恋の実、たべた?

午後野つばな

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先に平静さを取り戻したのは徹のほうだ。
「衛さん?」
「わ、悪い」
 日下は徹の声にはっとなると、洗面所から出ようとした。
「大丈夫、いま出るよ」
 徹は蛇口を捻ると、シャワーを止めた。その手が日下のいるほうに伸びて、バスタオルをつかむ。徹の髪からふわりとシャンプーの匂いがした。普段日下が使っているのと同じ匂いだ。徹は濡れた腰にバスタオルを巻くと、「お先に」と日下の横を通り過ぎ、洗面所から出ていった。
 男の身体なんて飽きるほど見慣れているのに、たったいま目にした徹の肉体が目に焼き付いて離れない。自分の身体に熱が灯るのを、日下ははっきりと自覚していた。
「くそっ。何を考えているんだよ」
 鏡に映る頬がわずかに紅潮している。自分が明らかに動揺していることを、日下は認めずにはいられなかった。
 どうしてそうなったのかは理解に苦しむが、徹は自分のことを好きだと勘違いしている。実際に言葉で言われたこともあるし、本人はまったく隠そうという気がない。そのくせ、日下が自分以外の相手と寝ていたとしても、嫉妬めいたことや憤りは一切見せない。まるで自分のことが本当に好きなのか? と疑いたくなるほどだ。
 徹は姉から預かった甥で、亡くなった幼なじみの大切な忘れ形見だ。それ以上でもそれ以下でもない。それなのに、足下から崩れ落ちるような不安な気持ちに駆られるのはなぜだろう。
 シャワーを浴びてバスルームから出ると、Tシャツにハーフパンツ姿の徹がリビングのソファで映画を見ていた。映画好きの両親の影響からか、徹はよく深夜などにひとりで映画を見ていることがある。徹が好むのは、日下からしてみたらどこが面白いのかさっぱりわからないようなものばかりだ。
「衛さん」
 徹が廊下に佇む日下に気がついた。ソファ越しに振り、「衛さんも食べる?」と訊ねた。
「お前、きょうは友だちと会うって言っていなかったか?」
 徹につられたように、言葉が出てほっとした。日下は徹の隣に腰を下ろすと、ガラス皿に入ったさくらんぼに手を伸ばす。 
「そのつもりだったけど、友人の彼女が風邪を引いて熱を出したとかで、急遽なくなった。さっきの雨、すごかったね」
 ごく自然な徹の態度を見ていると、自分が先ほど感じた戸惑いは、何かの間違いだったような気がしてくる。
 先日日高に渡すよう頼まれたスイカは、すでに家にあるからと、当の日高に断られてしまった。さすがに徹とふたりでは食べきれず、ひとつは徹が近所にお裾分けをした。替わりにいただいたのがこのさくらんぼだ。冷えたさくらんぼの甘みが、じわりと口の中に広がる。しばらく無言でさくらんぼを摘みながら、日下はふと隣を見た。赤い艶やかな実を徹が口に入れ、種を取り出している。赤い実からの連想だろうか、日下の口から思ってもない言葉が出た。
「童謡でさ、赤い小鳥ってあるだろう? なぜ赤い実を食べたってやつ」
「北原白秋の?」
「そうそれ。あれっていま考えるとフラミンゴとかと同じ原理なんだよな。子どものときはそんなこと知らないから、妙に苦手だったな」
 日下は小さいときから周囲に馴染まない子どもで、集団行動が苦手だった。傷つきやすく感受性が豊かで、いま思えば面倒くさい子どもだったと思う。
 赤い実を食べても、周囲に染まらない一羽の小鳥。いまではさすがに何とも思わないが、子どものときはあの歌を聞くと、お前はひとりだと責められている気がした。
「苦手ってどうして?」
 自分から話を持ち出したくせに、理由を聞かれると思っていなかった日下はとたんに口ごもる。
「……どうしてって、理由なんかないよ」
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