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前編

海辺の別荘へ

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「どういうことだよ、これっ……」

 綺が倒れた翌々日。綺本人から連絡があって、昼休みに急いでアトリエに駆けつけた冬樹は、思わずドキッとした。

 綺がいつも絵を描いている教室の隅は、そこだけ綺麗に片付けられていた。イーゼルも画材もなくなって、その代わりのように白いスーツケースが置かれている。

 瓶の一件があったから、嫌気がさして退学するのかと思ったが。

「今日、これから旅行なんだ」

 床に座って、大きな口でベーグルサンドを頬張っている柚乃の隣で、未開封のタマゴサンドを前にアイスティーを飲んでいた綺が、少し困った顔で言う。

「今日からって、授業は? 旅行ってどこへ? 誰と?」

「授業はサボるよ」

「サボる!?」

「海辺の別荘でお得意様と無期限でバカンスなんだって」

「バカンス!?」

 綺と柚乃の説明が端的すぎて、全く意味がわからない。

「それで、今学期、大学に来るのは今日が最後になるから、冬樹に会っておきたいと思って。呼び出してごめん。これ、こないだ心配かけたお詫び」

 そう言って差し出してきたのは、駅前にある芹澤芸大生御用達のベーカリーの紙袋だった。柚乃の食べているベーグルサンドはそこの名物だから、あれも綺からの差し入れなのだろう。

「えーっと……お得意様って、玲一さんだよな?」

「そう。毎年夏に行く別荘があるらしくて。どうせスランプで何も描けないなら、ちょっと早いけど夏休みにして、気分転換と療養を兼ねて一緒に行かないかって誘ってくれたんだ」

「さすが玲一さん、やることが違う……」

「でも、ちょーっとやらしいのよねぇ」

「やらしい!?」

「いや、柚乃が曲解してるだけで、別にやらしくは……」

「どういうことだよ!? 綺、説明!!」

 牽制モードのスイッチが入る。

 玲一なら大丈夫だと思ったが、間違いがないとは言えない。

「好きなだけいていい代わりに、滞在中の家事全般を任されるのと、食事だけは一緒にするっていう約束があって……」

「ほらやらしい! 富豪の身の回りの世話と食事の相手をするリゾートバイト、ってことでしょ?」

「おいおい、変な言い方すんなよ」

「どんな言い方したって怪しいわよ」

「うーん、まぁ、ちょっと怪しい、か?」

「怪しいかな……?」

「何が怪しいんだ?」

 急に降ってきた声に、三人して驚いて振り返る。

 そこにはTシャツにジーンズと、至ってラフな私服姿の玲一が立っていた。

 だが、いくら軽装でも、異国の血を引いた美しい容姿と、学生にはあり得ない華やかなオーラは人目を引く。周りの生徒が向けてくる好奇の視線にも遠慮がない。

「れっ、玲一さん!? なんでここに!?」

「元々大学で待ち合わせしていたからな。緒月君から、ここで冬樹達とランチしてるってメールをもらって、迎えにきたんだ」

「支倉さん、お昼は?」

「さっき会社で済ませた。君は?」

「今終わったところです」

(えっ?)

 しれっと答えた綺に驚いて彼を見ると、いつの間にか、タマゴサンドが柚乃の膝に移動している。もちろん未開封のままだ。

(相変わらず食べないな……)

 綺の手に包帯はもうない。

 アトリエの空気も、何事もなかったようにいつも通り。

 だが、綺の体調や置かれている状況は何も改善していないのだ。

 今の彼には、玲一が提案してくれたような、思い切った休養が必要なのかもしれない。

「冬樹は夏休みどうするんだ?」

「オレですか? オレは、その……」

「彼女とのデートに旅行に忙しいらしいですよ」

「綺っ!」

 玲一に知られると、彼から杏介に伝わってしまいそうで、言うのを躊躇っていたのに。何も知らない綺が柚乃を指して、自分のことのように嬉しそうに報告してしまう。

「ああ、彼女が……」

 冬樹の考えなどお見通しなのだろう。

 玲一が、楽しそうに微笑んで会釈する。

「初めまして、冬樹の兄の友人の支倉玲一です」

「初めまして福田柚乃です。綺とは専攻が同じで……」

 柚乃が珍しく頬など染めて自己紹介する。

 相手が玲一だと、もはや嫉妬する気も起きない。

「可愛らしい彼女じゃないか」

「はぁ、どうも……」

「杏介も、夏休み中に一度実家に顔を出すって言ってたから、紹介してやったらどうだ? せっかくだから、いい土産話も聞かせてやれるといいな」

「えっ、マジで!? オレ聞いてない!」

「さて。じゃあ、そろそろ出発しようか」

 玲一が笑いながら、足元のスーツケースを持つ。

「支倉さん、僕自分で持ちますからっ」

「荷物はこれだけか?」

「そうですけど」

「OK。じゃあまたな」

 玲一は有無を言わさずに、綺のスーツケースを引いて颯爽と行ってしまう。綺は強ばった笑顔で「冬樹達も旅行楽しんできてね」と言い残し、後を追っていった。

 その背中に「帰ったら連絡しろよー」と呼びかけると、チラッと振り向いて小さく頷く。その顔が少し寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか。

「あいつ、大丈夫かな……」

「心配することないでしょ、支倉さん紳士だし」

「さっきまで怪しい怪しいっつってたクセに……」

 うっとりした様子で言う柚乃に、小さく溜息をつく。

(そういえば……)

 綺からもらった紙袋を開きながら、ぽっかりと空いたスペースを眺める。

(綺と何の約束もなしで迎える夏休みなんて、初めてだな……)

 そんなことに今になって気付いたという事実に、小さな後ろめたさを覚える。

 恋人と迎える夏休みとあって、始まる前から柚乃と計画を立てたり下調べをしたりして、浮き足立っていた自覚はもちろんある。だからといって親友を蔑ろにしていたつもりはなかったのだが。

 もしかしたら、綺は気付いていたのだろうか。







 おかしいとは思ったのだ。

 近くに駐車場があるのに、玲一が向かったのは少し離れた駐車場だったし。校舎の影に停めてあった車は、窓が半分開いているし。

 違和感に首を傾げながら、促されるまま車に乗り込もうとした瞬間。

「わっ!」

 思わず叫んで飛び退いた。

 その後を追うように、灰色の毛玉が飛び出してきて、玲一の周りをグルグルと転がり回る。いや、毛玉なんて可愛いものじゃない。あれは――

「いっ、犬……!?」

「待たせたな、ラーク。暑くなかったか?」

 背中と目はグレー、腹は真っ白と、飼い主と似た配色のシベリアンハスキーは、大きな尻尾をブンブン振って喜んでいる。

 玲一は企みを成功させた子どものように笑いながら、飛びついてきた大型犬の頭をワシワシと撫でた。

「こいつはラーク。犬は嫌いか?」

「いえ……」

「よかった。じゃあ『身の回りの世話』に、犬の散歩も追加しておいてくれ」

 玲一はニヤリと笑って言った。

 やっぱり冬樹たちとの会話は聞こえていたらしい。







 二人と一匹を乗せた車は、目の眩むような日差しの中、一路東へと向かった。

 平日昼すぎの高速道路は渋滞もなく、玲一も綺も口数の多い方ではなかったが、静かにジャズの流れる車内はラークの存在もあって終始和やかで、思った以上に快適なドライブだった。

 大きく変わらない車窓の景色と、一定のリズムを刻む車の揺れ。冷房が効いているとはいえ日差しの温かさもあって、珍しくうつらうつらしているうちに、目的地に到着した。

 別荘裏手のガレージで車を降り、潮の香りと微かに届く波の音に誘われて別荘の表へ回り――息を飲んだ。

 視界いっぱいに広がる青。

 人気もなく、船もなく、海鳥もおらず、雲さえ見当たらない。ただ紺碧の海がどこまでも続き、ゆるく弧を描く地平線を境に、胸のすくような蒼穹が広がっている。

「景色だけはなかなかだろう?」

 玲一が綺の隣に立つ。

 その横をすり抜け、弾丸のような勢いでラークが駆けていく。

「まぁ、海の他には何もないけどな」

 スーパーもコンビニも、駅もバス停も、民家さえ近くにはなく、とても不便な所だと聞かされていた。実際、高速を降りると急に車通りも人通りもなくなって、田畑や看板などの人の営みの形跡さえ見当たらなくなって、心細さを感じたほどだった。

 だが、着いてしまえば、それはとても贅沢なことに思えた。

「荷物は上げておくから、好きなだけ堪能してから来るといい」

 トン、と綺の肩を叩いて、玲一が踵を返す。

 だが、ここに来るまで約三時間、免許を持たない綺は運転だって任せっきりだったのだ。これ以上甘えるわけにはいかない。

「荷物なら僕が運びますから、支倉さんは休んでください」

「力仕事は体力が戻ってからだ」

「荷物くらいは運べます」

「気持ちはありがたいが……じゃあ、ラークに水をやってくれ。水入れは玄関脇にある。それが終わったら俺の部屋へ。二階の突き当りだ」

「わかりました」

「あと、今から支倉さんは禁止な」

「えっ?」

「玲一。俺も綺って呼びたい」

「でも……」

「杏介達には呼ばせといて、俺には呼ばせないつもりか? それにせっかくの休暇だ。お互い、いつまでも他人行儀でいるよりは、できるだけ早く遠慮をなくしておいた方が楽だろう?」

「それは、そうかもしれませんけど……」

「それじゃ、綺、また後で」

 器用にウインクを残して、さっさと行ってしまう。

 その後ろ姿をポカンと見送って。

「……玲一さん」

 小さく呟いてみる。

 フッと、頰が緩む。

 名前で呼べる人が増えるのは、素直に嬉しい。

 綺は波打ち際のラークを呼んで、玄関へ回った。







 別荘は、ヨーロッパの田舎町に建っていそうな、素朴な外観の建物だった。

 藤の枝が絡んだ白い石壁。赤みがかった瓦屋根に、薄いハチミツ色の外壁。二階に並ぶ大きな窓には、シンプルなアイアンの手すり。正面玄関の木のドアは美しい飴色で、そこから海岸へ降りられるように、石造りの階段が伸びている。

 ラークに水をやりながら、しばらく海を眺めた後、別荘の中に入った綺は息を飲んだ。

 玄関ホールは吹き抜けになっていて、天井近くにある大きな窓から、陽の光がたっぷり降り注いでいた。あちこちの窓が開け放たれているのか、気持ちのいい風が通っていて、室内でありながらまるでテラスのような開放感だ。

 興味を惹かれるまま、一階を散策する。

 テーブルに愛らしい花の飾られたダイニングキッチン。リビングには立派な暖炉と、木製のグランドピアノ、ベッドとしても使えそうな大きなソファーがあって、清潔感のあるラベンダー色のリネンのカバーがかかっていた。

 なんとなく女性らしさを感じるインテリアと温かみのある雰囲気に、少し戸惑う。この別荘には普段誰かが住んでいるのだろうか。

 少し緊張しながら二階に上がる。

 廊下には同じようなドアがいくつも並んでいる。

 突き当りのドアは開いていて、そっと覗いてみると、正面の大きな窓の向こうに海が広がっていた。まるで爽快な景色を閉じ込めた特大の額縁がかかっているようだ。

 綺の自宅の部屋が三つか四つは入りそうな広さの部屋。窓の手前には大きな机が置かれていて、玲一がこちらに背を向けて、パソコンを使って何やら作業をしていた。

「入って」

 声をかけていいものかどうか迷っていると、先に声をかけられる。背中に目でも付いているのだろうか。

「お仕事ですか?」

「ああ」

「お忙しいのに誘っていただいて、申し訳ないです」

 綺が倒れ、別荘に誘ってもらったのは、ほんの二日前のことだ。

 あれからすぐにスケジュールを調整して、旅行の日程を知らせてくれたが、玲一にも彼の職場の人達にも、かなり無理をさせたんじゃないだろうか。

 ピタッと、玲一のキーボードを叩く手が止まった。

 飴色のレザーの椅子ごと、クルリとこちらを向く。

「先に伝えておいたが、ここにいる間、俺はほとんどこの部屋に籠って仕事してると思う。だがそれは、無理に休暇を取った皺寄せだとか、綺の相手が面倒だからとかじゃなくて、俺のいつものすごし方だから気にするな」

 さらりと名前を口にされ、くすぐったく思いながら頷く。

「それと、ここには毎年これくらいの時期に顔を出すようにしてるから、周りもある程度心づもりはしていたはずだ。心配しなくていい」

「顔を出すって、どなたかに会う予定があるんですか?」

「近くに母方の祖母と叔母が住んでいるんだ。近くと言っても車で二十分の距離だけどな。普段の別荘の管理と、滞在中の食料や物資の調達を頼んである」

 それでわかった。

「じゃあ、この別荘の温かい雰囲気は、叔母様達のものなんですね」

「それもあるだろうが……この別荘は、父が母のために用意したものでね。母は体が弱かったから、療養のために、叔母の家の近くに故郷の実家に似せた別荘を建てたんだ。十年ほど前に母が事故で他界してからは、俺しか使ってないが」

「そうでしたか……」

 そういえば、玲一の母親はフランス人だったはずだ。別荘の外観からヨーロッパをイメージしたのは、間違いではなかったらしい。

「じゃあ、ここにはお父様の愛情が溢れてるんですね」

「はは。そう言われると今すぐ帰りたくなるな」

 玲一がげんなりしたように言う。 

「荷解きが済んだら少し休むといい。夕方、ラークの散歩に出るときに呼びに行く。散歩から戻ったら、別荘の中を案内しよう」

 玲一が、デスクの袖から鍵を取り出して渡してくれる。

「二つ隣の部屋だ。別荘には俺しかいないが、心配ならかけておくといい」

「えっ、それなら使わないんで、玲一さんが持っててください」

「それは構わないが……あ、そうだ。約束は守れよ」

 玲一の言葉にハッとして頷き、用意された部屋に向かう。

 愛らしいドライフラワーのリースがかかったドアを開けると、正面に大きな窓があって、そこから海が見えるのは玲一の部屋と同じだった。

 持て余しそうな広い部屋。机はなく、ベッドとハンガーラック、そして窓辺に小さな丸テーブルと椅子が置かれている。テーブルには白いクロスがかけられ、花が飾られていた。

 これを用意してくれたのも、玲一の叔母か祖母なのだろう。

 亡くなった姉あるいは娘のために建てられた別荘に、足繁く通ってメンテナンスをして。玲一が連れてくる見知らぬ客人のために、こうして花を用意して。玲一の親族も、そして亡くなった母親も、素敵で優しい人達なのだろうなと想像する。

 ベッド脇に置かれたスーツケースを横目に、ベッドに横になる。

 シーツからは、微かにハーブのような爽やかな香りがした。

(こんなところにまで……)

 細やかな心遣いが嬉しくなって、そっと目を閉じた。

 今回の滞在にあたって、玲一に約束させられたことは、実は三つあった。

 一つは、滞在中の家事を引き受けること。

 もう一つは、三度の食事を共にすること。

 そして冬樹達に言わなかったもう一つは、絵を描かないこと。

 家事や食事については、綺が玲一に気を使わなくてもいいように、きっとわざと仕事を与えてくれたのだと思う。三つ目については、玲一なりに考えてくれたスランプ対策なのだろうが。

(抵抗、なかったな……)

 提示されたときには驚いたし、毎日描くことが当たり前になっていたから、描かずにいられるかどうか心配だった。

 だが実際には、自宅での荷造りの途中、机に置いてあったスケッチブックを横目にスーツケースにロックをかけても、心は動かなかった。むしろ少しホッとしたくらいだ。

(ここにいれば描かなくて済む。描く理由を探さなくていいんだ……)

 だがそう開き直るのは、玲一を裏切るようなものだ。

 体調を整えて、スランプを克服して、次回作が描けるように。そう願って別荘での療養に誘ってくれたはずなのに、綺本人に描こうという意思がないと知ったら、彼はどう思うだろう。







 ラジオからは、流行りの曲が流れていた。

 恋する女子生徒が、気になる男子生徒に意識されたくて、あれこれ手を打つが相手は気付かない。彼が仲のいい男友達と笑い合う姿を盗み見ては、次はどうしたものかと悩む。

 だが、悩むことさえ幸せだと言わんばかりの、甘ったるい歌声をかき消すように、男と女の怒鳴り声が聞こえていた。

 初めは沈んだ声でボソボソと何かを話し合っていたのに、途中で女の金切り声が聞こえて、そこからはずっとこの調子だ。

 取り乱して、感情的になって怒鳴り散らす女。

 彼女を萎縮させんばかりの大声で、諌めている男。

 受験勉強のために開いた問題集は、問三から少しも進まない。

 聞きたくない気持ちとは裏腹に、一言一句漏らさないよう耳をそばだててしまう。少しでも事態が好転しないかと祈り、これ以上悪化しないかと怯え、ビクビクしている自分。

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 男はそれを受け入れられずにいる。

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 典型的なホームドラマの舞台のような、閑静な住宅街の新築一戸建て。そこに暮らす内に、その家に似合いの家族になれるはずだと、希望を託すように。

 けれど、それは女の望むものではなかった。

 火に油を注いだように、二人の仲は急激に悪化した。

 男も女も、どちらも悪くないのだ。どちらも自分に与えられた役割を全うしようと一生懸命だっただけだ。

 ただ、役割を全うすることに必死になるあまり、いつの間にか、その先にあるものを見失って疲れてしまったのだ。

 二人がこうなる前に、二人のために、自分ができたことが、何かあったんじゃないだろうか。自分は、自分達はこの先、どうなってしまうのだろう。

 そんな問いの答えばかり探してしまって。

 問題集の解答欄はいつまでも白紙のまま。

 抉られた胸の痛みだけが、いつまでも消えない。







 目を開けると、見慣れない部屋にいた。

 部屋の中はぼんやりと明るい。

 光源を探すと、大きな窓の外に、欠けた月が見えた。

 悪気なくスッと引っ掻いたような、白くて明るい三日月。

(夜……)

 むくりと体を起こすと、肩からブランケットが落ちた。

 こんなもの、かけて眠っただろうか。

(これ、支倉さんが……? あっ!)

 約束を思い出して、慌ててベッドサイドの置き時計を見る。

 四時。

 もちろん、夕方よりも明け方の方が近い時間だ。

「しまった……」

 散歩にも行けなかったし、夕食の準備もしていない。

 初日から約束を破ってばかりだが、それでもきっと、玲一は怒ってはいないのだろう。綺が眠っているのを見て、ブランケットをかけていってくれたぐらいだから。

(甘やかされてるな……)

 十時間近く眠ったからか、寝直そうにも目が冴えてしまった。

 玲一との約束を守れなかったことは申し訳ないけれど、こんなに長く眠れたのは本当に久しぶりだ。きっと長時間のドライブと慣れない環境で、自覚していた以上に疲れていたのだろう。

 それでも、見ていた夢の内容のせいか、体の軽さとは逆に、胸がざわついている。

 夜の海風にでも当たろうと一階に降りると、リビングに明かりがついていた。微かにジャズの音色が漏れ聞こえてくる。

「支倉さん……?」

 足を踏み入れて、ドキッとする。

 あの大きなソファの肘掛けから、灰色の頭が覗いていた。

 忍び足で近付いていくと、玲一が服のまま横になって眠っている。サイドテーブルには飲みかけのブラックコーヒー。

 仕事は終わったのだろうか。それとも途中の小休止のつもりが、眠ってしまったのだろうか。せめて睡眠くらいはしっかりとってほしいが、起こすのも躊躇われる。

 少し思案した後、そっと引き返して、自室からブランケットを取ってきた。玲一にかけようと広げると、あの心の落ち着くいい香りがした。

「ん……」

 不意に、玲一が身じろぐ。

 息をのんで見守っている目の前で、ゆっくりと白い瞼が持ち上がる。アイスグレーの瞳は、まだ微睡みの中にいるようにぼんやりとしていて、綺の姿を捉えると「あぁ」と気だるげに声を上げた。

「よく眠れたか?」

「はい。でも、すみません、約束――」

「よかったな……」

 フッと笑みを浮かべる。

 その笑みがあまりに優しく、そして色っぽくて、ドキッとした。

「あの、支倉さん、ベッドに行った方が……」

「ああ……」

 だが、玲一に起き上がる気配はなく、そのまま目を閉じる。

 疲れているのだなと、ブランケットをかけようとすると、

「うわっ!」

 急に手を引かれた。

 玲一の上に倒れこんでしまう。

「すっ、すみません!」

 反射的に謝って体を起こそうとするが、自分の右手首はがっちり玲一に握られていて、意図的に引き寄せられたのは確実だ。

 総毛立って、息が止まる。

 今年の春にも同じようなシチュエーションを経験した。

 あの時は男子高校生が相手で、彼の目には得体の知れない使命感に駆り立てられてでもいるような、燃えるような激しさがあった。

(だけど、どうして支倉さんがっ……?)

 真意を探ろうと玲一の顔を見ると、彼の目ははっきり開いていて。けれど、見覚えのある意地の悪い笑みを浮かべていた。

「玲一」

 キョトンとする綺に、彼は強い口調で言った。

「支倉さんは禁止って言っただろう?」

「えっ、あ……玲一、さん?」

「もう一度」

「……玲一さん」

「うん、悪くない」

 あっさりと手を離して、玲一は起き上がる。

「上で寝直すか。よかったら一緒にどうだ?」

「けっ、結構です!」

 以前、食事に誘われたときのような軽い口調。

 やはり、自分が警戒しすぎていただけだったのだろう。

 そもそも、こんな女性に不自由するはずもない男が、たとえ気の迷いを起こしたとしても、よりによって自分に手を出すはずがない。

「君はもう寝ないのか?」

「寝付けそうにないので、海を見に行こうと思っていたところで……」

「そうか。まぁ止めはしないが、暗いから気をつけろよ。それと、これを持っていけ。夏とはいえ、夜の海風に当たり続けたら体を冷やすぞ」

 自分にかかっていたブランケットを綺の肩にかけて、玲一はリビングを出て行ってしまう。

 誤解してしまったことを申し訳なく思いないがら、綺は別荘を出て海に向かった。

 乱れた鼓動も、きっと夜明けまでには治まるだろう。 







 自室の窓から、綺が海岸に出て行くのを見届けてから、玲一はベッドに横になった。

 さっきの彼の反応を思い出す。

 自分は別に寝惚けていたわけではない。ただ、少し浮かれていたのだ。

 目覚めたら綺がいて、ブランケットを手にこちらを見つめていた。その姿がなんだか愛らしくて、少しからかいたくなったのだ。

(怯えていたな……)

 それに握った手首の細さ。

 倒れこんできた体の軽さ。

 ここの気候は都内に比べればすごしやすく、人目もない。身近な人間に虚勢を張って本心を隠し、他人と距離を置いて生きてきた彼の心を休めるには、悪くない環境だと思って誘ったのだが。

(俺が脅かしてどうする……)

 玲一が腕を引いたとき、綺が他の男に強引に迫られたときのことを思い出したのだろうことは、想像に難くない。

 冬樹に聞かされたのは高校の先輩と絵画教室の生徒の二件だけだったが、あの口ぶりだと、被害は他にもあったのだろう。

(すべて未遂だったんだろうか……)

 そう考えて、自分の勘繰りに反吐が出る。

(厄介な奴)

 何かしてやりたいとは思うが、彼のためにできることがあるのかどうかわからない。下手に関わるよりは、黙って見守っていた方がいいのかもしれない。

 そう思ったのだが。
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