Liar

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前編

砕けたガラス

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「なぁ、昨日、玲一さんに怒られたのか?」

 冬樹がそう言うと、綺は驚いた顔でデッサンの手を止めた。

 日も暮れて遅い時間のアトリエは、いつも決まった顔ぶれが二、三人残っているだけだ。

 白くてだだっ広くて四角い空間。いくつものイーゼルが立ち、描きかけのキャンバスが並んでいるのを、床にあぐらをかいて低い位置から見上げていると、その景色さえ一つの作品のように感じることがある。 

「椿が、綺が玲一さんに頭下げてるのを見たって」

「ああ……」

 小さく頷いて、また小さく鉛筆を動かし始める。

 以前、綺の集中を妨げるから来るのも話すのもやめようかと提案したことがあるが、高校の美術部にいた頃のようで嬉しいからと、強く引き止められた。

 それに、綺が本当に集中し始めれば、冬樹の声など彼の耳には届かなくなる。会話の途中、返事が返ってこなくなる瞬間に立ち会うのは、冬樹の密かな楽しみだ。

 綺に言うと、恥ずかしがってアトリエを出禁にされそうだから、内緒にしているが。

「支倉さんは、納品された最新作がこれまでの『αシリーズ』と違うって、心配して来てくれただけだよ」

「最新作って、こないだまで描いてた、夜の湖に木が生えたヤツだろ? いつも通りのいい絵だと思ったけど」

「ありがとう。だけど、実を言うと僕自身、いつも通り描けた気がしていなかったんだ。だから、よかったら返品してくださいって謝った」

「玲一さんはなんて?」

「うん……返すつもりはない、次回作も楽しみにしてるって。その後、気分転換にって食事にまで誘ってくれて」

「うわ、知ってたけど、すげぇいい人だな。兄貴が知ったら流血沙汰になりそうだけど……」

 どうやら綺を責めないという約束を守るばかりか、手を差し伸べるようなことまでしてくれたらしい。

 ホッとした冬樹とは逆に、綺は手を止めてギョッとしたようにこちらを見つめてくる。

「えっ、流血!? なんで? 仲良いんだろう? 高校からの付き合いだって聞いたけど……」

「仲がいいか悪いかって言ったら、いいんだろうけど、お互いに対して遠慮がなさすぎるっていうか、容赦がなさすぎるっていうか」

 苦笑しながら、トートバッグからキャラメルの箱を取り出す。

 一粒自分の口に放り込んでから、もう一粒、個包装を解いて綺に差し出す。綺はスツールに掛けたまま前屈みになって、小鳥が米粒を啄ばむように、冬樹の指先のキャラメルを唇で攫っていった。

「兄貴がいつもの調子でふざけたことやってると、玲一さん『黙れ』って本気でローキックしてくんの、それも相槌打つくらいの気軽さで」

「支倉さんがローキック!?」

「見えないっしょ? で、兄貴は玲一さんのキャラが崩れるのをおもしろがって、ますます調子に乗って挑発的なことして、またローキックされての繰り返し。たまに気持ちよくスコーンと決まって昏倒させられるんだけど、あいつバカだから全然懲りないの」

「うわ、痛そう。でも、素敵な関係なんだね」

 なぜかすごく嬉しそうな顔で言うのに驚く。

「素敵!? なんで!?」

「だって、話してくれてる冬樹がすごく楽しそうだから」

「うわぁ、マジかぁ……」

 綺の表情の意味を察して、冬樹は盛大に照れた。

 綺は冬樹にとってどんなに些細なことでも、大切に汲み取って共感してくれる。冬樹が笑えば綺も笑顔に、冬樹が青ざめれば綺も顔色を失う。まるで鏡のような存在だ。

 そういうことができるのも、ひとえに、常日頃から人や物をよく観察しているからだろう。吸い込まれそうなつぶらな瞳で対象をじっと見つめて、けれど視覚だけでなく、五感全てを使って丁寧にインプットする。

 だからだろうか、特にデッサンという形でアウトプットされたときには、息を飲むようなものができあがるのだ。

 物の気配、植物の息吹、動物の体温、人の感情の機微。ともすれば見落としそうな瑣末なものや、肉の目には見えないはずの空気感まで、綺というフィルターを通して、すべて丁寧に描き出される。暴き出される、と言ってもいいかもしれない。

「うん、まぁ、そんなわけだからさ。玲一さんは大丈夫だと思う」

「大丈夫って……?」

「安心して信用していいってこと」

 冬樹の真意を理解したのだろう。

 綺は少し後ろめたそうな顔をして、小さく頷いた。

「綺、玲一さんから実家の話とか聞いた?」

「ううん。名刺はもらったけど……」

「実はすっごい大企業の跡取りらしい。オレも玲一さんと知り合って十年くらいになるけど、兄貴に、会社名聞いたら気安く話せなくなるからやめとけって言われてる。そんな人だから、社会的立場もあると思うし、迂闊なことはしないよ」

「そう……」

「それに玲一さんモテるし。昔、玲一さんと兄貴と、あともう一人隆志さんって人の三人でジャズバンド組んでたんだけど、玲一さんの人気がすごくて、ライブの集客には困らなかったって――」

「ふーゆきっ!」

「うおっと!」

 急に背後から飛びつかれて、思わず床に額をぶつけそうになる。

「冬樹っ」

 驚いた綺が鉛筆を取り落とした。目の前に転がってきたのを拾おうとするが、背後から伸びてきた手に先を越されてしまう。

「彼女を差し置いてイチャイチャしてんじゃないわよ、ったくもう」

「イチャイチャって……お前、まぁた変なヤキモチ焼いてんの?」

「僕は、柚乃を待つ冬樹の暇つぶしに付き合ってただけだよ」

「ちょっ、オレは別に暇つぶしのつもりじゃ――」

「それならいいんだけど?」

 背中に被さったまま、福田柚乃ふくだ ゆのが綺に鉛筆を渡す。

 彼女は綺と同じアトリエを使う生徒で、遅くまでアトリエにいる顔ぶれの一人。そして、この春に付き合い始めた、冬樹の恋人でもある。

「じゃ、お待たせして申し訳なかったわね。帰ろ」

「もういいのか?」

「いいのかも何も、あんたのすぐ横で片付けしてたっつーの。ほんっと、綺以外眼中にないんだから」

 柚乃は「はぁ」と大きく溜息をつき「お疲れ。綺も、あんまり根詰めないようにね」と言い残して、足早にアトリエを出て行ってしまう。

 彼女と付き合い始めてから、綺とゆっくり話す時間はなかなか取れなくなっていた。冬樹が柚乃との時間を優先しているのはもちろん、綺が遠慮しているのもあるし、綺が椿の部活の手伝いを始めたせいもある。

 本当なら、もう少し話していきたいところだが、機嫌を損ねた恋人を放っておくわけにもいかない。

「なぁ、近い内またウチに泊まりに来ねぇ? 最近、ゆっくり話せてないし」

「今冬樹が話すべきなのは柚乃と、だろ。ヤキモチ焼かれなくて済むくらい、自信持たせてあげなよ」

 イーゼルに乗せたスケッチブックを背に、綺は微笑む。

 彼はまだ、長く続くスランプから抜け出せずにいる。確か公募の締め切りが近いはずなのに、作品に取り掛かる気配もなく、デッサンばかり繰り返している。

 綺が大学一年の内に個展を開き、ギャラリーに所属し、既に顧客が付いているという話は、どこからともなく広まっていて、綺と同じアトリエを使う生徒の間では暗黙の了解となっている。

 焦りもプレッシャーもないはずがないのに、親友を自負する冬樹にさえ、弱ったところは見せない。

 昔からそう。弱音や愚痴など聞かされたことがない。

 その理由を聞くのが、怖い。

「なぁ、綺」

「冬樹、急いで」

「あっ、ああ。じゃあ、またな」

「うん。また」

 慌てて柚乃の後を追って、アトリエを飛び出す。

(オレ……今、逃げた……)

 廊下を走りながら、窓の向こうに親友の姿を探す。

 スツールに浅く掛ける綺の背中は、まるで頭から見えない糸で吊られているように、スッと伸びている。たとえスランプであっても、彼の絵に対する姿勢は、こちらがハッとさせられるほど真摯だ。

 だけど――あの背中は、あんなに小さかっただろうか。

 綺の顔は、見えない。







 感情が凪いでいる。

 無人のアトリエは静寂の中。

 まるで時間がピタリと止まってしまったみたいだ。

「時間かけたって描けないときは描けないんだし、今日はもう帰れよ。な?」

 最後まで残っていた生徒は、幼い子どもを宥めるようにそう言って、帰っていった。

 きっと彼の言う通り。何時間キャンバスに向き合っていても、納得のいく絵など仕上がらないだろう。

 元々信念があって描いてきたわけじゃない。伝えたいメッセージや、表現したいテーマがあるわけでもない。作品に独特の雰囲気がある、とはよく評されるが、オリジナリティのある技術・技法を試行錯誤するほど研究熱心なわけでもない。

 それでも、これまで描き続けてこられたのは、描く理由があったからだ。

 けれど、それをもう失くしてしまった。

(描かないと……)

 そう思うけれど、本心からそう思っているわけでもない。芸大に身を置く学生として、それらしいポーズを取っているだけだ。

 描く理由をなくしたのなら、描かなければいい。

 今すぐこの場を立ち去って、自由になればいい。

 そうすれば、きっと大切な存在を失ってしまうけれど、彼の隣に安らぎを覚えた頃から、失う覚悟はできていたはずだ。

 どんなに願ったって、移ろう心を留めることはできない。

 そんなこと、自分はもう、嫌というほど思い知っている。

(でも、そうしたら、僕には何が残る……?)

 いや、そもそも何が残るか、と問うこと自体がナンセンスなのだ。

 何かが残っていたら、また、僅かなそれに縋って心の拠り所にするのか。失うことを恐れ、蓋をしてきた重苦しい感情が、今にも溢れ出しそうになっているのに。

 スランプに陥ってから、気が遠くなるほど繰り返してきた自問自答は、結論を出せないまま。やがて真夜中の海に音もなく沈んでいくような感覚に襲われる。

 ブクブクブク。

 揺らぐ月明かりが遠ざかり、深く深く、沈んでいく。

 大切に抱きしめていたものが、手をすり抜けて、泡となってユラユラ上っていく。美しく愛しいそれらを懐かしく見送る内に、スッと意識が遠のく。

 このまま消えてしまえればと、目を閉じる。

 なのに――

 いつも最後に、唐突な息苦しさに襲われる。

 逃げ出すことなどできはしないと教えられる。

「……っ!」

 思わず首に手をやる。

 カラン。

 手にしていた鉛筆が落ちて床に転がる音で、我に返った。

 妄想の世界と現実を混同していたことに気付く。

 壊れたようにドクドク鼓動を打つ心臓。

 それを抑えようと、何度も肩で息をする。

(怖い……!)

「おはよう、緒月君」

 背後から聞き覚えのある声。

 反射的に振り返った瞬間。

「――っ!」

 アイスグレーの眼光に射抜かれた。

 ガッと喉元を押さえつけられ、捩じ伏せられたような感覚。

 身体中にビリッと震えが走って、緊張でまた息ができなくなる。

 誰もいなかったはずのアトリエに、男が一人いた。

 まるで軍服をまとっているかのような隙のないスーツ姿で、腕組みして、扉の脇に寄りかかって立っている。その髪と瞳は、雪深い極寒の森で命を燃やす狼を思わせる、美しい灰色。

 気を緩めれば虚無の中にズブズブと沈んでしまう自分とは逆に、自由に躍動し、足を下ろした場所を片っ端から堅固な大地に変えていきそうな、確かな存在感。思わず平伏すか縋りつくかしたくなるような野生的な強さが、彼の全身からは滲み出ている。

「驚かせて悪かったな」

 綺が唇一つ動かせずにいると、男はフッと微笑んだ。

 そうすると、急に空気が軽くなったような気がして、綺はそっと息をつく。

 鼓動はまだ早いが、得体の知れない怖さはいつの間にか遠ざかっていた。代わりに、いろんな夢を一度に見た後のような不思議な倦怠感だけが残っている。

「声をかけるタイミングがつかめなかったんだ」

 その言葉に、驚いて壁の時計を見る。

 いつの間にか九時近い。

「あの、いつから……?」

「一時間ほど前かな」

「一時間……!?」

「まだいたらラッキー、くらいの気持ちで来てみたんだが、念願の制作風景を見られたんだから、寄った甲斐があったよ」

「……皮肉ですか?」

「穿ちすぎだ」

 そうは言うが、制作らしい制作など何もできていない。

 あそこに立ったまま一時間も、真っ白なキャンバスの前にボーッと座っているだけの自分を見ていたのだとしたら、酔狂にもほどがある。

「暇なんですか?」

「まさか。これからまた仕事だ」

 皮肉を返したつもりが、思いがけない返答に驚かされる。

「こんな時間から、ですか?」

「さして楽しくもない親睦会だが、よかったら一緒にどうだ?」

「……こないだの借りなら、別の形で返させてください」

「それは残念。これ、差し入れ」

 からかい半分の誘いだったのだろう。

 あっさり引き下がって、小さな紙袋を差し出してくる。

「ありがとうございます。あと、あの、先日の食事も……」

「無理をさせて悪かったな。顔色が悪いとは思っていたんだが、あの日を逃すと次にゆっくり話す時間を取れるのがいつになるかわからなかったから、強引に誘ってしまった。もう帰るんだろう? 一緒に出よう」

「いえ、帰るつもりは……」

「そうなのか? 今夜は月が綺麗だぞ」

 意外な誘い文句に、思わずキョトンとしてしまう。

 もうこれ以上ここにいても時間の無駄だろうと、笑うか呆れるかされるのだと思っていた。

「……支倉さんみたいにお忙しいビジネスマンでも、月を見上げることがあるんですね」

「君のおかげでね」

「えっ、どういうことですか?」

「月なんか気にするようになったのは、緒月君の絵に出会ってからだよ。『αシリーズ』に毎回描かれている白い球体が、俺には月に見えて、それ以来、夜になると空を見上げる癖がついた。実際のところ、あれは何なんだ?」

 同じ質問は、これまでに何度か受けていた。

 その度に答えに困ってしまうのは、具体的に何を描いたというわけでもないからだ。

 だが、今日はフッと、先程の妄想の中で見た泡が脳裏をよぎった。この手をすり抜けていった、美しく、愛しい、心の寄る辺。

 あの泡は、絵の中の球体と、限りなく似ている気がする。

 だが、あれらをどう言葉にすればいいのか。

 考えあぐねていると、玲一は首を横に振って苦笑した。

「いや、やっぱり聞くのはやめておく」

「どうしてですか?」

「無粋だろう。それに俺は、全く時間の無駄だと思っていながらも、月を眺めてすごす時間を気に入ってるんだ。もし緒月君にあれが月じゃないと言われてしまったら、あの時間も失くしてしまいそうだからな」

 再びキョトンとする綺に、玲一は照れたように笑った。

「おかしいことを言ってるのはわかってるよ」

「いえ、そんな……とても素敵だと思います」

 つられて、綺もフッと頰が緩む。

「あなたが綺麗だと言う月なら、少し見てみたいです」 

「そうか? なら急げ。色が変わってしまうかもしれない」

 有無を言わせない勢いで言って、教室の外で綺を待っている。

 変な人だ。

 だが嫌いではない。

 何より冬樹と杏介が親しくしている人だ。

 スケッチブックを閉じて、綺は立ち上がった。







 いつも通りの朝だった。

 身支度をして、電車に揺られ、並木道を歩き、通い慣れた校舎のアトリエに入るまでは。

 部屋の片隅。いつも綺が使っている場所に、小さな人だかりができていた。

「おはよう」

 声をかけると、生徒が一斉に振り返る。

 その顔は、皆一様に強張っていた。

「緒月……」

 ただならない雰囲気に、何があったのかと目で探り――凍りついた。

 そろそろ着手しなければ間に合わないと、前日意を決してキャンバスを用意しておいたイーゼルの足元に、厚みのある青いガラスの破片が散らばっていた。

 大学に入ってからずっと、綺が筆やナイフを立てるのに使っていた、ガラス瓶の残骸。

「蒼井が朝一で来た時には、もう割れてたって……」

「なんで、誰がこんな、ひどいこと……」

「でも、誰かが故意にやったこととは限らないでしょ」

「床置きしてたのに、こんなの、自然現象じゃありえないだろ!」

「とりあえず片付けよう。怪我したら――緒月?」

 騒めきが、スッと遠のいていく。

 静かに歩み寄って、膝をつく。

 これは、冬樹が大学に入って初めて作ったガラス瓶。

 綺麗だと褒めたら、照れ笑いしながら譲ってくれた、唯一無二のもの。

 さすがに、元々が花瓶のようにどっしりとした造りのものだから、木っ端微塵というわけではない。大きな破片がいくつか。だが、小さな欠片の一つも取りこぼしたくなくて、手の平で掻き集める。

「ちょっと、何やってんのっ……」

「おい緒月、やめとけっ!」

 カバンからスケッチブックを取り出し、一ページ破いて、そこに集めたガラスを乗せる。

 割れても、砕けても、青い色は美しく、窓からの午前の光に煌めいている。けれど、どれだけ丁寧に集めたところで、元には戻らないのだ。いつかの妄想の中で、この手をすり抜けていった泡のように。

 それでも諦めきれずに手を伸ばせば、破片は綺を傷つける。

 鋭い痛みが、傷口に滲む血が、無駄だと思い知らせてくる。

 集めたところで、決して元には戻らないのだと。

(元には、戻らない……)

 ショックで頭の中が真っ白になる。

 キャンバスを鷲掴みにする。ガラス瓶の残骸と一緒に散らばっていたツールの中からパレットナイフを手に取り、その真ん中に振り下ろした。

 バリッ。

 聞こえるはずのない、この部屋で聞こえてはいけない音に、アトリエが静まり返る。

 衆人環視の中、乱暴にナイフを引き抜く。パレットに絵の具を絞り出し、パレットナイフで乱暴に混色し、大きめの筆を選んで穴のあいたキャンバスに塗りたくる。

「緒月君、待って! 手、血がっ……」

「綺! 綺! ちょっと落ち着いて!」

 動揺が走る中、柚乃が悲鳴のような声を上げて、筆を持つ腕にしがみついてくる。

「邪魔」

 低く告げる。

 拘束する腕がビクッと震えて、離れていく。

「あ、や……」

 静かになった。

 我を忘れて筆を揮う。

 激情に取り憑かれた腕は、驚くほど軽かった。







「綺ーっ!」

 遠くから声が聞こえた。

 慌しく駆けてくる足音が、大地を伝い、頭に響く。

 バッと木漏れ日を遮って、息を切らした冬樹の顔が現れる。

「おまっ、お前っ……何やってんだよっ……!?」

 キャンパス中央の芝生の広場。

 大きな木に、真夏の直射日光から守られながら、綺は寝転がっていた。一心不乱に絵を描き上げた後、痺れて感覚をなくしていた手が、ようやく温まってきた頃だった。

(起きないと……)

 そう思うのに、指先一つ動かせない。

「柚乃に聞いた! 絵、切り裂いたんだって!? いや、それより手! ケガは!? 医務室には行ったのか!?」

 冬樹が傍に膝をつき、矢継ぎ早に質問してくる。

 けれど、彼の口から出た名前に、今朝のことが思い出され、たまらなくなって目を閉じた。

 柚乃。

 冬樹に彼女ができるのは、これが初めてじゃない。

 ただこれまでは、いつも深い関係性を築く前に別れることが多くて、綺とのすごし方まで浸食されることは少なかったのだ。

 けれど柚乃とは違った。春に付き合い始めた二人の距離感は瞬く間に近付いて、お互いの時間を拘束し合うようになった。

 アトリエに来る理由は、綺に会うためから、柚乃との待ち合わせのために。綺が冬樹とすごす時間は、柚乃の作業が終われば彼女に奪われ、二人が帰る後ろ姿を見送る度に、胸が引き裂かれる思いだった。だから――

「邪魔」

 今朝、彼女に告げた言葉が、描くのを邪魔されたことだけに向けられたのでないことは、自分が一番よくわかっていた。そして、あのとき綺を飲み込んだどす黒い汚泥は、きっと、今も息を潜めて心の奥底に渦巻いている。

「綺!! なんとか言えよっ!!」

 冬樹が叫んで、芝生に拳を振り下ろす。

 こんなに感情的になって怒るなんて、初めてのことだ。

 見てみたいのに、なぜか瞼を持ち上げることさえ億劫で。

「瓶が割られたのがショックだったってだけじゃないんだろう? ここんとこお前が変なのは、オレだって気付いてんだよ。スランプになるより前からだよな? なぁ、何があったんだよ? 何考えてんの? 愚痴でも弱音でも何でもいいから話せよ! オレが頼りないから話せないのか!?」

(ああ、冬樹……違う……)

 確かに、弱音を吐くことはしなかった。

 けれどそれは、別に冬樹に非があったからではない。

 弱音を一つ口にすると、次から次へと、打ち明けるつもりのなかったことを口にしてしまいそうだったからだ。彼の笑顔を曇らせ、彼との関係性が変わってしまうのが怖かったからだ。

(伝えないと……)

 大好きだ。

 感謝している。

 冬樹という存在に、どれだけ救われてきたか。

 物心ついてから、温かいと思えるものはすべて、冬樹が与えてくれたのだと。

 泥のように重い体の中で、嵐のようにいろんな感情が吹き荒れる。

「綺……」

 なぜだか異様に眠たい。

 うとうとしていると、夢現に「何だ? 兄貴……?」と、冬樹の怪訝そうな声が聞こえた。

「もしもし? え? うんそうだけど……は!?」

 どうやら杏介から電話がかかってきたらしい。

 冬樹の眉間に、深い皺が刻まれているのが容易に想像できる。紺野兄弟の愛情表現はいつも、主に兄が原因ではあるのだが、とにかく激しく騒がしい。

 そして二人の騒がしさが、綺は好きだった。

 ずっと、好きだった。

「ふっざけんな! 言うわけないだろ! 来んな! 帰れ!」

 まさか、杏介が近くに来ているのだろうか。

 なんとか目を開けた瞬間。

「見ーつっけたっ!」

「――――!」

 聞き覚えのある声。

 青い影が冬樹を押しどけて、綺に飛びついてきた。

「兄貴、なんでここにっ!? オレ、場所教えなかったのに」

「そりゃ、可愛い弟があんだけ叫んでれば、すぐに気付くって」

 綺の上で、バチン、と音のしそうなウインクを飛ばして笑う青年。

 その髪と目は涼しげなブルーで、顔立ちは冬樹に似ているはずなのに、もはや別の人種、別の生物のようにも見える。

「ああやべ、いい匂い。半年も会わずにいられた自分が信じらんねぇ」

 力の入らない体をギューッと抱きしめられ、頬ずりされる。

「兄貴! テメェまた白昼堂々懲りもせず!」

「なんだ妬いてんのか?」

「違げぇよ、バカ!」

「しっかし、相変わらずほっせぇな。ってか顔色悪くない? ちゃんと食ってる? 寝てる? 元気にしてたのか? 最近ウチ来てなかったらしいじゃん。たまに来てやってくれないと、冬樹友達いないから寂しくて泣いちゃうよ~」

「泣かねーよ! 離れろ変態!」

 マシンガンのようにまくし立てる杏介の背中を、冬樹が手加減なしに叩いて引き剥がそうとするが、彼はビクともしない。

 いつも通りのやりとりが懐かしくて――悲しい。

「それより綺ちゃん、見る度に色っぽくなってるけど、変な虫ついたりしてねぇだろうな、冬樹?」

「今まさに変な虫がくっついてんだけど……」

「よし、退治してやろう」

 冬樹のものでも杏介のものでもない。けれど聞き覚えのある声がしたと思った、次の瞬間。

 ドスッ。

 鈍い衝撃音がして、杏介が吹っ飛んだ。

(えっ……)

 吹っ飛ぶ直前、杏介が拘束を解いてくれたおかげで巻き添えを食うことはなかったが、何が起きたのかわからない。離れたところに転がったまま起き上がらない杏介に這い寄り、縋り付く。

「杏介さん、杏介さんっ!?」

 脱力したままの体。閉じたままの瞳。

 全身に戦慄が走る。

「杏介さんっ!」

 まさかこんな形で、杏介まで失ってしまうのだろうか。

(こんなのっ、あんまりだ……!)

 絶望に意識が遠のく。

「心配するな。生きてるから」

 降ってきた声をハッと見上げる。

 逆光。

 太陽の鮮烈な光に目を焼かれ、視界が真っ白に塗りつぶされる。

 そのまま、杏介の上に折り重なるようにして倒れた。

「おい、緒月君っ?」

 焦ったように自分を呼ぶ、低い声。

 薄れゆく意識の中、アイスグレーの眼差しを見た気がした。
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