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かつての英雄の成れの果て

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 男はふう、と一息つくと、窓辺から身を離した。茶色に近い金色の長髪が、垂れ下がった獣の尾のようにひらめく。

 ガラス窓の向こう側では、艶やかな花々が爛漫と庭園を彩っている。無論、男が見つめていたのはその庭先ではなく、ガラスに映りこんだ遠方の景色であったが。

「彼女がそんなに気になるの?」

 席に着くと同時に、高く朗らかな、しかしどうにも感情を読み取れない男の声が投げかけられた。
聞きなれた声だったが、いつの間に忍び込んだろう。視線をちらりと持ち上げると、仕立てはいいが使い古されたローブを纏った、温厚そうな少年がにこにことこちらを見下ろしている。日差しの強い真夏の森を彷彿とさせる髪は切り揃えられ、掴みどころのない微笑に目元を和ませている。その踏み抜けば割れてしまいそうな薄氷に似た瞳の奥にいったい何が秘められているのか、どれだけ長い時をともにしようとも解き明かすことはできないのだろう。

「おかしいなあ、もう人間と深く関わることはやめたのでは?」
「……誰のせいだと思っているんだ?」

 かすかに怒気をはらませて咎めるが、少年はとぼけたように小首を傾げるばかりだ。
 実際、彼に悪気はないのだろう。生きる時間も文化も異なる相手に、こちらの都合を教え説くほど難しいことはない――いや、厳密には自分も彼と同じ側に属するものではあるが。

「問題ないはずだ、こうして姿を隠して接している以上はね。……君はもっと、人の扱いというものを考え直した方が良い。あれでは誰だって壊れてしまう」

 言いながら、すっかり冷めた紅茶を口にした。澄んだ榛色の水面で、色素の薄い髪を束ねたどこか怪訝な面持ちの男――自身の顔が揺らめいている。

「つまり、俺のせいで君は自身の方針を捻じ曲げるはめになった、と」
「その通り、本当は関わるつもりはなかったよ」

 彼が飽きっぽく、快楽主義的な一面があることは熟知していた。だからせめて、迂闊に命を落とすことのないように見守りつつ、それとなくこの男自身を誘導すれば十分だと考えていたのだが、今回はあまりに事態が深刻だった。
 彼女は、隙を見つけては幾度となく、あの人通りのない石橋へ足を運んでいた。当初は日々の疲れを癒すため、束の間の休息を得ようとしているのだと思った。だが、それにしては頻度が多い。気分転換なら他にも方法はあったはずだ。彼女が何を目論んでいるのかは、想像に難くない。
 あの場所から、人知れず身を投げようとしていたのだろう。

「……もう嫌なんだよ。相手が誰であろうと、その原因がお前であったとしても――関わってしまった人間が、むざむざと命を落としてしまうようなことは」

 ゆっくりと瞼を閉ざすと、今でもなお、あの惨状が鮮烈に蘇る。荒らされた室内、夥しいほどの血だまり、そこに投げ出された、ほとんど原型を留めていない華奢な肢体。あの人だと判別できたのは、無残に切り取られたのであろう周囲に散乱していた栗色の髪と、地面に転がっていた眼球が、その虹彩が、とろけるような蜜色をしていたからだ。

 そんな脳裏にこびりついた悪夢を振り払うように、はっと目を開いて、ゆるゆると顔を横に振る。

「せめて身近な存在だけでも救おうというのだね。素晴らしい、流石だジスラン、英雄的な思考だね」
「英雄……くく……」

 自嘲をこらえきれなかった。これもまた、彼に悪気などない台詞なのだろう。
いや、これはそう見せかけた純然たる嫌味か。世を忍び、隠れて生きることを選んだ自分を嘲笑おうというのかもしれない。

 今更、彼の真意などどうでもいい。この道を選んだのは自分自身だ。そこに後悔など微塵もない。

「買いかぶりすぎだ、ハシュア。そもそも、英雄なんてどこにもいなかったのだから」

 英雄と大量殺戮者。
 表裏一体の存在を区分するのは、勝者か敗者か――ただそれだけだということを、ジスランは身をもって理解している。


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