頃の葵のおちんちんなら」

「名称言わんでええ。いや、そうじゃなくて他のやつの……」

「あー。こういう感じの?」

「そうそう、こういう感じの……いやいや、これは誰がなんと言おうとズボンの皺なんだけど……あー、もういいや。そう、こういう感じの」

「まだ見たことないよ。エロゲのモザイク越しでならあるけど。あたしのおすすめは結構あって、とりあえずまずはおすすめのメーカーから紹介すると――」

「いや、それも言わんでええ」

 そんで結局エロゲやってたんかい。女子でやる人って少数じゃないだろうか。
 そっち方面の話になると一切ついていけないので、話題を押し戻す。

「中学のときって、男子と付き合ったりしてなかったっけか?」

「なに言ってんの。ずっと葵と一緒だったから、そんな相手いなかったっしょ。つーか葵大好きだったから、葵以外興味なかったし」

「お、おう……」

 大好き、という言葉に、反応してしまう。なにが、とは言わずもがなで。
 本人に自覚がまったくなかったので知らないだろうが、中学の頃は悠希の隠れファンも多かった。両手じゃ足りないくらいの男子が告白を敢行かんこうしたそうだけど、そいつら全員を超絶鈍感ゆえに告白と認識できずに精神的に瞬殺したとかしないとか。

「見てもいい?」

 ズボンの向こう側ではち切れそうになっているそこを指差して、ぽつりと一言。

「は? ……は?」

 あまりの衝撃に、二度も同じリアクションをしてしまう。
 俺の返事を待たず、悠希はにやつきながら制服のズボンのファスナーに手をかけた。
 すぐにはファスナーを下ろさず、焦らすように、俺の反応を楽しむように、上目遣いでこちらを見てくる。

「……だめ?」

 なんて言えばいいのか、かなりやばかった。可愛すぎだろこいつ。

「こ、ここじゃちょっと……」

「んーじゃあ、一緒にお風呂入ろっか」

「……なんですって?」

 思わず女言葉になった俺を、いったい誰が責められよう。
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