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前編
女王のレストラン
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(なんで、今日っ……!?)
大急ぎでメイクを落とし着替えをすませた綺は、生きた心地がしないまま校舎を飛び出した。
(なんで、よりによってこのタイミング……!?)
外のベンチで待っていると言い残して出て行った男は、探すまでもなくすぐに見つかる。
七月も終わり。夕方と言っても、太陽が沈む間際の悪あがきのように光と熱を浴びせてくる中で、彼は通りすがりの生徒の視線まで一身に浴びて佇んでいた。
百八十を優に超える長身。高名な彫刻家が特別な思い入れを持って彫ったような整った顔立ち。触れればひんやり冷たそうなアイスグレーの瞳と、同色の髪。ダークグレーのスーツを颯爽と着こなし、くつろいだ様子で座っているだけなのに、なんなのだろう、あの貴公子然としたオーラは。
あの雨風に晒されて色褪せたベンチも、急に規格外に上等な人間に座られて、さぞ困惑しているに違いない。
「支倉さんっ、お待たせしました」
イライラと観察しながら駆け寄るが、その苛立ちが逆恨みでしかないことは重々わかっていた。
玲一は何も悪くない。なんの前触れもなく現れたことには驚かされたが、初対面で女装姿を見られたのは、ただタイミングが悪かっただけ。初対面でビンタしてしまったことに関しては、もう完全に綺が悪い。
(だけど、恥ずかしすぎるし、気まずすぎる……!)
顔を赤くするべきか青くするべきかもわからず、まだ内心パニック状態の綺を前に、玲一は軽く目を見張った。
「なんだ、男だったのか!」
「えっ……ええっ?」
「冗談だよ」
おかしそうに笑って、ベンチの隣を勧めてくる。
こんな人でも冗談を言うんだな、と少し拍子抜けしながら隣に腰を下ろすと、微かに漂ってくる爽やかな香水の香り。
慌てて身支度したのもあって、じんわり汗をかいていた綺は、急に自分の臭いが気になっていたたまれなくなる。視線を落とせば、綺麗に磨かれた革靴の隣に並ぶ、履き古したスニーカー。
「だが、今日ここに来るまでは、緒月綺は女性だと思っていた」
「紛らわしい名前ですみません。ガッカリされましたか?」
「いや、ドキッとした。危うく惚れかけたよ」
(なんだ、この人……)
支倉玲一。歳はそれほど離れてはいなさそうだが、社会的立場も、日々の暮らし方も、何もかも違うはずのこの男の心に、自分の絵は何かしらちょっかいを出したらしい。
所属しているギャラリーのオーナーから、この稀有な存在について聞かされたのは二年前だ。
綺の描く『αシリーズ』を集めたいから、新作が出たら優先的に売ってほしいと言っている男がいると。しかも、気前がいいのか、景気がいいのか、あるいは気が触れているのか、購入前の現物の確認も不要だという。
このありがたくも奇特な申し出に、当初オーナーはかなり警戒していた。だが馴染みのコレクターが玲一のことを知っており、彼の身元を保証してくれたので、承諾することとなったのだ。
「さっきは本当にすみませんでした。慣れないことをしてたので上手く頭が切り替えられなくて……頰、冷やさなくて大丈夫ですか?」
「ああ、見事な平手だったな」
少し赤くなっている頰を撫でながら、満更でもなさそうに笑う。
激昂されてもおかしくないところだが、さっきの出来事は玲一にとってよほどエキサイティングな体験だったらしい。まぁ、初対面の女装男子を助けてビンタされるなんて、そうあることではないだろう。
「いつもあんな魅力的な格好で撮影を?」
「椿さん――あのカメラマンの撮影では、わりと……」
「そうか。今日の記念に、写真ができたら一枚いただきたいな」
玲一はフッと、意味ありげに微笑んで見せる。
からかわれているのだろうが、相手が誰であろうと、その手の冗談に付き合う気にはなれない。
「……今日はどうしてこちらに?」
「さっき『α-5』を受け取って、確認したいことができたんだ」
ギュッと胸が締め付けられる。
今日『α-5』が玲一に納品されることは、ギャラリーから知らされていた。このタイミングで現れたということは『α-5』のことで何か話があるのだろう、とは薄々予感していたことだ。
それもきっと、出来栄えを褒めるようないい話ではない。
「なぁ、なんであれを『αシリーズ』として出したんだ?」
予想通りの質問。
だが、それを紡ぐ声音は、予想外に穏やかだった。
「意図的に作風を変えたのか、不調なのか、未完成なのか、そもそもああいう作品として描いたのか。なんにしろ理由を知りたい」
「……『α-5』は『αシリーズ』に相応しくありませんでしたか?」
「相応しくないとまでは言わないが、これまでの作品とは明らかに違う感じが。どこがどうだからと具体的な指摘はできないんだが、これまでの作品に似せて描かれた別物みたいだったというか……心に触れてこなかったんだ」
慎重に言葉を選んでくれているのがわかる。その気遣いに感謝しながら、綺は俯き、じっと、膝の上に置いた掌を見つめた。
絵の具に汚れていたのを、撮影に当たって綺麗に洗い落とし、何もかも失ったような真っ白な掌。
「支倉さんは、本当に、僕の絵をよく見てくださってるんですね……」
息苦しさに逆らって顔を上げ、微笑んで見せる。
「スランプなんです。それが言い訳になるとは思ってませんけど、あの『α-5』は、描いてる途中で、自分でもどう完成させればいいかわからなくなって……。なんとか仕上げたものの自分でも出来栄えに不安があって、一応ギャラリーに渡す前に教授や仲間には確認してもらったんです。みんながいつも通りだと言ってくれたので、僕が気にしすぎているだけかと楽観視して渡してしまったんですけど……」
当時の魂が擦り減っていくような感覚を思い出して、口を閉ざす。
本当は、楽観視したんじゃない。疲れて放棄したのだ。
あれ以上キャンバスに対峙することに耐えられなくて。
「やっぱり、駄作でしたね……」
身の周りの人は、親友でさえ、絵の変化に気付かなかった。
もしかしたら誤魔化せるんじゃないかと思った。
だけど、やっぱり、気付く人はいたのだ。
自分の絵は変わってしまったのだ。
そして――きっともう、以前のようには描けない。
「おい待て、駄作だなんて言ってないだろう」
「駄作です。そして、薄々そう勘付いていながらあの絵を送り出してしまった僕は、絵に対しても、支倉さんに対しても、誠実じゃなかった……。どうぞ『α-5』は返品してください。なんなら僕が引き取りに伺います、これ以上お手間を取らせるわけにはいきませんから。今回のことは、本当に申し訳ありませんでした」
立ち上がり、深々と頭を下げる。
周囲がざわめき、玲一に向けられていた好奇の視線が、今度は自分に向けられるのがわかる。
「緒月君は真面目なんだな」
頭の上から、プッと吹き出す声が聞こえた。
恐る恐る顔を上げると、玲一は楽しそうに笑いながら、脇に置いてあったカバンを手にして立ち上がった。綺を周囲の視線から逃すように、背中をそっと押して、ゆっくりと歩き出す。
「『α-5』を手放そうなんて考えは毛頭ないよ。事情も理解したし、緒月君が絵に真摯に向き合っていることも、現状を良しとしていないこともわかって、スランプ明けの次回作が楽しみになったくらいだ」
「次回作、ですか……」
「もしかして描かないつもりだった?」
言い当てられて、ドキッとする。
動揺を肯定と捉えたのだろう、玲一が小さく唸った。
「あの……何か、困ることでもあるんですか?」
「困るわけじゃないが……いや、困るな。近い感覚としては、突然恋人から別れを切り出されたような気分かな」
「はぁ……」
「冗談だと思っているだろう?」
「はい」
即答に、玲一が小さく苦笑する。
「君の絵には一目惚れだったんだよ」
からかわれているのだろうか。
黙り込んだ綺をよそに、玲一は腕時計を確認する。
「ところで、緒月君、この後の予定は?」
「いえ、特には……」
綺のお得意様の訪問とあって、綺を自分の部活に付き合わせている場合ではないと、椿は今日の撮影を中止してくれた。
アトリエに行こうかとも考えたが、真っ白なキャンバスに何時間向き合ったところで何も描けないだろうことは、自分が一番よくわかっている。
「なるほど。じゃあ、これから食事に付き合ってくれないか」
「えっ……」
「さっきの無礼をチャラにする機会をあげよう。君にとっても、きっといい気分転換になる」
帰る玲一を見送るつもりで付いてきた正門前に、スッとタクシーがやってくる。
開いた後部座席のドアの前で、玲一は、有無を言わせない笑みを浮かべた。
二人を乗せたタクシーは、表参道の一角、大きな両開きの門の前に停車した。看板も何も出ていなかったが、門の脇に立っていたスーツ姿の男性が「ようこそ」と静かな笑顔で出迎えてくれる。
そこにはもちろん、ファミレスや居酒屋の気楽さはない。
(来るんじゃなかった……)
後悔しながら門をくぐると、都会の真ん中とは思えないような緑豊かなガーデンが広がっていた。木々に囲まれたおかげか、少し呼吸が楽になった気がする。
アプローチを辿っていくと、小さな教会のような建物が見えてくる。
「ここで食事ができるんですか?」
「ああ。食べる前に一仕事あるが、味は保証する」
「えっ、仕事って……」
「ノートに名前を書くだけだよ」
玲一が器用にウインクする。
彼に続いて中に入った綺は、小さく息を飲んだ。
そこはレストランと言うよりは、結婚式場のロビーだった。シャンデリアの眩い光の中、華やかに着飾った大勢の男女が、ウェルカムドリンクを手に立ち話をしている。
玲一がクロークで受付を済ませている間、陽が落ちて鏡になった窓で自分の姿をこっそり確認した綺は、眉間に小さなしわを寄せた。
カジュアルな白シャツ、ジーンズにスニーカー――ドレスコードはないのかもしれないが、明らかに場違いだ。
「実はすごく怒ってたりします? ビンタしたこと」
戻ってきた玲一に促され、クローク脇の廊下を進みながら尋ねる。
「どうして?」
「僕の格好、罰ゲームで連れてこられたみたいじゃないですか?」
「問題ないと思うが……ああ、せっかくだから写真撮影のときのドレスを借りてきてもよかったな」
「は?」
「だが、あれだと男が言い寄ってきて大変だろうし、俺も食事どころじゃなくなりそうだから、今夜はそれくらいの自然体でいてくれた方が助かるな。白いシャツもよく似合ってるよ」
「…………」
玲一がくだらないことを言っている間にも、すれ違った客の何人かが、彼に気付いて会釈する。どうやらずいぶん有名人らしい。
とりあえず服装を気にするのはやめようと考えながら、廊下の突き当たりにあった部屋に足を踏み入れた瞬間。
(何、これ……)
初めての感覚に襲われた。
湖の上をサーッと吹き渡ってきた冷んやりした風が、自分の中にわだかまっていた何かをスッと吹き払っていくような。
さっきガーデンに足を踏み入れたときに感じたのに似た、清廉な空気に包まれるような感覚を、さらに強く感じる。ほんの僅かずつではあるけれど、身体は軽く、呼吸は楽に、視界はクリアになる。
もちろん、それは全部、感覚の話だ。
そこは小さな円形のホールで、実際には風一つない。
照明はほとんど落とされていて、大きな天窓の向こうに、夏の星空が広がっていた。壁伝いに水が流れ落ち、月明かりを受けて煌めいている。
「星って、都会でもこんなに見えるものなんですね……」
ポツリ、言葉がこぼれる。
隣で、玲一が微笑む気配がした。
「今日は、この店のプレオープンなんだ」
左右対称に置かれた長椅子の一つに着席すると、説明してくれる。
「メインはあくまでレストランだが、結婚式やイベント事にも対応できるように、ロビーとホールを併設してある。今日は食事の前に、ホールのお披露目も兼ねてちょっとしたコンサートがあるらしい」
なるほど、ステージの上にはハープと譜面台が置かれている。
挙式の時には、あそこが新郎新婦の誓いの場となるのだろう。
「寝てもいいけど、いびきはかくなよ?」
「……支倉さんが寝たら、また頰を叩いて起こしてあげますよ」
今日が初対面だとは思えない気安さでからかってくる玲一に、少し遠慮をなくして言い返すと、彼は楽しそうに笑った。
やがて、優美なドレスに身を包んだ奏者が登場し、小さな演奏会が始まった。
演奏会の後、観客はレストランに案内された。
間接照明の光が柔らかく灯る、広々とした空間。ホールに比べると少しカジュアルなナチュラルモダン風の内装で、キャンドルの揺れるテーブルが、ゆったりと距離をとって置かれている。
正面はガラス張りになっていて、その向こうに、先ほど通ってきたガーデンがライトアップされているのが見えた。
「さて、さすがにお腹が空いたな。適当に頼んでいい?」
席に着き、演奏の余韻でボーッとしている綺をよそに、玲一は既にメニューを開いている。
「お願いします」
「アレルギーや嫌いなものは?」
「いえ、特に」
「酒は飲める?」
「強くはないですけど……」
「了解。じゃ、最初の一杯だけな」
軽く手をあげて給仕を呼ぶ。
フロアを見渡せば、客は老若男女様々だが、明らかに綺には縁のない世界の人ばかりだ。
上質な衣装、美しい装飾、艶やかなメイク、どことなく余裕を感じる立ち居振る舞い。誰もが誰かと目を合わせて笑い合い、言葉を交わして、この夜を楽しんでいる。まるで孤独など存在しないように。
心細さを感じた瞬間、親友の顔が浮かんで、胸に手を当てた。
綺の生きる小さな世界で、唯一、孤独を埋めてくれる存在。
「少し疲れたか?」
注文を終えた玲一が、心配そうに尋ねてくる。
ハッと我に帰った瞬間、彼の目を直視してしまい、そのまま目が離せなくなった。
不思議な色をしている。
瞳の中央にある瞳孔と、瞳の縁は、限りなく黒に近い灰色。アイスグレーの虹彩は、気が遠くなるほどの年月をかけて凍らせた氷を、神様がまぁるく削り出して宝石に仕立て上げたもののように美しい。
冷ややかで、透明で、涙を浮かべているわけでもないのに濡れているようで。光を帯びると青みがかって見え、じっと見つめていると吸い込まれるか、魔法にでもかけられてしまいそうだ。
「緒月君?」
「えっ、あっ、あ、大丈夫です。……綺麗な瞳ですね」
「それは、どうもありがとう」
玲一が、おかしそうに笑う。
「母がフランス人なんだ。髪の色も天然。今は気に入っているが、学生の頃は、このせいで教師に目をつけられたりタチの悪い連中に絡まれたりして苦労したよ」
話を聞いている間にシャンパンと前菜が運ばれてくる。
乾杯しようとグラスを渡されたところで、声が降ってきた。
「あら、玲一君が男の子連れてるなんて珍しい」
見ると、一際華のある女性が近付いてくるところだった。
歳は玲一より少し上にも見えるし、一回り上にも見える。
タイトなシルエットの赤いドレスを上品に着こなし、同色の唇に少し高圧的にも見える笑みを浮かべて立つ姿は『不思議の国のアリス』の赤の女王を思わせた。
女王は、近くのテーブルからも視線が集まる中、玲一が席を立とうとするのを「いいのよ」と制した。
「ご挨拶が遅れてすみません。食事の前にお見かけした時には、他の方とお話されていたので、後ほど伺おうと思っていました」
「嘘ばっかり。玲一君のことだから、芳名帳に名前だけ残して帰るつもりだったんでしょうに」
入店前、玲一がここでの仕事を「ノートに名前を書くだけ」と言っていたのを思い出す。
あれが受付の芳名帳のことだったのなら、女王は玲一の考えなどすっかりお見通しというわけだ。
「開店おめでとうございます、美咲さん。今日この日に立ち会えて光栄です」
「ありがとう。構想から今日まで、わたしにしてはちょっと時間がかかったけど、なんとか納得いく形に仕上がってホッとしてるわ。玲一君の方は、お仕事は順調?」
「ええ、なんとか」
「お祖父様はお元気?」
「相変わらず周囲の胃に穴を開けて楽しんでいますよ」
「そろそろ修行を終わらせて、間に入ってあげたら?」
「修行のつもりはありませんよ。今の会社で先輩方から学ぶことが、まだまだたくさんありますから」
「だけど、どこの会社も後継者選びには苦労してるわ。特に、会社が大きくなればなるほどね。あなたほど有望な人材、周囲が放っておくとも思わないし、そろそろ頃合いなんじゃないの?」
「買いかぶりすぎですよ」
「そうかしら」
苦笑する玲一を楽しそうに見つめていた目が、スッと綺を捉える。
「こちらの方は?」
「画家の緒月綺君です。緒月君、こちらはこの店のオーナーの小野寺美咲さん」
にっこりと笑みを浮かべていながらも、冷静に見定められているのを感じる。このパーティーのホストということで気を張っている部分もあるのかも知れないが、迂闊に対峙すると弾き飛ばされてしまいそうな強い眼差しに、自然と背筋が伸びた。
「初めまして、緒月です」
「あら、画家さんなの。綺麗な方だからモデルさんかと思ったわ。緒月君、今夜は楽しんでいただけてる?」
「はい、とても。特にさっきコンサートがあったホールは素敵でした。澄んだ空気の中に星が降ってくるようで」
「空気が澄んでいる? どういうこと?」
美咲の目の色が変わった気がした。
自分でも、少し変なことを言ってしまったと思う。
当たり障りのない感想を口にしておけばよかったのだろうが、ホールに入った瞬間の感覚があまりに鮮烈で、他の感想が咄嗟に出てこなかったのだ。
「あの……ホールに入った時に空気が冷んやりして感じたんです。早朝の散歩に出たときや、人気のない神社に入ったときみたいな、気持ちがスッと正されるような感覚が……すみません、おかしなこと言ってますね」
「いいえ。何も変じゃないわよ、そのように作ったんだから」
綺の感想は美咲をひどく喜ばせたらしい。
眼差しが和らいで、受ける印象が一転し、身内として認定されたような心強さを感じた。玲一も彼女の変化を感じ取ったらしい。
「どういうことですか? 俺は何も感じませんでしたが……」
「この店は都会の神殿として作ったのよ」
「神殿?」
「スピリチュアルな話が苦手な方もいらっしゃるから公にはしないけど、お客様の癒しの場になるよう、風水や占星術を取り入れているの。特にあのホールには力を入れたわ。緒月君はきっと感受性が強いのね。どんな絵を描くの?」
「油絵です。抽象画や心象風景が中心ですが、まだ模索しているところで……」
「彼はまだ学生ですが、作品は神楽坂のギャラリーで見られますよ」
「後で場所、メールで送っておいてくれる?」
「ええ、喜んで」
「ありがとう。じゃ、そろそろ行くわ。引き続き楽しんで。緒月君も、ぜひまたいらしてね。絵の感想もお伝えしたいから」
「ありがとうございます」
満足そうに頷き、会釈して、美咲は踵を返す。
彼女が次に向かったテーブルでは、待ってましたとばかりにドッと歓声が上がった。口々に述べられる祝いの言葉に、彼女は慣れた様子で笑顔を見せている。
「美咲さんには、熱狂的なファンが多いんだ」
「綺麗な方ですもんね。支倉さんもですか?」
何の気なしにした質問に、玲一が苦笑する。
「女性としても実業家としても彼女が魅力的なのは確かだけど、親より年が離れていると、なかなかそういう気にはならないな」
「えっ……」
思わず美咲を振り返る。
客に携帯を向けられ、別の客に寄り添って写真撮影に応じている姿は、とてもそうは見えない。
呆気にとられていると玲一が「乾杯しよう」と、シャンパングラスを手にする。
「君の絵の導きに」
差し出されたグラスに、慌てて自分のグラスをかざす。
シャンパンに口付けながら、ふと、美咲がやってきたときに口にしたセリフを思い出した。
『玲一君が男の子連れてるなんて珍しい』
恵まれた容姿に、美咲との会話から察せられる立派な家柄と、ビジネスマンとしての実力。女性が放っておかないであろう魅力的な男が、こんな洒落た高級レストランで、自分のような男子大学生相手にシャンパンで乾杯しているなんて、なんだか滑稽だ。
実際、この店に入ってからもう何度も、女性からの視線を感じている。最初は、自分が奇異の目で見られているのかと思ったが、彼女達のうっとりした様子に、目を引いているのが隣の男だということはすぐにわかった。
「今日は、女性と一緒じゃなくてよかったんですか?」
「えっ? ああ、美咲さんが言っていたのを気にしているのか」
「気にしているというか、もったいない気がして……。相手が支倉さんだったら、こうして食事をご一緒するだけで幸せな気持ちになれる女性が、いっぱいいそうですから」
「幸せな気持ち、ね……」
玲一がおかしそうに笑う。
「申し訳ないが、そこまでのボランティア精神は持ち合わせていないな。それに――」
少し声のトーンを落として囁く。
「ロマンチックな夜に、美味い食事だけで満足してくれる女性ばかりとは限らないだろう? 毎回応えていたら身がもたない」
「それって……!」
どういう意味だろうと考えたのは一瞬。
恥ずかしさにいたたまれず「すみません」と口にすると、玲一はイタズラを成功させた子どものように楽しそうに笑った。
「緒月君には、一緒に食事するだけで幸せな気持ちになるような恋人が?」
「いっ、いません」
「好きな人も?」
「それは……」
「なんだ、いるのか」
玲一は少し意外そうだ。
だが、失礼な、とは思わなかった。実際『好きな人』と言われて思い浮かべたのは、きっと玲一が意図したような相手ではない。
「好き、というか、大切な人です」
「同じ大学の子?」
「ええ、まぁ……」
「冬樹だったら知ってるのかな。今度聞いてみようか」
唐突に口にされた大切な人の名前に、息が止まりかけた。
「冬樹を、知ってるんですか?」
「親友の弟でね。今日は、正門まで迎えに来てもらって、緒月君が撮影していた教室まで案内してもらったんだ。高校からの付き合いなんだって?」
「高校一年の時に、同じクラスになって……」
平静を装っているものの、心臓が破裂しそうだ。
気を紛らわせるために、シャンパンに口をつける。
「僕が絵を描くようになったのは、冬樹がきっかけです。当時帰宅部だった僕を、美術部員だった彼が部活に誘ってくれて……」
「ということは、緒月君と冬樹との出会いがなければ、俺と『αシリーズ』との出会いも、今日の出会いもなかったってことか。冬樹には今度、お礼をしないとな」
「そうですね。きっと、すごく喜んでくれると思います」
冬樹の太陽のような笑顔を想像し、思わず口許が綻ぶ。
「いい笑顔」
「えっ?」
玲一は何も言わず微笑み、追加でワインを注文する。
「『月刊アート』の新人賞で、グランプリを受賞したのは高校三年生の時だったか? その翌年、大学一年の春に個展開催。それに合わせて『α-1』と『α-2』を制作。クリスマスに『α-1』が俺のところに来たんだな」
話しながら、玲一は手際よくサラダ取り分けてくれる。
「すみません、気が利かなくて」
「気にしなくていい」
自分の分をつつきながら、美味そうに赤ワインを口にする。
「食事は一人が多いのか?」
「ええ、まぁ……」
「一人暮らし? ご実家は遠いのか?」
「いえ、都内で実家暮らしなんですけど、両親は留守がちで。でも夏休みには家を出て一人暮らしを始める予定です」
「どうして?」
「なんとなく、家に居辛くて」
テーブルの下でギュッと拳を握る。
「じゃあ自炊できるのか?」
「生きていける程度には」
「なんだそれは」
バターをたっぷり乗せたバゲットを頬張り、牛フィレ肉のパイ包み焼きを口に運んでいた玲一が、楽しそうに笑う。
彼の気持ちのいい食べっぷりを前に、自分がシャンパン以外何も手をつけていないことを思い出して、慌ててサラダにフォークを伸ばす。
だが、数口食べただけで、急激に食欲が薄れてしまった。
ここのところ食事はいつもこの調子だ。
(困ったな……)
相手が『αシリーズ』のコレクターでなければ、そして平手打ちなんてとんでもない無礼をはたらかなければ、今回の食事だって断っていただろう。
だが、強引に巻き込まれた形とはいえ、レストランの出店祝いに駆けつけておいて、食べないわけにもいかない。ほんの僅かずつだが各皿に手をつけ、機械的に咀嚼と嚥下を繰り返す。
玲一は、綺の食の細さに気付かなかったはずはないが、それについては何も触れてこなかった。
時折こちらへの質問を挟みながら、『α-1』との出会いや、知り合いのコレクターの話や、冬樹や杏介の話を聞かせてくれた。
玲一によれば、彼と杏介は高校生の頃に出会い、ジャズバンドを組んでいたらしい。冬樹も時々練習の場に連れてこられていて、杏介に代わってドラムを叩くこともあったという。
玲一の低い声と穏やかな語り口は耳に心地よく、食後の紅茶に辿り着く頃には、初対面だということも食欲のことも忘れて話に引き込まれていた。
食事を終えて店を出ると、後ろから声がかかった。
「支倉さん」
女性が笑顔で歩み寄ってくる。
カッティングの美しい黒いドレスに、大粒の真珠のピアス。シンプルで上品な装いに身を包んだ、知的な顔立ちの女性だ。
「いらしてたんですね。今日はご友人とですか?」
「ええ」
彼女は綺にも「こんばんは」と気さくに微笑む。
「工藤さんは?」
「会社の同僚と一緒だったんですけど、抜け出して来ちゃいました。美味しいお料理をいただいているのに、終始仕事の話をしているので退屈してしまって。お二人とも、もしこの後空いてるようでしたら、飲み直すのに付き合ってもらえませんか? 近くに雰囲気のいいバーを知ってるんです」
「申し訳ありませんが、これから彼を送っていくところで――」
「いえ、僕なら一人で帰れますから」
「緒月君」
玲一が咎めるように声を上げるが、さすがに、そこまで図々しくはなれない。
もしかしたら、彼女のお酒に付き合うことは、玲一にとって気の進まないボランティアなのかもしれないが、いつまでも自分に付き合わせるよりは有意義なはずだ。
「今日はわざわざ会いにきてくださって、ありがとうございました。お話できて嬉しかったです。もしご存知なら、最寄り駅までの道を教えてもらえると助かるんですけど」
「いえ、あの、もし気を回してくださっているんでしたら、そんなつもりでお誘いしたわけじゃありませんから、ぜひご一緒に」
「ありがとうございます。でも僕、お酒にも強くないので」
綺が女性と話している間に、玲一は道路に向かって手を挙げていた。
タクシーが止まると運転席側に回り、運転手と何か話して戻って来る。
そっと綺の肩に触れて後部座席に促し、耳元で囁いた。
「体調がよくないのをわかっているのに、一人で帰らせるわけにはいかない。帰ったらよく休め」
「えっ……」
「それと、君が言うから飲みに行ってくるが、これで貸し一つだからな」
「は……!?」
「おやすみ、緒月君」
トン、とドアを閉めて、窓の外で玲一がヒラリと手を振る。
滑らかに動き出したタクシーの中で、綺は呆然としていた。
(片鱗も現れなかったな……)
普段接する機会のない大学生との食事は、なかなか新鮮ではあったが、写真撮影中に目の当たりにした『αシリーズ』と同じ雰囲気をまとった人物を期待していただけに、正直がっかりしていた。
眼差し一つでこちらの心臓を鷲づかみにした画家の緒月綺と、終始伏し目がちで表情の乏しい緒月綺。いったいどちらが彼の素顔なのか。
それに、気になることはもう一つ。綺の体調だ。
冬樹から食欲がないとは聞いていたが、ここまでだとは。
レストランの出店祝いという状況なら、体裁をなすためにも一食分くらいは食べるかと思ったし、彼もそれは理解しているようだったが、結局は雀の涙ほどしか口にしなかった。
美咲は「綺麗な方」と言ったが、だからこそ、痩せた体と青白い顔の悲愴感が際立っていた。
(死相、とは思いたくないが……)
「よろしかったんですか?」
遠ざかるテールランプを見送っていた工藤が苦笑する。
「私は三度目だから、お友達とご一緒なら、と思ってお声がけさせていただいたんですけど」
「三度目?」
「ご存知ありません? 二人きりでお会いできるのは二度までで、三度目はない。会う目的は必ず仕事絡みの『プライベートのない男』――一部の女性が、支倉さんのことをそう呼んでいるそうですよ」
「そんなつもりはありませんでしたが……」
「もっとも、ほとんどは恨み言ではなく、引き際を賞賛してのことです。あんな夢を見せられるのは二度で十分だとか」
玲一は胸の内で小さく息を吐いた。
振り向いて腕を差し出す。
「仕事抜きの三度目にお誘いしても? 優奈さん」
工藤はクスッと笑って、その手を取った。
「光栄ですわ、玲一さん」
大急ぎでメイクを落とし着替えをすませた綺は、生きた心地がしないまま校舎を飛び出した。
(なんで、よりによってこのタイミング……!?)
外のベンチで待っていると言い残して出て行った男は、探すまでもなくすぐに見つかる。
七月も終わり。夕方と言っても、太陽が沈む間際の悪あがきのように光と熱を浴びせてくる中で、彼は通りすがりの生徒の視線まで一身に浴びて佇んでいた。
百八十を優に超える長身。高名な彫刻家が特別な思い入れを持って彫ったような整った顔立ち。触れればひんやり冷たそうなアイスグレーの瞳と、同色の髪。ダークグレーのスーツを颯爽と着こなし、くつろいだ様子で座っているだけなのに、なんなのだろう、あの貴公子然としたオーラは。
あの雨風に晒されて色褪せたベンチも、急に規格外に上等な人間に座られて、さぞ困惑しているに違いない。
「支倉さんっ、お待たせしました」
イライラと観察しながら駆け寄るが、その苛立ちが逆恨みでしかないことは重々わかっていた。
玲一は何も悪くない。なんの前触れもなく現れたことには驚かされたが、初対面で女装姿を見られたのは、ただタイミングが悪かっただけ。初対面でビンタしてしまったことに関しては、もう完全に綺が悪い。
(だけど、恥ずかしすぎるし、気まずすぎる……!)
顔を赤くするべきか青くするべきかもわからず、まだ内心パニック状態の綺を前に、玲一は軽く目を見張った。
「なんだ、男だったのか!」
「えっ……ええっ?」
「冗談だよ」
おかしそうに笑って、ベンチの隣を勧めてくる。
こんな人でも冗談を言うんだな、と少し拍子抜けしながら隣に腰を下ろすと、微かに漂ってくる爽やかな香水の香り。
慌てて身支度したのもあって、じんわり汗をかいていた綺は、急に自分の臭いが気になっていたたまれなくなる。視線を落とせば、綺麗に磨かれた革靴の隣に並ぶ、履き古したスニーカー。
「だが、今日ここに来るまでは、緒月綺は女性だと思っていた」
「紛らわしい名前ですみません。ガッカリされましたか?」
「いや、ドキッとした。危うく惚れかけたよ」
(なんだ、この人……)
支倉玲一。歳はそれほど離れてはいなさそうだが、社会的立場も、日々の暮らし方も、何もかも違うはずのこの男の心に、自分の絵は何かしらちょっかいを出したらしい。
所属しているギャラリーのオーナーから、この稀有な存在について聞かされたのは二年前だ。
綺の描く『αシリーズ』を集めたいから、新作が出たら優先的に売ってほしいと言っている男がいると。しかも、気前がいいのか、景気がいいのか、あるいは気が触れているのか、購入前の現物の確認も不要だという。
このありがたくも奇特な申し出に、当初オーナーはかなり警戒していた。だが馴染みのコレクターが玲一のことを知っており、彼の身元を保証してくれたので、承諾することとなったのだ。
「さっきは本当にすみませんでした。慣れないことをしてたので上手く頭が切り替えられなくて……頰、冷やさなくて大丈夫ですか?」
「ああ、見事な平手だったな」
少し赤くなっている頰を撫でながら、満更でもなさそうに笑う。
激昂されてもおかしくないところだが、さっきの出来事は玲一にとってよほどエキサイティングな体験だったらしい。まぁ、初対面の女装男子を助けてビンタされるなんて、そうあることではないだろう。
「いつもあんな魅力的な格好で撮影を?」
「椿さん――あのカメラマンの撮影では、わりと……」
「そうか。今日の記念に、写真ができたら一枚いただきたいな」
玲一はフッと、意味ありげに微笑んで見せる。
からかわれているのだろうが、相手が誰であろうと、その手の冗談に付き合う気にはなれない。
「……今日はどうしてこちらに?」
「さっき『α-5』を受け取って、確認したいことができたんだ」
ギュッと胸が締め付けられる。
今日『α-5』が玲一に納品されることは、ギャラリーから知らされていた。このタイミングで現れたということは『α-5』のことで何か話があるのだろう、とは薄々予感していたことだ。
それもきっと、出来栄えを褒めるようないい話ではない。
「なぁ、なんであれを『αシリーズ』として出したんだ?」
予想通りの質問。
だが、それを紡ぐ声音は、予想外に穏やかだった。
「意図的に作風を変えたのか、不調なのか、未完成なのか、そもそもああいう作品として描いたのか。なんにしろ理由を知りたい」
「……『α-5』は『αシリーズ』に相応しくありませんでしたか?」
「相応しくないとまでは言わないが、これまでの作品とは明らかに違う感じが。どこがどうだからと具体的な指摘はできないんだが、これまでの作品に似せて描かれた別物みたいだったというか……心に触れてこなかったんだ」
慎重に言葉を選んでくれているのがわかる。その気遣いに感謝しながら、綺は俯き、じっと、膝の上に置いた掌を見つめた。
絵の具に汚れていたのを、撮影に当たって綺麗に洗い落とし、何もかも失ったような真っ白な掌。
「支倉さんは、本当に、僕の絵をよく見てくださってるんですね……」
息苦しさに逆らって顔を上げ、微笑んで見せる。
「スランプなんです。それが言い訳になるとは思ってませんけど、あの『α-5』は、描いてる途中で、自分でもどう完成させればいいかわからなくなって……。なんとか仕上げたものの自分でも出来栄えに不安があって、一応ギャラリーに渡す前に教授や仲間には確認してもらったんです。みんながいつも通りだと言ってくれたので、僕が気にしすぎているだけかと楽観視して渡してしまったんですけど……」
当時の魂が擦り減っていくような感覚を思い出して、口を閉ざす。
本当は、楽観視したんじゃない。疲れて放棄したのだ。
あれ以上キャンバスに対峙することに耐えられなくて。
「やっぱり、駄作でしたね……」
身の周りの人は、親友でさえ、絵の変化に気付かなかった。
もしかしたら誤魔化せるんじゃないかと思った。
だけど、やっぱり、気付く人はいたのだ。
自分の絵は変わってしまったのだ。
そして――きっともう、以前のようには描けない。
「おい待て、駄作だなんて言ってないだろう」
「駄作です。そして、薄々そう勘付いていながらあの絵を送り出してしまった僕は、絵に対しても、支倉さんに対しても、誠実じゃなかった……。どうぞ『α-5』は返品してください。なんなら僕が引き取りに伺います、これ以上お手間を取らせるわけにはいきませんから。今回のことは、本当に申し訳ありませんでした」
立ち上がり、深々と頭を下げる。
周囲がざわめき、玲一に向けられていた好奇の視線が、今度は自分に向けられるのがわかる。
「緒月君は真面目なんだな」
頭の上から、プッと吹き出す声が聞こえた。
恐る恐る顔を上げると、玲一は楽しそうに笑いながら、脇に置いてあったカバンを手にして立ち上がった。綺を周囲の視線から逃すように、背中をそっと押して、ゆっくりと歩き出す。
「『α-5』を手放そうなんて考えは毛頭ないよ。事情も理解したし、緒月君が絵に真摯に向き合っていることも、現状を良しとしていないこともわかって、スランプ明けの次回作が楽しみになったくらいだ」
「次回作、ですか……」
「もしかして描かないつもりだった?」
言い当てられて、ドキッとする。
動揺を肯定と捉えたのだろう、玲一が小さく唸った。
「あの……何か、困ることでもあるんですか?」
「困るわけじゃないが……いや、困るな。近い感覚としては、突然恋人から別れを切り出されたような気分かな」
「はぁ……」
「冗談だと思っているだろう?」
「はい」
即答に、玲一が小さく苦笑する。
「君の絵には一目惚れだったんだよ」
からかわれているのだろうか。
黙り込んだ綺をよそに、玲一は腕時計を確認する。
「ところで、緒月君、この後の予定は?」
「いえ、特には……」
綺のお得意様の訪問とあって、綺を自分の部活に付き合わせている場合ではないと、椿は今日の撮影を中止してくれた。
アトリエに行こうかとも考えたが、真っ白なキャンバスに何時間向き合ったところで何も描けないだろうことは、自分が一番よくわかっている。
「なるほど。じゃあ、これから食事に付き合ってくれないか」
「えっ……」
「さっきの無礼をチャラにする機会をあげよう。君にとっても、きっといい気分転換になる」
帰る玲一を見送るつもりで付いてきた正門前に、スッとタクシーがやってくる。
開いた後部座席のドアの前で、玲一は、有無を言わせない笑みを浮かべた。
二人を乗せたタクシーは、表参道の一角、大きな両開きの門の前に停車した。看板も何も出ていなかったが、門の脇に立っていたスーツ姿の男性が「ようこそ」と静かな笑顔で出迎えてくれる。
そこにはもちろん、ファミレスや居酒屋の気楽さはない。
(来るんじゃなかった……)
後悔しながら門をくぐると、都会の真ん中とは思えないような緑豊かなガーデンが広がっていた。木々に囲まれたおかげか、少し呼吸が楽になった気がする。
アプローチを辿っていくと、小さな教会のような建物が見えてくる。
「ここで食事ができるんですか?」
「ああ。食べる前に一仕事あるが、味は保証する」
「えっ、仕事って……」
「ノートに名前を書くだけだよ」
玲一が器用にウインクする。
彼に続いて中に入った綺は、小さく息を飲んだ。
そこはレストランと言うよりは、結婚式場のロビーだった。シャンデリアの眩い光の中、華やかに着飾った大勢の男女が、ウェルカムドリンクを手に立ち話をしている。
玲一がクロークで受付を済ませている間、陽が落ちて鏡になった窓で自分の姿をこっそり確認した綺は、眉間に小さなしわを寄せた。
カジュアルな白シャツ、ジーンズにスニーカー――ドレスコードはないのかもしれないが、明らかに場違いだ。
「実はすごく怒ってたりします? ビンタしたこと」
戻ってきた玲一に促され、クローク脇の廊下を進みながら尋ねる。
「どうして?」
「僕の格好、罰ゲームで連れてこられたみたいじゃないですか?」
「問題ないと思うが……ああ、せっかくだから写真撮影のときのドレスを借りてきてもよかったな」
「は?」
「だが、あれだと男が言い寄ってきて大変だろうし、俺も食事どころじゃなくなりそうだから、今夜はそれくらいの自然体でいてくれた方が助かるな。白いシャツもよく似合ってるよ」
「…………」
玲一がくだらないことを言っている間にも、すれ違った客の何人かが、彼に気付いて会釈する。どうやらずいぶん有名人らしい。
とりあえず服装を気にするのはやめようと考えながら、廊下の突き当たりにあった部屋に足を踏み入れた瞬間。
(何、これ……)
初めての感覚に襲われた。
湖の上をサーッと吹き渡ってきた冷んやりした風が、自分の中にわだかまっていた何かをスッと吹き払っていくような。
さっきガーデンに足を踏み入れたときに感じたのに似た、清廉な空気に包まれるような感覚を、さらに強く感じる。ほんの僅かずつではあるけれど、身体は軽く、呼吸は楽に、視界はクリアになる。
もちろん、それは全部、感覚の話だ。
そこは小さな円形のホールで、実際には風一つない。
照明はほとんど落とされていて、大きな天窓の向こうに、夏の星空が広がっていた。壁伝いに水が流れ落ち、月明かりを受けて煌めいている。
「星って、都会でもこんなに見えるものなんですね……」
ポツリ、言葉がこぼれる。
隣で、玲一が微笑む気配がした。
「今日は、この店のプレオープンなんだ」
左右対称に置かれた長椅子の一つに着席すると、説明してくれる。
「メインはあくまでレストランだが、結婚式やイベント事にも対応できるように、ロビーとホールを併設してある。今日は食事の前に、ホールのお披露目も兼ねてちょっとしたコンサートがあるらしい」
なるほど、ステージの上にはハープと譜面台が置かれている。
挙式の時には、あそこが新郎新婦の誓いの場となるのだろう。
「寝てもいいけど、いびきはかくなよ?」
「……支倉さんが寝たら、また頰を叩いて起こしてあげますよ」
今日が初対面だとは思えない気安さでからかってくる玲一に、少し遠慮をなくして言い返すと、彼は楽しそうに笑った。
やがて、優美なドレスに身を包んだ奏者が登場し、小さな演奏会が始まった。
演奏会の後、観客はレストランに案内された。
間接照明の光が柔らかく灯る、広々とした空間。ホールに比べると少しカジュアルなナチュラルモダン風の内装で、キャンドルの揺れるテーブルが、ゆったりと距離をとって置かれている。
正面はガラス張りになっていて、その向こうに、先ほど通ってきたガーデンがライトアップされているのが見えた。
「さて、さすがにお腹が空いたな。適当に頼んでいい?」
席に着き、演奏の余韻でボーッとしている綺をよそに、玲一は既にメニューを開いている。
「お願いします」
「アレルギーや嫌いなものは?」
「いえ、特に」
「酒は飲める?」
「強くはないですけど……」
「了解。じゃ、最初の一杯だけな」
軽く手をあげて給仕を呼ぶ。
フロアを見渡せば、客は老若男女様々だが、明らかに綺には縁のない世界の人ばかりだ。
上質な衣装、美しい装飾、艶やかなメイク、どことなく余裕を感じる立ち居振る舞い。誰もが誰かと目を合わせて笑い合い、言葉を交わして、この夜を楽しんでいる。まるで孤独など存在しないように。
心細さを感じた瞬間、親友の顔が浮かんで、胸に手を当てた。
綺の生きる小さな世界で、唯一、孤独を埋めてくれる存在。
「少し疲れたか?」
注文を終えた玲一が、心配そうに尋ねてくる。
ハッと我に帰った瞬間、彼の目を直視してしまい、そのまま目が離せなくなった。
不思議な色をしている。
瞳の中央にある瞳孔と、瞳の縁は、限りなく黒に近い灰色。アイスグレーの虹彩は、気が遠くなるほどの年月をかけて凍らせた氷を、神様がまぁるく削り出して宝石に仕立て上げたもののように美しい。
冷ややかで、透明で、涙を浮かべているわけでもないのに濡れているようで。光を帯びると青みがかって見え、じっと見つめていると吸い込まれるか、魔法にでもかけられてしまいそうだ。
「緒月君?」
「えっ、あっ、あ、大丈夫です。……綺麗な瞳ですね」
「それは、どうもありがとう」
玲一が、おかしそうに笑う。
「母がフランス人なんだ。髪の色も天然。今は気に入っているが、学生の頃は、このせいで教師に目をつけられたりタチの悪い連中に絡まれたりして苦労したよ」
話を聞いている間にシャンパンと前菜が運ばれてくる。
乾杯しようとグラスを渡されたところで、声が降ってきた。
「あら、玲一君が男の子連れてるなんて珍しい」
見ると、一際華のある女性が近付いてくるところだった。
歳は玲一より少し上にも見えるし、一回り上にも見える。
タイトなシルエットの赤いドレスを上品に着こなし、同色の唇に少し高圧的にも見える笑みを浮かべて立つ姿は『不思議の国のアリス』の赤の女王を思わせた。
女王は、近くのテーブルからも視線が集まる中、玲一が席を立とうとするのを「いいのよ」と制した。
「ご挨拶が遅れてすみません。食事の前にお見かけした時には、他の方とお話されていたので、後ほど伺おうと思っていました」
「嘘ばっかり。玲一君のことだから、芳名帳に名前だけ残して帰るつもりだったんでしょうに」
入店前、玲一がここでの仕事を「ノートに名前を書くだけ」と言っていたのを思い出す。
あれが受付の芳名帳のことだったのなら、女王は玲一の考えなどすっかりお見通しというわけだ。
「開店おめでとうございます、美咲さん。今日この日に立ち会えて光栄です」
「ありがとう。構想から今日まで、わたしにしてはちょっと時間がかかったけど、なんとか納得いく形に仕上がってホッとしてるわ。玲一君の方は、お仕事は順調?」
「ええ、なんとか」
「お祖父様はお元気?」
「相変わらず周囲の胃に穴を開けて楽しんでいますよ」
「そろそろ修行を終わらせて、間に入ってあげたら?」
「修行のつもりはありませんよ。今の会社で先輩方から学ぶことが、まだまだたくさんありますから」
「だけど、どこの会社も後継者選びには苦労してるわ。特に、会社が大きくなればなるほどね。あなたほど有望な人材、周囲が放っておくとも思わないし、そろそろ頃合いなんじゃないの?」
「買いかぶりすぎですよ」
「そうかしら」
苦笑する玲一を楽しそうに見つめていた目が、スッと綺を捉える。
「こちらの方は?」
「画家の緒月綺君です。緒月君、こちらはこの店のオーナーの小野寺美咲さん」
にっこりと笑みを浮かべていながらも、冷静に見定められているのを感じる。このパーティーのホストということで気を張っている部分もあるのかも知れないが、迂闊に対峙すると弾き飛ばされてしまいそうな強い眼差しに、自然と背筋が伸びた。
「初めまして、緒月です」
「あら、画家さんなの。綺麗な方だからモデルさんかと思ったわ。緒月君、今夜は楽しんでいただけてる?」
「はい、とても。特にさっきコンサートがあったホールは素敵でした。澄んだ空気の中に星が降ってくるようで」
「空気が澄んでいる? どういうこと?」
美咲の目の色が変わった気がした。
自分でも、少し変なことを言ってしまったと思う。
当たり障りのない感想を口にしておけばよかったのだろうが、ホールに入った瞬間の感覚があまりに鮮烈で、他の感想が咄嗟に出てこなかったのだ。
「あの……ホールに入った時に空気が冷んやりして感じたんです。早朝の散歩に出たときや、人気のない神社に入ったときみたいな、気持ちがスッと正されるような感覚が……すみません、おかしなこと言ってますね」
「いいえ。何も変じゃないわよ、そのように作ったんだから」
綺の感想は美咲をひどく喜ばせたらしい。
眼差しが和らいで、受ける印象が一転し、身内として認定されたような心強さを感じた。玲一も彼女の変化を感じ取ったらしい。
「どういうことですか? 俺は何も感じませんでしたが……」
「この店は都会の神殿として作ったのよ」
「神殿?」
「スピリチュアルな話が苦手な方もいらっしゃるから公にはしないけど、お客様の癒しの場になるよう、風水や占星術を取り入れているの。特にあのホールには力を入れたわ。緒月君はきっと感受性が強いのね。どんな絵を描くの?」
「油絵です。抽象画や心象風景が中心ですが、まだ模索しているところで……」
「彼はまだ学生ですが、作品は神楽坂のギャラリーで見られますよ」
「後で場所、メールで送っておいてくれる?」
「ええ、喜んで」
「ありがとう。じゃ、そろそろ行くわ。引き続き楽しんで。緒月君も、ぜひまたいらしてね。絵の感想もお伝えしたいから」
「ありがとうございます」
満足そうに頷き、会釈して、美咲は踵を返す。
彼女が次に向かったテーブルでは、待ってましたとばかりにドッと歓声が上がった。口々に述べられる祝いの言葉に、彼女は慣れた様子で笑顔を見せている。
「美咲さんには、熱狂的なファンが多いんだ」
「綺麗な方ですもんね。支倉さんもですか?」
何の気なしにした質問に、玲一が苦笑する。
「女性としても実業家としても彼女が魅力的なのは確かだけど、親より年が離れていると、なかなかそういう気にはならないな」
「えっ……」
思わず美咲を振り返る。
客に携帯を向けられ、別の客に寄り添って写真撮影に応じている姿は、とてもそうは見えない。
呆気にとられていると玲一が「乾杯しよう」と、シャンパングラスを手にする。
「君の絵の導きに」
差し出されたグラスに、慌てて自分のグラスをかざす。
シャンパンに口付けながら、ふと、美咲がやってきたときに口にしたセリフを思い出した。
『玲一君が男の子連れてるなんて珍しい』
恵まれた容姿に、美咲との会話から察せられる立派な家柄と、ビジネスマンとしての実力。女性が放っておかないであろう魅力的な男が、こんな洒落た高級レストランで、自分のような男子大学生相手にシャンパンで乾杯しているなんて、なんだか滑稽だ。
実際、この店に入ってからもう何度も、女性からの視線を感じている。最初は、自分が奇異の目で見られているのかと思ったが、彼女達のうっとりした様子に、目を引いているのが隣の男だということはすぐにわかった。
「今日は、女性と一緒じゃなくてよかったんですか?」
「えっ? ああ、美咲さんが言っていたのを気にしているのか」
「気にしているというか、もったいない気がして……。相手が支倉さんだったら、こうして食事をご一緒するだけで幸せな気持ちになれる女性が、いっぱいいそうですから」
「幸せな気持ち、ね……」
玲一がおかしそうに笑う。
「申し訳ないが、そこまでのボランティア精神は持ち合わせていないな。それに――」
少し声のトーンを落として囁く。
「ロマンチックな夜に、美味い食事だけで満足してくれる女性ばかりとは限らないだろう? 毎回応えていたら身がもたない」
「それって……!」
どういう意味だろうと考えたのは一瞬。
恥ずかしさにいたたまれず「すみません」と口にすると、玲一はイタズラを成功させた子どものように楽しそうに笑った。
「緒月君には、一緒に食事するだけで幸せな気持ちになるような恋人が?」
「いっ、いません」
「好きな人も?」
「それは……」
「なんだ、いるのか」
玲一は少し意外そうだ。
だが、失礼な、とは思わなかった。実際『好きな人』と言われて思い浮かべたのは、きっと玲一が意図したような相手ではない。
「好き、というか、大切な人です」
「同じ大学の子?」
「ええ、まぁ……」
「冬樹だったら知ってるのかな。今度聞いてみようか」
唐突に口にされた大切な人の名前に、息が止まりかけた。
「冬樹を、知ってるんですか?」
「親友の弟でね。今日は、正門まで迎えに来てもらって、緒月君が撮影していた教室まで案内してもらったんだ。高校からの付き合いなんだって?」
「高校一年の時に、同じクラスになって……」
平静を装っているものの、心臓が破裂しそうだ。
気を紛らわせるために、シャンパンに口をつける。
「僕が絵を描くようになったのは、冬樹がきっかけです。当時帰宅部だった僕を、美術部員だった彼が部活に誘ってくれて……」
「ということは、緒月君と冬樹との出会いがなければ、俺と『αシリーズ』との出会いも、今日の出会いもなかったってことか。冬樹には今度、お礼をしないとな」
「そうですね。きっと、すごく喜んでくれると思います」
冬樹の太陽のような笑顔を想像し、思わず口許が綻ぶ。
「いい笑顔」
「えっ?」
玲一は何も言わず微笑み、追加でワインを注文する。
「『月刊アート』の新人賞で、グランプリを受賞したのは高校三年生の時だったか? その翌年、大学一年の春に個展開催。それに合わせて『α-1』と『α-2』を制作。クリスマスに『α-1』が俺のところに来たんだな」
話しながら、玲一は手際よくサラダ取り分けてくれる。
「すみません、気が利かなくて」
「気にしなくていい」
自分の分をつつきながら、美味そうに赤ワインを口にする。
「食事は一人が多いのか?」
「ええ、まぁ……」
「一人暮らし? ご実家は遠いのか?」
「いえ、都内で実家暮らしなんですけど、両親は留守がちで。でも夏休みには家を出て一人暮らしを始める予定です」
「どうして?」
「なんとなく、家に居辛くて」
テーブルの下でギュッと拳を握る。
「じゃあ自炊できるのか?」
「生きていける程度には」
「なんだそれは」
バターをたっぷり乗せたバゲットを頬張り、牛フィレ肉のパイ包み焼きを口に運んでいた玲一が、楽しそうに笑う。
彼の気持ちのいい食べっぷりを前に、自分がシャンパン以外何も手をつけていないことを思い出して、慌ててサラダにフォークを伸ばす。
だが、数口食べただけで、急激に食欲が薄れてしまった。
ここのところ食事はいつもこの調子だ。
(困ったな……)
相手が『αシリーズ』のコレクターでなければ、そして平手打ちなんてとんでもない無礼をはたらかなければ、今回の食事だって断っていただろう。
だが、強引に巻き込まれた形とはいえ、レストランの出店祝いに駆けつけておいて、食べないわけにもいかない。ほんの僅かずつだが各皿に手をつけ、機械的に咀嚼と嚥下を繰り返す。
玲一は、綺の食の細さに気付かなかったはずはないが、それについては何も触れてこなかった。
時折こちらへの質問を挟みながら、『α-1』との出会いや、知り合いのコレクターの話や、冬樹や杏介の話を聞かせてくれた。
玲一によれば、彼と杏介は高校生の頃に出会い、ジャズバンドを組んでいたらしい。冬樹も時々練習の場に連れてこられていて、杏介に代わってドラムを叩くこともあったという。
玲一の低い声と穏やかな語り口は耳に心地よく、食後の紅茶に辿り着く頃には、初対面だということも食欲のことも忘れて話に引き込まれていた。
食事を終えて店を出ると、後ろから声がかかった。
「支倉さん」
女性が笑顔で歩み寄ってくる。
カッティングの美しい黒いドレスに、大粒の真珠のピアス。シンプルで上品な装いに身を包んだ、知的な顔立ちの女性だ。
「いらしてたんですね。今日はご友人とですか?」
「ええ」
彼女は綺にも「こんばんは」と気さくに微笑む。
「工藤さんは?」
「会社の同僚と一緒だったんですけど、抜け出して来ちゃいました。美味しいお料理をいただいているのに、終始仕事の話をしているので退屈してしまって。お二人とも、もしこの後空いてるようでしたら、飲み直すのに付き合ってもらえませんか? 近くに雰囲気のいいバーを知ってるんです」
「申し訳ありませんが、これから彼を送っていくところで――」
「いえ、僕なら一人で帰れますから」
「緒月君」
玲一が咎めるように声を上げるが、さすがに、そこまで図々しくはなれない。
もしかしたら、彼女のお酒に付き合うことは、玲一にとって気の進まないボランティアなのかもしれないが、いつまでも自分に付き合わせるよりは有意義なはずだ。
「今日はわざわざ会いにきてくださって、ありがとうございました。お話できて嬉しかったです。もしご存知なら、最寄り駅までの道を教えてもらえると助かるんですけど」
「いえ、あの、もし気を回してくださっているんでしたら、そんなつもりでお誘いしたわけじゃありませんから、ぜひご一緒に」
「ありがとうございます。でも僕、お酒にも強くないので」
綺が女性と話している間に、玲一は道路に向かって手を挙げていた。
タクシーが止まると運転席側に回り、運転手と何か話して戻って来る。
そっと綺の肩に触れて後部座席に促し、耳元で囁いた。
「体調がよくないのをわかっているのに、一人で帰らせるわけにはいかない。帰ったらよく休め」
「えっ……」
「それと、君が言うから飲みに行ってくるが、これで貸し一つだからな」
「は……!?」
「おやすみ、緒月君」
トン、とドアを閉めて、窓の外で玲一がヒラリと手を振る。
滑らかに動き出したタクシーの中で、綺は呆然としていた。
(片鱗も現れなかったな……)
普段接する機会のない大学生との食事は、なかなか新鮮ではあったが、写真撮影中に目の当たりにした『αシリーズ』と同じ雰囲気をまとった人物を期待していただけに、正直がっかりしていた。
眼差し一つでこちらの心臓を鷲づかみにした画家の緒月綺と、終始伏し目がちで表情の乏しい緒月綺。いったいどちらが彼の素顔なのか。
それに、気になることはもう一つ。綺の体調だ。
冬樹から食欲がないとは聞いていたが、ここまでだとは。
レストランの出店祝いという状況なら、体裁をなすためにも一食分くらいは食べるかと思ったし、彼もそれは理解しているようだったが、結局は雀の涙ほどしか口にしなかった。
美咲は「綺麗な方」と言ったが、だからこそ、痩せた体と青白い顔の悲愴感が際立っていた。
(死相、とは思いたくないが……)
「よろしかったんですか?」
遠ざかるテールランプを見送っていた工藤が苦笑する。
「私は三度目だから、お友達とご一緒なら、と思ってお声がけさせていただいたんですけど」
「三度目?」
「ご存知ありません? 二人きりでお会いできるのは二度までで、三度目はない。会う目的は必ず仕事絡みの『プライベートのない男』――一部の女性が、支倉さんのことをそう呼んでいるそうですよ」
「そんなつもりはありませんでしたが……」
「もっとも、ほとんどは恨み言ではなく、引き際を賞賛してのことです。あんな夢を見せられるのは二度で十分だとか」
玲一は胸の内で小さく息を吐いた。
振り向いて腕を差し出す。
「仕事抜きの三度目にお誘いしても? 優奈さん」
工藤はクスッと笑って、その手を取った。
「光栄ですわ、玲一さん」
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