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諦観

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 『最小不幸社会』
 いつか、どこかの政治家が最高権力者として名乗りを上げた時、掲げられたビジョンだ。
 具体的には、最低賃金の引き上げ、最低保障年金の創設等々、人が人らしく生きる上での制度設計を樹立し、社会規範から漏れてしまう者を最低限にすること、らしい。

 最低、最低、最低、と……。
 なんともまぁ、ぺシミスティックで卑屈な表現が連続するものだ。
    まるで人は不幸であることが大前提かのような言い草だ。
 言いたいことは分かるが、この国の舵取りを担おうと意気込むのならば、もっと景気の良いことを言ったらどうかとも思う。
 しかし、当時としてはそれなりに評価され、支持率も上がったという事実もあったりする。
 それだけ庶民にとっては、思うところがあったのだろう。

 ……といっても、別にそれは今に始まった話でもない。
 言ってみりゃ、遥か太古より名を変え形を変え、脈々と引き継がれてきた暗黙の了解である『理想』を、メディア用に言い換えただけに過ぎない。
 飽くまで、為政者としてのを言っただけ。
 要するにポーズだ。
 誰も本気で成し遂げない。
 本音では、成し遂げようとすら思っていない。
 結局のところ、『社会は自己責任が原則』などと開き直るか、その場凌ぎのキレイ事で取り繕うかの違いでしかないのだ。

 その証拠が、このだ。
 人生の一切合切は、生まれた時点での初期ステータスが物を言う。
 それが世の常だ。
 近頃では、ナンたらガチャなどと他責思考気味の比喩も横行しているが、無理もない。
 誰も生まれる環境も時代も選べなければ、そもそも好きで生まれてきたわけですらないのだから。

 そんな『なんちゃって実力主義社会』に生まれたこと。
 もし、それ自体が不幸の根源なのだとしたら、人生は罰ゲームでしかない。
 だから、俺は自信を持って言える。
 
 『諦観』こそが、唯一の救いなのだと。

   ◇   ◇   ◇   ◇  

「えー……、じゃあここの例文。訳してみなさい。萩原 はぎわら ぁー、萩原さとし!」

 荻原 訓おぎわら さとる、だ!
 
 昼下がりの教室の真ん中。
 小一時間前に摂取した昼食の消化もままならない、ぼんやりとした意識の中で、俺は通算何度目か分からない心の叫びをあげた。

「……えー、『私が駅に着いた時、彼女は既にいなかった』」
「正解だ! ここは過去完了形が使われているからな。よく出来た。流石だぞ! 萩原 訓はぎわら さとし!」

 俺が立ち上がり答えると、スペイン語講師の神戸かんべは性懲りもなく、えびす顔で俺を褒めそやす。
 この男の間違いは、今に始まったことではない。
 オリエンテーションの出欠確認の段階から、俺の名前を『ハギワラ サトシ』だと認識している。
 ルビくらい振っておけ……。

 結局、俺は指摘しなかった。
 所詮は、大学の授業の数ある内の一コマ。
 この講師とも、語学クラスの連中とも、未来永劫馴れ合うつもりはない。
 そう思うと、わざわざ講義を中断させてまで訂正するメリットを感じなかった。
 ただ、それだけのことだ。
 以来、この教室で俺の名前は『ハギワラ サトシ』として、すっかり定着してしまった。
 こんなところにも、俺の諦観は現れている。

「ん? どうした~? セニョール萩原ぁ~」

 ぼんやりとその場に立ち尽くす俺に、神戸は白々しい敬称を付帯させ、呼びかけてくる。

「い、いえ。何でもありません」
「疲れてるのか? あんまり無理すんなよ! 萩原っ!」 
 
 神戸はそう言うと、得意げに笑いかけてくる。
 『訓』などと、捻くれた漢字をした満足感もあるのだろう。
 俺は神戸から、妙に気に入られてしまっている。
 これみよがしに心配してくれるのは有り難いが、彼にはまず『訓』以前にを犯していることに気付いて欲しいものだ。
 無論、そんなことはいくら俺がこの場で渋い顔をしようとも、当の本人には分かるはずもないのだろうが……。

「あ。はい……。すみません」

 神戸の呼びかけに我に返った俺は、辺りを見渡す。
 流石は、大学といったところだ。
 俺と神戸が下らないやりとりを繰り広げる中、『我、関せず』とばかりに漫画にソーシャルゲームにと、皆それぞれ内職に励んでいた。
 そんな有象無象を横目に、俺はゆっくりと席に腰を下ろす。

 大学生とは実にお気楽なものだ。
 親が稼いだ金で飲み、食い、惰眠を貪り、挙げ句の果てには女遊び。
 もちろん、全部が全部そうだと言う気は更々ないが、勝手気ままに放蕩するその姿は、さながら現代の貴族だ。
 若い時分を無為に食い潰せる彼らと、日々追われている俺とでは、そもそも住む世界が違うのだろう。

「……どうして訂正しないの。

 耳を疑った。
 俺の左横から、有り得ない言葉が飛び込んできた。
 この語学クラスに、俺の正しい名前を知っている人間は一人もいないはずだった。
 俺は恐る恐る、その声の出処に顔を向ける。

「あれ? オギワラ サトル、だよね? キミの名前」

 振り向くと、俺の隣りの席に座る女が、その大きな目をまん丸にさせていた。
 末端にかけてウェーブが施された、ハイトーンブロンドカラーのセミロングヘア。
 ゆるく着こなした薄手の白ニットに、紺のスキニーパンツ。
 ブランド品とは言えないまでも、小綺麗に統一された装飾品やハンドバッグも相まって、全体的にこなれ感がある。
 これがいわゆる『何系』に分類されるのかは知らないが、見た目に関して、ひと手間もふた手間もかけていることくらいは理解できる。
 人を見た目で判断するのはどうかと思うが、なTHE・女子大生だ。
 ……などと、やたら親父臭いことを考えてしまうのは、同年代の人間とあまり接点がない弊害なのかもしれない。
 しかし、こうして改めて見ると俺の苦手なタイプだ。
 隣席で、普段から嫌でも視界に入ってはいたが……。
 
 そんな俺の心境を他所に、彼女はその顔のを強める。
 
「……なんで知ってんだ?」
「キミ、駅前の居酒屋でバイトしてるでしょ? ネームプレートにご丁寧に振り仮名ふってあったじゃん。何あれ? 先生への当てつけ?」
「んなわけねぇだろ。、お客様がクレーム入れやすくするため、だろうよ」
「ぷ。ナニそれ? つーかさ……。『訓』はともかく、『のぎへん』と『けものへん』の違いくらい分かるっしょ!」

 『よくぞ言ってくれた!』という言葉が一瞬溢れ出そうになったが、俺は慌ててそれを飲み込んだ。
 
「ていうか……、アンタの方こそ気付きなさいよ。同じクラスでしょ、一応」
「……大学生にもなって、あんまそういうのなくねぇーか? 同じクラスっつっても学部も違うしな」
「まぁ、確かにそうかもね。それよりいいの? 一応訂正しておいた方がいいんじゃない?」
「……今更だろ。もうオリエンテーションからだいぶ時間も経っちまったしな。無駄なエネルギーは使わないようにしてんだよ、俺は。何事もスルーした方が、世の中スムーズに行くってもんだ」
「そ……。諦観ってヤツね。アタシ、アンタみたいなヤツ嫌い」

 そう言うと、彼女は不機嫌そうにその目をつり上げる。
 何なんだ、この女は。
 いきなり声を掛けてきたかと思えば、ズケズケと。
 彼女の遠慮のない物言いに苛立ちを覚えた俺は、反撃を試みることにした。

「……まぁそうだな。諦観だ。生憎、お前みたいに『遊ぶことこそが大学生の至上命題!』だとか思ってそうな輩を相手にしてるほどの時間的余裕も体力的余裕もねぇんだよ。実際、この後バイトがあるしな。嫌いっつぅなら、もう話しかけてくんな!」
「ナニ? アンタ、貧乏なの?」

 彼女は俺の拒絶を物の見事にスルーし、煽り返してくる。
 心なしか嬉しそうに見えるのは、気のせいか。

「……ホントに失礼なヤツだな。あぁそうだよ! 誠に遺憾ながらな! まぁ『もやしを救世主と崇める苦学生』ってところだな」
「ふーん。じゃあ下に見てんだ? アイツらとか、アタシみたいな奴」

 彼女はそう言って、俺を真っ直ぐに見据える。

「……下に見てるってわけじゃねぇよ。ただ、何? 不公平だとは思ってるよ。例えばさ。あいつらがいくらところで、親とかコネクションの力でお咎めなし、なんだろうな、とか色々考えるとさ……。結局、ああいうヤツらと俺みたいなのって根本的に違うんだよ。なんつーの? 生きていく条件的なモンが」

「そっか……。なんか分かる気がする。じゃあ、だ」

 彼女は意味深にそう呟くと、教壇前のホワイトボードに顔を向けた。
 それから、彼女が声を掛けてくることはなかった。
 
「はい。じゃあ今日はここまで! 来週、小テストあるからな~。成績優秀者はそうだな~。ご褒美に先生とサシ飲みだ!」

 神戸は不穏な一言を残し、意気揚々と教室を去っていく。
 どうやら次週の小テストは、点数の調整が必要になりそうだ。
 相変わらず、大学講師とは思えない距離の詰め方だ。

 それにしても今後のことを考えると、憂鬱になる。
 冷静に考えて、居酒屋バイト後の工場夜勤など正気の沙汰ではない。
 時折やっているとは言え、こういった無茶なスケジューリングは今後の生活の持続可能性に支障が出るので、極力避けたいところではある。
 俺は先行きを憂いつつ、深く息を吐いた。

 するとその瞬間、俺の左肩辺りに鋭いが当たる。

「な~に、ため息吐いてんのさ。若いのに」

 チクリとした感触のする方を向くと、隣りの女が俺の左肩にペン先を当て得意げな顔をしていた。

「……そりゃあ、これから労働の時間だからな。楽しみ過ぎて、ため息の一つや二つ吐きたくなるだろ」
「あぁ。これからバイト2つあるんだっけね。そういや、もう一個何のバイトしてんの?」
「食品工場の夜勤。派遣だけどな」
「は!? 夜勤!? マジで言ってんの? いつ寝んのさ?」
「寝ない」
「……アンタ、いつもそんなことしてんの?」

 隣りの女は心配そうに俺を見つめてくる。
 この女も他人を慮れるのかと、俺は妙な種類の感傷に浸ってしまった。

「……まぁ偶に、な。そう頻繁にはやらねぇよ」
「そ、そうなんだ。なんかアンタ、大変だね」
「……まぁ、そういうわけだから。じゃあな」

「ちょ、ちょっと待ったっ!」

 席を立とうとすると、突如彼女は俺が着ているシャツの裾を引っ張り、行く手を阻む。

「……んだよ」
「アンタさ。この後、少し時間ある? 一緒に来て欲しいところがあんだけど」
「いや、だから……。話、聞いてた? これから」

「お願いっ! 少しでいいの! バイト始まるまでの間でいいから!」

 俺の返答を食い気味に遮ると、彼女は縋るような瞳で見つめてくる。
 そのどこか尋常ではない雰囲気に、俺は何故か抗うことが出来なかった。
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