あのね?

麻戸槊來

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あのね?

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温かな日差しが心地よく肌をくすぐり、そっと目を細める。

冷たい空気の中で感じるこのぬくもりが、昔から好きだった。もっとも子どもの頃は、こんな穏やかな気持ちでこの光を受け入れる余裕なんて、ありはしなかったのだけれど。家の外に椅子を出し、ゆったりと腰掛ける未来なんて、あの頃は思い浮かびもしなかった。

「おばあちゃん、あのね?」

孫からそんな言葉がかけられなかったら、こんなにも昔のことを思い出すことはなかっただろう。


出来るだけ優しく見えるよう、そっと孫娘に微笑んだ。小さな体で精一杯抱きついてきたこの孫は、やんちゃな兄が二人もいるのに、引っ込み思案な性格だ。いつも兄たちの後ろに隠れていてちょっと心配な面もあるけれど、控えめに笑う顔がどうしようもなく可愛くてついつい甘やかしてしまう。

「あのね、あのね?おじいちゃんのお話、聞かせて」

「っっ、」

「あっ、こらメアリー!おばあちゃんに、わがままいわないのよ」

義娘があわててメアリーを引きはなそうとするけれど、首をふってそれをとめる。この優しい孫娘が、悪戯に人を困らす子じゃないのはわかっている。どうして突然そんなことを言い出したのかと問うまえに、可愛い口から思わぬ理由が飛び出した。

「あのね、まだ難しい手話はできないでしょう?だからね、隣のお姉ちゃんに字を習ったの」

「あら、最近よくお隣にお邪魔していると思ったら、そんなことをしていたの」

「字が読めれば、もっとおばあちゃんとお話出来ると思って頑張ったの」

この反応をみると、どうやら家族にも内緒で練習していたらしい。
ずっとおばあちゃん子だと言われていた孫娘も、やはり年の近い子と遊びたいのかと少し寂しく感じていたから、その気持ちが嬉しかった。


いくら内気とはいえもっと体を動かしたいだろうに、そんな気持ちよりも私との交流を取ってくれた申し訳なさと嬉しさで笑顔がこぼれてしまう。





✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾





あれはまだ、肌もみずみずしく花も恥じらう乙女だったころのこと。

ここからほど近い谷間にある村で生まれた私は、村の人から『歌うたいの巫女』なんて呼ばれていた。小さなころから歌うことが大好きで、物心ついたころにはみんなの前で歌う日々だった。



故郷の村は自然豊かといえば聞こえはいいけれど、大木と澄んだ水だけが自慢の場所だった。

山菜を採って野生動物を狩り、自然と共存する日常では娯楽らしいこともなく、歌を聞かせる私は重宝された。村に昔から伝わる歌に、旅人が語って聞かせた悲恋に英雄譚。悲しい場面では吐息を震わせ、勇ましい戦士たちの行軍では鼓舞するように。自分ではおおよそ経験したことがないはずなのに、歌を歌っている時はどこまでも自由な私は、いくらでも旅して理解することができた。

年老いた戦士の苦悩にも、死に別れた恋人の墓を一人弔う嘆きにも、他人ごとではない気持ちで言葉を紡ぐことができた。



歌えば歌うほど魅了され、酔ったような私の心酔具合に影響されたのか、周囲も「歌うのをやめろ」なんていう人はいなかった。七つの歳を超えて、難しい歌でも歌いこなせるようになると、次第に冠婚葬祭でも歌を望まれるようになっていた。新たな門出を迎えた夫婦を歌で送り出し、弔いではやすらぎを少しでも与えられるように。大人になり旅立つ者には進みゆく道の安寧を祈り、日々の糧を得られることに節目節目で感謝を伝える。ただの自己満足が習慣になり、村全体に浸透していった。



10を数えた頃には、小鳥のさえずりや水のせせらぎにメロディを見いだし、自ら曲をつくることも増えた。歌を教えてくれた旅人の顔なんかはすぐ忘れるのに、歌だけならいくらでも覚えていることができたのは不思議だ。

「お前は、本当に歌うことにかけて『だけ』は、天才的なんだなぁ」

なんて、親の嘆き交じりの言葉でさえ、褒め言葉以外の何物でもない。
鼻歌レベルの曲には飽きたらず、風が谷間に流れる様や雪が降りしきる姿に自然と言葉がついてくるのは、そう遅くないことだった。

これまでは人が奏でる音を借りていたけれど、自らの想いや感情を声に出すことにより、ある種の快感を得ていたのだろう。家族に止められても1日中歌い続け、次第に歌わないと気持ちが落ち着かなくなっていた。

「お前の歌は素晴らしいが、のどを大事にしなさい。お前の声はこの村の宝なのだから、つぶれてしまっては大変だよ」

「でも、村長様。私は歌うのが生きがいなの。生まれてくる歌を、奏でないでいるなんてできないわ」

「それなら、うちのババ様にでも琵琶を習ったらいい。楽器でだって、充分に音楽を奏でられるだろう?」

「ババ様の琵琶はもちろん好きだけれど、私は歌をうたうのが好きなの。歌をうたわずにいるなんてできやしないわ」

「……この村は、お前の喉を失うわけにはいかないのだよ。聞き分けなさい」

村長は、そんな風に一方的な言葉で私を叱りつけた。

私の両親や兄も、村長に逆らってはこの村で生きていけないからと、私をかばってはくれることはなかった。ましてや、私には年頃の姉様ねねさまがいる。小さなこの村で生きていくにしろ、よそにお嫁に行くにしろ、村長の手助けなしにはうまくいかない。よそとの結婚を取りまとめるのは村長なのだから、あの人に睨まれてはまともな婚姻は望めなくなってしまう。

「貴女の歌が、大好きよ」

そう言って、優しく頭をなでてくれる姉様を不幸にするような可能性は、何としても選びたくなかった。



徐々に村長の縛りが厳しくなり、いつからか村人以外に歌を聞かせることも禁止されるようになった。村長が言うには「かどわかしなどが起こっては大変だから」ということだったけれど、兄様は「どうせお前が村の外に行くのが嫌なのだろう」ということだった。この頃は村人たちの私を見る目が徐々に変わって、まるで生き神のように扱われるようになっていた。私の歌を聞いたからと言って病が楽になるわけなどないし、天候を操るなんてもってのほか。

みんなの期待だけが強まり、そんな力はないといっても聞き入れられることはない。村長はそんな村人たちの思い込みを否定することなく、私を利用しているような姿に不信感だけが募る。

モヤモヤとした思いを抱えながら、逆らうこともできずに歌うことを控えていった。村長の許しなしに人前で歌わなくなったのは、12の歳を迎えた頃のことだ。





村のみんなに隠れるようにして、山へ入っては歌をうたう。

どんなに禁止されても歌をうたうことはやめられず、山を登っては歌をうたった。これまでは旅人から歌を教えてもらうこともできたのに、人前で好きに歌えなくなった私には、それも難しい。歌をうたうのが生きがいだったし、村では知り得ない旋律には心が躍った。それなのに、『歌うたいの巫女』なんて呼ばれながら、歌を好きに学ぶこともできはしない。私が15歳になってから、村長は私を誰と結婚させようかというのが一番の関心ごとらしい。


どうせ私の意志など通らないのだからと、自らの今後にすら興味が薄かった罰が当たったのかもしれない。ある日私に、天災ともいえるような不幸が降りかかってきた。

「えっ……?」

「聞こえなかったのか?お前は今後、山神様のためだけに、歌をうたうことになった」

「山神様って、村長!どういうことですかっ」

寡黙な父親が、珍しく声を荒げている。

母親はおろおろとうろたえているし、兄様はきつく拳を握りしめ歯ぎしりが聞こえてきそうだった。ここ数年、雨が続いてうまく作物が実らなくなっていた。雨が多いせいで川が氾濫し、いくつかの家が流されてもいた。村長は度々私に川を鎮めるために歌をうたわせたけれど、特殊な能力などないのにそんな願いが叶うわけもなく。とうとう人ならず者の力を、借りることにしたらしい。……私という生け贄を、差し出すことによって。

「我々の願いがようやく届いてな。お前が今後、山神様のためだけに歌い続けるのならと、実りを約束してくださったのだ」

「山神様なんて、ただの巨大な蛇ではありませんかっ!」

「そうですよっ。本当に山神様には、天候を操る力がおありなのですか?以前に村の備蓄を半分近く渡しても、結局雨は止まなかったではないですか!」

「なんと、なんと罰当たりな奴らだ!あの山神様を愚弄するなんて、万死に値するぞっ」

「そ、そんなことを言っても、まずは雨をやませてから、」

「まだ、山神様のお力を疑うというのかっ。……そうだ。きっとお前らのような信仰心の浅い奴らがいるから、山神様のお力が届かなかったのだ!おい、お前が『歌うたいの巫女』として山神様の元へ行かなければ、お前の家族もろともただでは済まさないぞっ」

唾をまき散らしながら喚く村長は、とても人とは思えぬ恐ろしい化け物に見えた。
ただでさえ暗かった気持ちが完全に闇に染まり、「嗚呼、選択肢など与えられていないのだ」と諦めるよりほかなかった。

「―――謹んで、山神様の元へ伺わせていただきます」

私の言葉を聞いて、家族のすすり泣く声が部屋に響いた。
父や兄様の泣く姿なんて初めて見たし、母に至っては崩れ落ちるように床へ伏せている。私たち家族が生きる道なんて一つしかないし、山神様の村に対する心象も少しは良くなるかもしれない。この時初めて、「嗚呼、私は意外と巫女らしい考え方ができたんだなぁ」と頭の端で考えていた。





綺麗なおべべを着て、薄っすら化粧も施される。

これも一種の死に化粧なのかしらと思いながら、来るべく時を待っていた。山神様の住処は私たちの村の近くにあるらしく、指定された山奥深くまで籠に乗せられ運ばれていた。



逃げださないようにだろう。草履をもたされることはなく、足袋なんて上等なものもあるわけがない。年若い幼なじみや狩人といった、村の健脚な男たちが息を上げるほどの獣道だ。裸足のまま逃げようとすれば、すぐに足裏が裂けて血だらけになってしまうだろう。……いや、そもそも長雨でぬかるんだ斜面はいつ土砂崩れをおこしてもおかしくはない。

第一家族を人質にされた今、『逃げる』なんて道選べるわけがないのに一層滑稽にすら思える。生まれて初めて着た晴れ着と言っていい装いだけで、充分身動き取れなくなっているのに、どれだけ私なんかに価値を見出しているのかと一人笑うことしかできない。





そんな風に冷静にしていられたのは、はじめだけだった。
山を登るにつれて、心なし山の空気も変わってきた気がする。最初は細々とかわされていた周囲の会話もなくなり、はぁはぁと男衆の荒い息が大半を占める。聞きなじんだはずの鳥や葉のざわめきも、初めて聞いたようにぞわぞわと不安を煽られる。じわじわと迫ってくる死の予感に、「嗚呼、自分は本当に死ぬのだな」と手に汗が滲んできた。


いつもは音を拾うことにかけて自信のあった耳も、今はずっと塞いでいたいくらいだった。

けれど、いつ降ろされるのか分からない不安から、感覚を遮断するのも恐ろしくてどんどん耳は研ぎ澄まされていく。いつからか川のせせらぎも聞こえなくなり、道が変わったのがわかる。時々大岩に阻まれているのだろう。無理やり籠を持ち上げられるような感覚に、「このまま山神様の元へ行く道中で死んだらどうなるのだろう」というようなことまで考えた。


この閉鎖的な籠の中がいけないのか、決意したはずの心まで揺らいでしまう。

ゆらゆら、ゆらゆら、籠の動きに合わせて心も揺れる。

そんな私を嘲笑うかのように、籠は唐突に動きを止めた。

「おい、着いたぞ」

「……そうですか」

感謝も謝罪も違う気がして、わかりましたとだけ答える。
元々情がわかないようにと、顔を出すことは禁止されている。以前は仲の良かった幼なじみも、こんな状態で話しかけられては迷惑だろう。特に恨みごとを口にすることもなく、ただただ、繰り返しきかされた注意をまた狩人のおじさんにされた。


どうやら、土壇場で逃げ出すことのないように、みんなの鈴の音が聞こえなくなってから籠を出て欲しいらしい。ちりん、ちりんと、獣よけの鈴が騒がしくなる。相当焦っているのか、音は不規則で距離をはかりづらい。招かれざる客を警戒するかのような木々のさざめきに混じり、鈴の音が遠退いていく。



しばらくして、このまま籠ごと殺されるのも嫌だと、震える手で入口を開く。

「ここが……」

私の死に場所か。

しょうがない。村長が私を特別扱いしてくれるときは、いつだって己の利になるからだった。都合が悪くなれば、容易く切って捨てられる。両親などはありがたがっていたけど、どこか私は気持ち悪く感じていた。

よそに思考をやりつつも、周囲の異変を少しも見逃さないように、意識を尖らせる。
たしか蛇はいぬ猫ほど目が良くない代わりに、温度で獲物を察知していたはずだ。山神と呼ばれる存在がその限りかは分からないが、見た目はそのまま蛇だから全くの無関係ということはないだろう。

そうとなれば、本来いるはずの籠から離れ、冷たい川から離れよう。いくら逃げられないと言っても、相手に抗議も懇願もできないままひと飲みされるのは嫌だった。

どうせ殺されるなら、少なくとも家族の命くらい救えなくては、何のために来たのか分からない。



ドキドキしながら、草むらに隠れた。
たとえ着物が汚れようとも、どうせ山神様は人間の見目など頓着しないだろう。咄嗟に飛び込んだそこは、村でかぶれ草とよばれる草の群青地点だったようで、ピッと頬に鋭い熱が走った気がした。

「っっ!」

「―――なんだ、今回の贄は白鼠なのか」

バッと振り返った先にあったのは、ギラリと輝く鋭い牙だった。
反射的に横へ転げ飛ぶと、先ほどまで私がいた場所にダラっと濁ったよだれが落ちた。その牙の大きさと、よだれの量にぞっと青ざめる。まさか、気配すら感じさせずに、こんな大きな巨体が背後に迫っていたとは。

驚く気持ちと、やっぱり私はただの生贄だったのだと納得する気持ちが、体を渦巻く。

「嗚呼、なんだ。さすが鼠だけあって、すばしっこいな。赤い髭などはやしているから、注意がそれて食い損ねてしまった」

「ひっ……」

「うむ。歌うたいの巫女なんて大層な名前で呼ばれているとは聞いていたが、噂にたがわぬ美声だな」

「あ、あぁ……」

顎がガクガクと震え、まともな声なんて発せなかった。
気づけば、自身の顔ほどありそうな巨大な瞳に見据えられて、私は腰を抜かしてしまっていたようだ。動け、動けっ。こんな奴のために、私が犠牲になるだなんて許せない。こうなってくると、本当に雨をやませる力があるのか、ますます怪しくなってくる。こんな気持ちのまま、死ぬことなんてできない。

「その美声で、せいぜい泣き叫んでくれ……儂の腹の中でな?」

「っっだれが、」

「ほら、そろそろ観念せい」

じわじわと獲物をいたぶって楽しむように、ゆっくりと巨大な口が迫りくる。
チロチロと動く舌ですら巨大で「嗚呼、こんな所で死にたくない」と強く思った時には、ギュッとその細長い舌を掴み上げていた。

「っっ!」

次の瞬間には背中へ鋭い痛みが走って、地面が目の前に迫っていた。



グッと息が詰まって、呼吸が苦しくなった。
どうやら私は、近くの木に背中を叩きつけられたらしい。相当な力でぶつけたのだろう。体中が燃えるように熱くて、目の前が赤く染まった。瞬きを繰り返してみるけれど、視界は一向に晴れることがない。

「ふざけおって、この小娘がっ!」

「…………」

「この儂がせっかく喰らってやると言っているのだから、大人しくしておれ」

勝手なことを言うなと、反論することすらできない。
嗚呼、一瞬でもこんな奴に喰われてもいいと思っていた自分が恥ずかしい。こんな大きいだけの蛇に、何ができるというのか。きっと害をなすばかりで、雨をやますことなどできはしないだろう。

大きな口が近づいてくるのが、小間切れのようにゆっくり見える。
もう駄目だと目をつぶったところで、それは起こった。

「―――ただの化け蛇の分際で、ずいぶん大きな口を叩くんだな」

「何っ?」

鋭い音がしたかと思うと、大量の水が滝のように目の前に落ちてきた。
嗚呼、死の間際まで、雨に悩まされなければならないのか。絶望に染まりかけた視界がとらえたのは、巨大な『なにか』の首だった。一瞬遅れで大地が揺れる震動で木々もなぎ倒され、驚きが冷めやらない。

「……あんた、大丈夫か?」

「や、やまがみ、は……?」

「あんな奴、神なんてそんな大層な存在じゃないぞ」

「く、くび、首がぁ」

「うん?お前食われる所だったのに、化け蛇を殺したからと言って非難するなよ。あれはとりわけ大きかったが、俺の村では立派な害獣だぞ」

「えっ、こ、ころして、くれ……た?」

「嗚呼、俺は悪さをしている害獣専用の退治屋でな。この手の奴は子賢くて異様な術を使ったりして、人間をうまく騙くらかして喰らおうとするんだ」

「がい、じゅう……」

「―――あんた、もしかしてさっきから立てないのか?」

これだけ荒い息をしているというのに、ようやく気付いたのかと呆れてしまう。
熱かった熱は徐々に引いていき、どくどくと背中が痛くてたまらない。呼吸に合わせて痛む体は、生きているんだと実感させてくれる。

「笑っているくらいだから、大丈夫なのか?」

訝し気に顔を覗き込んできた男は、考えていたよりずっと若かった。

落ち着いた話し方から、もっと年が離れていると思ったから意外だった。特別男前なわけではないけれど、たくましい体に一人納得する。あんなに巨大な蛇の首を切り落とすことができる人間なんて、このあたりにいる訳もなく。こんな形で命が助かるだなんて、思いもしなかった。あまりの予想外な展開に、拍子抜けしたのだろう。ついこれまでのいきさつを、男に問われるまま話してしまった。

歌をうたうのが好きなこと、村の雨が降りやまないこと……生け贄となった、いきさつまでも。その間も男はテキパキと動き、背中の傷を簡単に処置してくれた。見知らぬ男に着物を脱がされる抵抗はあっても、痛みが少しでも引くのならと我慢できた。ズキズキした痛みが少しマシになってきたけれど、私を背負って歩き出したことには、さすがに声を張り上げてしまう。

「えっ、ちょっと、どこに行くのっ」

「どこって……話を聞く限り、村には帰れないし、こんなぬかるんだ山に居たいわけでもないだろう?」

「そ、それはそうですけれどっ!」

「じゃあ、近くの村まで送ってやるから安心しろ」

「そんなこと言っても、隣の村には私の噂が伝わっているはずだから、受け入れてくれるはずがありません!」

「じゃあ、そのまた隣の村まで行けばいいだけさ」

「そんなっ、どれだけ距離があると思っているんですか」

「大丈夫、大丈夫。あんたの一人くらいなんてことないさ。村の奴らにも、俺からうまくいってやるから」

村の男衆が数人がかりで苦労していた道のりを、男はひょいひょい降りていく。
いくらのぼりより進みやすいからと言っても、簡単な道ではないはずだ。それなのに広い背中は安定感抜群で、たくましい腕の感触に少し恥ずかしくなってしまう。

「あ、あの……本当にありがとうございます」

「もう何度も聞いたよ。声が綺麗だから、うれしいけどな」

呆れるでもなく、軽く笑いながら答えてくれる。
今まで、そんな人がいただろうか?思い返してみれば、歌をうたって感謝されることはあれど、こうして何気ない会話を家族以外とするのは久しぶりかもしれない。嬉しくて楽しくて、こんな状況でなければ歌いだしたいくらい、『普通』の感覚が懐かしかった。



歌うたいの巫女なんて、そんな大層な称号要らなかった。
私はただ歌が好きで、みんなに喜んでもらえればそれでよかったのに。これからは、自由に歌をうたって生きていこう。まずは傷が治ったら、助けてくれた彼にお礼の気持ちを込めて歌ってあげたい。―――けれど、その願いは叶うことがなく。蛇の呪いに侵された私は、声を出すことができなくなっていた。





✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾





大きな目に涙をいっぱい溜めた孫娘のメアリーは、何と言っていいのか分からないように口をもごもごとさせている。
本当はこんなに、あの人と出逢った詳細を語るつもりはなかったのに、ついつい乗せられてしゃべりすぎてしまった。少し幼い女の子には刺激が強すぎたかと反省しながら、夫を思い出させるこげ茶色の髪をなでる。



異国の血が入っているという夫の髪はこげ茶色で、一人息子もその毛色を受け継いでいた。まさか孫娘にまで引き継がれるとは思わなかったけれど、生まれた時から美人さんだった孫娘には、野暮ったい名前が似合わなくて、夫の母親の名前をもらってつけていた。

「そんなの、ひどい……」

『そうね。でも、そのひどい出来事のお陰で、大好きな夫に出逢えたのよ』

「そうかも、しれないけどぉー」

私の言葉をみて、ゴシゴシ目元を拭き始めたメアリーの頭を、ゆっくり撫でる。細い髪は触り心地が良くて、嗚呼こんな所まであの人に似ているのかと感心する。

「おばあちゃんは、蛇が死んだときにかけた呪いのせいで、声が出なくなったんでしょう?」

孫娘の言葉に、肯定も否定もすることはせず微笑む。
あの人は最後まで大蛇のせいだと信じていたけど、正直半信半疑だった。何せ、あの人とこの村にたどり着いて、一晩寝たら声が出なくなっていたのだ。それも始めは、怪我が原因で発熱しているからだと思っていた。


あの人は旅の途中だったというのにいたく心配してくれて、村外れの空き家を借りて、ずっと寝ずに看病してくれた。

「ごめん、ごめんな……俺が様子を伺ったりせず、すぐに助けていれば、こんな怪我せずに済んだのに」

『大丈夫ですから、貴方も寝てください』

「いや、俺のことは気にしないでいいから、まずは体を休めてくれ。ほら、文字をずっと書いて、疲れたら大変だから」

終始そんな調子で、熱が下がってからもやれ「喉に良い薬草を摘んできたぞ」だの、「町の医師が名医らしい」だの世話をやいてくれた。



しばらく面倒を看れば情が沸くのか、気づけばあの人と私は恋仲になった。
私のほうは、助けられた時からずっと慕っていたから、嬉しくて仕方がない。一緒に過ごせただけでも幸福だったのに、新しい家族まで出来るだなんて、幸せ過ぎて怖いくらいだった。





―――幸せで、幸せ過ぎて、怖がっていたのが悪かったのかもしれない。

あの人は、一人息子が乳離れしたころに「あんな害獣のせいで、母親の声を聞かせられないなんてあんまりだ」なんて言って、呪いを解く方法を探すために旅立ってしまった。本当に呪いを解く方法があるのかもわからず、そもそも本当に呪いのせいかも分からないのに。一度言い出したら聞かないあの人は、時々便りをよこすばかりでろくに帰ってこなかった。

「それならおばあちゃんは、この村に来てからずっと声が出ないままなの?」

『そうよ』

鬱々とした自身の思考にハマっていたせいで、可愛い声にびくりと体を震わした。



蛇の呪いはいまだ解けることがなく。

夫はこうなったのは自分のせいだと言っていたから、あのまま村に居続けるのはつらかったのだろう。本当は声が出ないことよりも、夫が旅に出てしまったことの方がよっぽど悲しいけれど、そんな弱音も吐けはしなかった。

「メアリー、そろそろお夕飯を作るから、手伝ってちょうだい」

「はぁい」

『いってらっしゃい』

「うん、おばあちゃんのために美味しいごはんを作るから、楽しみにしていてね」

『ありがとう』

きゃっきゃと明るい声を出して、母親の元まで走っていく。

もう、何度も見たはずの景色も、まるでひとつの絵画のようでまぶしく思える。あの人に出逢うまでは、こんな幸せな光景の一部になれるだなんて、思ってもいなかった。



どこか感傷的な気持ちが湧くのは、あの人との出逢いを思い出したからだろうか?

好きで好きでしょうがなくて、初めての恋ということもあり必死に駆け抜けてきた。いつあの人が帰ってきてもいいように、何とか農業で生計を立てて。あの人が心配しないで済むように、息子も立派に育て上げた。最近は連絡が途切れがちだけど、一体どこにいるのやら。私だっていつまでも若くないのだから、そろそろ帰ってほしいと考えたところで、突然喉に違和感をおぼえてむせこんだ。


こんな時、耳の良い孫娘がいの一番に駆けてきて背をさすってくれるものだけど、今は夕飯づくりに忙しいのか可愛い足音は聞こえてこない。
ゴホゴホ、ゴホゴホとしばらくむせた所で、ふわりと背中を大きな手で覆われて息を吞む。

「―――ただいま」

始めは、ただの空耳だと思っていた。けれど、その響きがあまりに懐かしくて、記憶にあるより大分掠れているにも関わらず、振り向かずにはいられなかった。

「おかえりなさいっ」

自身の声に、ハッと再び息をのむ。
どうして声が出るのかという疑問も、にこにことした彼の笑顔がすべてを物語っていた。嗚呼、やはり彼はとことんすごい人なのだと、何度目かの感想を覚える。まさか呪いが解ける日が来るだなんて、思いもしなかった。

「ずっと、逢いたかったわ」

「ははっ、まさかこんな白髪頭になるほど帰れないとは、思いもしなかったよ」

「笑いごとじゃないわ」

散々やきもきさせて、こんなに皺だらけのおばあちゃんになるまで待たせるなんて、本当にひどい人。色々な感情が渦巻くけれど、まずはずっと伝えたかった言葉をそっと口にのせる。

「あのね、ずっと……貴方に伝えたかったことがあるのよ」

知らず幼い口調になったことに頬を染める。
例え声が戻らずとも、この人に再び逢えたなら必ず伝えようと決めていた。文字でもいい、人づてでも構わないとおもっていたから、いざ自分の言葉で伝えられるとなれば、何から話していいのか迷ってしまう。

こんな年寄りが口ごもっても煩わしいだけだろうに、この人は昔と変わらず優しい瞳でただ見守っていてくれる。その瞳をみていると、まるで自分のシワや染みなどなくなったかのように思える。

「……何年も経っているのに、お前の瞳は変わらず澄んでいるんだな」

呟くように口にされた言葉に、じわじわと顔に熱がのぼる。一瞬、そんなわけがないと否定しかけたが、自分も似たようなことを考えていたではないかと、くすりと笑う。今なら、言えなかった言葉も口にできそうだ。感謝以上に、まずは伝えたいことがある。

「あのね、」

私は出逢った時から、ずっと貴方に恋をしていた。



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