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ノスタルジアの溜息
しおりを挟むそれは、座っているだけでも汗の滴り落ちるような、夏日のことだった。
「―――ねぇ、先生?」
少女に話しかけられ、どきりとする。
それはいつも通り、自身が講師を務める短歌の会も終わりを迎え、生徒の一人である女学生と、とるに足らないことを話していた時に落とされた言葉だった。普段であれば「すぐ返答することができる、何気ない呼びかけなのに」と焦ってしまう。どうやらこの熱気と、別のことに気を取られるあまり反応が鈍くなっていたようだ。
一回り近く下の、子ども相手に何をやっているのかと呆れもするが、後ろめたさに目を伏せた。若さを見せつけられる、血色のよい頬をはじめは見ていたはずなのに。みずみずしい唇や……浴衣からみえる襟足にまで目を向けてしまったことが、間違いだった。
一筋の汗がすっと流れ、浴衣の中へ吸い込まれていく。
その動きはあまりに印象的過ぎて、目に焼き付いてしまった。言い訳に聞こえるかもしれないが、本当にはじめは滅多に見ることのない『大人しい彼女』と、その横顔を見ているだけだった。ただそれだけで何も不埒なことは考えていないはずなのに、ばつが悪くて茶をすする。
「なんですか?」
「先生の許嫁って、どんな方だったんですか?」
思いもかけない問いに、しばし無言を通した。
ずっと目を合わせてこなかった彼女がつっとこちらへ顔を向け、黙秘は許さぬといった様子で見据えてくる。再び茶をすすって口を潤すが、なぜか先ほどより苦く感じた。茶柱などたっていないのを少しかき混ぜ、重い口を開く。
「そうですね……素朴な人でした」
無難な言葉をいって返すと、彼女は意外だというように目を見開く。
「あら、あれではないのですか?立てば芍薬、座れば牡丹」
「歩く姿は白百合かな……ですか?」
「えぇ」
ぱたぱたと仰ぐ団扇に、目を奪われる。何時もの溌剌とした様子も、この暑さの前では力を失っているようだ。気だるげな彼女は、どうも慣れず落ち着かない。
自分が、この少女といっても障りない年齢の娘に色を見出してしまったのも、纏わりつくような暑さのせいかもしれない。そんなことを考えながらも、聞かれた言葉を否定する。
「いいえ、決してそんなタイプではありませんでしたよ」
むしろ、それをいうなら君のほうが―――。
続きかけた言葉を、寸でのところでとめる。目のまえの彼女は溌剌としており、その笑顔は陽を思わせる華のようだ。それに対し許嫁と呼んでいた人は、町で見かけても気づかずにすれ違うような……特に秀でた外見ではない人だった。第一、ずいぶん前に家同士が勝手に結んで、勝手に解消した。互いに特別抵抗することもなく、終わりを受け入れられる。そんな程度の間柄だった。
もしかすると、目の前にいる彼女も見た目の点では、さして大差ないのかもしれない。
しかし、こちらに与える印象は全くそれとは異なり。つい目を引かれてしまう何かがある。それが彼女なのだと、考えている。気にしないようにしていても目が彼女を追い、許嫁だった女性の時よりも、単なる教え子である彼女を想っている時間のほうが長い。
こんな気持ちは錯覚だと思いながら、近頃では彼女相手に不埒なことを想像しているのだから、まったく男とはどうしようもないものだ。
気温の蒸し暑さだけが原因ではない熱い息を、そっとこぼした。
✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾
話が途切れたところで、一息吐く。
目の前の男は早く話の続きが聞きたいと、前のめりに聞いてくる。
「それで、その女学生とはどうなったんですか?」
「彼女なら、うだつの上がらない男と結婚しましたよ」
まったく、彼女のような朗らかな人があんな男につかまるなどなんという事かと、いくら嘆いたかしれない。白無垢に身を包んだ彼女に抱いた何とも言えない感情は、これまで誰にも語ったことはない。清らかで美しい嫁ぎ行く彼女を目にして、己の中に欲望をたぎらせていたことなど誰に言えるというのだ。
「おやぁ、それはそれは……」
黒い笑みを浮かべた私に、何を勘違いしたのか見当違いの慰めを目の前にいる男はかけてきた。きっとタイミングが合わなかっただけだの、出逢った時代が悪いだのとまったく賛同できない言葉の数々に内心苦笑をこぼす。
この―――何とも表しがたい感情を、理解してもらえる訳がないのだ。
それをわかっていながら口にするなど、酔狂なことだったかと反省していた所へ、襖の外から声をかけられそちらに意識を向ける。
「どうぞ」
「失礼します」
湯気を立てる茶の横には、以前この男が好きだと言っていた和菓子が茶請けとして用意されている。そのさりげない気遣いと綺麗な所作で茶を出す妻を見て、不満などないはずなのに何ともつまらなく思えるのも確かだ。この暑い中今まで家事をしていてはずなのに、着物はよれてすらいない。
はねっかえりの女など妻に持っても扱いきれず、もてあますだけだと分かっていながら過去に見た少女の眩しさが忘れられない。そんな事を考えていた罰が当たったのか、妻は私をちらりと見た後に男へ声をかけた。
「だめですよ。主人の言葉は、本当と嘘がまざっているんですから」
「いや、ご婦人すみません」
妻が先ほどまで話していたことを聞いていたのだと知るやいなや、あわてた様子で彼は言葉を紡ぐ。きっと昔のこととはいえ、他の女性の話題は不適切だと考えたのだろう。ましてや、くだんの『女学生』とうまくいかずに、残念だったなどと口にしたのだ。
その表情とたがわず、心の中では大量の冷や汗を流していることだろう。
いそいそと茶を飲み、うまいだなんだと世辞をいう。
「私が虚言症だというのなら、貴女は私よりも上手じゃないですか」
「あら。それではまるで私が、詐欺師か何かみたいな言い方ですね」
「嗚呼、機嫌を損ねてしまったのなら申し訳ない」
慇懃無礼を絵に描いた様子で答えてみせる。
我々夫婦にしてみれば、さして珍しくない会話だった。だが男は、そうは捉えなかったようだ。自分のせいでけんかを始めるのではないかと、早々に席を立った。すごすごと帰る様は思いのほか間抜けで、何故あんな男に無駄な時間を使ってしまったのかと、苛立ちすら覚える。
男を見送った後、戻ってきた妻の顔は浮かない様子だった。
「あまり嘘をついていると、信用を失いますよ」
「すべて話すことだけが、良いことだとは限らないでしょう」
何てことないように返した言葉に、妻は片眉をあげてみせる。前々から、あの男は気に入らなかったのだ。十年ほどまえに己の考えた短歌集が書籍という形で販売してもらえることになってから、いろいろな人間が寄ってくるようになってきた。
私が女学生にあったのも、それがきっかけと言って間違いない。短歌を人に教え、先生などと大それた呼ばれ方をされ。そのなかの一人にこんな気持ちを抱いていたなど、口にするのが憚れることを知りたがったあの男が悪い。
あの男は今度出す短歌集の担当者だということだが、どうにも価値観が合わない。まだ数度しか会っていないが、人を変えてもらおうと今日の様子を見て決意する。
「あら、分かってやっていらしたのね」
「さあ、何のことやら」
あまりにもわかりやすい誤魔化し文句に、妻はけらけら笑い声をあげた。あの男が陰で私の俳句を馬鹿にしていたことも、妻に色目を使っていた事も知っている。
散々悩み悩んで、罪深いとその罪の重さにおびえながらも、ようやく得た掌中の珠といって相違ない妻を狙う男など、たとえ仕事相手だとしても我慢ならない。
「―――そんなことよりも」
「あら、何ですか?」
「何もあんな男にまで、愛想良くする必要はないと思いませんか?」
彼女だって、いつまでも無垢な女学生のままではないのだ。
あの男が自分にいやらしい目を向けていたことを、全く気付かなかった訳ではないだろう。どうしてそんな男まで、手厚く歓迎するのかわからない。
「ああいった輩は普通の対応をするだけでも、つけ上がるものなのですよ?」
「あなたの仕事相手だから、失礼があっては困ると愛想よくしていただけです」
「やりすぎですよ」
今頃もしかしたら、私たち夫婦の間に割って入る算段をつけているかもしれない。いくらあの男が気に入らなかったとはいえ、先ほどの対応はまずかったと反省する。
むしろあそこでは、どれだけ彼女を想っているのか語って聞かせるべきだった。
「―――私は、失敗したかもしれませんね」
すごすごと逃げる男を言いざまだとあざ笑うのに夢中で、昔と変わらず彼女を深く愛しているのだという機会を失ってしまった。異国の客人のように、夫婦とはいえ人前で接吻などかわす気はないが、肩の一つでも抱いておくんだったか。
静かに舌打ちする私へ、何を勘違いしたのか妻が神妙な顔で問いかけてくる。
「先生は……、今の私が気に入りませんか?」
「なんですか、いきなり」
「だって。ここ最近は口を開けば、昔のことばかりなんですもの」
昔のより落ち着いた装いに、洗礼された動き。
そのどれをとっても、あの頃のまぶしいほどの溌剌とした様子は垣間見えない。今ではすっかり落ち着いてしまって、時々まるで違う女が腕の中にいるのではないかと、錯覚する時があるのは確かだ。しかし―――。
「娘ができて、少し過敏になっているだけですよ」
そう。
今は隣室で眠っている、小さく可愛い娘が、将来どんな男の隣に立つのかと考えると、今から胃が痛くなる思いだ。
「先生が過保護になるなんて、意外だわ」
「おや、そうですか?」
「だって、昔から先生は優しいけれど、いつも冷静で淡白な印象だったのだもの」
思いがけない言葉を聞き、目を瞬かせた。普段から人当たりの良さで優しいだのと言われてきたが、まさか妻には心の芯にある……冷めた感情を知られていたとは。
「……これだから、貴女にはかなわない」
「あら何か?」
「愛していると、言っただけですよ」
私の言葉を受けて、妻の顔は嬉しそうに綻んだ。
どんなに時が流れたとしても、その笑顔と中身は変わらないのだと、そっと満足の息を吐いた。
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