石長比売の鏡

花野屋いろは

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9.

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「いただきます。」
運ばれてきた煮魚定食を前に手を合わせて樹里はいった。既に、唐揚げ定食に手をつけていた田中は、手を止めて樹里を見た。
「あー、ごめん、なんか給食の時間の小学生みたいなことをやっちゃって」
それに気がついた樹里が慌てていうと、
「いえ…」
田中は、首を振った。現在、夜8時少し前。キリがいいところまでと作業を続けていたら7時になろうとしていた。一人暮らしだという田中に、夕食はコンビニ弁当だと言われた樹里は、これも引き継ぎだと、自身も利用していたこの定食屋に案内した。基本、総務部はノー残業だが、年度末、年度初め、各期末、オフィスの移転、支店、支社の開設などなど
改変時が忙しく、残業もある。そんなときに利用するのがこの定食屋だ。日替わり定食が750円、他に700円から1000円で定食にありつける。ご飯とお味噌汁はお替わり自由で、350mlの缶ビールが1本だけなら300円でつけられる。定食にはメインのおかず以外に小鉢が2つついて栄養のバランスもいい。
「忙しさがピークだと、デリバリーとか、コンビニへの買い出しで済ませることが増えるけど、外に出られる時とか、今日ぐらいの時間に帰宅できる時は、ここでバランスのいいご飯食べることをお勧めする。」
「長濱さんのお勧めはなんですか?」
「ここのは、なんでもお勧めだけど、私は、鯖の味噌煮がお気に入り。ここの鯖味噌は、赤味噌で炊いてあるの、合わせとか白味噌なら家でも作るけど、赤味噌は味噌自体用意が無いからね。」
「へぇ、そういえば、俺の実家も合わせ味噌だな。今度食べてみます。」
「是非食べてみて、それとこれ」
樹里は、鯖味噌の皿から、味噌の塊のようなものを見せる。
「なんですか?」
「これねぇ、梅干し。」
「梅干し?」
「そう、魚の臭みを取るために梅干しを入れるんだけど、これがねぇ、旨味をすって、ご飯のお供に最適なの。本来は出さないものなんだけど、ここは運がいいと入れてもらえるのよね。あ、田中さんが日本酒等なら、お酒のあてにもなるわよ。」
「まぁ、日本酒も米ですからね。」
「そうそう。なーんて、親父くさい蘊蓄をたれてしまったわね。わたし。」
「いえいえ、為になるお話ばかりです。」
そう言って、田中は笑った。
 その後、田中は、食事に何度かこの店を訪れた。一人暮らしの自分には、樹里が教えてくれたこの定食屋はありがたい存在だ。一人で食事を取りながら、樹里のことを考えていた。樹里は、田中のことを異動で初めて知ったが、田中はそれ以前に樹里を知っていた。
--あの時一緒に居たのは、営3の小出孝彦先輩だよな。
 田中が見た時二人は、穏やかに話をしていたがそのうち孝彦が興奮したような素振りをみせ、樹里が宥めるように何かをいったら、孝彦が気分を阻害されたような顔をして、その後すぐに席を立って出て行ってしまった。樹里は、諦めたような顔をしてため息をついた後、そっと立ち上がり、後を追っていった。
--アレは、付き合ってたよな。今はわからないが、多分、別れているだろう。長濱さんの生活リズムは彼氏がいるようには見えないからな。
 小出孝彦、営3のまぁホープだ。もっとも営3はぶっちぎりの営業成績を誇る係長がいたから、小出の影は薄かった。しかし、今回一条の昇進で目の上の瘤が取れたと喜んでるんだろう。それにしても、あの男に長濱さんはもったいなかったな。どういう切っ掛けで付き合うことになったんだろう。長濱さんは、小出のタイプではないんだがとそこまで考えたところで胸ポケットに入れたスマホが振動したのに気がついた。箸を置き、通知を見ると込み入った内容のメールが届いているのがわかり、食事を済まそうと再び箸を取った。
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