恋の実、たべた?

午後野つばな

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 そのとき胸に影が差したのを、日下は瞬きをしてやり過ごす。自分が発した言葉に、微かだけれどはっきりとした違和感を覚えた。
 ――……?
 日下はゆっくりと周囲を見渡した。緑に包まれたテラス席のある落ち着いたカフェ、ギャルソンエプロンに身を包んだ店員に、この場にいるのが当然のような顔をしている客たち。何ひとつくる前とは変わっていないのに、このすっきりとしない感じはなぜだろう。 
「衛……?」
 突然ようすを変えた日下に、緒方が心配そうな表情を浮かべる。
「……そうですね、あなたには関係ありませんが、さっきの質問に答えましょうか。徹とは何も問題ないですよ。あなたが心配するようなことは何ひとつありません」
 言葉を重ねれば重ねるほど、足下から崩れ落ちそうな不安に襲われる。これまで自分が見ない振りをしていたもの、決して気づきたくなかったものに向き合わされる。
 緒方の目が同情するように日下を見ている。緒方はどうしてそんな顔をしているのだろう。日下はまるで自分が駄々をこねる子どもになった気がした。無意識のうちに、庇うように胸の前で腕を組んだ。これ以上一秒だってこの場にいたくない。
「申し訳ありませんが、この後用があるので失礼いたします」
 頭を下げ、店の出口へと向かう。そのときだった。
「――衛」
 どこか切迫したような声で名前を呼ばれ、日下は足を止めた。そのまま無視していってもいいはずなのに、いつもどこかに余裕を滲ませていた緒方の真剣な表情に、気圧されたようにその場から動くことができない。
「俺はきみのことが好きだ。始めはただの遊びだったが、いつのころからか本気できみのことを好きになっていた。きみがこういう話を嫌がることは承知している。きみが俺の気持ちにまったく気づいていないことも。だから言えなかったし、きみの誤解にもつき合っている振りをしていた。だけど、もう嫌だ。俺はきみと本気でつき合いたい。彼が言っていたような、だらしないきみの姿も見てみたい。衛、好きだ。きみがいま心の中で誰を思っていても構わない。どうか待つことを許してほしい」
「緒方先生、いったい何をおっしゃっているんですか……」
 何を言われているのかわからずに、日下は戸惑うように瞳を揺らした。
 緒方が自分のことを好き? 本気でつき合いたい?
 緒方の言葉を否定しようとした日下は、自分を見つめる緒方の瞳に口を噤む。その真剣な表情から、緒方が決して嘘や冗談を言っているのではないことに気がついてしまった。こんな緒方は初めて見る。
「わ、私は……」
 これまで緒方と身体の関係はあったものの、互いに割り切った関係だと日下は考えていた。まさか緒方が本気で自分に惚れるなんて思ってもみなかった。
 日下は内心の動揺を抑えようと、助けを求めるように視線をさまよわせる。こんなことまったくの想定外だった。しかも緒方は本気で自分が徹のことを好きだと信じている。
 ――衛さんが好きだ。
 耳に甦った徹の言葉に、日下は内心で激しく動揺する。まっすぐな瞳で自分に思いを伝えようとする徹に、胸が騒がなかったはずがない。自分への好意を隠そうともしない徹に、それはお前の勘違いだ、そんなことあるはずがないと否定しながら、心の底では喜んではいなかったか……?
 口ではよけいなお世話だと言いながら、毎朝起こしにくる徹の足音を密かに待ちわびた。文句を言いながら日下が床に零した水滴を律儀にふき取る徹の姿を、当たり前のように感じていた。リビングやキッチンで、スカイプをしている徹の姿。ソファで本を読んでいる徹の隣で、猫のように好き勝手にくつろぎながら、その存在をいつもすぐ傍に感じていた。
 徹のそばにいるのは居心地がよく、飾ることのない素のままの自分でいられた。他人を信じることができず、偽りだらけの自分が、徹のことだけは信じることができた。徹と過ごす時間を誰よりも望んでいたのは自分ではなかったのか。
 ――衛さん。
 髪をやさしく撫でるその手に、ただの甥ではなく、ひとりの男として徹を意識するたびに、何度もその腕の中に抱きしめられる自分を想像し、否定した。そんなことはあり得ない、と自分に言い聞かせた。
 僕は徹のことが好きなのか? 叔父と甥ではなく、ただの男として――?
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