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前編
がらんどうの家
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「綺っ!」
兄に続いて倒れた友人に、冬樹が顔色を変える。
「痛ってぇ……あれ、もしかしてオレ意識飛んでた?」
さっき玲一がローキックを見舞った脇腹をさすりながら、杏介が体を起こし、膝の上に伏している綺に目を見張る。
「綺ちゃん!? おい、どうした!? どうなってんだ!?」
目の前の光景に、いつか見た光景が重なった。
生気のない横顔。痩せた体。だらりと垂れて動かない手。
あの時と違うのは、駆け寄った人々がその体に触れていること。
杏介が綺を仰向けにして、上体を抱きしめている。
冬樹が手を握り、何度も名前を呼んでいる。
(そうだ、あの時とは違う……)
――ドクン、ドクン。
自分の鼓動が乱れるのがわかる。
元々、綺は体調不良だったのだ。
食事も睡眠もままならず、スランプにも苦しんでいた。
それでも彼は絵を描こうと足掻いていた。
生を放棄しようとはしていなかった。
――ドクン、ドクン。
それに綺は、今ここで倒れたのだ。
付き合いの長い冬樹、杏介、そして玲一の目の前で。
誰も寄り添えない場所へ、一人で身を投げた彼女とは違う。
(俺がこの場に居合わせたのは、運命か。もしそうなら――)
呼吸の乱れに抗うように、深く息を吸い、吐く。
キッと眼光を強めた。
「冬樹、緒月君の住所わかるか?」
「それが、綺の家には行ったことなくて……」
「荷物の中に、何か住所のわかるものはないか?」
冬樹は慌てて傍に投げ出されていたカバンを探り始める。
だが、すぐに「えっ……」と戸惑ったような声を上げた。
「どうした?」
「いっ、いえ、何も……」
冬樹が手にしているのは、不動産会社の社名の入った大きな封筒。そこから抜き出して渡されたのは賃貸契約の書類だった。綺の現住所は既に記入されている。
「杏介、説明は後だ。緒月君を連れてこい」
「ああ」
「冬樹も来られるか? 話が聞きたい」
「わかりました」
杏介が綺を抱き上げるのを確認して、歩き出す。
今日は夕食に誘うつもりで、杏介を連れて車で来ていた。
前回の食事のとき、玲一が冬樹や杏介の話をすると、綺は本当に嬉しそうに聞き入っていた。だから、彼らの前で綺がどんな顔をするのか見てみたかったし、綺にとってもいい気分転換になるだろうと思ったのだが。
携帯で支倉家の主治医に連絡し、綺の家で落ち合えるように頼む。
病院に行けとは言われたが、さすがに長い付き合いだ。そうできない、あるいはしたくない事情があるから連絡しているのだともわかっていて、盛大な溜息と共に了承してくれた。
車に乗り込み、綺の自宅に向かう。
彼の家は、閑静な住宅街にある、小さな庭付きの一軒家だった。
表札を確認してチャイムを鳴らすが、両親が留守がちだと聞いていた通り、誰も出てこない。仕方なく、綺のカバンにあった鍵を使って中に入った。
「冬樹、綺ちゃんの部屋探して来い」
「了解」
綺を抱えた杏介に言われて、冬樹が家の中に駆け込んでいく。
その後に続いて玄関を上がると、小さな廊下。
一番手前のドアがリビングにつながっていた。
「やけにキレーな家だな……」
杏介が、訝しげに呟く。
その言葉が意味するのが、インテリアが洒落ているとか、掃除が行き届いているとか、そういうことでないのは玲一にもわかった。
リビングには大きなL字型のソファに、ローテーブル、テレビ台にテレビ。そこから続くダイニングには、四人掛けのダイニングテーブル。窓にはカーテン。
生活に必要な一通りのものがそろっている。
それなのに、人が生活している気配がしない。
真新しいまま、ほとんど傷みのない家具。読みかけの雑誌も、出しっ放しのマグカップもなく、まだモデルルームの方が温かみを感じるくらいだ。
「緒月君が何人家族か知ってるか?」
「兄弟がいるって話は聞かねぇけど……」
チラリ、と杏介と顔を見合わせる。
嫌な感じがした。
足早にダイニングの奥にあるキッチンに向かう。
冷蔵庫を開ける。中はほぼ空で、冷凍庫にアイスクリームがいくつか入っているだけ。戸棚を片っ端から開けて中を確認するが、調理器具や食器は十二分にそろっているものの、食料はほとんど見当たらなかった。
ふとコンロ脇に並ぶ香辛料の小瓶が目について手に取る。賞味期限は、もう何年も前の日付。食器の水切りカゴには、マグカップと皿が一つずつ。
「兄貴、上」
「おう」
冬樹が呼びに来て、取りあえず杏介が二階に上がっていく。
一人残って一階の部屋を見て回るが、そこには家族で暮らしている形跡など一つも見付けられなかった。使われている様子もない和室が、けれどきちんと空気を入れ替え掃除されているのだろう、綺麗に保たれているのを見て、逆に気分が悪くなる。
ふと外に気配を感じ玄関のドアを開けると、女が一人、一抱え以上はある大きな鞄を持って立っていた。
スリムなブルージーンズに、黒いTシャツ。長い黒髪を高い位置でポニーテールにして、黒縁メガネの向こうから、不機嫌丸出しでこちらを睨んでいる。
スタイルのよさも、顔立ちの美しさも、愛嬌も、全て振り切ったような在り方には、いっそ潔さを感じるほどだ。
「ああ、悪いな」
「そう思うなら、そんな鬱々とした顔で迎えるのはやめていただけるかしら、玲一坊ちゃん」
「……坊ちゃんはやめてくれって言ってるだろう」
「手がかかる内は、坊ちゃんで十分よ。患者は?」
「二階に寝かせてある。たぶん栄養失調だ」
「この飽食の時代に贅沢なこと」
支倉家の主治医の娘、佐伯静流さえき・しずるは忌々しそうに吐き捨てて、さっさと二階に上がっていく。
佐伯家は、支倉家とは先々代から付き合いのある医者の家系だ。
静流の父の判断で、彼女が玲一の主治医となって以来、彼女には定期的な健康診断だけでなく、普通の医者には頼めないようなことも度々依頼してきた。だから、いつも連絡した時点で不機嫌だし、顔を合わせれば不機嫌に拍車がかかるが、腕は信頼できる。
玲一も二階に上がり、各部屋をザッと見てから、杏介達に合流した。
綺の部屋は、六畳ほどの洋室だった。
大きな書棚のついた学習机。同じ色の木材でできたシンプルなベッド。ベッド脇には小さなサイドテーブルが置かれ、野生動物や世界遺産などの写真集とミネラルウォーターのボトルが乗っている。
出窓には、オイルランプとぽってりした形のガラスの花瓶が並べて飾られていて、花瓶は光を受けて、床に不思議な影を揺らめかせていた。活けられている青い花は、確か玄関前に植えられていたもの。
この家で唯一、温もりの感じられる空間。
玲一は我知らずホッと息を吐いた。
ベッドに寝かされた綺は、相変わらず青白い顔のままで、静流によって点滴が施されている。
その様子を、冬樹はベッドの傍に立ったまま、沈痛な面持ちで見つめていた。杏介は腕を組んで窓辺にもたれ掛かり、じっと外を眺めている。
「二人とも、ちょっといいか?」
玲一は声をかけて、二人を連れてリビングに戻った。
「今日は、緒月君と冬樹を食事に誘おうと思って、大学に顔を出したんだ」
「玲一から綺ちゃんの様子がおかしいから来い、って連絡もらってな。二人が絵でつながってたとか、オレに許可なくデートしてたとか、納得いかねぇことはいっぱいあるけど……まさか、こんな弱ってたなんてな……」
杏介が軽口を挟むが、いつもほど飄々とした感じはない。
「なぁ、冬樹。飲めない食えないで体調不良になって倒れるなんてこと、スランプに追い込まれた芸大生にはよくあることなのか?」
「精神的に病む奴はたまにいるらしいですけど、よくあることではないです。少なくともオレの周りでは、綺が初めてでっ……」
よほどショックだったのか、語尾が震えて消える。
この場であれこれ聞くのは、酷なことかもしれない。
だがきっと、彼以上に綺のことを知る人はいないのだ。
ソファに座って打ちひしがれた様子の冬樹に寄り添って、その背中を撫でてやりながら、玲一は質問を続けた。
「以前、緒月君のスランプは春からだと言ってたが、他に、春に何かなかったか? 緒月君が精神的に追い詰められるようなことがあったとか、いつもと違った様子だったとか」
「綺がこうなった理由が、スランプ以外にもあるってことですか?」
「恐らくは」
冬樹は記憶をたどるように目を伏せた。
「オレの知る中で、綺が一番ショックだったんじゃないかと思うのは……絵画教室のバイトを辞めたことです」
「どういうことだ?」
「大学入ってからずっと続けてたバイトで、綺も気に入ってたんですけど、五月入ったくらいだったかな。その……男子生徒に迫られたとかで辞めてしまったんです」
「畜生、またかよ」
杏介が忌々しそうに吐き捨てる。
「また?」
「実は……オレが綺と知り合ったのも、綺が高校入学早々、男の先輩に押し倒されてたのを助けたのがきっかけなんです。綺のことを好きになる奴って、なんでだかみんな暴走しがちで、いつもオレが牽制してやってたくらいで……」
うんざりする話だが、わからなくはない。
綺は綺麗な顔立ちをしているし、何より独特の雰囲気がある。
それに、普段は鳴りを潜めているが、写真撮影時にまとっていたような壮絶なオーラに当てられたら、きっと誰だって心を奪われるに違いない。
「ただ、今回のは迫られたって言っても相手は高校生ですし、押し倒されて無理矢理何かされたって訳でもないし、綺本人がそこまで気にしてると思いませんでした。そもそも、いつも怒って気にしてるのはオレだけで、綺自身は淡々としてるし……」
「迫られ慣れて、今更ショックも受けないと?」
「いやいや、そういうわけじゃ」
冬樹が苦笑する。
「綺って基本的に、人を責めたり怒ったりしないんです。嫌なことされても怖い目にあっても、相手に非があるわけじゃなくて、相手と自分の相性が悪かっただけだ、って俯瞰的に受け止めるっていうか……。ただ、あんまり強引に迫られることが多かったから、もしかしたら自分が無意識に相手にそうさせるような態度を取ってるのかもしれないって、どんどん人と距離を置くようになって……大学入ってからは、迫られることもほとんどなくなってたんですけどね」
(距離……)
スッと、腑に落ちた気がした。
先日、写真撮影で目の当たりした綺に魅力を感じ、食事に誘った。けれど、その後の彼は、まるで別人のように覇気がなかった。
悪いことをしたと思えば人目も気にせず頭を下げたり、失礼をはたらけば体調不良を押して食事に付き合ったりと、誠意は見せる。女性に対する気遣いもできる。だけど、冬樹曰く『お得意様』の玲一にさえ、媚びるどころか、歩み寄ってくることさえしない。
冬樹の言葉通りなら、あれらは、綺が玲一と距離を置くために意図的にやっていたことなのだろう。
「でも、この春、綺のことで気になったのはそれくらいです。元々専攻が違うから校舎も違うし、三年になって共通科目が被らなくなったり制作が忙しくなったりで、あんまり会えてなかったから、オレが知らないだけかもしれませんけど……」
「そうか。緒月君は恋人はいないって言ってたけど――」
「玲一、何リサーチしちゃってんの!?」
「黙れ。冬樹以外に、相談できるような相手はいたんだろうか?」
「うーん、どうかな……アトリエ行っても、ゼミのメンバーと打ち解けてる感じもないし、もしかしたら兄貴と家族くらいじゃないかな」
「なんで杏介……」
「オレも理解に苦しむんですけど、綺って兄貴に懐いてて……」
杏介が無言のまま、得意げな顔でVサインを作る。
黙殺。
「ちなみに、冬樹と杏介はどうだ? 春に何か変わったことは?」
「え? オレらですか?」
「オレは仕事が忙しくて、去年の年末以来、冬樹にも綺ちゃんにも連絡取ってなかったし、たぶん関係ねぇな」
「オレも何もないですよ? カフェのバイトはもう三年目で特に変わったこともないし、大学は三年になって多少進路意識し始めたけど、コマ数も評価もほとんど変わんないし……」
「例えば彼女ができたのが春、とか」
「「えっ!?」」
杏介が冬樹を、冬樹が玲一を、凝視する。
「なっ、なんで知ってるんですか!?」
「ってか、お前彼女できたのか!? なんで兄ちゃんに報告しねぇんだよ!? どこのどいつだよ!? もう童貞卒業したのか!?」
「うるせぇ!!」
杏介はまだまだ質問責めにしたいようだが、この兄弟のじゃれ合いに構ってはいられない。まだもう一つ、冬樹に聞いておきたいことがある。
「ところで冬樹、緒月君の家族について、彼から何か聞いてないか? 離婚してるとか、別居してるとか」
「えっ、両親の仕事が忙しくて留守がちだってくらいしか聞いてませんけど……離婚したんですか? あっ、だから、あいつ引越しを?」
ここに来る前、綺のカバンから不動産会社の封筒を見つけたことを思い出したのか、合点がいったような顔をする。
それを見ていた玲一の胸には、苦いものが広がった。
「冬樹は、緒月君が家を出ることを知らされていなかったんだな」
「……玲一さんは知ってたんですか?」
「先日食事をしたときに、実家に居辛いから夏休みに家を出ると。緒月君がこの家に引っ越してきたのがいつかは知っているか?」
「確か、中三の終わりに引っ越すことになって、受験勉強が大変だったって話を聞いたことがありますけど……」
(中三。六年前か……)
もし、この家の調度品が引っ越しを機に買いそろえられたものなら、それがほとんど使われず綺麗なままだということが、何を意味するのか。
ダンッ。
杏介がダイニングテーブルに拳を打ち付ける。
彼も、玲一と同じ結論に至ったに違いない。
(ネグレクト……)
息子を一人で置いておくだけなら、この家を売り払ってアパートで一人暮らしさせた方が、格段に安く済む。そうはせず、家を維持したまま、アルバイトをしなくても十分に生活ができるだけの生活費や学費が支払われていたということは、綺の両親にはそれなりの収入があるのだろう。
綺が経済的な不自由を強いられなかったことは、せめてもの救いだが、それでも――あの感受性の高い青年が、思春期を含む六年を、この広い家で、たった一人ですごしていたのだと思うと、ぞっとする。
しかも、綺はそれを一人で抱え込んでいたのだろう。
両親を責めることも怒ることもなく。
親友である冬樹にも、信頼する杏介にも知らせず。
冬樹や杏介をやけに大切に思っているのは、綺にとって彼らが、家族に代わる存在だったからかもしれない。
だが、杏介は仕事が忙しくそうそう会えるわけではない。冬樹とは大学に入って接点が減り、この春には彼女という、自分より優先して寄り添うべき相手ができた。
そんな折にアルバイト先で生徒に迫られ、アルバイトを辞めた。社会との接点を失ったばかりか、人付き合いを敬遠する気持ちには拍車がかかったに違いない。
そして理由はわからないが、この夏には住み慣れた家を出る。
度重なる喪失と孤独こそ、スランプの引き金ではないのか。
「……玲一さんには、何か見えてるんですか?」
不意に、強張った声で問われ、思考の海から引き上げられる。
眉間に似合わない皺を寄せて、冬樹が玲一を見つめていた。
「春からどんどん弱っていく綺を見てたけど、オレには正直、何をしてやったらいいかわからなかったし、何もしてやれなかった」
冬樹の目が揺らぐ。
玲一の眼差しに耐えかねるように、俯いてしまう。
膝に肘をつき、組んだ両手を額に当てて、呻くように言った。
「綺って昔から自分のこと話さない奴で。オレはそれを、特別気にしたこともなくて。だから、こんなことになって、いざあいつの力になりたいって思っても、もしかしたら信頼されてないから話してもらえなかったのかもしれないって思ったら……踏み込むのも、怖くて」
言葉を詰まらせながらの独白からは、親友の変化を察知してからの、彼の苦悩が痛いほど伝わってくる。
冬樹だって、綺が弱っていくのを、ただ黙って見ていたわけではないのだろう。見守り、寄り添い、言葉をかけ、理解しようと努力もしたに違いない。それでも、歯止めをかけることはできなかったのだ。
フッと、幼い日に味わった感覚がよみがえる。
相手を思って、心を砕いて、知恵をこらして、力を尽くして。
それでも事態を何一つ変えることのできない虚しさ。
日に日に増していく、失う予感と恐怖。
無力な自分への怒りと苛立ち。
だが――
冬樹はバッと顔を上げた。
「もし、オレに見えないものが玲一さんには見えていて、綺のためにオレにできることがあるなら教えてください! お願いします!」
栗色の双眸は、薄暗い気配を全て振り切るような強さで、まっすぐに玲一を見据えていた。
ハッとさせられる。
あの頃の自分は一人だった。いや、違う。周囲の人間を信用できず、彼女を救えるのは自分だけだと、心のどこかで思い込んでいた。
だけど目の前の青年は違う。自身の無力を知って、迷いなく人に助けを乞うている。
その素直さが眩しく、その相手が自分だというのは、やっぱり運命のように思えた。
「……自分を不甲斐なく思う気持ちはわかる。だが、きっと、緒月君は冬樹に救われていたんだと思う。その鈍感さも含めて」
「ちょ、鈍感って……まぁ否定できませんけど」
「大きくなったなぁ、冬樹」
杏介が冬樹に歩み寄り、感慨深そうに言いながら、栗色の頭をグチャグチャに撫でる。
「やめろって! なんだよ、急に!?」
「こんなカワイイのに、いつの間にか大人になっちゃって。せめて鈍感さくらい残しといてくれないと、お兄ちゃん寂しーわ」
「うるさい! オレ、真剣に頼んでんだぞ!? くそっ……ちょっと綺の様子見てきます!」
兄の手から逃れるように立ち上がり、リビングを出て行こうとする。その背中に告げた。
「そのままでいろ、冬樹」
「えっ?」
「そのままでいいと思う」
足を止めて振り返った冬樹が、おそらく意味を理解しないまま、小さく頷いてリビングを出て行く。
杏介が、カラカラと庭に続くドアを開け、タバコに火をつけた。
ムッとするような外の熱気が、部屋の中に流れ込んでくる。
「いる?」
こちらを振り返って、タバコの箱を差し出す。
「吸わないの知ってるだろう」
「そうだったか」
杏介は、フーッと、空に向かって細く紫煙を吐く。
「お前、緒月君のこと好きなのか?」
「好きだけど?」
「付き合わないのか?」
杏介はバイだ。綺は彼に懐いているというし、手を出していてもおかしくないと思ったが。
「悔しいけど、オレ、綾取り得意じゃないんだわ」
「綾取り?」
妙な言い回しをする。
「なんかこんがらがってんだろうなぁとは感じてた。でも、お前みたいに頭よくねぇし、器用でもねぇから、解き方が全くわかんなくてな」
杏介は、どこか他人事のように笑った。
「綺ちゃんはいつも、どっか寂しそうだった。たぶんそこがいろんな奴の庇護欲とか支配欲とかをくすぐって、変な気を起こさせてたんだと思う。この家に来て、そこまではわかっても、結局、オレには優しくしてやるくらいしかできねぇ」
「お前がまともにもの考えてるなんて珍しい」
「そうだろ」
今度はニッと、茶化すように笑う。
言動は軽く、いつも何も考えていないかのようにヘラヘラしている。杏介の本心を見抜くのは、長く一緒にいる玲一でも難しい。
だが、恐らく、杏介は真剣に綺のことを思っている。
のんびり一本吸った後、彼は携帯灰皿に吸い殻を押し付けた。
殊勝なものを持つようになったものだと、少し感心する。
「なぁ玲一。お前、重ねちゃってんだろう?」
「…………」
杏介が振り返る。
「お前だったら解けんの?」
青いフィルター越しの目が、ヒシと、玲一を見据える。
その眼差しは、なぜか、さっき見た栗色の双眸に重なった。
綺の部屋に戻ると、静流は医療器具を片付けていた。
どうやら綺に施していた点滴が終わったらしい。
冬樹はスケッチブックを開いていた。
窓の外にはいつの間にか夕闇が迫っていて、紙面に目を落とす冬樹の横顔に、深い陰影を刻んでいる。玲一に気付くと、彼は少し困ったように微笑んだ。
「玲一さん、綺の鉛筆画見たことあります?」
「いや。俺は『αシリーズ』以外は見たことがないんだ」
「そうなんだ。『αシリーズ』もいいけど、オレ、あいつのスケッチやデッサンも好きなんですよね」
そう言って、スケッチブックを手渡してくれる。
そこには、この部屋の出窓からの風景や、そこに置かれた花瓶や花が、試行錯誤するように様々なタッチで描かれていた。
力強く大胆なもの。美しく精緻なもの。教科書の端の落書きのように軽いもの。荒々しく抽象的なもの。一ページ一ページ表情に違いはあるが、どれも素晴らしいクオリティだということは、素人目にもわかる。
「高校のとき、綺は帰宅部で、オレが強引に美術部に勧誘したんです。綺は画材を持ってなかったのもあって、ずっと鉛筆で絵を描いてたんですけど……」
綺の机の横には小さな本棚があって、そこには画集や写真集と一緒に、何冊ものスケッチブックが並んでいた。
冬樹は表紙に記入された日付を確認しながら「ああ、この辺かな」と、その中から一冊を取り出す。
少し気恥ずかしそうにしながら開いて見せてくれたページには、美術室で制服姿の少年少女がイーゼルに向かう姿が描かれていた。さっきまで見ていたスケッチブックの絵に比べると、あまり上手いとは思えないが。
玲一は、その中で一番手前にいる少年を指す。
「これ、冬樹?」
「そうです。美術部の部活風景。綺って、そういう小っ恥ずかしいのを平気で描くんですよ。毎日毎日じーっと観察されて、最初はみんな恥ずかしがったり嫌がったりしてたんだけど、そのうち綺の熱心さに何も言えなくなっちゃって……」
冬樹はスケッチブックを戻す。
それからベッドの傍に膝をついて、布団を少しめくった。
「おい、それは……!」
綺の右手に包帯が巻かれているのを見て、ギョッとする。
「ケガ自体は大したことないから、二、三日で治るわよ」
手当てした静流が淡々と告げる。
「どうしてケガなんて……」
「オレが大学入って初めて作ったガラスの瓶、綺が絵を描く道具を立てるのに使ってたんですけど、今日、綺が登校したら、割れてたらしいんです。その片付けを素手でやったらしくて」
「ガラスが割れてたって……誰かにやられたのか?」
「綺は何も言わなかったけど、たぶん嫌がらせ。オレの彼女、綺と同じアトリエにいるんですけど、そいつに聞いた話だと、今日綺はその件でキレて、朝からずっと描き続けてたらしいんです。すごい剣幕で、怖くて誰も止められなかったって」
撮影現場で見た彼が現れたのだ、と思った。
カメラマンに絵を燃やすとハッパをかけられた瞬間の、狂気を感じるほどの、壮絶な怒りの表情。目を奪われ、背筋が震えた、あのときの感覚が蘇る。
彼が現れたのだとしたら、他の生徒はさぞ肝が冷えたことだろう。同じ空間で自分の創作活動に集中することなど、できなかったに違いない。
冬樹は綺の右手をそっと両手で包んで、小さく溜息をついた。
「綺には言えないけど……オレ、やった奴の気持ちもわかるんですよね。オレだって、もし綺と同じ油画の道に進んで、毎日綺の才能を間近で見せつけられてたら、もしかしたら今みたいな関係じゃいられなかったかもしれない」
「そこまで……」
「あとちょっと、後悔とかじゃないですけど、綺をこの道に引きずりこんでよかったのかなって思うこともあるんです。美術部に入らなかったら、芸大に入らなかったら、今みたいに嫌がらせされたり、ケガしたりすることもなかったのにって……」
「そしたら俺が『αシリーズ』に出会うこともなかったな」
玲一は冬樹の肩を叩いて、そっと微笑みかける。
フッと、冬樹も頰を緩めた。
「確かにそうですね」
「俺は感謝してる」
「冬樹ー、帰んぞー」
一階から、杏介が呼ぶ声が聞こえた。
「えっ、帰んの?」
杏介が、こんな状態の綺を放って帰るとは思っていなかったのだろう。冬樹は綺の手を布団の中に戻すと、首を傾げながら「ちょっと行ってきます」と部屋を出て行った。
だが、しばらくするとバタンと、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
「帰っちゃったわね」
静流が、窓の外を見て意外そうに言う。
「緒月君は自分が弱ってる理由を、あの二人に隠してたらしいからな。目が覚めた時に虚勢を張らせないように、杏介が気を利かせたんだろう」
「死に際の猫みたいね」
「医者のくせに不吉なこと言うなよ」
「あら失礼」
悪びれた様子もなく言って、肩を竦める。
「緒月君だっけ? 坊ちゃんの言う通り栄養失調による貧血でしょうね。この暑さで体力も奪われてるだろうし、できれば二、三日は点滴して様子を見たいところだけど、できないならごく軽い食事、それも難しかったらせめて水分は摂らせて」
「ああ、わかった」
「……綺麗な子ね。親しいの?」
「いや。会うのは今日で三度目だ」
静流が患者に興味を持つなんて珍しい。
本人も自覚しているのだろう、憮然と唇を尖らせる。
「今まで坊ちゃんが連れてきた患者と毛色が違うから気になっただけよ」
「だから坊ちゃんはやめろって……」
「帰るわ。明日にでも請求書送っとく」
「ああ。送って行けなくて悪いな」
「相談料上乗せしとくからお気になさらず」
大きなカバンを肩に下げ、ヒラッと手を振って出て行く。
全く、たくましい女医だ。そうさせたのは自分だろうが。
玄関のドアが閉まる音が聞こえ、車のエンジン音が遠ざかって行く。
すっかり日が落ちて薄暗くなった部屋で、玲一はスケッチブックを手に、窓辺に移動した。街灯と僅かな月明かりにかざして、一枚一枚めくっていく。時々冬樹の絵が現れるのが、なんだかおかしい。
(本当に、あいつのことが好きなんだな……)
綺の描く冬樹は、どれも優しい顔をしている。
あぐらをかいて本を読んでいる冬樹も、椅子にかけてぼんやり携帯をいじっている冬樹も、難しい顔をしてスケッチブックを広げている冬樹も。日常の中のなんでもない姿なのに、絵に起こされたものを見ていると、フッと微笑みが浮かぶ。
執着している、と言えばそうなのだろう。
綺にとって、家族に代わる掛け替えのない存在。
だが、絵を通して伝わってくる感情の、なんと温かいことか。
(慈しみ、か……)
感情のベクトルの向きは違うが、撮影現場で見た彼の絵だと思う。
カサと、シーツの擦れる音がした。
ベッドを見ると、濡れたガラス玉のような瞳が、不思議そうに玲一を見つめていた。道端の段ボール箱から、足を止めた変わり者を見つめる、捨てられた黒猫のように。
「勝手に見てすまない」
スケッチブックを閉じて本棚に戻す。
「君は大学で倒れたんだ。医者は貧血だと。気分はどうだ?」
綺はしばらく玲一を見つめていたが、ハッと目を見張った。
「あのっ、杏介さんは!? さっき倒れて――」
「問題ない。なんなら君をここまで担いで来たのもあいつだ」
覚醒して最初に気になるのが杏介のことだとは。
呆れを通り越して、少し腹立たしくさえ思える。
それで、少し、意地悪をしたくなった。
「杏介と冬樹はもう帰った。俺しかいなくてガッカリしたか?」
「いえ、そんな……ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「また貸しが増えたな」
ニヤリと笑って見せると、綺も弱々しく微笑んだ。
「困ったな。今の僕に返せるものなんて、何もないのに……」
「何もないわけじゃないだろう?」
ベッドの縁に腰掛ける。
手を伸ばすと、体を強張らせたのがわかった。
頰に触れる。想像したより冷たくて、少し驚く。
親指を伸ばして、ゆっくりと、乾いた唇をなぞる。
綺の目が、玲一の真意を図ろうとするように、まっすぐにこちらを見つめる。その奥底に、微かな怯えの色。
「逃げないのか?」
「その気がないのは、わかりますから……」
「どうして?」
「そんな穏やかな目の人に迫られたことありません。それに、支倉さんは大丈夫だって、冬樹が言ってましたから」
「…………」
この先どうこうしようと考えていたわけではない。
手を伸ばせば体を強張らせて、間近に見つめれば怯えて――彼への好意を免罪符に、これまでどんな相手がどんなアプローチを仕掛けてきたのか知らないが、随分と傷付けたものだ。
彼らのしたことを真似て脅かしてやろうなんて、幼稚な考えを起こした自分にもうんざりするが。
(今度は冬樹か……)
おもしろくない。
「ご両親はいつ帰る?」
「えっ……」
手を離す。
綺の目がじっと玲一を見つめる。
そうして、やがて、そっと目を伏せた。
「……もう、気付いているんですよね。冬樹と杏介さんは?」
「杏介は気付いたが、冬樹は鈍感だから……」
「そうですか……」
フッと口元を緩めた。
途方に暮れたような、力のない笑みだった。
「一昨年、僕の大学入学を待って、両親は離婚しました。今はそれぞれ家庭がありますから、もう二人そろって帰ってくることはありません」
怒りも、悲しみも、不安も、孤独も。あるべき感情を全てどこかに置き去りにして、ただ夜の静けさを壊さないよう気遣うような、抑揚のない小さな声だった。
「ご両親を恨む気持ちはないのか?」
「恨むなんて……父も母も、それぞれの幸せを手に入れるために頑張っているだけですから。二人の幸せと僕の幸せが重ならないからって、駄々をこねるつもりはありません」
「随分と聞き分けがいいんだな」
綺は小さく首を振った。
「……さっき目が覚めて、そこに人影が見えたとき、夢を見ているんだと思いました。昔よく見た、両親が帰ってくる夢です。……二人がこの家を離れたのはもう何年も前で、僕はもう二十歳を超えた大人なのに、未だにそんな夢を見てもおかしくないと思うほど、まだ焦がれている。諦めの悪い子どものままなんです」
「そんな話を、冬樹や杏介にしたことは?」
「……しません。二人に話して何が変わるわけでもないし、重いものを背負わせて煩わしく思われるのも嫌ですから。それに……憐れみから付き合われたら、きっと……」
――寂しさに直面してしまう。
綺は言い淀んだが、なんとなく、そう続く気がした。
綺は長く言葉を重ねているが、それは一言に集約すれば『寂しい』ということに思えた。
他人を気遣って身を引いて。
重い現実を誰とも共有せず一人で抱えて。
恐らくは無意識に、自分自身の心を捨て置いている。
(そうしなければ、耐えられなかったのか……)
六年の孤独に震える、不器用な魂が目の前にある。
玲一がその存在に気付けたのは、綺にとって大切な存在が自分の親友であったり、綺が弱って心が緩んだ瞬間に居合わせたりと、偶然が重なったからだ。
今を逃せば、自分以外の誰が、この魂を抱きしめてやれるだろう。
「借りを返してもらおう」
「えっ……」
「海は好きか?」
兄に続いて倒れた友人に、冬樹が顔色を変える。
「痛ってぇ……あれ、もしかしてオレ意識飛んでた?」
さっき玲一がローキックを見舞った脇腹をさすりながら、杏介が体を起こし、膝の上に伏している綺に目を見張る。
「綺ちゃん!? おい、どうした!? どうなってんだ!?」
目の前の光景に、いつか見た光景が重なった。
生気のない横顔。痩せた体。だらりと垂れて動かない手。
あの時と違うのは、駆け寄った人々がその体に触れていること。
杏介が綺を仰向けにして、上体を抱きしめている。
冬樹が手を握り、何度も名前を呼んでいる。
(そうだ、あの時とは違う……)
――ドクン、ドクン。
自分の鼓動が乱れるのがわかる。
元々、綺は体調不良だったのだ。
食事も睡眠もままならず、スランプにも苦しんでいた。
それでも彼は絵を描こうと足掻いていた。
生を放棄しようとはしていなかった。
――ドクン、ドクン。
それに綺は、今ここで倒れたのだ。
付き合いの長い冬樹、杏介、そして玲一の目の前で。
誰も寄り添えない場所へ、一人で身を投げた彼女とは違う。
(俺がこの場に居合わせたのは、運命か。もしそうなら――)
呼吸の乱れに抗うように、深く息を吸い、吐く。
キッと眼光を強めた。
「冬樹、緒月君の住所わかるか?」
「それが、綺の家には行ったことなくて……」
「荷物の中に、何か住所のわかるものはないか?」
冬樹は慌てて傍に投げ出されていたカバンを探り始める。
だが、すぐに「えっ……」と戸惑ったような声を上げた。
「どうした?」
「いっ、いえ、何も……」
冬樹が手にしているのは、不動産会社の社名の入った大きな封筒。そこから抜き出して渡されたのは賃貸契約の書類だった。綺の現住所は既に記入されている。
「杏介、説明は後だ。緒月君を連れてこい」
「ああ」
「冬樹も来られるか? 話が聞きたい」
「わかりました」
杏介が綺を抱き上げるのを確認して、歩き出す。
今日は夕食に誘うつもりで、杏介を連れて車で来ていた。
前回の食事のとき、玲一が冬樹や杏介の話をすると、綺は本当に嬉しそうに聞き入っていた。だから、彼らの前で綺がどんな顔をするのか見てみたかったし、綺にとってもいい気分転換になるだろうと思ったのだが。
携帯で支倉家の主治医に連絡し、綺の家で落ち合えるように頼む。
病院に行けとは言われたが、さすがに長い付き合いだ。そうできない、あるいはしたくない事情があるから連絡しているのだともわかっていて、盛大な溜息と共に了承してくれた。
車に乗り込み、綺の自宅に向かう。
彼の家は、閑静な住宅街にある、小さな庭付きの一軒家だった。
表札を確認してチャイムを鳴らすが、両親が留守がちだと聞いていた通り、誰も出てこない。仕方なく、綺のカバンにあった鍵を使って中に入った。
「冬樹、綺ちゃんの部屋探して来い」
「了解」
綺を抱えた杏介に言われて、冬樹が家の中に駆け込んでいく。
その後に続いて玄関を上がると、小さな廊下。
一番手前のドアがリビングにつながっていた。
「やけにキレーな家だな……」
杏介が、訝しげに呟く。
その言葉が意味するのが、インテリアが洒落ているとか、掃除が行き届いているとか、そういうことでないのは玲一にもわかった。
リビングには大きなL字型のソファに、ローテーブル、テレビ台にテレビ。そこから続くダイニングには、四人掛けのダイニングテーブル。窓にはカーテン。
生活に必要な一通りのものがそろっている。
それなのに、人が生活している気配がしない。
真新しいまま、ほとんど傷みのない家具。読みかけの雑誌も、出しっ放しのマグカップもなく、まだモデルルームの方が温かみを感じるくらいだ。
「緒月君が何人家族か知ってるか?」
「兄弟がいるって話は聞かねぇけど……」
チラリ、と杏介と顔を見合わせる。
嫌な感じがした。
足早にダイニングの奥にあるキッチンに向かう。
冷蔵庫を開ける。中はほぼ空で、冷凍庫にアイスクリームがいくつか入っているだけ。戸棚を片っ端から開けて中を確認するが、調理器具や食器は十二分にそろっているものの、食料はほとんど見当たらなかった。
ふとコンロ脇に並ぶ香辛料の小瓶が目について手に取る。賞味期限は、もう何年も前の日付。食器の水切りカゴには、マグカップと皿が一つずつ。
「兄貴、上」
「おう」
冬樹が呼びに来て、取りあえず杏介が二階に上がっていく。
一人残って一階の部屋を見て回るが、そこには家族で暮らしている形跡など一つも見付けられなかった。使われている様子もない和室が、けれどきちんと空気を入れ替え掃除されているのだろう、綺麗に保たれているのを見て、逆に気分が悪くなる。
ふと外に気配を感じ玄関のドアを開けると、女が一人、一抱え以上はある大きな鞄を持って立っていた。
スリムなブルージーンズに、黒いTシャツ。長い黒髪を高い位置でポニーテールにして、黒縁メガネの向こうから、不機嫌丸出しでこちらを睨んでいる。
スタイルのよさも、顔立ちの美しさも、愛嬌も、全て振り切ったような在り方には、いっそ潔さを感じるほどだ。
「ああ、悪いな」
「そう思うなら、そんな鬱々とした顔で迎えるのはやめていただけるかしら、玲一坊ちゃん」
「……坊ちゃんはやめてくれって言ってるだろう」
「手がかかる内は、坊ちゃんで十分よ。患者は?」
「二階に寝かせてある。たぶん栄養失調だ」
「この飽食の時代に贅沢なこと」
支倉家の主治医の娘、佐伯静流さえき・しずるは忌々しそうに吐き捨てて、さっさと二階に上がっていく。
佐伯家は、支倉家とは先々代から付き合いのある医者の家系だ。
静流の父の判断で、彼女が玲一の主治医となって以来、彼女には定期的な健康診断だけでなく、普通の医者には頼めないようなことも度々依頼してきた。だから、いつも連絡した時点で不機嫌だし、顔を合わせれば不機嫌に拍車がかかるが、腕は信頼できる。
玲一も二階に上がり、各部屋をザッと見てから、杏介達に合流した。
綺の部屋は、六畳ほどの洋室だった。
大きな書棚のついた学習机。同じ色の木材でできたシンプルなベッド。ベッド脇には小さなサイドテーブルが置かれ、野生動物や世界遺産などの写真集とミネラルウォーターのボトルが乗っている。
出窓には、オイルランプとぽってりした形のガラスの花瓶が並べて飾られていて、花瓶は光を受けて、床に不思議な影を揺らめかせていた。活けられている青い花は、確か玄関前に植えられていたもの。
この家で唯一、温もりの感じられる空間。
玲一は我知らずホッと息を吐いた。
ベッドに寝かされた綺は、相変わらず青白い顔のままで、静流によって点滴が施されている。
その様子を、冬樹はベッドの傍に立ったまま、沈痛な面持ちで見つめていた。杏介は腕を組んで窓辺にもたれ掛かり、じっと外を眺めている。
「二人とも、ちょっといいか?」
玲一は声をかけて、二人を連れてリビングに戻った。
「今日は、緒月君と冬樹を食事に誘おうと思って、大学に顔を出したんだ」
「玲一から綺ちゃんの様子がおかしいから来い、って連絡もらってな。二人が絵でつながってたとか、オレに許可なくデートしてたとか、納得いかねぇことはいっぱいあるけど……まさか、こんな弱ってたなんてな……」
杏介が軽口を挟むが、いつもほど飄々とした感じはない。
「なぁ、冬樹。飲めない食えないで体調不良になって倒れるなんてこと、スランプに追い込まれた芸大生にはよくあることなのか?」
「精神的に病む奴はたまにいるらしいですけど、よくあることではないです。少なくともオレの周りでは、綺が初めてでっ……」
よほどショックだったのか、語尾が震えて消える。
この場であれこれ聞くのは、酷なことかもしれない。
だがきっと、彼以上に綺のことを知る人はいないのだ。
ソファに座って打ちひしがれた様子の冬樹に寄り添って、その背中を撫でてやりながら、玲一は質問を続けた。
「以前、緒月君のスランプは春からだと言ってたが、他に、春に何かなかったか? 緒月君が精神的に追い詰められるようなことがあったとか、いつもと違った様子だったとか」
「綺がこうなった理由が、スランプ以外にもあるってことですか?」
「恐らくは」
冬樹は記憶をたどるように目を伏せた。
「オレの知る中で、綺が一番ショックだったんじゃないかと思うのは……絵画教室のバイトを辞めたことです」
「どういうことだ?」
「大学入ってからずっと続けてたバイトで、綺も気に入ってたんですけど、五月入ったくらいだったかな。その……男子生徒に迫られたとかで辞めてしまったんです」
「畜生、またかよ」
杏介が忌々しそうに吐き捨てる。
「また?」
「実は……オレが綺と知り合ったのも、綺が高校入学早々、男の先輩に押し倒されてたのを助けたのがきっかけなんです。綺のことを好きになる奴って、なんでだかみんな暴走しがちで、いつもオレが牽制してやってたくらいで……」
うんざりする話だが、わからなくはない。
綺は綺麗な顔立ちをしているし、何より独特の雰囲気がある。
それに、普段は鳴りを潜めているが、写真撮影時にまとっていたような壮絶なオーラに当てられたら、きっと誰だって心を奪われるに違いない。
「ただ、今回のは迫られたって言っても相手は高校生ですし、押し倒されて無理矢理何かされたって訳でもないし、綺本人がそこまで気にしてると思いませんでした。そもそも、いつも怒って気にしてるのはオレだけで、綺自身は淡々としてるし……」
「迫られ慣れて、今更ショックも受けないと?」
「いやいや、そういうわけじゃ」
冬樹が苦笑する。
「綺って基本的に、人を責めたり怒ったりしないんです。嫌なことされても怖い目にあっても、相手に非があるわけじゃなくて、相手と自分の相性が悪かっただけだ、って俯瞰的に受け止めるっていうか……。ただ、あんまり強引に迫られることが多かったから、もしかしたら自分が無意識に相手にそうさせるような態度を取ってるのかもしれないって、どんどん人と距離を置くようになって……大学入ってからは、迫られることもほとんどなくなってたんですけどね」
(距離……)
スッと、腑に落ちた気がした。
先日、写真撮影で目の当たりした綺に魅力を感じ、食事に誘った。けれど、その後の彼は、まるで別人のように覇気がなかった。
悪いことをしたと思えば人目も気にせず頭を下げたり、失礼をはたらけば体調不良を押して食事に付き合ったりと、誠意は見せる。女性に対する気遣いもできる。だけど、冬樹曰く『お得意様』の玲一にさえ、媚びるどころか、歩み寄ってくることさえしない。
冬樹の言葉通りなら、あれらは、綺が玲一と距離を置くために意図的にやっていたことなのだろう。
「でも、この春、綺のことで気になったのはそれくらいです。元々専攻が違うから校舎も違うし、三年になって共通科目が被らなくなったり制作が忙しくなったりで、あんまり会えてなかったから、オレが知らないだけかもしれませんけど……」
「そうか。緒月君は恋人はいないって言ってたけど――」
「玲一、何リサーチしちゃってんの!?」
「黙れ。冬樹以外に、相談できるような相手はいたんだろうか?」
「うーん、どうかな……アトリエ行っても、ゼミのメンバーと打ち解けてる感じもないし、もしかしたら兄貴と家族くらいじゃないかな」
「なんで杏介……」
「オレも理解に苦しむんですけど、綺って兄貴に懐いてて……」
杏介が無言のまま、得意げな顔でVサインを作る。
黙殺。
「ちなみに、冬樹と杏介はどうだ? 春に何か変わったことは?」
「え? オレらですか?」
「オレは仕事が忙しくて、去年の年末以来、冬樹にも綺ちゃんにも連絡取ってなかったし、たぶん関係ねぇな」
「オレも何もないですよ? カフェのバイトはもう三年目で特に変わったこともないし、大学は三年になって多少進路意識し始めたけど、コマ数も評価もほとんど変わんないし……」
「例えば彼女ができたのが春、とか」
「「えっ!?」」
杏介が冬樹を、冬樹が玲一を、凝視する。
「なっ、なんで知ってるんですか!?」
「ってか、お前彼女できたのか!? なんで兄ちゃんに報告しねぇんだよ!? どこのどいつだよ!? もう童貞卒業したのか!?」
「うるせぇ!!」
杏介はまだまだ質問責めにしたいようだが、この兄弟のじゃれ合いに構ってはいられない。まだもう一つ、冬樹に聞いておきたいことがある。
「ところで冬樹、緒月君の家族について、彼から何か聞いてないか? 離婚してるとか、別居してるとか」
「えっ、両親の仕事が忙しくて留守がちだってくらいしか聞いてませんけど……離婚したんですか? あっ、だから、あいつ引越しを?」
ここに来る前、綺のカバンから不動産会社の封筒を見つけたことを思い出したのか、合点がいったような顔をする。
それを見ていた玲一の胸には、苦いものが広がった。
「冬樹は、緒月君が家を出ることを知らされていなかったんだな」
「……玲一さんは知ってたんですか?」
「先日食事をしたときに、実家に居辛いから夏休みに家を出ると。緒月君がこの家に引っ越してきたのがいつかは知っているか?」
「確か、中三の終わりに引っ越すことになって、受験勉強が大変だったって話を聞いたことがありますけど……」
(中三。六年前か……)
もし、この家の調度品が引っ越しを機に買いそろえられたものなら、それがほとんど使われず綺麗なままだということが、何を意味するのか。
ダンッ。
杏介がダイニングテーブルに拳を打ち付ける。
彼も、玲一と同じ結論に至ったに違いない。
(ネグレクト……)
息子を一人で置いておくだけなら、この家を売り払ってアパートで一人暮らしさせた方が、格段に安く済む。そうはせず、家を維持したまま、アルバイトをしなくても十分に生活ができるだけの生活費や学費が支払われていたということは、綺の両親にはそれなりの収入があるのだろう。
綺が経済的な不自由を強いられなかったことは、せめてもの救いだが、それでも――あの感受性の高い青年が、思春期を含む六年を、この広い家で、たった一人ですごしていたのだと思うと、ぞっとする。
しかも、綺はそれを一人で抱え込んでいたのだろう。
両親を責めることも怒ることもなく。
親友である冬樹にも、信頼する杏介にも知らせず。
冬樹や杏介をやけに大切に思っているのは、綺にとって彼らが、家族に代わる存在だったからかもしれない。
だが、杏介は仕事が忙しくそうそう会えるわけではない。冬樹とは大学に入って接点が減り、この春には彼女という、自分より優先して寄り添うべき相手ができた。
そんな折にアルバイト先で生徒に迫られ、アルバイトを辞めた。社会との接点を失ったばかりか、人付き合いを敬遠する気持ちには拍車がかかったに違いない。
そして理由はわからないが、この夏には住み慣れた家を出る。
度重なる喪失と孤独こそ、スランプの引き金ではないのか。
「……玲一さんには、何か見えてるんですか?」
不意に、強張った声で問われ、思考の海から引き上げられる。
眉間に似合わない皺を寄せて、冬樹が玲一を見つめていた。
「春からどんどん弱っていく綺を見てたけど、オレには正直、何をしてやったらいいかわからなかったし、何もしてやれなかった」
冬樹の目が揺らぐ。
玲一の眼差しに耐えかねるように、俯いてしまう。
膝に肘をつき、組んだ両手を額に当てて、呻くように言った。
「綺って昔から自分のこと話さない奴で。オレはそれを、特別気にしたこともなくて。だから、こんなことになって、いざあいつの力になりたいって思っても、もしかしたら信頼されてないから話してもらえなかったのかもしれないって思ったら……踏み込むのも、怖くて」
言葉を詰まらせながらの独白からは、親友の変化を察知してからの、彼の苦悩が痛いほど伝わってくる。
冬樹だって、綺が弱っていくのを、ただ黙って見ていたわけではないのだろう。見守り、寄り添い、言葉をかけ、理解しようと努力もしたに違いない。それでも、歯止めをかけることはできなかったのだ。
フッと、幼い日に味わった感覚がよみがえる。
相手を思って、心を砕いて、知恵をこらして、力を尽くして。
それでも事態を何一つ変えることのできない虚しさ。
日に日に増していく、失う予感と恐怖。
無力な自分への怒りと苛立ち。
だが――
冬樹はバッと顔を上げた。
「もし、オレに見えないものが玲一さんには見えていて、綺のためにオレにできることがあるなら教えてください! お願いします!」
栗色の双眸は、薄暗い気配を全て振り切るような強さで、まっすぐに玲一を見据えていた。
ハッとさせられる。
あの頃の自分は一人だった。いや、違う。周囲の人間を信用できず、彼女を救えるのは自分だけだと、心のどこかで思い込んでいた。
だけど目の前の青年は違う。自身の無力を知って、迷いなく人に助けを乞うている。
その素直さが眩しく、その相手が自分だというのは、やっぱり運命のように思えた。
「……自分を不甲斐なく思う気持ちはわかる。だが、きっと、緒月君は冬樹に救われていたんだと思う。その鈍感さも含めて」
「ちょ、鈍感って……まぁ否定できませんけど」
「大きくなったなぁ、冬樹」
杏介が冬樹に歩み寄り、感慨深そうに言いながら、栗色の頭をグチャグチャに撫でる。
「やめろって! なんだよ、急に!?」
「こんなカワイイのに、いつの間にか大人になっちゃって。せめて鈍感さくらい残しといてくれないと、お兄ちゃん寂しーわ」
「うるさい! オレ、真剣に頼んでんだぞ!? くそっ……ちょっと綺の様子見てきます!」
兄の手から逃れるように立ち上がり、リビングを出て行こうとする。その背中に告げた。
「そのままでいろ、冬樹」
「えっ?」
「そのままでいいと思う」
足を止めて振り返った冬樹が、おそらく意味を理解しないまま、小さく頷いてリビングを出て行く。
杏介が、カラカラと庭に続くドアを開け、タバコに火をつけた。
ムッとするような外の熱気が、部屋の中に流れ込んでくる。
「いる?」
こちらを振り返って、タバコの箱を差し出す。
「吸わないの知ってるだろう」
「そうだったか」
杏介は、フーッと、空に向かって細く紫煙を吐く。
「お前、緒月君のこと好きなのか?」
「好きだけど?」
「付き合わないのか?」
杏介はバイだ。綺は彼に懐いているというし、手を出していてもおかしくないと思ったが。
「悔しいけど、オレ、綾取り得意じゃないんだわ」
「綾取り?」
妙な言い回しをする。
「なんかこんがらがってんだろうなぁとは感じてた。でも、お前みたいに頭よくねぇし、器用でもねぇから、解き方が全くわかんなくてな」
杏介は、どこか他人事のように笑った。
「綺ちゃんはいつも、どっか寂しそうだった。たぶんそこがいろんな奴の庇護欲とか支配欲とかをくすぐって、変な気を起こさせてたんだと思う。この家に来て、そこまではわかっても、結局、オレには優しくしてやるくらいしかできねぇ」
「お前がまともにもの考えてるなんて珍しい」
「そうだろ」
今度はニッと、茶化すように笑う。
言動は軽く、いつも何も考えていないかのようにヘラヘラしている。杏介の本心を見抜くのは、長く一緒にいる玲一でも難しい。
だが、恐らく、杏介は真剣に綺のことを思っている。
のんびり一本吸った後、彼は携帯灰皿に吸い殻を押し付けた。
殊勝なものを持つようになったものだと、少し感心する。
「なぁ玲一。お前、重ねちゃってんだろう?」
「…………」
杏介が振り返る。
「お前だったら解けんの?」
青いフィルター越しの目が、ヒシと、玲一を見据える。
その眼差しは、なぜか、さっき見た栗色の双眸に重なった。
綺の部屋に戻ると、静流は医療器具を片付けていた。
どうやら綺に施していた点滴が終わったらしい。
冬樹はスケッチブックを開いていた。
窓の外にはいつの間にか夕闇が迫っていて、紙面に目を落とす冬樹の横顔に、深い陰影を刻んでいる。玲一に気付くと、彼は少し困ったように微笑んだ。
「玲一さん、綺の鉛筆画見たことあります?」
「いや。俺は『αシリーズ』以外は見たことがないんだ」
「そうなんだ。『αシリーズ』もいいけど、オレ、あいつのスケッチやデッサンも好きなんですよね」
そう言って、スケッチブックを手渡してくれる。
そこには、この部屋の出窓からの風景や、そこに置かれた花瓶や花が、試行錯誤するように様々なタッチで描かれていた。
力強く大胆なもの。美しく精緻なもの。教科書の端の落書きのように軽いもの。荒々しく抽象的なもの。一ページ一ページ表情に違いはあるが、どれも素晴らしいクオリティだということは、素人目にもわかる。
「高校のとき、綺は帰宅部で、オレが強引に美術部に勧誘したんです。綺は画材を持ってなかったのもあって、ずっと鉛筆で絵を描いてたんですけど……」
綺の机の横には小さな本棚があって、そこには画集や写真集と一緒に、何冊ものスケッチブックが並んでいた。
冬樹は表紙に記入された日付を確認しながら「ああ、この辺かな」と、その中から一冊を取り出す。
少し気恥ずかしそうにしながら開いて見せてくれたページには、美術室で制服姿の少年少女がイーゼルに向かう姿が描かれていた。さっきまで見ていたスケッチブックの絵に比べると、あまり上手いとは思えないが。
玲一は、その中で一番手前にいる少年を指す。
「これ、冬樹?」
「そうです。美術部の部活風景。綺って、そういう小っ恥ずかしいのを平気で描くんですよ。毎日毎日じーっと観察されて、最初はみんな恥ずかしがったり嫌がったりしてたんだけど、そのうち綺の熱心さに何も言えなくなっちゃって……」
冬樹はスケッチブックを戻す。
それからベッドの傍に膝をついて、布団を少しめくった。
「おい、それは……!」
綺の右手に包帯が巻かれているのを見て、ギョッとする。
「ケガ自体は大したことないから、二、三日で治るわよ」
手当てした静流が淡々と告げる。
「どうしてケガなんて……」
「オレが大学入って初めて作ったガラスの瓶、綺が絵を描く道具を立てるのに使ってたんですけど、今日、綺が登校したら、割れてたらしいんです。その片付けを素手でやったらしくて」
「ガラスが割れてたって……誰かにやられたのか?」
「綺は何も言わなかったけど、たぶん嫌がらせ。オレの彼女、綺と同じアトリエにいるんですけど、そいつに聞いた話だと、今日綺はその件でキレて、朝からずっと描き続けてたらしいんです。すごい剣幕で、怖くて誰も止められなかったって」
撮影現場で見た彼が現れたのだ、と思った。
カメラマンに絵を燃やすとハッパをかけられた瞬間の、狂気を感じるほどの、壮絶な怒りの表情。目を奪われ、背筋が震えた、あのときの感覚が蘇る。
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「そこまで……」
「あとちょっと、後悔とかじゃないですけど、綺をこの道に引きずりこんでよかったのかなって思うこともあるんです。美術部に入らなかったら、芸大に入らなかったら、今みたいに嫌がらせされたり、ケガしたりすることもなかったのにって……」
「そしたら俺が『αシリーズ』に出会うこともなかったな」
玲一は冬樹の肩を叩いて、そっと微笑みかける。
フッと、冬樹も頰を緩めた。
「確かにそうですね」
「俺は感謝してる」
「冬樹ー、帰んぞー」
一階から、杏介が呼ぶ声が聞こえた。
「えっ、帰んの?」
杏介が、こんな状態の綺を放って帰るとは思っていなかったのだろう。冬樹は綺の手を布団の中に戻すと、首を傾げながら「ちょっと行ってきます」と部屋を出て行った。
だが、しばらくするとバタンと、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
「帰っちゃったわね」
静流が、窓の外を見て意外そうに言う。
「緒月君は自分が弱ってる理由を、あの二人に隠してたらしいからな。目が覚めた時に虚勢を張らせないように、杏介が気を利かせたんだろう」
「死に際の猫みたいね」
「医者のくせに不吉なこと言うなよ」
「あら失礼」
悪びれた様子もなく言って、肩を竦める。
「緒月君だっけ? 坊ちゃんの言う通り栄養失調による貧血でしょうね。この暑さで体力も奪われてるだろうし、できれば二、三日は点滴して様子を見たいところだけど、できないならごく軽い食事、それも難しかったらせめて水分は摂らせて」
「ああ、わかった」
「……綺麗な子ね。親しいの?」
「いや。会うのは今日で三度目だ」
静流が患者に興味を持つなんて珍しい。
本人も自覚しているのだろう、憮然と唇を尖らせる。
「今まで坊ちゃんが連れてきた患者と毛色が違うから気になっただけよ」
「だから坊ちゃんはやめろって……」
「帰るわ。明日にでも請求書送っとく」
「ああ。送って行けなくて悪いな」
「相談料上乗せしとくからお気になさらず」
大きなカバンを肩に下げ、ヒラッと手を振って出て行く。
全く、たくましい女医だ。そうさせたのは自分だろうが。
玄関のドアが閉まる音が聞こえ、車のエンジン音が遠ざかって行く。
すっかり日が落ちて薄暗くなった部屋で、玲一はスケッチブックを手に、窓辺に移動した。街灯と僅かな月明かりにかざして、一枚一枚めくっていく。時々冬樹の絵が現れるのが、なんだかおかしい。
(本当に、あいつのことが好きなんだな……)
綺の描く冬樹は、どれも優しい顔をしている。
あぐらをかいて本を読んでいる冬樹も、椅子にかけてぼんやり携帯をいじっている冬樹も、難しい顔をしてスケッチブックを広げている冬樹も。日常の中のなんでもない姿なのに、絵に起こされたものを見ていると、フッと微笑みが浮かぶ。
執着している、と言えばそうなのだろう。
綺にとって、家族に代わる掛け替えのない存在。
だが、絵を通して伝わってくる感情の、なんと温かいことか。
(慈しみ、か……)
感情のベクトルの向きは違うが、撮影現場で見た彼の絵だと思う。
カサと、シーツの擦れる音がした。
ベッドを見ると、濡れたガラス玉のような瞳が、不思議そうに玲一を見つめていた。道端の段ボール箱から、足を止めた変わり者を見つめる、捨てられた黒猫のように。
「勝手に見てすまない」
スケッチブックを閉じて本棚に戻す。
「君は大学で倒れたんだ。医者は貧血だと。気分はどうだ?」
綺はしばらく玲一を見つめていたが、ハッと目を見張った。
「あのっ、杏介さんは!? さっき倒れて――」
「問題ない。なんなら君をここまで担いで来たのもあいつだ」
覚醒して最初に気になるのが杏介のことだとは。
呆れを通り越して、少し腹立たしくさえ思える。
それで、少し、意地悪をしたくなった。
「杏介と冬樹はもう帰った。俺しかいなくてガッカリしたか?」
「いえ、そんな……ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「また貸しが増えたな」
ニヤリと笑って見せると、綺も弱々しく微笑んだ。
「困ったな。今の僕に返せるものなんて、何もないのに……」
「何もないわけじゃないだろう?」
ベッドの縁に腰掛ける。
手を伸ばすと、体を強張らせたのがわかった。
頰に触れる。想像したより冷たくて、少し驚く。
親指を伸ばして、ゆっくりと、乾いた唇をなぞる。
綺の目が、玲一の真意を図ろうとするように、まっすぐにこちらを見つめる。その奥底に、微かな怯えの色。
「逃げないのか?」
「その気がないのは、わかりますから……」
「どうして?」
「そんな穏やかな目の人に迫られたことありません。それに、支倉さんは大丈夫だって、冬樹が言ってましたから」
「…………」
この先どうこうしようと考えていたわけではない。
手を伸ばせば体を強張らせて、間近に見つめれば怯えて――彼への好意を免罪符に、これまでどんな相手がどんなアプローチを仕掛けてきたのか知らないが、随分と傷付けたものだ。
彼らのしたことを真似て脅かしてやろうなんて、幼稚な考えを起こした自分にもうんざりするが。
(今度は冬樹か……)
おもしろくない。
「ご両親はいつ帰る?」
「えっ……」
手を離す。
綺の目がじっと玲一を見つめる。
そうして、やがて、そっと目を伏せた。
「……もう、気付いているんですよね。冬樹と杏介さんは?」
「杏介は気付いたが、冬樹は鈍感だから……」
「そうですか……」
フッと口元を緩めた。
途方に暮れたような、力のない笑みだった。
「一昨年、僕の大学入学を待って、両親は離婚しました。今はそれぞれ家庭がありますから、もう二人そろって帰ってくることはありません」
怒りも、悲しみも、不安も、孤独も。あるべき感情を全てどこかに置き去りにして、ただ夜の静けさを壊さないよう気遣うような、抑揚のない小さな声だった。
「ご両親を恨む気持ちはないのか?」
「恨むなんて……父も母も、それぞれの幸せを手に入れるために頑張っているだけですから。二人の幸せと僕の幸せが重ならないからって、駄々をこねるつもりはありません」
「随分と聞き分けがいいんだな」
綺は小さく首を振った。
「……さっき目が覚めて、そこに人影が見えたとき、夢を見ているんだと思いました。昔よく見た、両親が帰ってくる夢です。……二人がこの家を離れたのはもう何年も前で、僕はもう二十歳を超えた大人なのに、未だにそんな夢を見てもおかしくないと思うほど、まだ焦がれている。諦めの悪い子どものままなんです」
「そんな話を、冬樹や杏介にしたことは?」
「……しません。二人に話して何が変わるわけでもないし、重いものを背負わせて煩わしく思われるのも嫌ですから。それに……憐れみから付き合われたら、きっと……」
――寂しさに直面してしまう。
綺は言い淀んだが、なんとなく、そう続く気がした。
綺は長く言葉を重ねているが、それは一言に集約すれば『寂しい』ということに思えた。
他人を気遣って身を引いて。
重い現実を誰とも共有せず一人で抱えて。
恐らくは無意識に、自分自身の心を捨て置いている。
(そうしなければ、耐えられなかったのか……)
六年の孤独に震える、不器用な魂が目の前にある。
玲一がその存在に気付けたのは、綺にとって大切な存在が自分の親友であったり、綺が弱って心が緩んだ瞬間に居合わせたりと、偶然が重なったからだ。
今を逃せば、自分以外の誰が、この魂を抱きしめてやれるだろう。
「借りを返してもらおう」
「えっ……」
「海は好きか?」
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なつ
BL
20XX年。人間と人外は共存することとなった。そう、僕は朝のニュースで見て知った。
向こうが地球の平和と引き換えに、僕達の中から選んで1匹につき1人、人間を飼うとかいう巫山戯た法を提案したようだけれど。
「まあ何も変わらない、はず…」
ちょっと視界に映る生き物の種類が増えるだけ。そう思ってた。
ほんとに。ほんとうに。
紫ヶ崎 那津(しがさき なつ)(22)
ブラック企業で働く最下層の男。顔立ちは悪くないが、不摂生で見る影もない。
変化を嫌い、現状維持を好む。
タルア=ミース(347)
職業不詳の人外、Swis(スウィズ)。お金持ち。
最初は可愛いペットとしか見ていなかったものの…?
2025/09/12 ★1000 Thank_You!!
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