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act1 Faust
1-10 Before Night To Paris
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臨海副都心での1日の余韻を残したまま、河月創成高校は終業式を迎えた。この1ヶ月は臨時の校舎だったが、新学期からはまた本来の校舎に戻るらしい。
……昨日、結局22時頃に帰り着いた流雫はシャワーを浴びるだけでベッドに潜った。
「……あたし、流雫の力になりたい」
その言葉がリップサービスではないことは、流雫の瞳を捉えたあの綺麗なダークブラウンの瞳が証明していた。
……澪が頼もしく感じる。しかし、だからこそ澪を殺されないように、澪が引き金を引かなくて済むように、もっと強くならなければ。
流雫はそう思いながら、退屈な1年生最後のホームルームを過ごしていた。
午前中で学校が終わると、流雫はすぐにロードバイクを走らせてペンションに戻り、ディープレッドのショルダーバッグに必要なものを詰める。あの日の翌日からも相変わらず学校にも持ち込んでいる銃は、通学鞄に入れたまま置いて出ることにした。多少の不安は有るが、日本国外への持ち出しができない以上、仕方ない。
それからは夕方まで、ワーケーションの連泊の客に紅茶を入れながら、今晩の宿泊客のための用意をする。ベッドメイクと掃除は、肉体労働であるだけに没頭できるのが好きだった。そこまでしなくてよい、と親戚には言われたが、これから2週間近くいないのだから前倒し、と言って戯けた。
宿泊客への料理の準備まで終えると、流雫はガレットを焼いた。大好きなコンプレットにし、バジルソースを落として頬張ると、部屋に戻りグラファイト色のスーツケースのハンドルに手を掛ける。あの時に付けられた靴跡は、空港署で拭いても残っていたが、数日前にもう一度拭いてどうにか取り除いた。
靴を履き、ドアを開けた流雫は
「……うん」
と誰に対してでもなく頷くと、ペンションを後にした。
列車同士を乗り継ぐより多少遠回りだが、列車からモノレールに乗り換えるのは、東京の夜景を堪能しながら行けるから、と云う理由だけだった。だから流雫は東京モノレールを好む。欠点は、列車以上に揺れることだけだ。
前に向かって左側の一人掛け座席に腰を落とし、車窓を眺める。LEDの車内灯が反射するのが邪魔だが、それは仕方ない。
高層ビル街から外れたモノレールは、京浜運河の上を走る。競馬場や倉庫街、コンテナターミナルを経て、東京都の端に鎮座する東京中央国際空港に着く。あの日以来の空港だ。
運河上の高架から地下に潜ったモノレールが、国際線ターミナルの地下の駅に止まり、ドアが開く。流雫はスーツケースを引いて、プラットホームに降りる。
改札にスマートフォンをかざすと、目の前は地階。そう、あの日全てが始まった場所だ。そう云うことなど起きていなかったかのように、修復されている。
出発フロアへとダイレクトに伸びるエスカレーター、その手前に1メートル四方、パイロンで囲まれた区画が有る。その中心には、それより一回り小さい大きさの柱が立ち、その上に金時計が鎮座している。パイロンは、それがこの数日で設置されたもので未だ工事が完成していないことを意味していた。
柱に埋められた銘板に刻まれた字は、ここがトーキョーアタック……東京同時多発テロ事件の爆心地であり、慰霊と平和のために設置した、との説明を成していた。
……あの日を思い出す。ただ、今はその時じゃない。流雫はそれから目を逸らし、出発フロアへ向かった。金時計は、22時過ぎを示していた。
壁に沿ったエアラインカウンター、その一角に流雫の目的地は有る。シエルフランスのトレードマークのトリコロールがディスプレイに踊り、その下には2時半発パリ行きの表示が有った。時折、日本語と英語、フランス語が入れ替わる。
チェックインは既に始まっている。今なら並ばなくてよい。安いうちにオンラインで航空券を購入していた流雫は、電子航空券をスマートフォンの画面に表示させ、スーツケースをカウンターで預けた。
普段、流雫が短い春休みにフランスに帰郷することは無い。何時も夏休みだ。しかし、今回だけは特別だった。
7月から、パリで五輪が始まる。前回の東京が1年延期と云うイレギュラーだったから、3年ぶりか。メイン会場は、パリ郊外の国立競技場、スタッド・ドゥ・フランス。パリが大混雑するのは火を見るより明らかで、その時期に重なるのを避けたかった。
一連の手続きを終えた流雫は、搭乗口付近のロビーでソファに座っていた。電子書籍アプリを開き、フランス語に翻訳された戯曲を開こうとすると、その画面に澪からのメッセージがポップアップで重なる。
「そろそろ出発?」
「あと3時間以上。暇だから、何か適当に読んでいようかと」
「出発、2時過ぎなの?それまで起きてるの、大変ね……」
澪からのメッセージに、流雫はスピーディーに打ち返す。
「2時半。……昨日の今日で、また東京に来たけど、やっぱり……昨日は色々有ったけど楽しかった」
昨日はあの後、流雫は澪と列車に乗って、途中で別れた。流雫には名残惜しさだけが残った。そして澪も、流雫と別れた直後急に寂しさを感じた。
「あたしも、楽しかった。あんなことが起きなければ、もっと楽しかったのかな……なんて思ったりもするけど、でもルナが何を思っているのか、何となくでも判った気がして」
と打ち返しながら、澪は恋人同士……に近い距離感を感じていた。ただ、同時に引っ掛かるものが有る。それは澪に一つのささやかな決意をさせた。
それから少しだけ、どうでもいいような話題で盛り上がり、互いに
「おやすみ、ルナ」
「おやすみ、ミオ」
と打った。既に互いに名前を知っているのに、ハンドルネーム……と云っても本名を片仮名表記にしただけだが……で打つのは、変わらなかった。
2時過ぎに始まった搭乗案内。流雫の座席は機内後方、エコノミークラスの右の窓側だった。2時半を5分だけ過ぎて動き出したパリ行きのシエルフランス機は、最新型の機体に纏ったフランス国旗を模したトリコロールを夜空に溶かすべく、海に浮かぶ長い滑走路の端で航空灯火の見送りを受けながら、エンジンを大きく吼えさせる。
やがて重力に押されるような感覚と共に、景色の流れが遅くなり、そして小さくなる。眼下には、急速に小さくなっていく東京の夜景。あと3時間もすれば夜明けを迎えると云うのに、目立つほど明るい。不夜城……何処かで聞いたその単語が、これほど適する街は他に無い。
その景色が後ろに遠ざかっていくのと同時に、流雫は意識を手放した。……12時間後には、朝を迎えるパリだ。
……昨日、結局22時頃に帰り着いた流雫はシャワーを浴びるだけでベッドに潜った。
「……あたし、流雫の力になりたい」
その言葉がリップサービスではないことは、流雫の瞳を捉えたあの綺麗なダークブラウンの瞳が証明していた。
……澪が頼もしく感じる。しかし、だからこそ澪を殺されないように、澪が引き金を引かなくて済むように、もっと強くならなければ。
流雫はそう思いながら、退屈な1年生最後のホームルームを過ごしていた。
午前中で学校が終わると、流雫はすぐにロードバイクを走らせてペンションに戻り、ディープレッドのショルダーバッグに必要なものを詰める。あの日の翌日からも相変わらず学校にも持ち込んでいる銃は、通学鞄に入れたまま置いて出ることにした。多少の不安は有るが、日本国外への持ち出しができない以上、仕方ない。
それからは夕方まで、ワーケーションの連泊の客に紅茶を入れながら、今晩の宿泊客のための用意をする。ベッドメイクと掃除は、肉体労働であるだけに没頭できるのが好きだった。そこまでしなくてよい、と親戚には言われたが、これから2週間近くいないのだから前倒し、と言って戯けた。
宿泊客への料理の準備まで終えると、流雫はガレットを焼いた。大好きなコンプレットにし、バジルソースを落として頬張ると、部屋に戻りグラファイト色のスーツケースのハンドルに手を掛ける。あの時に付けられた靴跡は、空港署で拭いても残っていたが、数日前にもう一度拭いてどうにか取り除いた。
靴を履き、ドアを開けた流雫は
「……うん」
と誰に対してでもなく頷くと、ペンションを後にした。
列車同士を乗り継ぐより多少遠回りだが、列車からモノレールに乗り換えるのは、東京の夜景を堪能しながら行けるから、と云う理由だけだった。だから流雫は東京モノレールを好む。欠点は、列車以上に揺れることだけだ。
前に向かって左側の一人掛け座席に腰を落とし、車窓を眺める。LEDの車内灯が反射するのが邪魔だが、それは仕方ない。
高層ビル街から外れたモノレールは、京浜運河の上を走る。競馬場や倉庫街、コンテナターミナルを経て、東京都の端に鎮座する東京中央国際空港に着く。あの日以来の空港だ。
運河上の高架から地下に潜ったモノレールが、国際線ターミナルの地下の駅に止まり、ドアが開く。流雫はスーツケースを引いて、プラットホームに降りる。
改札にスマートフォンをかざすと、目の前は地階。そう、あの日全てが始まった場所だ。そう云うことなど起きていなかったかのように、修復されている。
出発フロアへとダイレクトに伸びるエスカレーター、その手前に1メートル四方、パイロンで囲まれた区画が有る。その中心には、それより一回り小さい大きさの柱が立ち、その上に金時計が鎮座している。パイロンは、それがこの数日で設置されたもので未だ工事が完成していないことを意味していた。
柱に埋められた銘板に刻まれた字は、ここがトーキョーアタック……東京同時多発テロ事件の爆心地であり、慰霊と平和のために設置した、との説明を成していた。
……あの日を思い出す。ただ、今はその時じゃない。流雫はそれから目を逸らし、出発フロアへ向かった。金時計は、22時過ぎを示していた。
壁に沿ったエアラインカウンター、その一角に流雫の目的地は有る。シエルフランスのトレードマークのトリコロールがディスプレイに踊り、その下には2時半発パリ行きの表示が有った。時折、日本語と英語、フランス語が入れ替わる。
チェックインは既に始まっている。今なら並ばなくてよい。安いうちにオンラインで航空券を購入していた流雫は、電子航空券をスマートフォンの画面に表示させ、スーツケースをカウンターで預けた。
普段、流雫が短い春休みにフランスに帰郷することは無い。何時も夏休みだ。しかし、今回だけは特別だった。
7月から、パリで五輪が始まる。前回の東京が1年延期と云うイレギュラーだったから、3年ぶりか。メイン会場は、パリ郊外の国立競技場、スタッド・ドゥ・フランス。パリが大混雑するのは火を見るより明らかで、その時期に重なるのを避けたかった。
一連の手続きを終えた流雫は、搭乗口付近のロビーでソファに座っていた。電子書籍アプリを開き、フランス語に翻訳された戯曲を開こうとすると、その画面に澪からのメッセージがポップアップで重なる。
「そろそろ出発?」
「あと3時間以上。暇だから、何か適当に読んでいようかと」
「出発、2時過ぎなの?それまで起きてるの、大変ね……」
澪からのメッセージに、流雫はスピーディーに打ち返す。
「2時半。……昨日の今日で、また東京に来たけど、やっぱり……昨日は色々有ったけど楽しかった」
昨日はあの後、流雫は澪と列車に乗って、途中で別れた。流雫には名残惜しさだけが残った。そして澪も、流雫と別れた直後急に寂しさを感じた。
「あたしも、楽しかった。あんなことが起きなければ、もっと楽しかったのかな……なんて思ったりもするけど、でもルナが何を思っているのか、何となくでも判った気がして」
と打ち返しながら、澪は恋人同士……に近い距離感を感じていた。ただ、同時に引っ掛かるものが有る。それは澪に一つのささやかな決意をさせた。
それから少しだけ、どうでもいいような話題で盛り上がり、互いに
「おやすみ、ルナ」
「おやすみ、ミオ」
と打った。既に互いに名前を知っているのに、ハンドルネーム……と云っても本名を片仮名表記にしただけだが……で打つのは、変わらなかった。
2時過ぎに始まった搭乗案内。流雫の座席は機内後方、エコノミークラスの右の窓側だった。2時半を5分だけ過ぎて動き出したパリ行きのシエルフランス機は、最新型の機体に纏ったフランス国旗を模したトリコロールを夜空に溶かすべく、海に浮かぶ長い滑走路の端で航空灯火の見送りを受けながら、エンジンを大きく吼えさせる。
やがて重力に押されるような感覚と共に、景色の流れが遅くなり、そして小さくなる。眼下には、急速に小さくなっていく東京の夜景。あと3時間もすれば夜明けを迎えると云うのに、目立つほど明るい。不夜城……何処かで聞いたその単語が、これほど適する街は他に無い。
その景色が後ろに遠ざかっていくのと同時に、流雫は意識を手放した。……12時間後には、朝を迎えるパリだ。
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