Liar

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後編

波紋

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 男は空港のラウンジでウィスキーのグラスを傾けていた。

 これから十時間近いフライトを予定しているとはいえ、まじめとからかわれることの多い彼が、仕事の途中にアルコールを口にするのは珍しい。

 三十代も後半。

 自分の意思ではどうにもままならないことも、それなりに飲み下してきたつもりだが、アルコールの力を借りてさえ飲み下せないものがあるものだと、彼は小さく溜息をつく。

 窓際のカウンター席。ガラスの向こうには離陸待ちの飛行機が並び、さらに向こうの滑走路には、飛行機を誘導する色とりどりのライトが、ばら撒かれた宝石のように煌めいている。

(宝石、か……)

 連想することが女々しすぎて、自分でも嫌になる。

 図体ばかり立派に成長し、社会的にはある程度の成功を収めてはいるものの、プライベート、こと恋愛ごととなるとどうにも決断力が鈍る。

 慎重になるあまり、行動が遅れて、気付けば手遅れ。

 そうだ、もう遅い。それに――

(相手があれじゃ、な……)

 脳裏をよぎるのは、都内の一等地に聳える立派なオフィスビルと、いずれそのビルに入っている会社を継ぐであろう、若手実業家の顔。

 先日某パーティで本人と話す機会があったが、少し言葉を交わしただけでもその聡明さが知れた。男目に見ても圧倒的なまでに整った容姿。重ねた成功に裏打ちされた、自信に満ちたオーラ。育ちのよさを窺わせる、丁寧な受け答えと、品のある立ち居振舞い。

 ハァ。

 何度目かわからない溜息をついたときだった。

「こんばんは。隣いいですか?」

 振り向くと、見知らぬ青年が立っていた。

 年は二十代後半だろうか。カジュアルな黒のジャケットに、グレーのストールを垂らし、同色の中折れハットを合わせたその姿は、彼のゆるっとした雰囲気もあってか、演奏旅行中の音楽家のようだった。

 青年は帽子を外し、親しみを表すようににっこり微笑んだ。柔らかそうな栗色の髪と、少し甘さのある顔立ちは、彼をひどく人当たりよく見せる。

 見た目に怪しさは感じないが、この時間のガラガラといってもいいラウンジで、隣に座りたがることが怪しい。

 男の怪訝そうな顔にも怯まず、返事を待つこともなく、青年は男の隣に座った。

「なんだ、君は……」

「あなたがあんまり憂鬱そうだったので少し気になって」

「放っておいてもらえるとありがたいんだが」

「そうですか? あ、足りてませんね」

 青年は男の手元にあった空のグラスを取って「ちょっと待っててください」とカウンターに行ってしまった。ずいぶん身のこなしの軽い青年だ。

 彼はすぐにウィスキーのグラスを三つ持って戻ってくると、一つをちょいと男の方に押し出した。

「浸っているのを邪魔してしまったお詫びです」

 浸っている、という言い方がバカにされているように聞こえて、男はムッとする。邪魔している自覚があるなら今すぐ立ち去ってほしいものだ。

 青年は酒に強いのか、まるで水でも飲むように、片方のグラスをほとんど一口で空にしてしまった。だんまりを決めたものの、思わずギョッとして凝視してしまった男と目が合うと、タハハと苦笑する。

「実はオレにも悩みがあって、酒でも飲まないとやってられない気分なんですよ。あなたみたいなマジメそうな人に、話だけでも聞いてもらえると嬉しいんですけど……」

 青年は平然と言いながら、背に負っていたバッグパックを下ろし、中から紙袋を取り出した。目の前にドサリと置かれたその中から、俗っぽい雑誌が滑り出る。

(なんだ、これ……こいつ、記者か!?)

 思わず身構える。やましいことをした覚えはないが、火のないところに煙を立たせるような記者だっているかもしれない。

 だが、表紙に並ぶ見出しの内容から、それらの週刊誌が最近発刊されたものではないことに気付いて首を傾げた。こういうのは、発売直前の既に完成した記事を確認させられるのではないのだろうか。

「十年前のなんですけどね」

 青年は一冊手に取って背表紙の日付を見せ、パラパラと中をめくった。

「これこれ、この記事」

「これ、は……!」

 差し出されたページの見出しは『白桜創業家の闇』。

 背景は、さっき男が脳裏に描いたオフィスビルの写真だ。

 青年は次々に週刊誌をめくり、各誌の、同じネタを取り扱っているページを開いていった。

『白桜会長も手出しできない◆名門支倉家の大奥』

『不倫・いじめ・薬物多用~不可解な転落死の真相~』

『後継争いに散ったフランス美女――胎に求められた礼儀』

 目の前にずらりと並ぶ不穏な見出しの数々。

 ゴク、と唾を飲み、思わず記事に目を走らせる。

 あらかたその内容を把握したところで、男は青年を睨み付けた。

「君は何者だ?」

「御堂あやめちゃんのファンというか、ソフトなストーカーというか……」

「ストーカー!?」

 青年は「シー」と口に指を当て、チラリと周囲に目を走らせた。

 グラスの一方を完全に干して、もう一方にチビリと口を付ける。

「あやめちゃん婚約しちゃったでしょ? さすがに他の男とイチャついてるのは見たくないし、そろそろストーキングもおしまいにしようかなと思ってたんですけど、なんとなくあの支倉玲一ってスカした男が気に入らなくて、これを最後にするつもりで調べてみたんです。そしたら、こんな記事が出てきちゃって」

 トンッ、と誌面を弾く。

「もう気が気じゃなくなって、こないだどっかの会社の創立記念パーティーに潜入して支倉玲一に問い詰めたんです。お前あやめちゃんを幸せにできんのかって」

「はぁ!?」

 おそらくその創立記念パーティーは、男が玲一に会ったのと同じパーティーだろう。

 あの場にこの青年がいたということにも驚いたが、それ以上に彼が玲一に対して取った行動に驚嘆した。

 ストーカーのくせに騎士ナイトにでもなったつもりか。あの支倉玲一に正面切って何を聞いているのか。彼の婚約者をストーキングしているのがバレて、訴えられるとは思わなかったのか。 

 突っ込みたい気持ちは山々だったが、それよりも青年の追求に対する玲一の反応が気になって、男はグッと堪えた。

「オレ、こっそり録ってきたんですよね」

 青年は携帯を取り出して、男に画面を見せながら、ボイスレコーダーのアプリケーションを起動した。創立記念パーティーのあった日付に作成されたファイルをタップすると、ノイズ混じりの音声が再生される。

『ストーカー? なるほど、なら好都合だ。そのままストーキングしておけ』

 聞こえてきた笑みを含んだ声は、間違いなく支倉玲一のもの。

 青年を見ると、彼は爆笑を堪えるように肩を震わせて、口元をニヤけさせながら酒を飲んでいた。まるで己の戦利品が最高の肴だとでもいうように。

『――テメェ婚約者だろ!? そこはオレからも守るくらいの気概を見せろよ!

 お前があやめさんの幸せを願うなら、俺の愛情を確認するよりも、支倉家の一族を警戒した方がいい。うちの一族はよそから来た人間に厳しいからな、あやめさんも長くは保たないかもしれない。

 ――保たないって、それどういう意味だよ?

 俺の母の末路を知らないのか?

 ――末路? 事故で死んだんだろ?

 さぁ? うちの一族はよそから来た女性なんか『胎はら』としか見ていない。いびり倒すのも二度目ともなれば、隠蔽工作も事後処理も慣れたものだろうよ。そう何度も結婚するのは俺も面倒だし、何か起きる前に、跡継ぎだけでも産んでおいてくれればいいが……。

 ――テメェが守ってやろうとは思わないのかよ!?

 今仕事が忙しいんだ。それに母親だって守れなかった自分が、あやめさんを守り切れるとは思わない。せいぜいお前が、前回マスコミが暴けなかったうちの一族の外道っぷりを暴いて――』

「もういい!」

 聞くに耐えずに、停止ボタンをタップする。怒りに任せて携帯の画面を叩き割らずにすんだのが不思議なくらいだ。

 男がフーッと息を吐いて、必死になって気を落ち着けている横で、青年は「あーあ、せっかくの最高傑作だから最後まで聞いて欲しかったのに」と残念そうに呟き、さらに追い討ちをかけてきた。

「しかもその後、支倉玲一はパーティーのあったホテルに愛人を連れ込むゲスっぷり。ま、その点は、あやめちゃんの方も火遊びしてたわけだから、特にあなたは責められないと思いますけど」

「なっ、にを……」

 一瞬にして血の気が引く。

 喉を張り付かせる男の前に、一枚の写真が置かれる。

 そこには、斜め上からのアングルで、御堂かなめと連れ立ってホテルの部屋に消える男の姿。明らかにホテルの防犯カメラの映像だ。

「こんな写真……君、どうやって……」

「結婚したら、似た者夫婦ってことで、意外と上手くいくんですかね?」

 ハァ、とわざとらしく溜息をつく。

 この写真をネタに脅してくるつもりだろうか。

 急に目の前の得体の知れない青年が怖くなって、男は目の前にあったグラスに手を伸ばした。数口飲んでから、それがさっき青年の持ってきてくれた酒だと気付いて、ますます怖くなる。

 まるで何もかも計算されていたようだ。

「で、オレ、支倉燿隆にも会ったんですよね」

「おいっ……!」

 バラしたのだろうか。

 あやめが、婚約中の身で不貞をはたらいたと。

「安心してください。言ったでしょう? オレはあやめちゃんのファンだって。あやめちゃんに不利になることはしませんよ。確かめただけです、婚約破棄する方法はないかって」

「婚約破棄!? そんなこと、今更……」

「方法は提示されなかったけど、確約してくれましたよ。御堂家から婚約破棄を言い出してくるなら、御堂家もあやめちゃんもお咎めなしで逃がしてくれるって」

「そんな、まさか……本当にあの支倉燿隆と話したのか!?」

「あいつらからしたら、あやめちゃんなんか惜しくも何ともない。代わりなんていくらでもいるってことですよ」

「君は、いったい……」

 あやめのために体を張ってあちこち突撃し、男とあやめの関係を知った上で集めた情報を提示してくる――その目的は、男を焚き付けているとしか思えないが。

「信用してもらえないのはわかりますけど、あやめちゃんのファン、それ以上は言えません。ストーキング被害で訴えられても困りますから」

 青年はそう言って笑い、またウィスキーを水のようにあおった。

「それでね、ちょっと相談なんですけど――」

 搭乗時間が迫っている。

 仕事と未練を天秤にかける。

 青年の話に耳を傾ける男の前で、飛行機が飛び立つ。







 実家の庭にある、藤の木の下。

 石造りのベンチの上に、玲一は白いバラを一輪供えた。

 『支倉』と刻まれた墓標の下に母が眠っている、というのが耐えられないから墓参りには行かない。代わりに、夏は母親との思い出が残る別荘ですごし、実家に戻る度ここで少しの時間をすごしてきた。

 父が母のために造らせ、母が多くの時間をすごしたこの庭は、玲一にとってこの屋敷で唯一の聖地だ。

 父と母の出会いは、フランス出張中の父に、通訳としてアサインされた母が一目惚れしたのが始まりだったという。母は体こそ弱かったが、性格は自由奔放で情熱的だったから、おそらく父は押し切られる形で結婚に至ったのだろう。

 だが、日本での新婚生活は甘いものではなかった。

 当時祖父の招集によって度々屋敷に集められていた親族は、急に現れた田舎育ちのフランス人女性を快く受け入れはしなかった。そして、燿隆の後継者として、白桜で責任ある立場を任され留守がちだった父は、おそらく母の窮状を知らずにいたのだろう。

 母は一人だった。

 玲一は母をバカにする親族の鼻を明かそうと、自分の携わるあらゆる分野で、彼らが認めざるを得ない功績を上げてみせた。高校受験では偏差値の高い名門私立を。学校では生徒会長を。大会では優勝を。コンクールでは一位を。

 だが高校に入ると、いよいよ病んでしまった母が心配で、学業を効率よく終わらせ、塾や習い事をできるだけ削って、彼女に寄り添う時間を捻出するようになった。思えば、時間を意識する癖は、その頃ついたものだ。

 祖父が母を犯しているのに気付いたのは偶然だ。

 塾で体調がよくないと感じ、ピアノのコンクールを間近に控えていたため大事を取って早退したあの日。祖父の私室から漏れ聞こえる母の声を聞いた。

 ドアの向こうで上がる肌がぶつかる音。拒絶の言葉。悲鳴。すすり泣く声――当時高校生だった玲一は、あまりのおぞましさに足が竦んだ。

 恐ろしかった。

 ただただ恐ろしかった。

 支倉家では祖父は絶対的な存在だった。その祖父が、非力な母の体を力づくで開いて蹂躙していると思うと、助けに入りたいのにドアのノブに手をかけることはおろか、ドアの前に立ち止まることもできなかった。

 おそらくそれが初めてではなく、そしてそれが最後ではなかった。

 誰かに助けを求めようかとも考えた。だが、その頃の玲一にとって、親族はもちろん、一族内の揉め事を見て見ぬふりをする使用人も敵のようなものだった。

 事後何もなかったように気丈に振る舞う母に、全部知っているから屋敷を出よう、とは切り出せなかった。それならせめてと別荘での静養を勧めても、自分が弱っていくのを叔母達に気取られたくなかったのか、次第に拒むことが増えた。

 食欲をなくして痩せ細り、摂取する薬の量ばかり増えていく母を見ながら、結局何もできないまま。

 母は亡くなった。

 自室の窓からの転落死だった。

 屋敷の外で使用人の悲鳴が上がり、その日集まっていた親族が何事かと飛び出していった。

 嫌な予感がして玲一が駆けつけたとき、母は頭から血を流し、既に事切れていた。

 誰も彼女に近付こうとしなかった。

 誰も彼女に触れようとしなかった。

 遠巻きに眺めて顔を顰め、すぐに今後の対応を話し合い始めた。

 まだ温かい母の血に膝を浸し、その体を抱きながら、なぜ母はここまでひどい扱いを受けなければならないのかと、憎悪で目の奥が真っ赤に染まった。

 母は、薬を摂取した後は眠たくなるらしく、ぼんやりしていることが多かった。亡くなる前にも薬を飲んでいたというから、恐らく注意力散漫になって転落したのだろう。

 そうとわかっていても、母は殺されたのだと思った。

 親族のイジメがなければ、祖父の強姦がなければ、薬なんて飲まずに済んだ。母が追い詰められることもなかった。

 同時に、自殺だったのかもしれないとも思った。

 薬を飲んだ後はベッドに横になることが多かったのに、あの日に限って窓を開け、身を乗り出した。母には命を絶とうという意思が、あるいは断ちたいという願望があったのだろう。

 そして、自分が殺したのだとも思った。

 自分が強姦に気付いたあの日、ドアを開けて助け出せていたら。自分がもっと上手く立ち回って、大人を味方に付けていたら。母の尊厳を守ることができたのに。

 玲一は復讐を誓った。

 この一族を支えているのは祖父の燿隆だ。

 彼を失脚させることで一族諸共――そう思っていたが。

(このゲームにおいて最大のミスは、十年という時間の長さを見誤っていたことかもしれない……)

 十年あれば、少年は大人になる。

 大人になる過程で、多くを知り。

 多くを知れば、嫌でも、理解できることが増える。

「玲一さん」

 明るい声に呼ばれて振り返る。

 庭の入り口に櫻井が立っていた。

 六十近いベテラン家政婦で、十年前、亡くなった母を最初に見つけた人だ。この庭がどういう場所かもよく知っている。

「そろそろお戻りください。お客様がいらっしゃいました」

「わかりました。ありがとうございます」

 今日玲一が実家に戻ったのは、燿隆に呼び出されたからだ。

 御堂あやめの両親が、何か話したいことがあって来るらしい。

 玲一がフランスから戻ってすぐ、あやめとは連絡がつかなくなっていた。会いたい旨を伝える留守電を入れ、メッセージを何件か送っておいたものの、一週間経った今も返信がない――理由はわかっている。

 想定外の出来事へのリスクヘッジは当然のことだ。まさかその想定外の出来事が自分に起因するものになるとは思いもよらなかったし、そのために多くの人の心を傷付け掻き回したことは、今となっては深く反省するところだが。

 協力を依頼し、用意しておいた台本を渡したときの、親友の顔を思い出して、玲一は内心苦笑した。彼があんなに楽しそうに爆笑するのを見たのは、本当に久しぶりだった。

「おもしろいことしないか?」

 十年前、そう言って彼をゲームに誘ったのを覚えている。

 彼も大人になり、もうさしておもしろさを感じなくなっていただろうに、ここまで付き合ってくれたのは、言葉にすると癪だが『友情』というより他ないのかもしれない。

「この時期のお庭は花も少なくて淋しくなりますから、きっと奥様もお喜びになりますね」

 玲一が返事をしたまま動き出そうとしないことをどう解釈したのか、櫻井はベンチのバラに目を留めて、嬉しそうに微笑んだ。

「そうだといいんですけど……」

「そういえば先日、玲一さんのお友達だという方が体調を崩して休んで行かれましたけど、その後いかがですか? お会いになりましたか?」

「俺の友人ですか?」

 唐突に聞かされた話に、玲一は眉を顰めた。

「すみません、心当たりがありませんが……」

 友人に限らず、個人的に付き合いのある人間をこの屋敷に連れてきたことは一度もない。ましてや体調を崩したからといって、玲一のマンションならともかく、この屋敷に立ち寄るような人間がいるだろうか。

「あら、そうですか。一週間ほど前に燿隆さんが連れていらしたんですよ。客室で少し休ませてやってほしいって」

「祖父が?」

「大学生くらいの、ほっそりした男性でしたよ。榊さんがお世話されていたから、わたしは帰り際にお会いしただけでしたけど、気の毒なくらいお顔が真っ青で。ラークが懐いてベッドに上がっていたから、もしかしたら十分お休みいただけなかったんじゃないかって、後から気になってしまって……」

 血の気が引いた。

 個人的な付き合いのある男子大学生、ましてやラークに引き合わせたことのある人物など、一人しかいない。

「すみません、戻ります」

 どういう経緯で二人が一緒にいたというのか。

 顔色が真っ青だったというのはどういうことなのか。

 よくない想像で気が触れそうになりながら、客間に向かう。

「失礼します」

 気が急いて勢い付いてしまい、開いた襖がパシンと派手な音を立てた。

「騒々しい」

 ちらりと視線をよこした燿隆が顔を顰める。

 その向かいで御堂あやめの両親、芳春と京香が、キュッと体を縮こめるようにして正座していた。出されたお茶に手をつけた様子もなく、異様なほど青褪めて俯いている。あやめの姿はない。

 ただ事ではない雰囲気。

 チラリと芳春に目をやる。

 彼には復讐については打ち明けてはいないが、いずれ玲一が白桜ホールディングス傘下の会社に入社する際に、手土産がわりにRATソリューションズの経営権を譲渡しようと画策していることを匂わせてある。白桜が円滑に受け入れるよう取り計らってくれれば、いずれ彼を代表取締役の一人として推薦しようと思っていることも。

 とはいえ、まだ具体的には動いておらず、燿隆に露見して困ることもない。

 ゲームに支障が出るようなことは起こり得ないが。

「すみません、お待たせ致しました」

 燿隆を問い詰めることはいつでもできる。

 玲一は会釈して、ひとまず燿隆の隣に座った。

「今日は、あやめさんはいらっしゃらないんですね」

 何の気なしにそう言った瞬間だった。

「申し訳ございませんっ!」

 芳春が言って座布団から降り、畳に頭を擦りつけた。

 京香も彼に倣って頭を下げ、手で口元を覆い肩を震わせる。

 目を見張る玲一の隣で、燿隆がフッと喉の奥を鳴らした。

 それが笑っているように聞こえて、ギョッとして目を走らせれば、しかし燿隆はいつも通り、猛禽のような鋭い目に軽く瞼を下ろした、感情の読めない思案顔だ。気のせいとも思えず眉を顰める玲一をよそに、彼は静かに口を開いた。

「どういうことか説明してもらおうか」

「実は……」

 芳春は畳についた手をギュッと握って震わせ。

 やがて覚悟を決めたようにグッと顔を上げた。

「あやめが駆け落ちしてしまいまして」







 芳春の話を要約すると、あやめは一週間前に家出してしまい、三日前に、婚約を解消して幼馴染の男性と一緒になりたいと連絡があったらしい。

「これほどの縁談はないと、あれからずっと説得しているのですが、破談が決まるまで戻らないと言い張っておりまして。無理矢理にでも連れ帰りたいところですが居場所が知れず、勤め先にも退職を願い出ているような状況です」

「なるほど。それで、どうするつもりだ?」

 今にも酸欠で倒れるのではないかと心配になるほど、浅い呼吸のまま説明する芳春に、燿隆は淡々と問いかける。

「浅はかな娘ではございますが、私どもにとってはたった一人の大切な娘。それほどまでに想う相手がいるのであれば、添い遂げさせてやりたいと……誠にっ、誠に申し訳ございませんが、婚約を解消させていただけませんでしょうか」

「支倉さんや玲一さんの顔に泥を塗ることを、どうお詫び申し上げればよいかもわかりません。どのように罵られましても、処分されましても、甘んじて受け入れさせていただく所存です。ですから、どうか、お聞き入れいただけませんでしょうか」

 夫妻が再び深々と頭を下げる。

 燿隆は眉一つ動かさず黙っている。

 夫妻の後頭部と、祖父の横顔を、それぞれ一呼吸ずつ見つめた玲一は、意を決して口を開いた。

「お二人共、どうか顔を上げてください。責任の一端は、おそらく私にもあります」

「そんな、玲一君に責任など……」

「いえ。この一年、私はあやめさんに意中の方がいらっしゃるのを承知の上で、結婚を前提に交際を申し込んできました。半年前に受け入れていただいてからも、あやめさんが想いを断ち切れていないことに薄々気付いていながら、彼女の優しさにつけ込んで強引に婚約を……ですから、私にも非はあるのです」

「そんなことは非でも何でもない! 玲一君には失礼な話だが、本心がどうであれ、玲一君とのお付き合いを受け入れ、婚約に同意したのはあやめだ。それを今更反故にして駆け落ちするなど……あぁ、まったく、お恥ずかしい!」

 声をかすれさせ膝の上で拳を震わせる芳春の隣で、京香はハンカチを取り出して目元を拭った。

 玲一はそんな二人の姿をしばらく黙って目に焼き付けた後、できるだけ快活に笑って見せた。

「そんな風に仰らないでください。あやめさんは聡明で勇気のある女性です。ご自分のなさったことがどういう事態を招くことになるかわかっていながら、それでも流されるまま私に沿うよりも、ご自分の心に素直に生きることを選んだ。誰にでもできることではありません。私は、たとえ一時の気の迷いだったとしても、彼女が私の手を取ってくれたことを嬉しく思います」

「玲一君……」

「彼女の決断に従います。力づくで連れ戻して、強引に結婚を進めるのは本意ではありませんから。それに、幸いと言うのもおかしいですが、ご存知の通り、私の勤めるRATソリューションズは今、大きな転換期を迎えています。仕事に邁進しろ、という天のお達しなのでしょう」

 玲一は小さく息をつき、燿隆を振り向いた。

「御堂さんのお申し入れを、お受けして構いませんか?」

「当人が納得しているのなら反対するつもりはない。だが対外的にはどう説明する? ありのままでは体裁が悪かろう」

 愉快な展開ではないはずなのに、燿隆は相変わらず淡々としている。

「いえ、あやめの失礼をありのままご説明いただいて構いません」

「玲一がよその男に出し抜かれた、と?」

「いえっ、そのようには……」

「だが、ありのまま話せば、結果的にはそうなる」

 芳春が自分の娘に責を負わせるつもりで申し出た提案を、燿隆は冷静に否定する。

「私はそれでも構いませんが」

「ならん。みっともない」

 玲一の意見も間髪入れずに否定される。

「では、いったん私の仕事の多忙を理由に結婚を延期し、ほとぼりが冷めた頃に、お互いの心変わりを理由に婚約を解消してはどうでしょう? 私は仕事へのひたむきさを評価されるでしょうし、あやめさんは私を気遣って延期を受け入れたことにすれば良妻として評価されるでしょう」

「ふん……」

 燿隆は鼻を鳴らしはしたが、今度は否定はしなかった。

 話はまとまった。そう思ったが――

「茶番だな」

 ボソリ、と燿隆が呟いた。

 場が凍る。

「私は、御堂君にはずいぶん長く助けられてきた。君が白桜のグループ会社に入社して、どれほどになるかね?」

 真意を問う三人の視線を意に介さず、なぜか唐突に、燿隆は芳春に向けて言った。

「それは、あの、今年で三十三年になりますが……」

(三十三年……)

 玲一は今年で二十七歳だ。

 復讐に費やした十年は、あっという間にも、気が遠くなる程長くも思えたが、目の前の男は玲一の人生よりもはるかに長い時間を白桜に捧げ、白桜は捧げられてきたのだ。

 学生の内からビジネスの才覚を現し、大企業で出世したり、会社を興したりしている玲一は、年上を尊敬するという概念がないのでは、と揶揄とも皮肉とも取れる言葉を投げられることがある。

 だが、実際には逆だ。

 どれほど才能に恵まれ、どれほど努力と経験を積んでも、時間を重ねることでしか達することのできない境地はあると、事あるごとに痛感する。

 会社についても同じだ。様々なデータがあるものの、創業から三十年後の企業生存率は一パーセントに満たない。長く生き抜いてきた会社には、それだけの社会的意義、そして集積された人の想いがある。

 そしてそれらは、時に重圧となって経営者を襲う。世襲の続く会社の、創業家のトップともなれば、その重圧は計り知れない。受け継がれた火を自分の代で絶やすわけにはいかないと、本人の幸せや良心を二の次にして乗り越えなければならない局面も多いに違いなく、それを数十年と続ければ――復讐のためと駆け抜けた十年は、そんなことを玲一に思わせるようになっていた。

 御堂夫妻と玲一の食い入るような視線を受けながら、燿隆は湯呑みに手を伸ばし、ゆっくりと喉を潤した。そして――

「では、君の三十三年の忠節と、孫の幸せのために、鶴の一声とやらを上げてやるとしよう」

(孫の幸せ!?)

 祖父の気でも触れたのかと思うような言葉を、玲一は心の中で反芻する。

 御堂夫妻も、燿隆の発言が全く理解できていない様子で身構えている。

 三人をジロリと見据えた燿隆は、

「直りなさい」

 支配者然と、短く命じた。

 なんのために、などと疑ったり考えたりする余地さえ与えない。

 耳にした瞬間、本能的に体が従ってしまうような、力ある声で。

 三人が座布団の上に戻り、居住まいを正すのを待ち。

 支倉燿隆は、強い口調で、けれど平然と言い放った。

「私は何も聞かなかった。気が変わったので婚約は破棄する。以上だ」







 御堂夫妻は狐につままれたような顔で車に乗り、帰っていった。

 白い乗用車が静かに走り去り、門扉が閉まるのを見届けて、玲一は自分も何が何だかわからないまま屋敷に戻る。リビングのソファに祖父の姿があるのを見て、生理的嫌悪感を黙殺して斜向かいに座った。

「さっきのあれは何だったんですか?」

「何、とは」

 タブレットを操作していた燿隆が、目も上げずに言う。

「お祖父様が鶴の一声と称した言いつけです。なぜ御堂さんや私を庇うようなことを? お祖父様には何のメリットもないはずでしょう」

「まったく、な」

 燿隆は手を止めた。

 老眼鏡を外し、玲一を見つめる。

「一週間ほど前か。私が世間に暴君と見なされているのを知った上で、私なら強引に婚約を破棄させても許されるだろうと、失礼極まりない入れ知恵をされてな」

 一週間ほど前。

 それは、さっき櫻井から聞いたばかりの言葉だ。

「……緒月君に、お会いになったんですね?」

 この世で一番醜悪な男が、この世で一番清らかな存在に触れたかもしれない。その可能性を思うだけで、おぞましさに全身の毛が逆立つ。

「彼がこの屋敷に来たと、さっき櫻井さんから聞きました。客室で休んでいったのに、帰りがけに見たときにも顔色が真っ青だったと。いったい何があったんですか?」

「彼は約束もなしに会社に乗り込んできた。話があるというから車に乗せてやったら、急に服を脱ぎ出して、私にお願いがあると言い出した。駆け引きを知らない、泣き顔まで愛らしい青年だったな」

「――――!」

 必死に保っていたポーカーフェイスが崩れ、目の奥が真っ赤に染まった。怒りに支配され、男の痩せた首をつかんでソファの背に叩きつける。

「綺にまで手を出したのかっ!?」

 このまま殺してやる。

 そう思ったが――

 突然、男の顔が笑いに歪み、声が出ないまま激しく胸を震わせ始めた。

 爆笑――ついぞ見たことのないそれにゾッとして、思わず突き放す。

「綺にまで、か……」

 顔を真っ赤にし、息も絶え絶えになりながら、男は言った。

 何度も咳き込み、ヒューヒューと喉を鳴らしながら息を整え、最後にフーッと大きく息をつく。そしてまた思い出したように肩を揺らし笑い始めた。

「私に男色の趣味などあるものか」

「…………」

「お前がどう解釈したか知らんが、私は彼には指一本触れていない。まったく……あんな入れ知恵に応えたところで何のメリットもないと思っていたが、お前が取り乱す姿を見られるとは僥倖だな」

 そこまで言われてようやく謀られたと気付き、玲一は呆然となる。

「彼の涙の理由を教えてやろう。それから、私の守るものと、お前の守るものが、どう重なっているか確認しようじゃないか」

 玲一に座るよう手で示し、燿隆は話し始める。

 決して淡々とではなく。

 わずかに。

 ほんのわずかに、笑みを含んだ声で。







「榊さん、待ってください」

 ガレージに車を停め、燿隆の私室に向かう途中で、家政婦の櫻井に呼び止められた。

「燿隆さんにご用ですよね?」

「はい。今夜は会食の予定がありますのでお連れしに参りました」

「それ、すぐに出ないと間に合いませんか?」

「どういうことですか?」

「ちょっとちょっと」

 櫻井は少し浮かれた様子で、榊をリビングに続くドアの手前に連れていった。慎重な手つきでドアノブに手をかけ、少し隙間を作って、そこを指す。

 首を傾げながら覗いてみて、小さく目を見張った。

 燿隆と玲一が、ソファに掛けて何やら話し込んでいた。

 櫻井以上に慎重な手つきでドアを閉めて、その場を離れる。

「もう三十分ほどになるんですよ」

 榊は燿隆に、櫻井はこの屋敷に仕え始めて、お互い十年以上になる古参だ。

 今屋敷に住んでいるのは燿隆一人だが、日々変則的なスケジュールで動く彼に対応できるよう、二人にも屋敷内に私室が与えられている。通ったり泊まったりは個人の裁量に任されているが、お互いもう屋敷の住人のようなものだ。

 燿隆を支えるという点においてはプロジェクトチームのメンバーのような存在だが、いつの間にか「ついでですから」と櫻井が身の回りの世話を焼いてくれるようになり、榊も彼女の外出の際に車を出してやったり力仕事を代わってやったりする内に、今では家族以上に家族らしい間柄だ。

 そんな二人の共通認識として、燿隆と玲一は、一般的な祖父と孫のようなウェットな関係ではなかった。

 昔はこの屋敷に二人で暮らしていたものの、二人とも多忙でほとんど屋敷にいなかったし、玲一はアメリカの大学に進学し、帰国後すぐ一人暮らしを始めてしまった。

 そもそも接点がなかっただけで、表立ってどちらがどちらを避けているという様子もなかったが、燿隆から玲一の企みを知らされた榊には、どうしても玲一が燿隆に距離を置いているように見えた。

 そんな二人が、ああやって二人きりで顔を突き合わせて話し込んでいる姿など、これまで見たことがあっただろうか。

「いったい何を……」

「たぶんですけど、先週いらっしゃった玲一さんのお友達のことだと思いますよ」

「緒月さんの? なぜです?」

「緒月さんとおっしゃるんですか? 玲一さんに、先週燿隆さんがその方を連れて帰られたことをお話ししたら、血相を変えて行ってしまって。でも、先ほどまで御堂家のご夫妻がおいでになっていて、燿隆さんとはお話できなかったでしょうから」

「そうですか……」

 危険分子だと思って遠ざけた青年が戻ってきた瞬間、玲一どころか燿隆までが彼に興味を持ち始めてしまった。

(厄介な……)

 今でもあの青年のことは危険分子だと思っている。

 玲一は支倉家唯一の嫡子だ。

 玲一と綺の関係がこの先も続けば、支倉家の直系の血は絶える。

 心を殺し、時に人道を外れ、身内の憎しみまで買いながら、燿隆が人生をかけて築き守ってきたものが、他人の手に渡ってしまうかもしれない――それが、燿隆の右腕を自負する榊には耐えられない。

 だが。

 榊は、燿隆の孤独を誰より知ってもいる。

 支倉家当主として、トップ実業家として、燿隆は早くから玲一の才能に気付いていた。彼が、玲一の成長を妨げるものを排除しようと打ったある一手は、次々と想定外の結果を呼んだ。

 クロエの死。

 紘一の後継の辞退と渡仏。

 そして――玲一の企みと、それに伴う驚異的な成長。

 燿隆が玲一の企みをやめさせようとしないのは、親族、とりわけ自分への憎悪が、彼の成長の起爆剤になっていることを理解しているからだ――それが自身の孤独を深めようとも。

 この広い屋敷に、燿隆は一人で暮らしている。

 年齢的に、会長職を務められる時間は、そう長くないだろう。

 そうなれば、親族会議と称して親族が集まることもなくなる。

 だから――

「あなたは、プライベートでも、心を殺して生きてきたんですか?」

「それで、あなたの守りたいものは守れたんですか? あなたは今幸せなんですか?」 

 車内で聞いた綺の言葉が、今になって榊の心に波紋を描く。

 支倉燿隆は、守りたいものを守れたのだろうか。

 支倉燿隆は、幸せを手に入れられたのだろうか。

 あるいは、この先それが叶うのだろうか。

 先ほど見たリビングの光景が、なぜか瞼の裏に焼き付いている。
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