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前編

Maison de glycine

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 支倉玲一という人は、なんでも器用にこなす。

 今日だって寝不足で辛いはずなのに、七時半にはシャワーと着替えを済ませてキッチンに姿を現し、何事もなかったように朝食の準備を手伝ってくれた。

 綺がコーヒーメーカーをセッティングしている間に、パンをトースターに入れ、ささっと野菜を千切ってサラダにして、卵とベーコンを焼き始める。朝からよく食べる人だ。

「今日は、午後から叔母達の所に行こうと思うんだが、よかったら一緒に行かないか?」

 ドリップが終わるのを待ちながら、手際のよさに感心していると、彼はフライパンに水を足して蓋をし、目玉焼きの火の通りを見ながら言った。

「ご親戚との団欒を邪魔したら悪いですし、留守番していますから、ゆっくりしてきてください」

「いや、それは気にしなくていい。同居してる叔母一家はペンションを経営しているから、そもそもこの時期は客が多くて、家族だけで団欒することはほとんどないんだ」

「ペンション、ですか……」

 ドリップが終わったコーヒーを、二つのマグカップに注ぐ。一方にはレンジで温めたミルクとハチミツを入れておいたから、甘いカフェオレになる。

「こんな何もない辺鄙な場所で客が来るのか、と思っただろう?」

「いえ、そういうわけじゃ……」

「行ってみればわかるさ」

 香ばしく焼けたトーストとベーコンエッグを皿に移して、玲一が「あっ」と声を漏らす。

「綺、塩、一回」

「えっ、あ、はい」

 側にあった食卓用の塩の瓶を取って、目玉焼きに一振りする。

 昨日は蒸し焼きにする前に振っていたのに。

「午前中は、少し眠ったらどうですか?」

「そうするかな……」

 玲一は苦笑しながら、テーブルに皿を運ぶ。

 自分の席にはトーストが一枚乗った皿を、綺の席には四分の一乗った皿を置く。待ちかねたように寄ってきたラークには「お前はこっちだ」とドッグフードの皿を置いた。

 テーブルの真ん中には、サラダボウルと、フルーツのカゴと、ヨーグルト。自分が食べる分だけを取るスタイルだが、綺はカフェオレとトーストだけですませることも多い。昼食も夕食も似たようなものだ。

 一向に回復しない食事の量にも、玲一は一切口を出さない。毎回自分の分を美味そうに平らげて「ごちそうさま」と手を合わせるだけだ。

 おかげで綺も、食事の度に気が咎めるということがない。

 食べられなくても、誰かと一緒に食卓を囲めるのは嬉しい。

 食卓についた玲一と顔を合わせ「いただきます」と手を合わせる。それだけのことが、日に三度のささやかな楽しみになっている。







 玲一の叔母一家が営んでいるというペンションは、別荘と雰囲気がよく似ていた。

 山中の小さな町の、かなり外れた所にポツンとあって ここまでの道中人とも車ともすれ違わなかったが、駐車場として使われている建物横の開けた場所には、何台かの車が並んでいた。

 入り口には『Maisonメゾン・ deド・ glycineグリシーヌ』と書かれた流木の看板が掛かっていて、『藤の家』の名の通り、ペンションをぐるりと囲む白い石壁には藤の蔓が絡んでいる。春になれば、ミステリアスな紫の房飾りに覆われ、甘い香りに包まれるのだろう。

 壁の中の建物はL字。中庭には大きな木のテーブルが一つ出されていて、犬を連れた人達がお茶を楽しんでいるのが見えた。

 玲一がラークを連れて中に入ると、ドアに付けられたカウベルがカランと柔らかな音を立てた。

「いらっしゃい」

 穏やかな声が聞こえて、奥から男性が現れる。

 その姿に、綺は少しの感動を覚えた。

「おっ、玲一か。久しぶり」

「久しぶり。元気そうだな」

「こっちは相変わらずだよ。よぉ、ラーク」

 ラークの灰色の頭をワシワシと撫でた男性は、スラリとした長身で、折り目の綺麗な白いブラウスの上に、茶色いエプロンをかけていた。

 だがその髪と瞳は、玲一によく似た美しい灰色。

 顔の彫りも、心なしか日本人より深い。

「従兄弟の伊角薫いすみ・かおるだ」

 まじまじと見つめていると、玲一が紹介してくれる。

 その声が、なんとなく苛立っているように感じて、チラリと彼の表情を盗み見る。いつもと変わらないように見えるが。

「初めまして、緒月綺です」

「初めまして。玲一が別荘に連れ込んでいる恋人だっけ?」

「ちっ、違います!」

「バカなこと言うな」

「あはは、まぁ、恋人は冗談にしても、玲一があの別荘に人連れてくるのなんて初めてだろう? イネスもアリシアも、どんな人だろう、何があったんだろうって、連れてくるのを楽しみにしてたんだぜ」

「……帰る」

「まぁそう言わずに。緒月君も座って待ってて」

 薫はそう言って、足早に奥へ消えてしまう。

 玲一は眉間に小さく皺を寄せたまま靴を脱いで、靴箱の横にあったタオルで黙々とラークの足を拭く。薫の冗談がよほど不快だったのだろうか。

 少し気まずい気持ちで彼に付いていった先は、ダイニングルームだった。

 中庭に面した木製のアコーディオンドアが全開になっていて、さっきのテーブル席が見えている。風はないが、この辺りは空気がひんやりしていて、夏とは思えないほどすごしやすい。

「玲一さーん!」

 テーブル席について待っていると、バタバタバタと足音が聞こえてきて、二人の子どもがダイニングルームに飛び込んできた。

 男の子は玲一めがけて一直線に走ってきて、女の子は途中で玲一の足元にいたラークに気付いて足を止めた。歳はどちらも幼稚園児くらい。顔立ちがよく似ているから姉弟だろう。

「久しぶりだな、望愛のあ、礼央れお」

「久しぶり、玲一さん!」

「今日はお友達も一緒?」

「ああ、綺って言うんだ」

「綺さん!」

「こんにちは、綺さん!」

「初めまして、よろしくね」

 まだ舌ったらずなところが残った二人の、元気で可愛らしい挨拶に、少し気圧されながら笑みを返す。

「ねぇねぇ、お土産は?」

「今日は何持ってきてくれたの?」

 二人はテーブルの縁に手をかけて、キラキラした目で玲一を見つめる。

「まだ車だよ。後で取りに行くから、ちょっと待ってろ」

「毎回、気を使わせて悪いな」

「それでそれで、お連れ様はどちら?」

 ぞろぞろと、ダイニングルームに人が入ってくる。

 一人は薫。もう一人の女性は白に近い金髪に、玲一や薫と同じ灰色の瞳。彼女は玲一の向かいに座る綺を見ると「あらっ?」と薫を振り返った。

「ちょっと薫! 美人の恋人だって言うから彼女だと思ってたのに、彼氏じゃないの! それならそうと先に言っといてよ! こんなボサボサ頭で出てきちゃって恥ずかしい~!」

 彼女の嘆きを聞きつけたのか、中庭でお茶をしていた客達が顔を出す。

「ちょっとイネス、何騒いでるの?」

「あっ、やっぱり玲一君じゃないか。さっき庭を通ってるのを見て、そうじゃないかと思ったんだ。今年も遠い所、よく来たね」

「で、誰が誰の恋人だって? 玲一君が彼女連れてきたの?」

「違うでしょ。玲一君が彼氏連れてきたって話よ。ほら……」

「えっ!? あっ、ああ……そういうこと?」

 どうやらみんな顔馴染みらしい。

 チラッと玲一を見ると、眉間にさっきよりも深い皺を寄せて、口元を引きつらせている。

「ちっ、違います!」

 思わず立ち上がっていた。

「僕は玲一さんの恋人とかじゃありませんからっ!」

 これ以上玲一に不快な思いをさせたくない、自分と一緒にいることで煩わしい思いをさせたくないと、咄嗟に取った行動だった。

 だが、少し威勢がよすぎただろうか。

 ダイニングルームが水を打ったように静まり返る。

 みんなの呆気に取られたような視線にいたたまれなくなって、どうしていいかわからなくなっていると、金髪の女性がプッと吹き出した。

「フフフフフッ、冗談よ冗談。あなたを使って、いつも涼しい顔してる玲一をからかってただけなのよ。ごめんなさいね」

 彼女の笑顔につられるように、客達も頰を緩める。

「なんだ、イネスの冗談だったのか」

「イネスってば、いつもリアクションがオーバーなのよね」

「男性同士なんて、わたしには刺激が強すぎて、どう受け止めようかと一瞬本気で悩んじゃったわよ」

「おいイネス。玲一君来てるってことは今夜はフェスタだろう? 後でうちに野菜取りにきな。今朝収穫したのがあるから」

 口々に言って、中庭に戻っていく。

「なんだかんだ言って、みんな刺激に飢えてるのよね。こんな田舎じゃドラマチックなことはそうそう起こらないから」

 女性は両手を腰に当てて、客達を見送りながらフフッと笑った。

「初めまして、イネスよ。玲一の母親の妹で、薫の母親ね。この子達は薫の姉の子。あの人達は宿泊のお客様じゃなくて、暇を持て余したご近所さん」

 この子達、と望愛と礼央の頭を押さえつけ、あの人達、と顎で中庭を指す。

「初めまして、緒月綺です。さっきは大きな声を出してすみませんでした」

「いいのよ。わたしなんかいつも大声だし。会えるのを楽しみにしてたわ、本当に」

 そう言って、イネスが両手を伸ばしてくる。ギュッとハグされて、馴染みのないスキンシップにオロオロしていると、玲一が立ち上がった。

 ハッとする。

「玲一さんっ」

「望愛、礼央、お土産取りに行くから手伝え」

 玲一はこちらも見ずに、ダイニングルームを出て行ってしまう。

 子ども達とラークは、慌てて彼の後を追いかけて行った。

 勝手なことをして怒らせてしまったに違いない。

 青ざめる綺の前に、カタン、とコーヒーが置かれた。

 いつのまにか銀のトレイを持ってきていた薫が、にっこり笑う。

「気にしない、気にしない。怒ってるとしたら俺たち親子に対してだから。緒月君は、うち特製のブレンドでも飲んで、少しゆっくりしな」

「そうそう。別荘での生活はどう? 不自由してない?」

「……別荘はとても快適です。いろいろと気を使って準備していただいたみたいで、ありがとうございます」

 玲一のことをまったく気にしないではいられなかったが、別荘で感じた細やかな心配りを思い出して、綺は頭を下げる。

「喜んでもらえてよかったわ。でも、あそこ海しかないし、退屈でしょう? 玲一はちゃんと緒月君をもてなしてる? あの子ワーカホリックで、別荘に仕事部屋作っちゃってるくらいだから、心配してたのよね」

「お仕事は忙しそうですけど、とてもよくしてもらっています」

「まぁ、玲一は基本的には優しいからな」

「父親譲りね~」

「母親譲りじゃないんですか?」

「あら、どうしてそう思うの?」

 心底意外そうに聞き返されて、戸惑いながら、綺は自分が別荘で感じたことを説明する。

 別荘内の細かなところまで行き届いたメンテナンスや、見知らぬ客への心配りから、玲一の叔母や祖母、ひいては母親までもが、優しい人なのだろうと想像したこと。

 イネスは「なるほどね~」と苦笑した。

「確かに、母のアリシアはそういうのが好きだから、別荘のメンテナンスはほとんどあの人に任せてるのよね。わたしも嫌いじゃないわ。でもクロエ、玲一の母親はどうかしらね~。彼女はとにかく自由奔放で、人を喜ばせることに幸せを感じるようなタイプではなかったから……」

「優しさで言ったら、玲一の父親の紘一さんだよな。フランス勤務で忙しいはずなのに、毎年アリシアの誕生日に花送ってくるし」

「あの別荘だって、もうクロエはいないんだから売り払ってもいいのに、ずーっと維持してるしね」

 話を聞きながらコーヒーを口にした綺は、あれ、と首を傾げた。

 もう一口飲んで、薫を見る。

「おいしいです」

「そりゃよかった」

「薫はコーヒー淹れるのだけは上手いのよね~。陶芸の方も、もうちょっとセンスがあるといいんだけど」

「陶芸?」

「うちのペンションで使ってる食器は、ほとんど薫が作ったものなのよ。そのコーヒーカップとソーサーもね」

 イネスの言葉に、手にしているカップとテーブルのソーサーを見る。

 ソーサーは白っぽい地に濃紺の釉薬が溜まっていて、とても美しい。カップは、飲み口が少し厚い気がしたが、上部が少しすぼまっていて、丸みを帯びたフォルムが可愛らしかった。

「なんだかロマンチックですね。雨の日の水たまりと雨粒みたい」

「えっ……」

「僕の友人がガラス工芸作家を目指しているんですけど、彼の作品にも少し似ています。このぽってりした形が……どうかしましたか?」

 薫とイネスが、二人そろって鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、こちらを見つめていた。何か失礼なことを言ってしまったかとドキドキしていると、

「まさに……それをイメージして作ったんだよ」

 薫が、パアッと顔を輝かせた。

 思わず目を奪われた。

 どことなく玲一に似た精悍な顔が、まるで子どものような笑みを浮かべるのが新鮮だった。

 よく見れば、薫のグレーの瞳は、光の加減で茶色にも見える。温かみのあるその色と表情は、ゴールデンレトリーバーのような、人懐っこい大型犬を思わせる。

「ほら、やっぱり、わかる人にはわかるんだよ!」

「ミラクルね~。でも、温かい飲み物を入れるための食器に、水たまり持ってくるセンスは、絶対どうかと思うのよね~」

「あぁ、それは確かに……」

「ひでぇ……」

 薫がガックリと肩を落とす。

 綺とイネスは顔を見合わせて笑った。







 東京から別荘に来るときには、必ず大量の土産を用意する。

 別荘の管理は、玲一の父、紘一が『Maison de glycine』に仕事として依頼していて、きちんと管理費を支払っているらしいが、それはそれ。気持ちの問題だ。

 子ども達には玩具、大人には酒やお菓子など、いつも通り喜ばれそうなものをいっぱいに詰め込んだダンボール箱を抱えて、子ども達を従えてダイニングルームに戻ってきた玲一は、こめかみが引きつるのを感じた。

「なんだ、あれ……」

 うっかり声に出してしまう。

 『Maison de glycine』のダイニングルームは、カフェとしても営業している。奥にはカウンターがあり、だいたいそこには薫が立っていて、コーヒーを淹れたり客とおしゃべりしたりしているのだが。

 今、そこには薫と綺が肩を並べて立っていた。

「すっかり懐いちゃったのよね~」

 側のテーブル席でコーヒーを飲んでいたイネスが、玲一の呟きを聞きつけてニンマリと笑う。

「……どっちがどっちに?」

「最初は薫が緒月君に。だけど、今はどっちかっていうと……」

 どうやらコーヒーの淹れ方を教わっているらしい。

 ドリッパーを指して何か説明されているのを、綺は真剣な表情で頷きながら聞いていた。だが、ドリップポットを取り出した薫に耳元で何かを囁かれると、困ったように彼に何か言い返す。その頰が心なしか赤らんで見えた。

「ねぇ、箱つぶれそうよ?」

 イネスが、玲一の抱えていたダンボール箱をトントンとノックする。無意識に、指先に力が入っていたらしい。

「……荷物が重すぎるんだよ」

「ふぅん……あ」

「!」

 全身の血の気が引いた。

 綺がドリップポットを持ってドリッパーに湯を注いでいたところを、薫が後ろから抱きしめるようにして腕を伸ばし、綺の手に自分の手を重ねたのだ。

 綺には何の警戒の色もなく、ポットの細い注ぎ口を注視しているが、玲一は箱を取り落としそうになって、慌てて箱を持つ手に力を込める。

 箱の中で何かがギシッと軋む、嫌な音がした。

「あーららっ……」

 イネスはとても楽しそうだ。







 ゾワゾワッと寒気がした。

 原因がわかっているから、ポーカーフェイスを装ってはいるものの、怖いやらおかしいやらで顔を上げられない。

「あっ、もうすぐ二杯目の目盛です」

「えっ、ああ、うん。じゃ、そこで注ぐのストップ。それ以上注いでも、出るのは味わいのない色水みたいなものなんだ」

 言いながら、薫は綺の手を解放する。もう何年もこのカウンターに立ってきたが、今日ほど緊張したことはない。

 コーヒーを淹れるのに集中している綺は、何も感じていないのか、ポットを傍に置いてホウッと息をついた。

 ドリッパーをサーバーから外しながら「いい感じにできたんじゃないの?」と言うと、薫を振り返ってフワリと微笑む。

 途端にまた襲い来る寒気。カウンターを超えて届く物騒な気配が、恐ろしくも楽しくて仕方がない。

「薫さんのおかげです。でも、こんなにゆっくり注ぐものなんですね」

「特に決まりはないんだけど、うちではこれくらいかな。緒月君の淹れたいコーヒーは、もしかしたら、もう少しゆっくりでもいいかもしれない」

「よくご存知なんですね」

「長い付き合いだからね。さ、冷めないうちに」

 淹れたてのコーヒーをトレイに乗せて、綺に渡す。

 慎重に運ぶ背中に「気をつけて」と声をかけ、薫は苦笑した。







 もはやダイニングルームは、伊角家のリビングと化していた。

 望愛と礼央が、床に置かれたダンボールから、玩具やお菓子を取り出しては歓声を上げている。彼らにとって玲一の訪問は一大イベントらしい。

 宿泊客と思しき人が何人か、午後のお茶を楽しみに来ているが、彼らも子どもたちの喜ぶ様子を遠目に見守りながら、微笑みを浮かべている。

「玲一さん」

 居心地のいい温かな雰囲気の中、イネスと話をしていた玲一が顔を上げる。その目が、いつもの彼らしくなく険しい気がした。

「あの……どうかしたんですか?」

「気にしないで。それより、コーヒーは上手く淹れられた?」

「はい。薫さんの丁寧なご指導のおかげでなんとか」

 トレイのカップを、イネスと玲一の前に置く。

「よかったら飲んでみてもらえませんか?」

「ありがとう」

 イネスがカップを手にして微笑む。

 玲一は無言のまま、カップに口をつけた。

 その横顔をドキドキしながら見守っていると、

「……悪くない」

 少し不貞腐れたように呟いた。

「そう? 薫のより美味しい気がするけど。込められている気持ちが違うからかしらね」

「なんだよ、気持ちって……」

「緒月君は、玲一に美味しいコーヒーを飲んでほしいからって、頑張ってたのよ。ねぇ?」

 イネスにさらりと暴露されてしまい、綺は恥ずかしくなって言い訳のように言葉を重ねた。

「あのっ、僕、普段コーヒーを飲まないので、淹れ方も味の違いもよくわからなかったんですけど、薫さんのコーヒーを飲んだら美味しかったからびっくりして。こういうのを、あなたの仕事の合間に差し入れできたらと思って……」

 玲一は困ったような顔でイネスを睨んだ。

「……イネス、知ってて黙ってたのか?」

「もちろん」

「タチが悪い……」

「玲一さん、玲一さん!」

 子どもたちが、バタバタと駆け寄ってくる。

「これ、お土産のお礼!」

「ねぇ、ねぇ、開けてみて」

 小さな手が、それぞれ折りたたまれた白い紙を突き出す。開くと、画用紙いっぱいにクレヨンで描かれた、玲一と思しき人物の顔。

「昨日から準備してたのよね~。結構似てるでしょ?」

「ああ。とっても上手だ。ありがとう、望愛、礼央」

 絵を見た玲一の渋面が、優しい笑顔に変わる。

 なぜだか胸が締め付けられた。

(なんだ、これ……)

 戸惑って、胸に手を当てる。

「あ、そうだ。二人とも、綺に絵の描き方を教えてやってくれないか?」

 じっと絵を見つめていた玲一が、誇らしげにしていた子どもたちにとんでもないことを言う。思わず鼓動が跳ねた。

「えっ、綺さんに?」

「なんで?」

「綺は絵の描き方がわからないらしいんだ」

「そうなの? かんたんだよ。僕得意!」

「わたしの方が得意!」

「じゃ、頼むな」

「わかった!」

「紙とクレヨン持ってくる!」

 子どもたちはあっという間に走り去ってしまう。

「……玲一さん、どういうつもりですか?」

「コーヒーのお礼。すごいのを描いてびっくりさせてやれよ」

「えっ、なに、緒月君って絵上手いの?」

「上手くないです……」

 綺は途方に暮れたようにポツリと呟く。

 どういうことかとイネスが玲一を見ると、彼はゆったりとコーヒーを口にしながら静かに微笑んでいた。子ども達に向けるよりずっと優しく、少し憂いを含んだ眼差しで。







 夕方になると、ペンションは夕食の支度で忙しくなる。

 イネスと薫は厨房に消え、遊び疲れた子ども達は、仕事帰りの母親が迎えにきて、近くにあるという自宅へ帰っていった。玲一は、催事から戻ってきたイネスの夫と一緒に、近所の知り合いの家に野菜を受け取りに行ってしまった。

 綺は一人、ペンションの周りを散歩しながら、さっきまでの賑やかな一時を思い出していた。

 中庭で開催された子どもたちによる絵画教室は、カフェやペンションの客も巻き込んで大盛り上がりだった。

 普段絵を描くことなどないからと、最初は遠巻きに見ていた大人達が、いつの間にか夢中になってクレヨンを握り。彼らの意気込みに触れ、子ども達も張り合うように絵を描いていた。

 流行りのキャラクター、飼っている猫、家族、近隣の風景。大人達は作品が完成する度に子ども達に見せて、講師である彼らから「ここはこうした方が」とアドバイスされるのを楽しんだ。

 大きなテーブルの上は、すぐに、千切られた落書き帳の白い紙でいっぱいになった。それらが風で飛んでいかないように、庭の石を文鎮代わりに乗せれば、そこがそのままギャラリーになった。

 足を止め、ペンション裏の、山肌を見下ろせる場所にあったベンチに腰掛ける。

 終始和やかだった青空の下のアトリエは、高校時代に所属していた美術部の部室を思い起こさせた。

 放課後の柔らかな日差し。

 古い美術室に満ちた油絵の具の匂い。

 授業が終わると、冬樹と誘い合わせて向かい、それぞれ創作を楽しんだ。のんびり課題をすることもあったし、お互い別のことをしてダラダラすごすこともあった。

 家に帰れば一人ですごすしかない綺にとって、そこはとても温かい場所で、冬樹はその象徴だった。

 高校三年生になって、冬樹が美大に行くと知ったときには、何の迷いもなく自分もそこに行こうと決めた。絵画への興味も、自分の将来も、頭にはなかった。

 ただ冬樹の隣にいたかった。

 冬樹の側は、大きな木に守られているような心地よさがあった。

 裏表のない素直な性格は、五月の風のように爽やかで。人懐っこく屈託のない笑顔は、太陽に向かって悠々と伸ばした枝葉のように、いつだって快く綺を招き入れてくれていた。

 綺に欲を帯びた手を伸ばしてくる相手には、炎の激しさで怒ってくれて。公募で賞を取ったときには、誰より喜んで、自分のことのように誇らしげにしてくれて。

 彼の笑顔が見たくて、彼と一緒にいる口実が欲しくて、夢中で絵を描いた。

 だけど、いくら絵を描いたところで、いつまでも一緒に居られるはずもなく、大人に近付くにつれ、彼の世界は綺から遠ざかっていった。

 ――不純。

 だから、アトリエで冬樹からもらったガラス瓶が割れているのを見たあの日。

 ここにい続けたいのなら決別しろと、示唆されたような気がした。

 心の支えにしていた、親友から。

 それほど多くはない、幸せだと思える思い出から。

 そして、家族で暮らした唯一の証である、あの家からも。

「そこは私の特等席なのよ」

 不意に声をかけられて、心臓が跳ねた。

 少し離れた所に、女性が立っていた。

 グレーの髪にグレーの瞳、そして異国の顔立ち。ぴんときた。

「アリシアさん……ですか」

 ウエストをキュッと絞ったネイビーのロングワンピースに、つばの大きなブルーグレーの帽子。玲一の祖母だというからそれなりに高齢だろうが、とてもそうは見えない綺麗な女性だった。

 絵本から抜け出してきたヒロインのような姿で、彼女はじっと綺を見つめて「ああ」と頷いた。

「玲一のお友達ね? ごめんなさいね、ペンションでお待ちしていなくて。私も、私のお友達を訪ねていたものだから」

「いえ……あっ、すみません」

 慌ててベンチを立つが、そっと肩を押し戻された。

「今日はあなたにも貸してあげるわ」

「……ありがとうございます」

 本音を言えば、座っていられるのはありがたかった。

 初めての場所で、久しぶりに大勢の人と接して、無意識に気を張っていた反動か、体が重くて頭がボーッとする。

「顔色が悪いわね。横になる?」

「大丈夫です。少し、寝不足なだけなので」

「玲一と夜更かしでもして遊んでいたの? それとも悩み事?」

「……どちらかと言えば、悩み事です」

「そう。せっかく旅行で来ているのに、楽しめないのは残念ね」

「でも、玲一さんもペンションの人たちも、みなさんとても親切にしてくれて……ここに連れてきてもらえたことに感謝してます。別荘に飾ってくださっていた花にも癒されました。ありがとうございます」

 アリシアは困ったように微笑んで「失礼」と綺の隣に座った。

 ふわりとハーブのようないい香りがして、頭が少しスッとする。

「花が好きなの?」

「好きか嫌いかって、考えたことなかったです。……部屋に自分以外の生きているものの気配があるのが安心するのかな」

「それじゃ、なんだか、とっても寂しいみたいね」

 からかう風でもなく、アリシアの思慮深そうなグレーの目が、穏やかな笑みを浮かべる。

「あなたが何に悩んでいるのかはわからないけど、神は乗り越えられる試練しか与えないんですって」

 アリシアは唐突に、そんなことを言った。

「神様、ですか?」

「私は娘を事故で亡くしているの」

「クロエさん、ですよね。玲一さんのお母様の」

「そう。私もクロエを亡くした時、こんな試練は乗り越えられないと思った。クロエが日本に興味を持つきっかけを作った夫を恨んだし、日本という国をも恨んだ。今思えば逆恨みでしかないのだけれど……」

 アリシアは遠くまで続く山肌の畑を見つめながら、昨日の出来事を語るような軽い口調で語る。

「でも、クロエを亡くして十年がすぎた今、やっと、もういいかなと思えるようになったのよ。紘一さんが建ててくれた別荘は、私にとっては娘の墓標のようなものだけど、いつまでもそこに寄り添っているべきではない。私は生きているのだから、って」

 山の稜線に、夕方の太陽が差しかかっている。

 美しい金の光に、綺は目を細める。

(墓標……)

 そう聞いて、脳裏に浮かんだのは、自宅の一軒家だった。

「悩んでいると動けなくなるものだけど、あなただって生きているのだから、本当は心持ち一つでどこへでも行けるのよ。花のように一つ所で踏ん張っていなくていいの。大切に抱きしめていたいものがあるなら、もういいと思える日が来るまで抱きしめていればいいけど、縋ってしまっているのなら、いつかは離してみないとね」

 親友にも、思い出にも、あのもう家族の気配すら残っていないがらんどうの家にも、依存してしまっているのは、自分でもわかっていた。縋っているという感覚はなかったが、縋っていたのだと思う。

「……手を離すのって、怖くないですか?」

「怖いわね。だけど……」

 いつの間にか、膝の上で固く握りしめていた手に、アリシアが触れた。

 皺のある細い手は、けれどよく日に焼けていて、綺の手を取り、指を一本一本丁寧に開いていく。

「こうやって人の力を借りたっていいのよ。そしてね、開いた手は、案外空のままにはならないものよ」

 開いた手に、自分の手を重ねて、アリシアはクスッと笑う。

「聞いたかしら? 玲一があの別荘に人を連れてくるのは、あなたが初めてなの。もし寂しいのなら、あの子には、あなたに寄り添う用意があるんだと思うわ」

「玲一さん、ですか……?」

「悩みの種があの子だったら仕方ないけど、そうでないのなら少し頼ってみてもいいんじゃない? 仕事狂いで面白みのない子かもしれないけど、あれで結構優しいところもあるのよ」

「それは、わかります」

「よかった」

 綺の手を握ったまま、アリシアが立ち上がる。

「さあ、戻りましょう。きっと今日はご馳走よ」







 アリシアの言葉通り、ペンションに戻ると、中庭のテーブルには山のように料理が用意されていた。

「イネス、今日の夕食は豪勢だな」

 驚いた宿泊客が言うと、

「甥っ子が友達連れてきてるから特別よ~」

 イネスは景気よくワインを開けながら笑い、

「ああうやって、何かあるごとに大盤振る舞いするから、うちのペンションは満室になるのに儲からないんだよ」

 ダイニングルームのカウンター席からイネスを見守っていた彼女の夫は、大きな溜息をつきながらも目が優しい。

 一度帰った望愛と礼央も戻ってきていて、イネスが声をかけたと言う近所の住人も集まって。あちこちにランタンが飾られた『Maison de glycine』の中庭は、幻想的な光と人々の賑わいで満たされていた。

「まったく、あの子はお祭り好きだから……」

 ダイニングルームの奥のテーブル席で、アリシアは頬杖をついて中庭を眺めながら、楽しそうに呟いた。

 彼女の向かいで、薫が淹れてくれたハーブティーを楽しんでいると、玲一がやってくる。

「こんな所にいたのか」

「あら玲一、久しぶりね」

「アリシアも、お元気そうですね」

「紘一さんも元気にしているの?」

「便りがないのは良い便り、と言うなら、元気なんでしょう」

「あなたたち親子も相変わらずね」

 アリシアが呆れている。

「綺、実は明日、東京に戻ることになった」

「えっ……」

「朝出て夜には戻る。別荘に一人にしてしまうんだが、大丈夫か?」

「それなら僕も帰ります」

 三時間かけて出かけて行って、仕事して、三時間かけて戻ってくるなんて、現実的じゃない。そう思ったのだが。

「綺が帰りたいならそれでもいいんだが、そうじゃないなら、留守番してもらえると助かるんだ。俺はまだこっちで片付けたい仕事があるし、ラークを置いていきたい」

「そうなんですか? それなら……」

 本当にそうなんだろうか。

 綺が自分から帰ると言い出したわけじゃないから、自分の予定に付き合わせまいと気を使ってくれているんじゃないのかと、内心疑いながら頷く。

「よく働くこと」

 アリシアにますます呆れられて、玲一が苦笑する。

 食事の時間が終わり、子ども達が帰るのを見送った後、綺と玲一は伊角家のメンバーに別れの挨拶を済ませて車に向かった。

「今度は泊まりに来いよ。子ども達も喜ぶし」

 見送りに来てくれた薫が、トランクに荷物を積み込みながら言う。

 玲一がお土産でいっぱいにして持ってきたダンボールは、今度はペンションからのお土産でいっぱいになっていた。一番上には、アリシアがさっき切ってくれた庭の花が、新聞紙に包んで乗せられている。

「緒月君」

 助手席のドアに手をかけたところで、薫に声をかけられる。

 振り向くと、ギューッときつくハグされた。

 驚いていると「またな」とウインクされる。

「おい、薫、いい加減にしろ」

 低く唸るような声で玲一が言うと、薫は少しひるんだ様子を見せたが、今度は玲一をハグする。その耳元で何かを囁いて、笑いながら離れた。

「ありがとうございました」

 手を振って、助手席の窓を閉める。

 ペンションの明かりが遠ざかっていくのを寂しく思うと同時に、玲一と二人きりの空間に戻れたことに、安堵の息が漏れた。

「素敵なペンションでしたね」

「少し騒がしすぎるけどな」

「あの……薫さんと何かあったんですか?」

 ハンドルを握っている玲一が、綺の問いには応えずに、チラリとこちらを流し見る。

「……何か、いい香りがするな」

「えっ、ああ。さっきアリシアさんにリネンウォーターの作り方を教わって、材料の精油を分けてもらったんです。そのとき少し指についたのかも……」

「リネンウォーター?」

「別荘のベッドのシーツって、いい香りがするでしょう? あれ、シーツを洗濯する時に、リネンウォーターっていう香り付けのための水を使っているそうなんです。この香りがあると、よく眠れる気がして……」

 ジーンズのポケットから、アリシアにもらった精油のボトルを取り出す。鼻を近付けると、蓋を開けなくてもいい香りがした。

「知ってますか? アリシアさんの部屋って、魔女の工房みたいなんです。天井一面にドライフラワーがかかっていて、壁には綺麗な色の瓶が並んでいて、僕には使い道のわからない実験器具みたいな道具もたくさん……」

 フッと、玲一が笑った。

「ずいぶん饒舌だな」

「……すみません。うるさいですか?」

「いや。楽しかったようで何よりだよ」

 玲一の笑顔を見るとホッとする。

 助手席の背もたれにぐったりと背中を預けて、目を閉じる。

 体は泥のように重たいけれど、心はフワフワと踊るようだ。

 ふと、ペンション裏で、アリシアと交わした会話を思い出した。

「……玲一さん、明日何時に出発するんですか?」

「六時前には出るかな。朝食は準備しなくていいぞ」

「そうですか……あの……」

 手から力が抜けていく。

 精油のボトルを落としそうだ。

 意識が遠のく。その前に伝えてみたい。

「……早く、帰ってきてくださいね」

 多忙なのを知っていて、さらに無理をさせるようなことを頼むなんて、どうかしている。

 煩わしいと思われるだろうか。

 それとも。

「あなたが、いないと――」







「綺?」

 途切れた言葉の続きが知りたくて声をかける。

 だが、いつまでたっても答えは返ってこなかった。

 車を路肩に停めて、綺の顔を覗き込んでがっかりした。

「ここで寝るか……」

 寝不足なのは知っているし、今日は慣れない場所で疲れたのだろうが、あんな意味深なセリフの途中で寝てしまうとは。

 大きく溜息をつくと、何事かと、後部座席にいたラークが運転席と助手席の間から顔を出す。その鼻先を撫でてから、綺のシートを倒してやろうと、身を乗り出してリクライニングレバーに手を伸ばす。

 フワリと精油が強く香った。

 鼻先に、綺の寝顔。

 長い睫毛。透けるような瞼。

 一度だけ触れたことのある白い頬。

 そして、ゆるく閉ざされた小さな唇。

 微かな月明かりに青白く浮かび上がるフェイスライン。

 ゴクリ、と、喉が鳴った。

『いつまでお預け食らった犬みたいな顔してんの?』

 別れ際、いつもはしないハグなどをして、薫が囁いてきた言葉を苦々しく思い出す。

 ポーカーフェイスは得意な方だが、『Maison de glycine』に来るとどうも気が緩む。特に今日は、全く感情を隠せなかった。

 綺が薫のことを熱心に見つめたり、薫と触れ合ったりする度に、御し難い苛立ちに襲われた。

 恋人扱いされたときには、綺が男から想いを寄せられることに怯えているのを知っているから、玲一のことを変に意識させかねない発言に焦ったが、それでも「やめろ」とは言えなかった。

 嬉しかったのだ。

 冗談とはいえ、自分と綺が『恋人』という一つの言葉で括られたことが。

 その複雑な気持ちを誤魔化すのに、渋面を作るのがやっとだった。

(独占欲か……)

 綺の絵だけでなく、綺自身も、自分のものにしたいと思い始めている。

 最初は、お気に入りのおもちゃを取られまいとする子どものような感情だと思っていたのに、いつのまにか、それだけではなくなっていた。

 はっきりと自覚したのは、今朝。

 朝焼けに気を取られていた綺の唇にキスをした。

 彼を振り向かせたい、触れたいという気持ちに抗えなかった。

 今だって、目の前の唇を奪いたくてたまらない。舌をねじ込んで柔らかな口内を探り、甘い唾液を味わいたい。ゆっくりと上下している胸をはだけさせて、この手で触れたい。

 だけど、これまで彼を脅かしてきた男達のように、彼の尊厳を踏みにじるようなことは絶対にしたくなかった。

 彼の体も、心も、繊細な感性も、一つも傷付けずに抱きしめたい。それまでは――

 背徳感に震えそうな手で、綺の前髪に触れ、剥き出しにした額に、思いの丈を込めて唇を押し付ける。

 彼のシートを倒した後、ハンドルに額を押し付けた。

「くそっ……」

 気恥ずかしさに毒づく。

 ラークがまた顔を出す。

 灰色の目が呆れているように思えて、少し乱暴に撫でた。

「遠回りして帰るか……」

 珍しく月に誘われたらしい彼の眠りを、少しでも長く守るため。

 そして、このほろ苦い気持ちをもう少し味わっているために。
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