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前編

朝焼け

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 実質初日ということで、玲一に付き添われてラークの散歩に出かけ、彼にキッチンの使い方を教わりながら朝食を準備。

 食事の準備と言っても、冷蔵庫には調理済みの料理や下ごしらえの済んだ食材がたっぷり準備されていて、それを温めたり火を通したりするだけで、ほとんど終わってしまう。

 舌の肥えた玲一を満足させられるとは思わないが、スタンダードな料理を失敗なく作れるようにと買ってきたレシピ本は、どうやら使わずに済みそうだった。

 食事が終わると、玲一は昨日が言っていた通り、部屋に引きこもってしまった。あれ以降スキンシップもなく、先に聞いておかなければ、避けられていると邪推したかもしれない。

(自由だな……)

 朝食の片付けを終えると、急にすることがなくなった綺は、自室に戻ってベッドに横になった。

 窓の外には素晴らしい景色が広がっているのに、横になると空しか見えない。四角く切り取られた鮮やかなスカイブルーは、自分の手の届かない、どこか遠い世界の色のようだ。

 ゼミで出される課題や、椿の制作の手伝いのように、やるべきことが指定されていれば難なく応えられるのに、自身の創作や、こういった自由な時間の使い方となると、途方に暮れてしまう。

 何をしていいかわからない。

 何をする気にもならない。

 潮の香りも、ずっと嗅いでいると特別ではなくなる。

 開け放たれた窓から入ってくる風も、心地よいがそれだけだ。

 耳をすませても波の音は遠く、一つ部屋を隔てた玲一の部屋からは、物音どころか気配も伝わってこない。

(一人だ……)

 誰かの帰りを待つでもなく、誰かが自分から離れていく不安もなく、ただ、一人だ――そこに少し安堵がある。

 自分の体の重さを感じて泥のように横たわり、目を閉じる。

 まどろみと覚醒を繰り返し、いつしか眠りについていた。







 昼過ぎには海に出た。

 玄関でラークに会ったが、彼はひんやりとした床が気持ちいいのか、伏せたまま起き上がりもしなかった。シベリアンハスキーというくらいだから、暑いのは苦手なのかもしれない。

 靴を履かずに外に出て、玄関前の階段を降りる。

 浜は、真っ白とはいかないが、広くて綺麗な砂浜だった。

 海に向かって右手の奥には小さな崖があって、そちらに向かうにつれ砂粒が大きくなり、崖の下は岩場になっている。

 きめ細かな砂に足を取られる感覚を楽しみながら波打ち際に向かい、何気なく足先で砂を掻いてみると、白く乾いた砂の下から、濡れた黒い砂が現れた。これでは絵を描けてしまうな、と思って、別荘を振り返る。

 玲一の部屋の窓は、二階の一番右端だ。

 カーテンはかかっていないが人影もない。

 約束を破った訳ではないが、ホッとする。

 こんな真夏に、体が冷えていたということはないはずだが、ジリジリと肌が焼ける感覚に心地よさを覚える。

 しばらく浅瀬に立って、海を眺めていたが、ふと思い立って服を脱いだ。それがまずかった。







 夕方。玲一がそろそろ休憩しようと思ったときだった。

 階下で、ドンッ、と大きなものが床に転がるような音がした。

 何事かと思ってリビングに降りてみれば、ソファーの足元に綺が転がっている。目を潤ませ、頰を紅潮させ、眉を寄せて何かを堪えるような顔をした彼の胸元を、ラークが獲物を捕らえたような得意げな顔で押さえていた。

 一瞬、寂しすぎてついに犬相手に、などとふざけたことを考えるが、どうも様子がおかしい。

 玲一に気付いたラークはすぐに綺の上から飛びのいて、玲一の足元で尻尾を振った。

「どうした?」

「いえ、なんでも……」

 綺が気まずそうな顔をして起き上がる。

 その髪が濡れているのでピンときた。

「お前……ちょっと服脱いでみろ」

「えっ、嫌です」

「いいから脱げ」

 強い口調で命じると、渋々といった様子で、そろりそろりとTシャツを脱ぐ。

 思った通りだ。真っ白だったであろう上半身が、痛々しいほど赤くなっている。ということは、頰の紅潮も、興奮からではなく日焼けなのだろう。

「泳いだのか?」

「少し……」

「少しでこんなことになるか」

 肩を撫でると「いっ!」と顔をしかめて体をよじる。

「日焼け止めを塗らなかったのか?」

「持ってきてませんから」

「なら水着は?」

「…………」

「裸で泳いだのか!」

 思わず爆笑した。

「一応下着は……暑かったから……誰もいなかったし……」

「野生動物か! 知ってるか? 日焼けのピークは直後じゃないんだ。今夜か明日あたり、もっとひどいことになるぞ」

「でも、さっき水風呂で冷やしたから大丈夫だと……」

「雑すぎるだろう」

 笑い続けながら、キッチンで氷水を作って濡れタオルを用意する。硬く絞って背中に広げてやると「ひっ!」と小さな悲鳴を上げた。

「とりあえず夕食までよく冷やしておけ。それと、シャワーの後はきちんと髪を乾かせ」

「いや、夏だから自然乾燥でも……」

「髪が傷むぞ」

「めんどくさ――」

「わかった。待ってろ」

 玲一がバスルームからタオルとドライヤーを持ってくると、意図を察した綺がギョッとして後ずさり、立ち上がろうとする。

「わかりましたっ、自分でやりますから貸してください!」

「黙れ」

 問答無用で綺をソファーの下に座らせて、自分はソファーに座る。

 濡れた黒髪を拭き直し、ドライヤーを当てる間、綺はずっと固まっていた。時折指が耳朶に触れると、ビクッとしたように体を竦ませる。

 この程度の触れ合いにもビクついているくせに、いくら冬樹が玲一の無害を保証したからといって、裸で泳ぐとは。肌を晒すことに危機感はないのだろうか。

 もしかしたら飢えた獣の前で隙をひけらかすようなことも、無意識にやってきたのかもしれない。

(自業自得って面もあるわけか……)

 冬樹が過保護になるのもわかる気がする。

 持っている素材は悪くないのだから、上手く利用することを覚えれば便利だろうに。

「来年には就活も始まるんだろう? もう少し自分の見え方を理解して、見せ方を覚えろ」

 玲一はこっそり溜息をついて、目の前の小さな頭を小突いた。 







「次も同じような報告を上げてくるようだったら担当を変えさせてくれ、時間が惜しい。融通が効かないようなら、次の総会で頭を変える算段を立ててもいい。――ああ、よろしく頼む」

 インターネットミーティングを終え、パソコンのモニターの隅を確認すれば、まもなく午前四時半。予定時刻を二時間半も押しての終業に、さすがに苛立つ。

 電話の相手は、大学時代に一緒に会社を立ち上げた友人だ。

 頭は切れるのだが、優しさが仇となって判断が鈍ることがあり、本人も自覚しているから、玲一が取引先とのミーティングに立ち会わされることがしばしばだった。ミーティング後、彼に喝を入れることは、もはやルーティンだ。

(あっちがサマータイムで、ミーティングの開始が早かったからよかったものの、まったく……)

 朝は六時に起きると決めている。

 一日最低四時間は睡眠を取りたいが。

(今からだと一時間半か……)

 本業の勤め先――白石商事においては夏季休暇を取得していることになっているから、休んでいても問題ないのだが、あまり体内時計を乱したくない。

 とりあえず水を飲もうと立ち上がり、視界に入ったものに驚いた。

 窓の外。海岸に倒れている人影がある。

(嘘だろっ!?)

 急いで外に飛び出す。

「おいっ!」

 膝をついて体を揺すると「ひゃっ!」と悲鳴が上がった。

 寝転がったままバッと勢いよく振り向いて、綺が目を見張る。

「玲一さん……」

 どうやら意識をなくしていたわけではないらしい。

 ホッとして座り込む。

 綺はゆっくりと起き上がり、袖が砂にまみれているのに気付いて、慌てて払った。

 彼が羽織っているのは、昨日の朝「海に出るなら日除けに使え」と渡しておいた玲一のパーカーだ。明らかにオーバーサイズで、服の中で体が泳いでいる上、袖も余っている。杏介が見たら床に倒れて悶えそうな格好だ。

「気にするな。好きに使えばいい」

「すみません」

「寝てたのか?」

「いえ……朝焼けを待ってたんです」

「ふーん」

 空は白んできてはいるものの、まだ日の出の気配はない。

「いつから?」

「いつだったかな……」

 綺は曖昧な笑みを浮かべる。

 ここに来て四日。

 綺の体には昼夜の区別がない。

 三食を一緒にとる約束があるからか、日中は起きていることが多いものの、夜も気付けば海に出ている。長い時間熟睡したのは、玲一が把握している限り初日の午後だけだ。

(目の下のクマは消えてきたし、少しずつ眠れるようにはなってきているんだろうが……)

 さりげなく観察していると、綺は首を傾げた。

「玲一さんの部屋、昨日も一昨日も遅くまで明かりがついてましたけど、体大丈夫なんですか?」

「ああ。夜はアメリカ相手に仕事してるから、あっちに合わせるとどうしてもこの時間になるんだ。だけど、お前に心配されるほどヤワじゃない」

「あはは。まぁ、そうですよね。でも……眠れるなら眠った方がいいですよ。太陽と一緒に目覚めて、月に誘われて眠るのも、外車に乗るのと同じくらい気持ちのいい贅沢ですから。僕はもう月にまで見放されちゃってますけど……」

「……その贅沢は知らなかったな」

 綺は少し寂しそうに微笑んで、膝を抱えた。

 彼は裸足だった。パジャマ代わりのハーフパンツから、すらりとした白い足が伸びている。柔らかそうなふくらはぎ。体毛は薄く、足首は細い。踝の陰影が深いのは、痩せたせいか元々なのか。

「綺は足の形が綺麗だな。指が長いのか」

 ふと思い付いて、綺の足の隣に、サンダルを履いた自分の足を並べる。体格の違いがあるにも関わらず、指の長さはさほど変わらない。

「やっぱりな」

 そう言って、サンダルの先で綺の足を小突くと、彼は逃げるように足を砂の中に突っ込んだ。膝まで砂まみれになり、飛んできた砂が玲一のサンダルに入り込む。

「お前なぁ……」

「玲一さんが変なこと言うからです。裸足になればいいじゃないですか。気持ちいいですよ」

「子どもか」

 だが、不快なサンダルを履き続ける気にはならない。素直に裸足になり、夜の内に熱を失い、ひんやりしていた砂を掻く。

「まぁ、悪くないな」

 そう呟いたときだった。

「始まります」

 不意に綺が囁いた。

 その声を合図にしたように、辺りがうっすら明るくなる。

 夜の暗さもなく朝の眩さもなく、胸がざわつくような曖昧な明るさをしていた瑠璃色の空は、地平線に近い部分がもう陽の光で白く、今にも夜が明けそうな気配だ。

 いつ太陽が現れるのだろうと、ぼんやり眺めていた玲一は、だがその後の変化に息を飲んだ。

 海と空の境目から、淡い金朱色の光が少しずつ、少しずつ、滲んで広がっていく。空全体が金のヴェールに覆われると、今度、光は色をどんどん濃くしていった。

 玲一が朝焼けと聞いてイメージしていたものとはかけ離れた、燃え立つような赤い光。神々しくも凄まじい光は、あっという間に空を覆い、微かに出ていた雲の縁を焦がし、海まで赤く燃え上がらせた。

 ただただ圧倒される。

 美しい。

 怖ろしい。

 息を飲み、食い入るように見つめる。

 だがそんな光景さえ、長くは続かなかった。

 暴力的な赤い光は少しずつ色を淡くして、焼け落ちそうだった空を優しく宥めるような、愛らしいバラ色に。上空は落ち着きを取り戻したように、上品な藤色に変わる。

 やがてそのどこか女性的なグラデーションも色褪せてきて、地平線の向こうに太陽が現れた。異質なほど眩い光の塊は、小さく揺らめきながら昇っていき、スペクタクルをよく見知った朝の青空へと変えていった。

 そこでやっと脱力して、玲一はふと隣を見る。

 綺はスッと背中を伸ばし、少し潤んで見える闇色の瞳で空を見つめていた。

 全身を朝の白い光に柔らかく抱かれて、元々透明感のある青年は、まるで空と海から祝福を授かっているようだった。

 すぐ側にいるのに、どこか遠い。まるで彼が、この世ならざる存在のようにさえ思えてくる。例えばそう、精霊とか天使とか。

 綺は玲一の視線に気付かないまま、フッと微笑んだ。

 うっとりしたような微笑みが、玲一の目を奪う。

 ゾクッとした。

(あの感覚だ……)

 身体中の熱が胸に集まる。鼓動が高鳴る。

 何かがこみ上げて上手く息ができず、目頭が熱くなる。

 ハッと短く息を吐いて、手を伸ばす。砂の上に置かれた綺の指先に触れると、あの微笑みを浮かべたままの顔が、ほんの一瞬玲一に向けられる。

 その唇を奪った。

 綺の目が驚きに見開かれるのと逆に、玲一は目を閉じた。

 拒まれないことを祈りながら、自分の唇をそっと押し付ける。

 まるで初めてするキスのように、丁寧に、触れ合った唇の感触を追う。

「どうして……」

 唇を離すと、綺は小さく呟いた。

 怯えるようでも、咎めるようでもなく、ただ驚いている。

 玲一はホッとして、少し迷って、正直に答えた。

「振り向かせたかった」

「それって、どういう……」

「きっと月は、綺を見捨てたんじゃなくて、太陽に嫉妬してるだけだ。お前があんまり幸せそうに朝焼けを見つめたりするから」

 自分で言っておいて、あんまりロマンチックが過ぎるセリフに、思わず吹き出す。鼓動が逸って、心が浮かれて、胸がざわめいて、落ち着かなくて。なんだか砂浜を転げ回りたいような気分だ。

 しばらく笑い続けた後、ポカンとしている綺を見つめた。

「悪かったな」

「…………」

「ここには毎年来ているが、朝焼けを見るのは初めてだ。こんなに美しいものが毎朝繰り広げられていたなんて、綺と来なかったら、きっと一生気付かなかったよ」

 さっき寝転がっていたときに付いたのだろう白い砂粒が、綺の黒髪を飾るように付いている。払ってやりたい気持ちを抑えて、玲一は立ち上がった。グッと伸びをする。

「先に戻る」

「えっ、あ、あの……朝ごはん、遅らせますか?」

「いや、いつも通りで構わない。ありがとう」

 眠れていない倦怠感はあるが、晴れやかな気持ちで、玲一は別荘に戻る。

 ミーティングでの苛立ちは欠片も残っていない。仮眠の後、また綺とすごす一日が始まると思うと、知らず口元に笑みが浮かんだ。







 朝焼けは好きだ。

 今日という一日が、今まさに目の前で創られていて、神様のような未知の存在が、途方もないエネルギーと幸運を、陽の光を通して世界に行き渡らせてくれているように思える。

 今日は昨日の続きではない。

 今日は今日として日々生まれる。

 ここの夜明けは特に、強くそう思わせてくれる。

 けれど三度目の朝焼けの、魂を奪われるような美しさは、玲一のキスに霞んでしまって上手く思い出せない。

 朝日に煌いたアイスグレーの双眸。

 穏やかな眼差し。

 近くに感じた息遣い。

 唇に押し当てられた、彼の唇。

「…………」

 思い出してしまって、いてもたってもいられず駆け出す。

 ザブザブと膝まで海の中に入っていって、クタッと座り込んだ。

 濡れた手で顔を覆う。

 海水が目に沁みて泣き出したくなる。

 頰に触れる水の冷たさで、自分の頰が火照っていることを知った。
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