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甘美なるレッスン
しおりを挟むマリアンナは、舞台袖から闇に閉ざされた客席を覗き見た。手にしたランプの灯りが届かずとも、そこに人気がないことは一目瞭然である。無論、撤収を終えた舞台も無人だ。
そろそろ深夜零時を迎える頃だろうか。管理者らは上階の部屋で深い眠りに就いているが、防音設備の整った会場の音はけして届かない。幹部や謳姫、賛歌隊の滞在でもない限り、見回りが置かれることもない。厳重な門と塀の周りに、国王が吟味を重ねた騎士らが常駐しているためである。無論、上階と同様、内部の音は外に漏れないようになっている。
つまり、マリアンナを見咎める者は今ここにいない。
周囲の様子を窺うと、マリアンナは慣れた足取りで舞台の中央へと進み出た。胸元のスカーフの結び目には、丁寧に棘を折られた一輪の白薔薇。今日は、不定期に催されるファントムとの稽古日である。
最初に薔薇が置かれていたのは、橋上で会話してから三日後のことだった。下っ端しか使用しないような地下から三階までを繋ぐ階段の裏手は、ちょっとした収納スペースになっている。その安置された小道具の上に、ちょこんと汚れひとつない純白の薔薇が咲き誇っているのを見つけたときの嬉しさといったら。
それでも半信半疑で深夜のステージを訪れると、どこからともなく、あの重厚な優しい声が降ってくる。導かれるままに喉を震わせ、面映ゆいほどの賛美を受け取り、途方もない多幸感に包まれながら自室へ戻った。それから何度か、二人きりの舞台で密会を続けた。彼と過ごす時間はそれはそれは素晴らしいひとときであったけれど、想定外にマリアンナを高揚させたのは大声で歌を謳うことそのものだった。拙いなりに、ファントムの教えを実行するたびに上達していくのが分かる。彼はそれを手放しで褒めてくれる。感謝や称賛とは無縁の生活を送ってきたマリアンナの心は、徐々に花が咲き乱れるように瑞々しさを取り戻していった。
月灯りも射さない暗闇の中だというのに、そこにいる講師がどのような容貌をしているかも分からないのに、恐怖など微塵も抱かなかった。もしファントムが二目とみられないような怪物であったとしても、驚くのは最初だけ、すぐにでも心を許すだろうと断言できた。古来から、御使いは人知を超えているがゆえに人にとっては恐ろしい姿をしていると言い伝えられている。魔族と見紛おうともその聖性を疑ってはならないのだ、とも。
ともかく、この常闇とランプの仄かな灯火に身を委ねている間は、まるでこの世界に、彼と二人だけになってしまったかのような気分になれた。
『よくぞ来た、マリアンナ』
「ファントム様、ごきげんよう。今日は少し遅れてしまってごめんなさい」
放射状に半円を描く、装飾の豪奢なホールの天井めがけて軽く頭を下げると、気にしないでいい、とあの凛とした声が落ちてくる。当初は会話をするのにもまごつく癖が抜けなかったが、今ではするりと声が出るようになった。
『体調はどうだ。……問題なければ、早速始めるとしよう』
返事をする間もなく、ぽろん、と声音のベースとなる音色が響き渡る。マリアンナは耳を澄ませて、その音の上に自分の声を重ねた。こうして音階を頭に叩き込みつつ、調子を外さないよう声を出し続けることが練習の目的だ。それを、ファントムが鍵盤を弾くたびに別の音階で繰り返していく。音色は低いところから高いところへあっという間に駆けあがり、声が掠れて出なくなるところまで続けられた。
「……、はぁ――やはり、ここまでが限界みたいです……今日なら、もう少し高い音を出せるような気がしていたのですが」
『落ち込むことはない。初回から二音半も上がっている。十分な成長といって差し支えない』
「はい……」
途端に、「そういうものなのか」と沈んでいた胸がすうっと軽くなる。これが他の者からかけられた言葉であったなら、本心ではないに違いない、気休めだ、裏では出来損ないだと揶揄されているに違いないと猜疑心に苛まれていたはずだ。
なぜかは分からないが、彼の言葉はすんなりと受け入れることができる。
『それはそれとして、まだまだ呼吸の仕方が甘いな。目を閉じろ、意識を腹部に集中させるんだ』
マリアンナは指示通りに瞼を閉ざした。視界が闇で埋め尽くされると、他の感覚が過敏になる。
そういった影響なのだろう、ファントムの声が、すぐ近くで聞こえるような気がするのは。
『息を一度、限界まで吐ききりなさい。もう無理だ、意識を失ってしまうというところまで吐き出したら、めいっぱい吸い込む』
背筋をぞくりとしたものが駆け上り、身体が緊張に強張る。
――そんなわけないのに、背後にファントム様がいて、耳元で囁かれてるみたい。
いや、余計なことを考えている場合ではない。必死に平静を装い、指示に従い呼吸をする。集中しなくては、彼の厚意を無駄にするわけにはいかないのだから。
『肺腑のみならず、腹の上部にも負荷がかかるのが分かるな? それを意識しながらしばらく呼吸を続けるんだ。……のけぞるな、顎は引いて』
「っ、は、い……」
今、ふわ、と揺れた空気が首筋を撫でた。風が入り込む余地などないはずなのに。やはり、すぐ、手を伸ばせば触れ合えそうな距離にいるのか。
いや――触れたところでどうなるわけでもない。ファントムは御使いだ、神の意思に則りマリアンナに手を貸しているに過ぎない。もしマリアンナが良き歌い手と化した暁には、霞のようにその声ごと姿をくらましてしまうのだろう。マリアンナにとってファントムは唯一無二の存在だけれど、彼にとってはそうではない、導くべき子羊のひとつにすぎない。
歌が上達したところで劇的に何かが変わるわけでもないことも、よく理解している。教団の庇護を抜け出して身を立てる術は得られるかもしれないが、そこにマリアンナの度胸がついてこられるかは別の問題である。
睡眠時間を削っての稽古が、そんな未来に見合うだけの成果をもたらすかは甚だ疑問だ。
ただ、歌うことは楽しい。上達すると自尊心が高まる。そして何より、ファントムと交流することができる――以前にもまして多忙を極める日々の中で継続できているのは、指導者が彼だからだ。
『そうだ……そなたは呑み込みが早いな。教え甲斐がある。流石は神に愛されし娘だ……』
そんな感嘆を滲ませた呟きに、ふと好奇心が湧き上がった。
「あ、ありがとうございます。……あの、どうして私はそんなにも目をかけられているのでしょうか」
『……何?』
「下賤ながら声の美しい者は、あちらこちらに存在していると思うんです。その中で、どうして私は……その、主神やファントム様に助けていただけているのかな、と」
息が詰まるような沈黙が落ちた。何か不味いことを尋ねたかと、見えもしない相手を探して狼狽える。
「申し訳ありません、余計な口出しを」
『いや、不思議に思うのも無理はない。唐突な問いかけだったので少々面食らっただけだ。そう難しい内容ではない、神はお前の声をとりわけ気に入っているようだ。いつか、この舞台に立つことを所望されている』
「……舞台に立つ? わ、私がですか⁉」
思わず素っ頓狂な声を上げ、慌てて背後を振り返る。無論、そこには何もない。
『そう難しいことではない。謳姫や賛歌隊と言わず、この国には歌劇団が無数に存在するだろう。隣国の団体が興行に訪れることもある。そなたが実力を付けさえすれば、歌い手となることも夢ではない』
「そ……う、でしょうか……」
『そうだとも』
断言されてしまうと、面と向かって無理だとは言えなくなる。
――だって、私はここを離れたら、また誰かを傷つけてしまうかもしれない。
そう、マリアンナの居場所はここしかない。お前は不幸を呼ぶ娘なのだと、そう言い含められて生きて来た。
お前のせいで、お前の母は死んだのだと。
だから、ここを離れて暮らすことを一度も真面目に考えたことはなかった。
『すぐにとは言っていない。少しずつ慣れていけばいい。世界は広い。英讃教団もパルティシオンも、全体を構成する小さな一つの欠片に過ぎない――それなのに、何が不安なのだ?』
「あの……私は呪われているのでは……」
『呪い? 何の話だ? 神はそなたを祝福こそすれ、そのようなものは与えていない』
「そ、そうですよね、失礼しました」
驚いたような声で断言され、マリアンナは複雑な心持になる。
――なんてこと……他人を不幸にしてしまうのは、呪いではなく祝福、いいえ試練だったのね……。
この力が禍々しいものでなかったことは嬉しい。だが、外の世界で他人と関わることが難しい現状は変わらない。
教団の力でこの異能が封じられて数年もすると、迷信か教団の虚言ではないかと疑ってしまったこともあった。でも、彼らがそこまでしてマリアンナを引き止める理由などない。幾度となく高名な司祭に治療を試されたところを見ると、彼らの思い違いであったというわけでもないのだろう。
『案ずるな、神はそなたとともにある』
まただ、彼がすぐ隣にいるような錯覚を覚える。背中に手を添えて勇気づけながら、と後押ししてくれる――そんな男の影が目に浮かぶようだ。
マリアンナはゆっくりと、しかし深く頷いた。
――終わった後の悲しいことばかり考えちゃだめ、できるだけのことを、やろう。
それが彼への一番の恩返しとなるはずだ。決意を新たにしたマリアンナは自らファントムに教えを乞い、こうして、いつものように夜は更けていった。
この日常が崩れ去ることなど、これっぽちも想像できないままに。
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