Liar

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前編

夢と目覚め

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(やってしまった……)

 セックスの後にそんな感想を持つのは初めてだ。

 目が覚めると太陽はありえない高さまで昇っていて、驚いて飛び起きれば、隣には白い顔をして死んだように眠る青年がいた。

 泣き腫らして真っ赤になった目元を見れば、昨夜のことがありありと思い出された。気怠い体を起こし、綺の口元に耳を寄せて、微かでも確かな呼吸に安堵した後、頭を抱えた。

(信じられない……俺、飛んでたよな……)

 処女同然の相手に、発情した獣のように襲いかかってしまった。

 固く閉ざされた蕾に、カバンに忍ばせておいたローションをたっぷり含ませて、気が遠くなるほど念入りに解いて開かせた。そこにゆっくり自身を沈めたときには、もう気が狂いそうになっていて、一番深いところで繋がったことを伝えるように腰を擦り付けて、しばらくしたあたりから記憶が朧げだ。

 綺は最後まで陸に上がった魚のように喘いでいた。気遣う余裕がなかったが、わずかでも快楽を拾えていたのだろうか。

 立場を考えれば、自分がセーブするべきだった。けれどあんな媚態を前にして、誰がセーブできるというのだ。

 ――だが、だとしても。

 背筋を冷たいものが走る。

 予想外のことには、事前に二重三重の対策さえ用意しておけば、対応できる。だが、我を失ってしまっては、どうにもならない。

 綻びを生むことだけは、絶対にしたくないのに。

(薬だと思ったが、毒だったか……)

 綺の寝顔を見つめ、彼の乾いた唇に口付ける。

 たとえ毒だとしても、もう、飲み干さずにはいられない。







 別荘での日々は、急に甘ったるいものになった。

 朝は玲一のベッドで目覚め、ラークの散歩から戻れば、すでに起きて身支度を整えた玲一が待っている。

 三度の食事と、さしてすることのない家事、朝夕のラークの散歩を約束通りこなす以外は、それぞれのタスク――綺は制作、玲一は仕事に没頭していることがほとんどだったが、あの日を境に、夕食後の時間を玲一がリビングですごすことが増えた。

 綺がリビングの本棚にあった写真集を眺めていると、そっと覗き込んできたり、フランス語表記の絵本を内容がわからないまま捲っていると、物語を訳しながら、それを母親が読み聞かせてくれた幼い日のことを話してくれたり。

 一緒に海岸を散歩したり、ラークを風呂に入れてブラッシングしたり、気分がいいとピアノを弾いてくれることもあった。

 そして夜が深まると、どちらからともなく相手の体に触れ、玲一の部屋で戯れるように抱き合った。

 毎回、体力の戻り切らない綺は気を失うように眠りに落ちたが、夜中にフッと目が覚めると、大抵玲一は仕事をしていた。じっと書類に目を通していたり、キーボードで何かを打ち込んでいたり、ヘッドセットをして流暢な英語で誰かと話していたり。

 その姿を見て、仕事が好き、という一言で片付けることに違和感を覚えたのは、自分が仕事に妬いているからだろうか。

 だが朝目が覚めたときには、綺の体は清められていて、隣には玲一の穏やかな寝顔がある。

 綺は深く考えるのをやめた。







 別荘に来て、もうすぐ二週間。

 夕食後、玄関の外の、海へ降りる階段に座って携帯のカレンダーを眺めていた綺は、画面を伏せて小さく溜息をついた。

 来週には、父が、義母と義弟を連れて引っ越してくる。

 綺が一人暮らしをする予定のアパートは、もう契約を済ませてあって、荷物さえ移せばいつでも新生活を始められる状態だ。顔を合わせずに家を出ることは可能だが、さすがに一言の挨拶もないのは心象が悪いだろう。

(帰らないと……)

 玲一に無理をさせているのもわかっている。

 毎晩夜中まで仕事をしているのに、必要に応じて片道三時間かけて出勤していく。車を運転していると考え事が捗ると、本人は気にした様子もないが、負担になっているのは間違いない。

「帰りたくない……」

 呟いた言葉が、胸に沁みる。

「ずっと、ここにいたい……」

 一つ屋根の下に感じる人の気配。二人と一匹でする食事。顔を合わせては微笑み合って、触れ合って。抱き合って眠り、その隣で目覚める、綺がこれまで想像もしなかった温かく優しい日々。

 この別荘での日々がずっと続いてほしいと思いながら、その終わりを抵抗なく受け入れられるのは、ここでの日々が、夢でしかありえないと思うほど幸せなものだったからだ。

 ――そう、ここでの日々は夢。

 綺の知る現実は、もっと孤独で理不尽なものだ。

 両親にさえ愛されることなく、それどころか疎まれてすごし、彼らの帰りを待っていたことに、とうとう最後まで気付かれもしなかった。

 常に孤独を感じていながら、勇気を出して少し踏み出せば、しっぺ返しを喰らうように、欲を押し付けられて。いつの間にか、ただ一人の親友を除いて、誰にも心を許すことができなくなっていた。

 だけど、その日々は無駄ではなかったのだ。

 その日々の中で得ていたものがあったのだ。

 そして何より絵を描きたいという気持ちが生まれていたのだと。

 ここでの夢の中で、玲一は気付かせてくれた。だから――

 夢ならば、いつかは覚めるもの。

 なら潔く目を覚まして、現実に戻ろう。

 きっとこれからは違った歩き方ができる。

 ここを出れば、玲一とは、きっと顔を合わせることも稀になる。彼にとって、綺など、性欲どころか興味を抱く対象ですらなくなるだろう。

 それがどれほど辛いことでも、綺が玲一に恩を返せる場所はここではない。

 そして、未練を引きずって恩を仇で返すようなことは、絶対にしてはいけない。







 別荘に戻ると、玲一が二階から降りてきた。

「お疲れ様です。コーヒー淹れますか?」

「ああ、頼む」

 ペンションで持たされた土産の中に、薫から、玲一が好んでいると教えられたコーヒー豆が入っていた。

 湯を沸かす間に、冷凍庫に保存していたそのコーヒー豆を計ってグラインダーで挽き、ドリッパーにフィルターをセットする。そこに細口のポットで湯を回し入れていると、ギュッと胸が締め付けられた。

 湯をたっぷり含んだ粉が、ふわりと幸せそうに膨らんで、素晴らしい味と香りを含んだエキスが抽出され、ガラスのサーバーにポタポタと落ちていく。

 その泡が消えてしまわないように、ゆっくり丁寧に、祈るような気持ちで湯を注ぐけれど、まるで砂時計の砂のように無慈悲に、抽出は進んでいく。終わりがやってくる。

 ドリッパーを外してシンクに置く。

 魔法が解けたように泡がしぼんで、ぽっかりと穴が空いた。

 それをしばらく眺めてから、綺はサーバーのコーヒーをマグカップ二つに注いだ。

 リビングに戻ると、ごく小さな音量でジャズがかかっていた。

 玲一はソファーに身を沈めて、目を閉じている。

「どうぞ」

 カップをローテーブルに置くと、玲一は目を開き「ありがとう」と嬉しそうに微笑んだ。

 隣に座り、そっと肩に寄りかかると、頰に手が伸びてくる。口付けが降ってきて、薄く唇を開くとゆっくりと舌が入ってきた。二人でゆるく絡め合う。

「……コーヒー、冷めますよ?」

 玲一にとっては戯れのつもりのキスでも、綺の体はすぐに熱くなる。慌てて玲一の胸を押しやると、彼は見透かしたように笑った。

「少し口寂しかったんだが」

「それなら何かお茶菓子を――あっ、そういえば……」

 急いで自室に戻り、スーツケースから茶色い小箱を持ってくる。

「頂き物ですけど」

 それは、玲一がアトリエに来た日に、差し入れとして持ってきてくれたものだった。

「俺だったら、どんなに食欲がなくても、ここのチョコレートなら一日で一箱食べ切れるんだけどな」

 一粒しか減っていないのに苦笑して、玲一は早速一粒頬張る。

「甘いものが好きなんですか?」

「特別好きってわけでもないけど、チョコレートは別だな。忙しい時に手っ取り早く糖分とエネルギーを補給できるし、コーヒーにも酒にも合う」

「ワーカホリックな玲一さんらしい理由ですね」

 できればきちんと食事を摂れる程度には仕事を減らしてほしいが、好きでやっていることなら、他人が口を挟んだところでやめられないだろう。

 綺だって、絵を描くのに没頭していて、うっかり食事の支度が遅れてしまったことが何度もある。

「今日はコク深いな……」

 コーヒーに口を付けた玲一の感想に、ドキッとする。

「すみません。淹れてるとき、ちょっとボーッとしてたから……」

「いや、これはこれで美味い。ただ、最近味が安定してきてたから珍しいと思って。絵、行き詰まってるのか?」

「絵は問題ないんですけど……今週中の、玲一さんのいいタイミングで、東京に帰してもらえますか?」

 少し迷って切り出した。

「来週、父が家族を連れて家に戻ってくるんです。だから、それまでに家を片付けて、アパートに荷物を移さないと。荷物なんて、それほどあるわけじゃないんですけど」

「引越しが済んだら戻ってくるか?」

「いえ。スランプも抜けられたし、体調も戻ってきたし、いつまでも甘えてられませんから。それに、大学に戻ってやりたいこともあって……」

 これまで距離を置いていた同じアトリエのメンバーと、少し話してみたかった。

 みんなが、どんな背景や志を持って筆を握っているのか。楽しく描ければいいというだけの環境ではなく、常に他人の評価に晒されるような環境で、何を得ようとしているのか。

「帰したくないな」

 玲一がカップを置き、綺を膝に招く。

 向かい合って、ギュッと抱きしめられて、綺は玲一の首筋に顔を埋めた。

「あっちに戻ったら、いろんな人と話したいと思ってるんです。僕もう本当に、冬樹しか見えてなかったから、いろんな人に会って、たくさんものを知って、自分の世界を広げていきたいって。誰かに依存しなくても、一人でちゃんと歩いていけるように」

「もう、怖くないのか?」

「怖いです。でも僕は、絵の道を、進むって決めましたから」

 絵を描いて生きていきたい。

 それが生半可なことではないことはわかっている。

 きっと人と関わることを恐れている余裕なんてない。家族のいない家はこに固執して、そこに留まっているなんて、悠長なこともしていられない。学ぶべきこと、挑戦すべきことが、山のようにあるに違いない。

「強いな」

「決断できたのは玲一さんのおかげです」

 広い背中に手を回す。

「あなたは僕を救ってくれた。道を示してくれた。感謝してます。この夏のこと、一生忘れません」

「大げさだな。パトロンに困ったらいつでも相談してくれ」

 綺の言葉をくすぐったく思ったのか、玲一が少し茶化して言う。

「とりあえず手始めに護身術でも習おうかと思ってるんです。せっかく決断したのに、出鼻をくじかれたくありませんから」

「護身術か。それじゃ、俺も迂闊に手を出せないな」

「そうです、だから」

 首元の柔らかな肉に、そっと、跡が残らない強さで歯を立てる。

「今、ここにいる間に、いっぱい手を出しておいてください」

 ゆっくりと、ソファに横たえられる。

 少し烟ったアイスグレーの瞳が、まっすぐに綺を見つめる。

 綺の心を眼差し一つで容易く掻き乱し、熱を灯しもし、凍らせもする、宝石のような瞳――ああ、こんな綺麗なもの、自分なんかが独占できるはずがない。

(それでも、忘れずにいることだけは、許してください……)

 アリシアが娘の墓標に十年寄り添ったように。この別荘ですごした、一生分の幸せが詰まったような日々の思い出を、大切に抱いて生きていく。

 絵を生む右手を取って、その甲に、玲一が恭しくキスをした。

「綺の進む道に、幸多からんことを」







 夏の午後。

 アトリエの前で一つ深呼吸する。

 少し緊張しながら中に入ると、夏休みだというのに三人ほどが来て制作に取り組んでいた。

 アトリエは天井の高い倉庫のような、ただのだだっ広い空間だ。そのどこで絵を描くのは自由だが、それぞれの落ち着く場所、気に入っている場所は、だいたい定まっている。

「お疲れ、蒼井さん」

 綺は隣接する用具室からイーゼルを取ってきて、窓辺の隅に立てながら、隣で描いていた女子、蒼井遥あおい・はるかに声をかけた。

 ショートカットの黒髪から覗く綺麗な形の耳には、いつも個性的なピアスが揺れている。だが、それ以外の装飾は一切ない。シンプルな白いTシャツに、スッキリしたシルエットの黒のロングスカート。色も形も会話もシンプルで無駄のないものを好む彼女は、少し驚いた顔をした。

 きっと、彼女以上に寡黙だと思っていた男子生徒に、初めて声をかけられたせいだろう。

「いつから描いてるの?」

「今日は朝から」

「熱心だね」

「緒月君に言われたくない。アトリエの住人のクセに」

「僕は、夏休みに入ってからここに来るのは今日が初めてだよ」

 苦笑しながら、スツールに浅く掛ける。

「それって、やっぱり……あんなことがあったから? 絵を描くのが嫌になった? 緒月君には誰がやったかわかってるの?」

 静かなアトリエでは、会話はみんなに筒抜けだ。少し離れた所で描いていた生徒が、描く手を止めて遠慮がちに振り返る。

「……心配してくれてた?」

「心配もするし、あんなの、緒月君個人の問題じゃなくて学科の問題でしょう。あんなことする人間がいると思ったら、安心して描けないわよ」

「それもそうか。でもいいんだ。犯人を探すつもりもない」

「なんで?」

 蒼井が咎めるように言う。

 綺は彼女にまっすぐ向き合った。

「白状するとね。これまで僕は、好きな人の気を引くためだけに絵を描いてたんだ。だから、あの事件があった時、不純な動機を神様に叱られたような気がした。ついに、というか、やっと、というか……」

 苦笑する。

「でも今は、その気持ちに整理がついて、純粋に絵を描きたくてここに来てる。やっと蒼井さんと同じ舞台に立てた気がして、実はすごく嬉しいんだ」

「気持ちに整理がついたって……夏休み入って失恋したってこと?」

 失恋したのではない。

 恋をしたのだ。

 とは、さすがに言えなくて、綺は曖昧に笑いながらカバンを探る。まるでアクセサリーケースのような、高級感漂う茶色い小箱を開いて差し出した。

「よかったら一個食べない? 糖分とエネルギーの補給に」







「どうかされましたか?」

 業後の玲一を白石商事まで迎えに行き、彼の祖父主催のパーティーに送る車の中で、黒崎は耐えかねて声をかけた。

 玲一は少し様子がおかしかった。

 ジャケットの内ポケットから携帯を出して、画面を確認しては落胆したような顔をしてしまい込む。それを繰り返している。

 玲一との付き合いは長いが、彼について特に感心するのは、時間の使い方だ。隙間時間を極力なくすのはもちろん、その隙間時間でさえ何らかの目的を達成するために使う。おまけにショートスリーパーで、四時間の睡眠でフル充電可。工面した時間を無駄にしないよう、集中力を切らさないための体力作りも欠かさない。

 その彼が、無駄に携帯を確認するなど珍しい。

「ああ。いえ……」

 こうやって言い淀むことも。そして――

「明日の親族会議、黒崎さん、代理で出席してもらえませんか?」

 彼が口にしたのは、珍しいどころか未だかつて聞いたことのないセリフだった。



 黒崎と玲一の出会いは十年前にまで遡さかのぼる。

「今日から、玲一の面倒を見てやってくれ」

 初夏。支倉邸のバラが散り始めた頃だった。

 突然、黒崎が秘書として仕えている玲一の祖父、支倉燿隆に呼び出された。

 邸内にある燿隆の執務室を訪れると、飴色の執務机の前に少年が立っていた。

 アイスグレーの目を持つ、美しい少年。

 名門私立高校の制服をきちっと着こなし、大人顔負けの落ち着きをまとい。黒崎と目が合うと柔らかく微笑んで、優雅に会釈した。

 彼のことは、よく知っていた。

 支倉燿隆の孫。

 支倉家の嫡子。

 先日、彼の母親は不幸な事故で亡くなり、その後、彼の父親は仕事の都合で渡仏してしまった。現時点では、燿隆の後継者は彼になるだろうと目されている。

「お世話係ということでしょうか?」

「ああ。とりあえずは外出の際の送迎と、生活管理、余力があれば悩みなど聞いて相談に乗ってやってほしい。今の仕事との配分については、榊さかきと相談して臨機応変に。榊には話を通してある」

 燿隆には、黒崎の他にもう一人、榊という秘書がいる。

 当時黒崎はまだ新人だったが、榊は燿隆に付いて長く、支倉家の執事も兼任していた。ビジネスにおいてもプライベートにおいても、名実ともに燿隆の右腕だ。

 燿隆直々の命令で、榊も了承済みとなれば、断る理由はない。

「承知致しました」

 深々と頭を下げる。

 子どもの世話、と侮る気持ちは毛頭なかった。

 玲一は支倉家の要だ。彼に何かあっては、黒崎の首一つではどうにもならない。

 だが、そんな黒崎の心配は杞憂に終わった。

 玲一はまったく手のかからない優等生だった。

 生活態度も学業成績も何一つ申し分なく、高校では当然のように生徒会長を勤め、部活や学外活動など、所属する先ではほぼ確実に輝かしい成果を残した。

 高校を卒業し、アメリカの大学へ進学してからも、その勢いは留まることを知らず。在学中に学友と立ち上げた会社は、今や日本でも名の知れるベンチャー企業だ。

 努力なしに成し遂げてきたとは言わない。むしろ彼は尋常でない努力家だったが、傍目には易々と実績を上げ続けているように見え、神を味方に付けていると噂されるほどだった。

(これは燿隆様と同じ、いや、それ以上の才覚……)

 社会人として就職した先は、社名を耳にしただけでエリートと知れる大手の総合商社。燿隆と付き合いのある白石商事の役員は、このままいけば最年少での係長就任も間違いないだろうと話した。

 だが信じられないことに、玲一はいくつかの会社を掛け持ちしているのだ。白石商事の業務を優先するため、今や籍を置くのみとなっている会社もあるが、アメリカのベンチャー企業では依然責任ある立場を任されており、時折黒崎まで駆り出される。

 そんな多忙の中にあっても、親族会議を欠席したことは一度もなかったのに。

「お仕事で何かありましたか?」

「いえ、私用です」

(私用……!?)

 信じられない発言の連発に、黒崎はルームミラー越しに、まじまじと玲一を見つめてしまった。私用と言い切られては、詳しい説明を求めることもできないが。

「皆様には何と?」

「私用だと。それ以上の説明は必要はないでしょう。叔母が多少難癖をつけてくるかもしれませんが、今回はかんたんな収支報告程度でしょうから問題はないはずです。何かあれば携帯には出ます」

「……承知致しました」

 頷きはするが釈然としない。

 膝の上に開いたままだったノートパソコンを操りながら、玲一がフッと苦笑した。

「まぁ、腑に落ちませんよね。プライベートで、慎重に取り組みたい案件を抱えているんです」

 プライベート。

 シンプルな単語だが、それを玲一が口にすると、どう受け止めていいのかわからない。

 黒崎の知る限り、玲一は私用と言って会社を休んでも、結局は仕事につながることばかりしている。

 付き合う相手は上司や燿隆の知り合いに紹介された女性ばかりで、どれほど熱烈に思いを寄せられようと、玲一自身は恋に溺れる様子もなく、だいたい半年から一年でスッキリ別れてしまう。

 食事に行ったと言えば、飲食店経営者に招かれてのオープニングレセプションだったり、実業家仲間のセミナー後の懇親会だったり、クライアントと会食するレストランの下見だったり。

 映画を見たと言えば、近々訪問する予定のクライアントの好みのもの。それを映画館で見たならまだいい。ブルーレイディスクを倍速で見て内容を把握するだけなのだから、娯楽になるはずがない。

 プライベートという言葉が、目的も目標も利益を追求する必要もなく、ただ自分のために使える時間を指すものだとしたら、支倉玲一にプライベートなど存在しない。

 今回だって『案件』などと言っている時点で、きっとプライベートではない。

「また何か、新しい仕事ことを始めたんですか?」

 本当にプライベートだというのなら詮索するのは野暮だろうが、仕事であれば話は別だ。それに仕事が理由だとしても、親族会議を欠席するのは解せない。どんなイレギュラー案件かと身構えたが。

「恋をしています」

「えっ!?」

 無駄を省いた端的な告白は、いかにも玲一らしい。

 だがあまりに思いがけない内容に、黒崎は目を見張る。

「……本当に、プライベートの話、なんですか?」

「ええ、そう言いましたよね?」

 だがいつの間に。

 思い返せば、一ヶ月ほど前『αシリーズ』の作者、緒月綺に会いに芹澤芸術大学を訪問してから、玲一は度々私用と言って出かけていた。

 先日など、急に夏期休暇を取ったと聞かされ驚いたが、玲一は思い立ったらすぐに行動するタイプだ。恋をしたと言うのなら、早速口説き落としにかかっていたのだろう。

 大学で出会いがあったのだろうか。

 まさか玲一が学生と付き合うとは。いや、教授や講師が相手という可能性もある。

 だがあの日は、小野寺美咲が表参道に開いたレストランのオープニングレセプションもあったはずだ。そちらで出会ったと考える方が現実的か。

 黒崎が忙しなく考えを巡らせていると――

「相手は緒月綺さんです」

 玲一はストンと爆弾を落とした。

「えっ……」

「『αシリーズ』の作者です。一夏、とも言えない短い時間を別荘で一緒にすごして、すっかり惹かれてしまいました」

「えっ、ええ、存じておりますが、緒月さんは男性では……」

「だから黒崎さんに打ち明けるんです。いずれあなたの協力が必要になるかもしれない」

 鼓動が早鐘を打ち始める。

 協力と言っても、それは緒月綺を落とすことへの、ではないだろう。そして、他の誰でもなく黒崎の協力が必要ということは、おそらく、燿隆の反対にあうことを想定している。

(そこまで本気なのか……)

 だが、玲一が毎年夏の休暇をすごす茨城の別荘は、彼の父親が愛する妻のために建てたもの。そして母親の墓参りをしない玲一にとって、母親の墓標に代わる特別な場所なのを、黒崎は知っている。

 そこに踏み込ませたということは――

(本気なんだ……)

 だが、玲一の立場を考えれば、その想いを貫くのは生半可なことではないだろう。恋が玲一を盲目にしているとしても、彼がわかっていないはずがない。

 そう。わかっているからこそ黒崎に打ち明けたのだ。

「あなたにはいつも驚かされますが……茨の道ですよ?」

「それでも俺には彼が必要です。俺が自分を見失わないために、彼に側にいてほしい」

 公私ともに玲一に付き添って、十年。

 彼が誰かに依存するような言葉を、初めて聞いた。

(あぁ……玲一さんは、ずっと、一人だったのか……)

 ずっと側で見てきた。

 きっかけは燿隆の命令だったとしても、世話係として、ビジネスにおいてはフォロワーとして、出来のよすぎる弟のようにも思いながら見守り、魅せられてきた。信頼されている自負もある。

 けれど黒崎との関係は、あくまでオフィシャルなものだ。

 見つめ合ったり寄りかかったりするような相手ではない。

 そんな玲一が、やっと、プライベートで心を許せる相手を見つけたのだとしたら。その相手が誰であろうと、祝福せずにいられるだろうか。

「私にできることがありましたら、尽力させていただきます」

 黒崎の言葉に、玲一は少し目を見張り。

 やがてフッと、幸せそうに微笑んだ。







 部屋にはカーテン以外、何も残っていなかった。

 自分の形跡が残っていては、新しい家族もこの部屋を使い辛いだろうと、処分できるものは処分し、必要なものは新しいアパートへ移し、残りは納戸に移した。

 長年すごした部屋を離れることが寂しくないはずはなかった。

 だが悲嘆に暮れて涙を浮かべながらではなく、かつてここにいた幼い自分にお別れのハグをするような、温かい気持ちでいることが、自分でも不思議だった。

「いい部屋ね」

 部屋の真ん中に胡座をかいて座り、レースのカーテンが風に翻るのを眺めていると、背後から声をかけられた。

 振り返ると、義母の真琴が立っていた。

 綺の父とは、彼女が勤めるスナックで出会ったらしい。糊の効いたシーツのように、綺の肌にはまだ馴染まないが、気さくで嫌味のない女性だった。

「父と聡史そうし君は?」

「下で片付けさせてるわ」

「それなら僕も――」

「いいのよ。綺君が手を痛めたら絵を描くのに支障が出るでしょ。ね、それより、綺君の絵が見てみたいんだけど、残してないの?」

「すみません、みんなアパートに移してしまって」

「そうなの? 残念。綺君の絵、好きだったのに」

「えっ?」

 ドキッとして、真琴を見つめる。

 父に絵の話をしたことはなかった。大学の文化祭の日程を連絡したこともないし、ギャラリーに所属していることも話していないのに、いったいどこで見たというのか。

 真琴は綺の隣に、綺と同じように胡座をかいて座った。

 フレアスカートの裾から白い膝が覗くが、気にした様子もない。

「奏多さん『月刊アート』毎号買ってるのよ」

 『月刊アート』は美術雑誌だ。

 芹澤芸大を受験するにあたり、少しでも評価が上がればと、綺は雑誌主催の新人賞に応募し入賞した。もう三年も前の話だ。

「付き合ってしばらくした頃に、奏多さんが神楽坂のギャラリーに連れて行ってくれてね。あなたの絵を見せてくれたの」

「父さんが、hakuに……」

「あの人バカなのよ。絵を理解しようって意気込みすぎて、逆に何も感じ取れなくなっちゃうタイプ。雑誌読んでるのも、絵の見方に正解があると思って、勉強しているつもりなのよ」

 唐突に明かされた事実に、綺は言葉を失う。

「あの人バカなのよ」

 真琴は繰り返した。

「バカみたいに真面目で、バカみたいに不器用で、なんだかんだ理由作って一人息子を六年も放ったらかしにしてたバカ親。だけど綺君もバカ。バカみたいに虚勢張って、バカみたいにいい子でいて、奏多さんのこと甘やかし続けてたんだもんね。もっと早い段階でキレて、殴って、ぶつかってみてもよかったのに」

 笑いながらバカを連呼されて、綺は呆気にとられる。

「でもまぁ、世の中みんなバカばっかよ。あたしだってそうだし、ウチのお客さんもそう。完璧な人なんていないから、別の誰かと寄り添って、補い合って、生きてこうとするのよね」

 真琴は左手を掲げて見せた。

 ほっそりした薬指に、銀の指輪が光っている。

「あたしは真面目に生きてきた方じゃないけど、その分ちょっと器用な自信があるの。だから、あの人が切り出せない話は、あたしが話してあげられる」

「父さんが、切り出せない話……?」

 真琴は静かに頷いた。

「あなたが出て行くのを、私達は止めない。もうずっと一人で頑張ってきたあなたに、これ以上親の都合を押し付けて、家族ごっこしようなんて言えないからね。だけど、いつかあなたが家族を必要とする日が来たら、遠慮しないで帰ってきて。今度はあたし達が待ってるから」

 熱を孕んだ風が吹き込んできて、カーテンが大きく翻る。

 その下に、親の帰りを待って震える少年の姿は、もう見えない。
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