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意地悪な彼
しおりを挟む「君って、本当に気持ち悪いよね」
彼から言われたそれは、少なくともこの状況で言うには余りに理不尽で不釣り合いな言葉だった。
私は、高校に入って生まれて初めて恋をした。
相手は一年生のときに同じクラスだった紅粉#__べにこ__#君という、少し変わった名字の人だ。
彼は一人で行動していることが多くて、部活にも入っていないようだった。
仲がいいのは中学時代からの付き合いだという数人の男子生徒だけで、女の子と話している所はほとんど見たことがない。
銀縁のメガネをかけた彼は、見た目通り神経質な人だった。
入学当初はクールだと言われて人気があったし、女の子たちに声をかけられる姿も何度か見た。一重で少し吊り上った目やすっと通った鼻は、確かに周囲の目を引いた。
それなのに、彼が返すのは『騒がしいのは好きじゃない』などという冷たい反応だった。何もそこまでしなくてもいいのに……と思えるような睨みを利かせていた時など、私へ向けられたわけでもないのに怯えてしまった。そんな態度の彼に、わざわざ何度も話しかける人はいなかった。
次第に彼は気取っているなどと言われて、クラスでも避けられる存在になっていた。
―――けれど私はたった一度一年生の頃に交流を持った事で、彼に対して特別な感情を抱いていた。
あれはみんなが帰った冬の放課後。その日私は日直で、一人日誌を書いていた。
本来男子と女子の二人で担当する物なのだけれど、運悪く相手はお休みで。日中のノートや提出物を運ぶ作業などは友人に助けてもらった為、申し訳ないからと先に帰ってもらっていた。
日誌も書き終って、後は黒板を綺麗にするだけだと黒板消しを握る。
先生によっては授業終わりに消してくれる人もいるのだけれど、最後にあった授業の先生は消してくれなかった。その上、隅から隅まで板書してあり、筆圧も濃いため消すのも一苦労だった。背がさほど高くない私は、黒板の上に書いてある字をなかなか消すことが出来ずに焦っていた。
これからまだ、ノートを職員室に渡しにいかなければいけないのだ。
今ならまだ大丈夫だと思うが、早くしないと職員会議があると言っていたから渡しそびれてしまうだろう。焦って背伸びをするが、濃い筆圧はそれくらいでは消せそうになかった。
何度も字の上を掠るが、上手く消せない。椅子や机に乗って消せばいいとも考えたが、私の席は後ろの方なので持ってくるのが大変だ。このままでどうにかならないかと頑張っている時に、ガタっと机を動かす音がした。
そこに立っていたのは、例の彼だった。
「あっ、あれ……?えっ?」
「さっさと貸して」
紅粉君はつかつかと私の元まで歩いてくると、ぐいっと手から黒板消しを奪って消せなかった箇所を消してくれた。戸惑いながらも「ありがとう……」と小さな声で言った私に対し、彼は何を答える事もなく、鞄とノートの束を掴んで歩きだした。
そのノートは、これから私が職員室に持っていこうと考えていたものだし。彼には関係ないはずなのに、持ってもらっている事が申し訳なく感じる。
どうして手伝ってくれようとしたのかは分からないが、彼は間違いなく職員室に運ぼうとしてくれているのだろう。私は急いで日誌とかばんを持つと、彼のあとを追いかけた。
「っあ、あの。手伝ってくれてありがとう」
「……別に、たまたま先生に様子を見て来いって、言われただけだから」
素っ気なくそう言った後、彼は口を開いてはくれなかった。
ノートも、クラス全員分なのでそれなりの量で大変だろうと、半分持たせてくれるようにお願いした。けれど「これ位も持てないほど、俺のこと非力だと思っているの?」と聞かれて、任せるしかなくなってしまった。
背が低いわけではないが、線が細い彼は以前にそのことを指摘されて本気で怒っていた。もしかしたら、自分でも気にしている部分なのかもしれない。
夕日が射し込み、外からは運動部の声がする。
きっと一緒に歩いていたのは僅かな時間だったのだろうけれど、職員室まで彼と無言で歩いているその瞬間は、とても長く感じた。
ようやく職員室に着いて紅粉君にお礼を言う頃には、特に何もしていないはずなのにとても疲れてしまった。はっきり発言するのが苦手でオドオドした私は、彼を苛つかせてしまうだろうと怖くてしょうがなかったのだ。
他のクラスメートのように、いつ厳しい言葉をかけられるのかとドキドキしていたのに、彼はむしろ終始無言でこれまで持っていたイメージとは異なっていた。
これまで紅粉君は自己中心的な人で、少し話しかけただけでも馬鹿にされるか、冷たく突き放されるかのどちらだと皆言っていた。人に囲まれるのが苦手な私は、一時期しつこいほど絡まれていた彼に同情すら感じていたのだけれど、周囲に対する発言が過激すぎて、遠目に見て怖いと思っているだけだった。
直接関わった彼は、そんな噂通りの人とは思えなかった。
歩調は私に合わせてゆっくりで、黒板だってノートだって私を助けてくれたのだろう。先生にだって私のことを『見てこい』といわれただけなのに、ここまで付き合ってくれた。先生もまさか、紅粉くんがここまで一緒に来るとは思わなかったのか、意外そうな顔をしていた。
「おうっ!わざわざ一緒に持ってきてくれたのか紅粉、佐東も今日は一人で任せてすまんな」
「いえ、私が一人で大丈夫って言ったんですし……。むしろ紅粉くんに、迷惑をかけちゃいました」
焦った様子で会議の用意をしていた担任は、私たちを見て申し訳なさそうだ。
朝にこの先生は「佐東一人で大丈夫か?」と散々心配してくれた。けれど男の子が苦手な私は男友達もいないし、むしろ一人で嬉しいくらいだと喜んでいたのだ。
さっきまで少し、罰が当たった気分だったとは二人には言えずうつむいた。
職員室を出てから、少しでもお礼の気持ちを表せればと思って鞄を探る。
「こっ、ここまで……運んでくれて、ありがとう」
「いや、別に暇だったし」
「あのっ、こんな物しかないんだけれど」
断られてしまうのではないかと無理やり、紅粉君の手に飴を握らせた。戸惑ったような彼は、手の中に握らせた飴を見てぎょっとしたようだった。やはり、男の子に渡すには間違っているだろうか。
今はあいにく、イチゴ味の可愛い飴しか持ち合わせていなかった。男の子に対するお礼にしては、可愛いし甘すぎるかもしれない。そう思いながらも、思わぬ優しさに触れた私はお礼をせずにはいられなかった。
ただ、それはこちらの勝手な押し付けだ。
『馬鹿にしているのかっ』と怒られるかもしれないと思い、ぎゅっと私はうつむいて目をつぶる。男の子だと可愛いと言われる事にも抵抗があると言うし、恩をあだで返す失礼な女だと思われたのではないだろうか?
そんな私の様子に反し、紅粉君はなぜか突然吹き出すと私の頭を優しく撫でた。
彼の笑う姿など初めて見た私はどうして笑われたのか考えるよりも、彼の笑みが頭に残って離れなかった。その時から、ずっと私は彼を好きなままだった。
これまで、二年もあったのに私は何も出来ないでいた。
彼に話しかけるも挨拶を交わすのがやっとで、なにも紅粉君について知らない私は話を続けることすら出来ないでいた。
一年生の時は同じクラスだったけれど運が良かったのはその時だけで、後は別々のクラスになってしまったため姿を見かける事すら少なくなった。―――そんなことをいつまでも続けていては駄目だとようやく決心して、最近ではわき目もふらず彼に話しかける様になった。
本当は、周囲に嫌煙されている紅粉君に人前で話しかけるのは、私の性格上とても緊張する。少し話しかけるだけでも、滅多に人と話すことがない彼がどんな反応を返すのかと、みんなが注目するのだ。
挨拶を交わすだけでも、その場にいるほとんどの人がこちらを窺っているのが分かる。でも私は、彼と関わるのを諦めようとしなかった。
三年生の秋、突然周囲をちょろちょろしだした私に嫌気がさしたのか、彼は「話がある」といっただけで屋上近くの踊り場まで私をひっぱっていく。今日は雨が降っているため、ここまで来る人もいないようだ。
「……最近やけに絡んでくるけれど、どういうつもり?」
彼は端的にそう言ったきり、こちらを振り向いて不機嫌そうな顔を隠そうともせずに睨んでくる。出会って間もない頃なら怯えてしまっただろうが、ここしばらくで大分その表情も見慣れてきた。以前みたいに、訳も分からず怯えることもない。
「……あの、私少しでも、貴方と話をしてみたくて」
どもりながら言った私に、彼は訝しげな顔をする。
突然こんなことを言いだした私の真意を測ろうとしているのだろう。ずっと私の顔を見ていたかと思うと、片眉をあげて何処か意外だと言うように呟いた。
「何かの罰ゲームではなかったのか」
「えっ?」
小さくて聞こえなかった言葉を問うが、彼は「なんでもない」と言って答えてくれなかった。一瞬不思議そうな顔をしていたと言うのに、紅粉君は直ぐ不機嫌そうな顔に戻ってしまった。
「―――で、どんな目的があって俺にこんなもの渡したの?」
紅粉君の手に握られていたのは、確かに私が渡したアイルランドについての情報誌だった。けれど、どうして私が渡したのだと分かってしまったのだろう。
これは、彼がアイルランドに興味があると言っていたので、わざわざ買った物だった。
「人の机に無断でこんな物入れて、喜ぶとでも思ったの?」
彼の言葉は尤もだ。アイルランドに興味があると聞いたのも、私に直接教えてくれたのではなくたまたま知ってしまっただけ。友達でもない私に、こんな事されても迷惑だろうと名前すら書くことが出来なかった。
「あんなメモだけ挟んで……」
少しでも応援している気持ちを伝えたくて、私は一言だけメモを残していた。
彼が勉強家なのは分かっているから、行きたいと言っていたアイルランドにだって直ぐ馴染めてしまうだろう。
「―――だって、高校卒業したら留学しちゃうんでしょう?」
「……なんでそれ、」
彼はどうして知っているのかと呟いたあと黙り込んだ。たぶん職員室で先生と話していたのを、盗み聞きしたと思われて嫌われてしまうだろう。本当に偶然聞いただけなのだけれど、彼はそういうことは嫌いだし。私だって、話していない人が自分のプライベートなことを知っていたら怖いと思う。
考えていた通り紅粉くんは眉間にしわを寄せ、難しい顔をしている。
昔、クラスメートの女子が紅粉くんのケータイのアドレスを無理やり入手した時、烈火のごとく怒っていたのを思い出し、きゅっと胸が締め付けられた。怒られた女の子は悪態をついていたけれど、もしもそんな反応をされたら二度と近寄れなくなりそうだ。
「……職員室で話していたのを、聞いたのか」
「えっ、あ、うん。よく分かったね」
思っていたよりも穏やかな声が返ってきたので驚いた。
「……それで?最近やけに構ってきたのは、俺が留学すると思ったからかな?」
彼の言葉を否定などできなくて、頷くことで肯定する。
もしかしたら、留学の話が出てこなければ二度と話すことも、できないままだったかも知れない。
けれど、これが彼に会える最後の機会になるかもしれないと思った瞬間、居てもたってもいられずに、私は彼に接する機会を増やそうと躍起になった。紅粉くんの内面を知れば知るほど好きになって、このまま彼への気持ちを消してしまいたくないと思ったのだ。
もしも大した努力もしないまま離れたら、後悔することなど目に見えている。ここで動かなかった場合の、みじめな様子の自分を容易に思い浮かべられる。……きっと毎日泣いては瞳を腫らし、いっそ彼を忘れてしまいたいと嘆くのだろう。
「だいすきです……」
情けなく鼻声になってしまったが、今伝えずにはいられなかった。
どうしても、このままの気持ちを知って欲しかったのだ。紅粉君は、以前クラスメートに向けたような激しい感情を私に向けるどころか驚くこともしなかった。
尤も、彼にはさも呆れたという顔をされてしまったが。
「君はまたそうやって……。
パンフレットの事といい何なんだい、何がしたいんだ?」
いっそお金目当てだと言われた方が、よっぽど納得できるんだけど。まぁその時は選ぶ人間を間違っていると諭すだけだが。など、紅粉くんには好き勝手言われてしまった。彼にとったら、パンフレットを勝手に入れたことも突然の告白も、訳の分からない行動として一括りにされてしまうらしい。
……どうして、こんなにも私は間が悪く、口下手なのだろう。
これでは、たとえ彼にではなくても伝わる気持ちがしない。『難攻不落のラスボス』と呼ばれるほど多くの人を振ってきた彼に、これで告白しようとするなんて、おこがましいにも程があったのだろうか……?
「―――本当に好きなのに」
ぽつりとこぼれた言葉が、あまりに覇気がなくて嫌になる。
それから数日、私は彼からの返事をもらうこともなく、話し掛ける事もしなかった。
彼を意図的に避けるようにしていたのだが、思いがけない知らせを聞いた事で私は彼のもとへ走り出した。
紅粉くんが倒れて、保健室に運ばれたというのだ。高校三年の秋であり、推薦が決まっている私は自習の時間に抜け出して彼のもとへと急いだ。この時期にもなれば、受験生である生徒のために実習の時間を取ることも多い。教師達は下手に騒がしくしているよりも、多少抜け出しても邪魔をしないほうがいいと考えているのだろう。『気分が悪いから保健室に行ってくる』と言ったら、驚くほどあっけなく許してくれた。
先生は受験生にかかりっきりになり、他の生徒は割と自由にさせてくれている。
保健室につくと、これまで見たことがないような弱弱しい姿の紅粉くんがベッドのなかにいた。熱があるのにもかかわらず、無理をしたのが祟って倒れてしまったという。
そのことを保健師に聞いたときは、思わず「自分の体は大事にしてくださいっ」と叫びたくなったが、寝ている彼を無理やり叩き起こす訳にはいかず、顔に浮かんだ汗をぬぐった。
「悪いけれど、彼の親御さんに連絡してみるからしばらく様子を看ていてもらえる?」と保険室の先生に言われた言葉も、もちろん私は受け入れた。彼女に反対されても紅粉くんに付き添いたいと考えていた為、嬉しいくらいだった。
しばらくして微かに呻き声が聞こえたかと思ったら、ゆるゆると彼の瞳が開かれた。
「体の調子はどう?
とりあえず、水とスポーツドリンクがあるけどどっちがいい?」
「……なんで君がいるの?」
軽く訝しがりながら、彼は水を受け取ってくれた。
本当はスポーツドリンクの方が汗をかいた時にはいいのだけど、紅粉くんは甘い物が好きではないと聞いた事があったのでこちらの方がいいだろうと買ってきたのだ。
すっと彼の額に手を置いてみると、だいぶ熱が下がっているのが分かる。念のため体温計を渡して、汗をかいたままでは気持ち悪いだろうと、ぬるま湯で再びタオルを濡らした。
「ねぇ、いい加減俺の質問に答える気はない?」
人の質問を無視するなんて、君は意外といい度胸してるよねと、嫌味とも文句とも取れない言葉をかけられた。返された体温計は微熱の域を超えていた。彼の口からこぼれる吐息もその熱の高さを表しており、平熱ではないであろうことは明らかだ。さすがに、このまま答えないのは失礼だろうと私は重い口を開いた。
「……紅粉くんが倒れたって聞いて、心配になって」
「嗚呼、君もしかして両親が仕事人間だってことも知っているの?」
「……ごめんなさい」
別に謝られるような事じゃないけど……と、拗ねたように言われても安心できない。
彼とご両親の仲が希薄だということも、紅粉くんから直接聞いたのではなく噂を聞いて知ったのだ。留学の件も、仕事の拠点があちらにある両親に合わせての事だといわれている。
特に悪いことをしたのではないが、前回彼と話してから考えていたのだ。
自分のうかがい知れないところでプライベートなことを広められているのは、確かに気分のいいものではない。それが事実にしろ嘘にしろ、そんな形で注目を集めるのは私としてもごめんだ。
こんな当たり前のことにも思い至らなかった自身が恥ずかしくて、軽はずみに人の心に踏み入ってしまったと反省した。ただ、今回倒れたことに関してだけは口出しすることを許してほしい。
「どうして、熱があるのに無理なんてしたの?」
「―――べつに」
「何か理由があったんでしょう?
どうしても学校に来なきゃいけない用事があったの?もしそうなら、私が変わりに……」
「……あのさぁ、本当になんなの君?
オドオドしていると思ったら、急に強引になったり」
横たわりながら、うんざりといった顔をして紅粉くんがそういった。
やはり余分なことを言ってしまったと反省しつつも、前回のように後悔することはなかった。具合が悪い人間を心配することなど当たり前だし、無理をして倒れた彼が間違っていることは明白だ。
「好きな人を心配して、何が悪いの?」
彼の言葉を無視してそう返すと、しかめ面を隠すように私とは反対へ顔を向けた。
右腕で顔を覆ってしまったため、何を考えているのかもわからない。こんな時に告白するなんて不謹慎だったと落ち込むが、彼から返されたのは意外な言葉だった。
「そんなに優しくされる事なんて、慣れていないから。手放しに甘やかされても、気持ち悪いだけなんだよ……俺は」
思わぬ言葉に息が詰まる。―――何でこの人はこんなにも不器用なのだろう。
言葉の最後に『自分はそうなのだ』とつける事で、人の意見を尊重する面を見つけてしまったから、悲しいとは思えなかった。
「厳しいことを言うから怖い」などと言われている彼の、不器用な優しさに触れられたようで嬉しくなった。熱にうなされていた彼のことは心配だったが、ここまでに口が回るのならば、安心かもしれない。何も答えない私を訝しんだのか、紅粉くんはそろそろと腕を離した。
「……何笑ってるの?気持ち悪いって言われているの、分かってる?」
「ごめんなさい」
笑っているつもりはなかったのだが、つい口元に笑みを刻んでしまったようだ。
熱で参っている彼の横で笑ってはダメだと思うが、彼の素敵なところを新たに見つけられて、この想いは間違っていなかったと確信を持てた。
私の反応を受けて、彼は思いっきり蔑むような眼差しを向けてきた。ベッドに寝ている状態だというのに、そのまなざしは私の心を凍りつかせそうだ。
……これは流石に応えるかもしれない。彼から目線はそらして、首をすくめる。
「君は。本当に、どんな人間なのか分からないな」
「……ごめん、なさい?」
先ほどは不機嫌そうに眉を寄せていたのに、気付けば呆れたような顔になっていた。怒っているのか分からなくて思わず謝ったら、「どうして君が謝るのか分からない……」とまた彼はため息をついて、瞳をそっと閉じた。
紅粉くんが寝てしまう前に許可を取ろうと、「保健師さんが戻ってくるまでここにいていい?」と聞いてみた。だるそうにしている彼だったが「好きにすれば」との返事をもらえたので、私は保健師さんが返ってくるまで濡らしたタオルで顔を拭いたり、好きにさせてもらうことにした。
紅粉くんが倒れた翌々日、彼は普通に学校に来ていた。
昨日は念のため休んだだけであり、熱はすぐ下がったらしい。放課後にたまたま会った彼は、不本意だという様子を隠すことなく声をかけてきた。
保健室に持って行った水が私の買ったものだと、保健師にばらされてしまったようだ。憮然としながらお金を返すと言われたけれど、大した金額ではないし断った。
お礼を言われたのは意外で嬉しかったけれど、酷い雨が降っているため湿気で私の髪はぐちゃぐちゃだ。朝からおさまりなく跳ねているくせ毛を紅粉くんに見られるのが嫌で、何度も頭を撫でつける。
そんな私をしり目に彼は目頭をもみほぐしたり、米神を抑えたりしている。
あまりの不機嫌そうな表情に、常だったら気にしないようにしているのにじりじりと下がってしまう。―――もしかして、彼は保健室で好き勝手に看病していたことを、怒っているのだろうか?
『こんなにも近くで彼の寝ている姿を見るなど、もう二度と訪れないかもしれない』と思って、観察するようにじっと見つめてしまったためばつが悪い。
みんな帰った放課後の廊下はとても静かだ。再び彼から視線を外して外を見ると、さっきまでは酷い雨だったのに突然陽がさしてきて思わず窓辺に寄って空を仰いだ。
そこには先ほどの雨が嘘のような青空が広がっていて、その透き通るような空を彼と共有したくて、「今日はいいお天気になりましたねっ」と声をかけた。
無視されるか、そんなことで感動するなと嫌みでも言われるかと思っていたのに、帰ってきたのは彼の笑い声だった。
✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾
正直言って、こんな人間初めて見た。
不器用でとろいくせに、お人好しで他人のことばかり気にかける。
一部の男からは、『天然っぽくて可愛い』などと言われているのだから、とっとと諦めてそちらにでも行けばいいというのに、彼女は酔狂にもこの俺を好きだというのだ。
彼女のことを、世でいう『空気がよめず、何を考えているか分からないボケた女』と、感じたことはない。もしも彼女が天然などと思われる要因があるとすれば、優しすぎて様々なことを頭で考えるだけにとどめている点だ。
優しすぎるから、相手を傷付けないように言葉を選び反応が鈍るのだ。俺から言わせてもらえば、少し考えただけで、あんなにも柔らかい表現を出来る彼女の頭に脱帽する。
周囲からは多少頭が回るといわれる俺だが、彼女のような柔らかな優しい言葉をひねり出そうとすれば、ヘタをしたら数時間を要してしまうかもしれない。
そして、相手の注意がほかに移った頃に昔の話をほじくり返して嫌がられるのが落ちだ。
―――こんなにも違う人間同士だから、彼女に好かれても困るのだ。
俺はあんなにも優しい彼女を傷付けたくはないのに、口から発せられるのは欠片ほども優しさの感じられない言葉と、効率化を望み過ぎて人間味にかけるとまで言われた行動だけだった。
そんな状態で、どんな話を彼女としろと言うんだ。
『いい天気ですね』とでも話していればいいのか?―――ありえない。
そんな無意味で大した重要性も感じられない話を続けていたら、俺は発狂する自信があるぞ。
大体、留学だって両親があちらで仕事しているため強く進めてこられて迷惑していた。英語ができないわけではないが、自分たちの仕事に合わせて俺を呼び寄せているのが気に入らなかった。拠点がいつ映るかなど分からないし。
それなのに、彼女はそれを応援するなど言うから一人苛立っていただけなのだ。
勝手に期待をかけられても迷惑だし、俺の進路を強制的に決められるのも、我慢ならなかった。そんな子供のような八つ当たりをする俺に、彼女は困ったように微笑みながら構ってきた。熱を出した時だって、親どころか保健師にすら怒られなかったのに、彼女だけは「もっと自分の体を大事にして欲しいっ」と、珍しく声を荒げていたという。俺本人に言わず、保健師に伝言を頼むところが、何とも彼女らしくて笑ってしまった。
野良犬が人間に心を開くように、彼女が土足で自分の心に入ってくる感覚が不愉快だった。彼女の柔らかい雰囲気は心地よかったし、好かれているという事実も嬉しかった。……しかし、そんな自分の感情ですら、俺をいらだたせる原因になった。
俺は彼女のように、癒やしてくれる存在がいなくても何の問題もなく生きてきたし、これからも生きていける。両親に必要以上に干渉されないのも、俺にとっては気楽でよかった。
……それなのに、いきなり優しくされて、裏切られたら俺はどうしたらいい?辛いのは何度も捨てられる犬なのだ。『簡単に懐いてなどやるものか』と、気圧の変化で痛む頭を理由に俺はギュッと眉間に力を込めた。
―――こんなにも彼女を警戒していたのに、たった一言でそれは崩される事になる。
「うわぁ、いいお天気になりましたね」
酷い雨だったのが嘘みたいっと、呟く彼女に思わず吹き出してしまった。
俺がそんな会話をしたら発狂するとまで思っていた言葉を、彼女は何の違和感もなく言ってしまう。不快になると思っていた社交辞令や世間話も、どうしてか不快に感じなかった。何がそんなに嬉しいのか、微笑んでいる顔を見つめていると、窓の外を指さされ視線を移す。
「ほらっ、虹が二本も出ていますよ」
「嗚呼……二本はさすがに、初めてみた」
開けた窓からさわやかな風が吹き込み、不快なはずの雨も悪くないものだと思い始めていた。
やはり、彼女はすごいのかもしれない。
こんな風に流れに身を任せていれば、予想していたよりも悪い結果にならないかもしれない。彼女を見ていると、そんな気持ちにすらなってくるのだから不思議だ。
✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾
急にくすくす笑い出した彼に面食らう。
滅多に笑うことがないと噂されてるのに、どうして突然笑い出したのだろう?
もしや、空を見上げた私の顔があまりに間抜けで、笑われてしまったのだろうか。思わずそう問いかけると、さらに彼は笑い声をあげた。
「普段はこっちがあきれるほど前向きなのに、君は突然マイナス思考になるんだな」
「……それはっ」
好きな人に間抜けな顔を見られ笑われただなんて、どんな女の子でも嫌がると思うのにぜんぜん分かっていない。つい普段はしない膨れ面を披露すると、彼はより笑い転げた。意外と紅粉くんは笑い上戸であったらしい。
「いいね、君」
―――手放すのが惜しくなった。これからは天気の話でも花の話でも、付き合ってあげるよ。唐突にそう言われ、きょとんとした顔しか返せなかった。彼は反応の遅い人間を嫌うから、これまでは気を付けていたのに……。でも彼はそんな私さえも、柔らかい雰囲気が君らしいと笑って受け入れてくれた。
その日私は、初めての恋がスタートした。
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