その声が聞きたい

午後野つばな

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「なんじゃこりゃー!!」
 その日の夕方、カチャリと玄関の扉が開く音がして、次に聞こえてきたのはそうすけの叫び声だった。その声に、部屋の中で遊んでいた白いふわふわした妖怪が、再びぴゅーっとどこかへ逃げていった。
 さとりは部屋の片隅で、びくりと身体をすくませた。
『俺が家を出てから帰ってくるまでいったい何があったんだ!?』
 そうすけが何かを足元に引っかける音がして、「わっ」とか、「ひっ」などの短い悲鳴が聞こえてくる。そのたびに、さとりはますますその身体を小さく縮こまらせ、びくびくとしていた。
『わー、洗面所が……てか、洗濯機が泡だらけじゃないか。あ、この匂い、ひょっとしてシャンプーか!? 洗い残しの食器は割れてるし、わー、お気に入りの本が……!』
「そーすけ……」
 絶句したまま、部屋の入口で茫然と立ち尽くすそうすけを、さとりはそっと振り返って見た。
「ごめんなさい……」
『いや、ごめんなさいじゃなくて……』
「怒って……なくはないけど、そうじゃないんだ。どうしてこうなったか説明してくれ」
 そうすけの手には、白いふわふわの妖怪が破いた本のページが握られている。
 白いふわふわの妖怪がやったんだと言っても、その存在自体が見えないそうすけは信じないだろう。弁解の言葉も見つからず、さとりはズッ、と洟をすすった。
「お、おいら……」
 口を開いたとたん、再び涙がこみ上げてきて、さとりは瞼をこすった。
「……そうすけに喜んでもらおうと思ったんだ。でも、うまくいかなくて……。おいら……ご、ごめんなさい……」
 うつむいたまま、顔を上げることができないさとりの頭上で、ふう、と息を吐く音が聞こえた。
『片付けようとしてくれたのか』
「ケガはないか?」
『……ああ、指から血が出てるじゃないか』
「そ、ぞーすけ」
 そうすけがもう怒っていないとわかったとたん、気がゆるんでぽろぽろと涙があふれ出す。思わず鼻声になったさとりに、そうすけが吹き出した。
「……ぞーすけって何だよ」
 呆れたように笑う。
 そうすけの言葉だけがいつもやさしい。苦しくない。
『……仕方ねえよなあ』
 諦めの滲んだ声がぽつりと降ってきたけれど、そのときのさとりの耳には入ってはこなかった。
 さとりがようやく泣きやんだ後、指のケガの手当てをしてくれたそうすけと、リビングで向かい合って夕食を食べた。料理が趣味だというそうすけが、以前時間があるときに作って冷凍しておいたオレンジ色のスープは、細かく切ったいろんな種類の野菜がごろごろ入っていて、とてもおいしかった。食事をしている間、顔の半分を覆い隠すさとりの前髪が鬱陶うっとうしそうだなというそうすけの気持ちが伝わってきたけれど、彼は何も言わなかった。
「それでこれからのことだけどな」
 夕食も終わり、まったりとした空気が流れる中、そうすけが切り出した。
 これからのこと?
 さとりは首をかしげる。
 いったいそうすけは何を言っているのだろう?
「お前、もしいくところがないならしばらくの間ここにいてもいいぞ」
 ……!
 さとりはびっくりした。まさかそうすけの話がそんなことだとは想像もしておらず、てっきりご飯を食べ終えたから出ていけと言われると思っていたのだ。
 そうすけは、そんなさとりのようすを窺うようにじっと見ると、やがて小さく息を吐いた。
『こいつの正体が怪しいことには違いないけどな。放っておけないんだから仕方ない』
「ただ、はっきり言うが、俺はまだ完全にお前のことを信用したわけじゃない。もしも家に置くなら、ある程度のルールは決める。それが守られないならすぐに追い出すからな」
 さとりはまだ目を大きく見開いたまま、一言も言葉を発することができないでいた。そうすけは、さとりのそんな態度を誤解したのか、あえてきつい表情を浮かべていたと思われるその顔を、ふっとゆるめた。
「……別にルールと言ってもそんなに難しいものじゃない。共同で生活するにあたって、ごく普通のことばかりだ。それに俺の生活は一般的とは言い難いからな。お前がそれを守るなら、しばらくの間ここにいていいよ。将来のことが何も見えないというなら、いまから考えればいい。できる限りの協力はしてやるし、相談にものってやる……さと?」
 さとりは、そうすけの言っていることが信じられなかった。そうすけとまだ一緒にいられる、という思いが頭に追いついたら、これまで無意識にいろいろなものを堪えていた気持ちが一気に飽和状態になってあふれ出た。
『……まいったな』
 うつむき、声を殺して泣くさとりの頭上から、そうすけの心の声が落ちてくる。それはまるで春の雨のようにやさしかった。
『頼むから泣かないでくれよ……』
「お前、泣きすぎだろうよ」
 困惑の滲んだ声で呆れたように呟き、テーブル越しにさとりの頭をぐしゃりとかき混ぜてくれたその手はあたたかくて、さとりはなぜだかよけいに切なくなった。
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