石長比売の鏡

花野屋いろは

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7.

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 退社後、理砂は樹里を二人の行きつけの小料理屋に誘った。40代の女将が20代、30代の女性をターゲットに、御番菜とおいしいお酒を提供する店だ。4,5人が座れるカウンターの他に2席から4席までのテーブル席が幾つか、席と席の間は離れており、他の客をあまり意識しなくてすむように作られている。ある意味贅沢な空間だ。
「元カノじゃなきゃだめだったんじゃないのアレ。」
憤りを隠せない口ぶりで理砂は冷酒を煽った。樹里は、宥めるように
「うん。元カノじゃなきゃ駄目なのよ。だから鈴木さんなのよ。」
諦めが滲むその口調に理砂は、労るようなまなざしを向けた。樹里は自分に言い聞かせるように続けた。
「彼、元カノが離れてしまったことで、傷ついた。それを新しい恋で癒やそうとした。で、元カノと全く違うタイプなら上手くいくんじゃないかと思って…」
「選んだのがあんたってことね。」
「そう、でも、気がついた。間違っていたことに。自分が好きなのは、元カノみたいな女の子だって事に。」
ーー私じゃ癒やせないって事に。
「それで、バイバイ。」
「そういうこと、間違いは正さないといけないし、続ける必要も無いしね。」
「はっ、サイテー。」
「多分、本人はそう(サイテーとは)思っていないだろうね。無かったことにしただけだと思っている。」
「それって、あんたとのことは、ノーカンってこと?」
「多分…。」
「……。」
「そんな顔しないでよ。その方が正直気が楽かも、あ、これおいしい。」
女将おすすめの里芋の煮付けを頬張りながら樹里は言った。理砂は、樹里を睨みながら
「あんた、ほんとにそう思っている?」
といってつられたように里芋を頬張った。
「…思ってる。」
口の中の芋をゴクンと飲み込んで樹里は応えた。負け惜しみに聞こえるかもしれないけど、捨てられた元カノにされるより、ノーカンにしてもらえたらその方がよほど気が楽なのだ。
「無かったことにされた方がいい。顔も名前も知らなかった頃に戻ったと思いたい。」
「わかった。じゃあ、私もそう思うことにする。」
「理砂…。」
「あんたとあいつは付き合ってなかった。だからあんたは振られてないし、失恋なんかしてない。」
その言葉に樹里は、うんと頷き、冷酒を口に含んだ。”菫青(きんせい)”という名の日本酒は、これも女将ご推薦の純米吟醸で、山形の小さな蔵元で造られている。最近増えてきたとはいえまだ珍しい女性杜氏が手がけた甘口だが淡麗な飲み口で、そのせいか透明なのに何故かグラスに注ぐと青みを帯びたように見えると言われ名前の由来となった。グラスの酒を飲み干すと、それは、爽やかに喉の奥を流れていった。
 理砂は、樹里の様子をみて、座り直した。そして口を開いた。
「話は変わるけど、あんたの上司になる新本部長なんだけど…。」
「うん。」
樹里は、先を促すように自分も座り直した。
「親会社の社長の御曹司が異動してくると言う噂がある。」
「へぇ…。」
相変わらずの情報収集能力だと感心しつつ間抜けな返事しかできなかった。事実、親会社の御曹司が上司になっても自分には何の関係もないというのが樹里のスタンスだ。
「あんた、自分には関係ないって思ってるでしょう?」
理砂は行儀悪く、里芋と一緒に煮付けられたこんにゃくを刺した箸を樹里に向けながら言った。樹里は、切り干し大根を口に入れながら、うんうんと頷いた。これはだめだわと言わんばかりの口調で理砂が
「秘書のお姉様方がこの噂を聞きつけて大騒ぎよ。」
「へっ、なんで?」
「身近にいればイイコトあるって思ってるからじゃない?」
「イイコト…?」
「それは、いろいろ、大人のお付き合いから玉の輿まで」
「なるほど…。」
だし巻き卵をほおぼりながら感心したように樹里が言う。
「これからあんたが着くポジションなんて肉食系のお姉様方の垂涎の的よ。」
「はぁ…。」
人ごとのように、鶏のささみの天ぷらに箸を延ばす。
「的外れな妬みを買う可能性があるから気を付けなさいよ。あら、炊き込みご飯のおにぎりがあるみたいよ、頼もっか?」
「わかった、炊き込みご飯、いいねぇ。」
樹里は、カウンターに向かって手を上げた。
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