Liar

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後編

二度目の告白

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「怒涛のバカンスだったなぁ……」

「アヤここんとこ、そればっか言ってる」

 放心したように呟く綺に、ラファエルは呆れている。

「マルセイユも、後ちょっとだったのに辿り着けなかったし」

「いいじゃん、また行こう。あ、そうだ、次はモナコ目指す?」

「行ってみたいけど、富裕層とはしばらく距離おきたい……」

「富裕層にだって、もうちょっと器用にアヤに寄り添える人はいると思うけど。ってか王子様って、モナコにだってゴロゴロ転がってるわけじゃないから!」

 ラファエルがケラケラ笑う。

「なんだよラファエル、バカンス明けてからいつもアヤと一緒にいるけど、マジで食っちゃったのか?」

 授業を終え、中庭のベンチで話していると、テオがげんなりした顔をしてやってきた。ラファエルは親密さを見せつけるように、綺の耳元に顔を寄せる。

「食う前に吐かれたって報告すんのは、ちょっとプライド傷付くなぁ」

 囁く声が笑っている。悪趣味だ。

 自分が人にどう思われようとあまり気にならないが、こんなネタで今後もからかわれても困る。立って少し距離を取ると、ラファエルが不服そうに唇を尖らせた。

「それがアヤってばガードが固くてさ。官能的なバカンスになると思って期待したのに、日本まで逃げられちゃったんだよね。意地になって追いかけたけど結局ぜーんぜん相手してもらえなくて、一人淋しく観光して帰ってきたんだよ」

「えっ、日本まで!? なに、本気になっちゃったってこと?」

「そりゃ本気にもなるよ。こんな美人そうそういないんだしっ」

 ラファエルが勢いよく立ち上がって、子どもがお気に入りのテディベアを抱きしめるように、後ろから抱きついてくる。綺の肩に顎を引っ掛けながら、右手で綺が羽織っていた厚手のカーディガンの裾を脇によけた。

「見てほら、このほっそい腰」

「ぁっ! ラフっ!」

 ウエストをスッと撫でたラファエルの右手が、そのままTシャツの中に入ってきて、その冷たさに思わず声が出る。

 慌てて逃げ出そうと体をよじるが、ぴったり密着している上、左腕にがっちり腰を押さえられていて思うように身動きが取れない。

「ちょっと! 何考えてるんだよ、ラフ! 離して!」

「ごめんごめん。あったかくて気持ちいいから、触り出したらやめるの惜しくなっちゃって。ほら、テオだって触ってみたいだろ?」

「んなわけないだろっ! お前と一緒にすんなよ!」

「どうだか」

 挑発するようなことを言いながら、手の平で肌を弄り続ける。

 テオの目が、シャツの下で蠢くラファエルの手の動きと、めくれ上がったシャツから覘く脇腹に釘付けになっている。そこに玲一が付けた傷跡がまだ残っているのを思い出して、綺は泣きそうになった。

「ラフっ、嫌だっ! ラファエルっ!」

 見られることが恥ずかしいんじゃない。玲一が自分だけに見せてくれた慟哭の跡を、他人の目に晒したくなかった。

 勢いよく体を折って体重をかけ、ラファエルの腕と二人の視線から逃げ出す。地面に転がるつもりで目を閉じた綺を、大きな手が受け止めた。

 そのままものすごい強さで抱き締められる。

 鼻をかすめた香りに息が止まった。

「あーあ。もうちょっと遅くてよかったのに」

 ラファエルの笑いを含んだ声。

「ハッピーエンドをご所望じゃなかったのか?」

 綺の耳元で、微かに息を乱しながら唸るように言う声。

「そろそろ来るのわかってたから舞台を整えてやったんだろ。じゃなきゃ、あんだけひどいことしといて、どのツラさげて現れるつもりだったわけ? 親友のエイリアンに感謝しろよ、王子様」

「あいつ、また余計なことを……」

 声を聞けば聞くほど、鼓動が加速していく。

 頭がグチャグチャになる。足が竦んで動けない。

 ただ喘ぐように息をして、その度あの香りを吸い込んで。

 ギュッと胸が締め付けられて、苦しくて、また喘ぐように息をする。

「礼は改めて。だが今度手を出したらローラン家にクレームを入れるから、そのつもりで」

「あはは、やっぱりバレたか」

「有能なエイリアンと付き合いがあるからな」

「うわっ。あいつ、ほんと余計なことを……」

 ケラケラ笑う声を背に、綺は玲一に背中を抱かれて予備校を後にした。







 二人を見送った後、ラファエルは携帯を取り出した。

 慣れない英語で一文を入力する。

『任務完了』

 それから少し迷って、もう一文付け足す。

『オレのこと知って気後れしちゃったんじゃないの?』

 送信。

 マンションの一室でドッカとソファに座り、ノートパソコンを開いて連絡を心待ちにしているだろう男の姿を思い浮かべていると、すぐに返信が返ってきた。

『ご褒美に今度観光に付き合ってやるから、お前んとこの車一台よこせ』

(早速タカってくるかよ……)

 図々しいメッセージに自身の杞憂を知り、思わず笑う。

 ふと視線を感じて顔を上げると、何が起きたかわからず呆気に取られていたテオが、今度は訝しげにこちらを見ていた。

「なぁ、今の誰? エイリアンとか王子様とかって何? ってか、えっと……つまり、あの人がアヤの王子様っこと?」

「いや、あの人はアヤの犬」

「いっ、犬!?」

「アヤは特殊性癖の持ち主で、SMの女王様なんだよ」

「女王様!?」

 種は蒔いておいた。

 芽は出たらしい。

 だが花が咲くかはラファエルにもわからない。

「あっ、間違えた。ナルシストで一人上手なんだった」

 ケラケラ笑うラファエルの横で、テオは凍りついていた。







 綺を抱えるようにしてタクシーに乗り込んだ玲一は、当然のように運転手に綺の住所を告げた。

 この秋から住み始めたステュディオは、六畳あるかないかのシンプルな部屋だ。中に入れば見回すまでもなく、家具は勉強机兼ダイニングテーブルの小さなテーブルと椅子が一脚、ベッドとベッドサイドの小さなチェストだけ。

 玲一は綺をベッドに座らせて、その前に跪いた。

「綺」

 名前を呼ばれ、じっとこちらを見つめる視線を感じながらも、綺はその目を見つめ返すのが怖くて俯いた。今目を見てしまえば、何もかもがなし崩し的に終わってしまう――そんな気がした。

「綺、まずは謝らせてくれ。ひどい抱き方をして悪かった」

 玲一はそう言って、頭を下げた。

 謝らないでほしい。責める気持ちなんか欠片もない。

 そう伝えたいのに、ガチガチに強張った身体は頷き一つ返すこともできなかった。逆に鼓動はもうずっとすごい速さで打ち続けていて、今にもオーバーヒートして止まってしまいそうだ。だが――

「許してくれとは言わない。俺も、一生自分を許さない」

 それを聞いた瞬間、反射的に首を振っていた。

「一生、なんて……許しますから、もう忘れてください」

 絞り出した懇願は、みっともないほど震え、かすれていた。

 それでも聞き取れなかったはずはないのに、玲一は何も応えなかった。黙ったまま顔を上げて、じっとこちらを見つめてくるので、逃げるように目を逸らす。

「もう一つ、伝えたいことがあって来たんだ。こっちが本題」

 膝の上で硬く握り締めていた手を、玲一の両手がそっと覆う。

「好きだ」

 告げられられた言葉に、綺の心はスッと凍えた。

 玲一が以前同じ言葉を口にしたとき、その後には恋人として付き合ってほしいと続いた。だが今の玲一は結婚が決まっている。

「今度は……愛人にでも、なれって言うんですか?」

 玲一は静かに首を横に振った。

「綺に対しても、あやめに対しても、今この先を求めると不誠実なのはわかっている。だから、誰のものにもならないで、少しだけ待っていてほしい。必ず全部片付けて戻ってくるから、そのときには――」

「それって……全部片付けるって、どういう意味ですか? ゲームも、あやめさんとの結婚もやめるってことですか?」

「……ゲームはやめられない。俺は親戚も、祖父も、自分も、許すことはできない。だけど、あんな絵を見たら……」

 玲一は言葉を詰まらせた。

「綺が欲しくなった」

 フッと微笑むような気配。

「欲しくて欲しくて堪らなくなって、手に入れようって決めた」

「手に、入れる……?」

「綺が言った通り、俺はゲームをやめられないし、ゲームに勝つためには一分一秒時間を無駄にできない。欲しいものに手を伸ばす時間も惜しくて、今までいろんなものを見送ってきたし、一年前は逃げた綺を追うこともしなかった。だけどな……もしかしたらこれは未熟さを反省すべき点かもしれないが、あんな絵を見せられて追わずにいられるほど、まだ俺は心を殺すのに長けてない」

「何言ってるんですか……僕は、あなたに追ってきてほしくてあの絵を贈ったわけじゃない」

「だけど綺は俺を愛してる」

 断言されて。

 ドキッとして顔を上げる。

 どこか得意げな微笑みを浮かべた玲一と目が合う。

 アイスグレーの瞳は、これまで見たことがないほど明るく、星屑を閉じ込めた宝石のようにキラキラと輝いていた。自分が綺に対してしでかした暴力まがいのセックスや、今目の前にいる綺が二度目の告白に青ざめていることを差し引いても、喜びを抑え切れないのだというように。

「あの絵はそういう絵だ。そうだろう?」

 こんなに嬉しそうな男を前に、青褪めたままでいる方が難しい。

 しかも、おそらく玲一の脳裏には、綺が小さなガラスの箱の中に思い付く限りの愛の言葉を叫んで蓋をしたようなあの絵が蘇っていて、彼は一ミリも間違いなく読み解いて確信しているのだ。

 真夜中に書いたラブレターを目の前で音読されているような気恥ずかしさに、痛いほど強張っていた頰がフッと緩む。

「俺も綺を愛してる」

 頰と一緒に緩んだ心に、玲一の言葉が素早く潜り込んでくる。

 身構える間もなくて、ズルい、と心の中で叫ぶ。

 そういえばあの夏もそうだった。

 彼は綺が心を鎧う間も与えず、すぐ側に来ていた。

「また逃げるなら逃げてもいいが、今度は必ず追いかけて捕まえる。自慢じゃないが、俺は十年以上かけて祖父への復讐を進めている男だからな。長期戦には慣れているし、好きだって言ったときの綺の困り顔を眺めるのは、くたばりかけた祖父さんの背中を睨むのに比べたら、ご褒美みたいなものだ」

 まるで、そのための算段は既にすっかり整えてあるかのように、さあやってみろと言わんばかりの、楽しげな口ぶりだ。

 実際、玲一の背後には、彼の実家や親友が控えている。玲一が本気で綺の逃亡を阻止しようとするなら、逃げようなんて考えた瞬間に察知されてしまいそうだ。プライバシーはどこに行ってしまったのだろう。

「そのためにも、なるべく早くけじめをつけて戻ってくるから、いい子で待っていてくれ」

「いい子って……そもそも、玲一さんを待ってるつもりもありませんから!」

「ご褒美を用意しておいてもらえると嬉しいところだが――」

「自惚れるのもいい加減にしてください! ご褒美なんて――」

「難しければ、ただコーヒーを淹れてくれればいい」

「えっ……?」

 立ち上がり、「失礼」と隣に座った玲一が、綺を抱き締める。

 拒絶しようと思えば、上体を反らすだけで容易に抜け出せそうな、背中に軽く腕を添えるだけの抱擁だった。

 強気な言葉とは裏腹に、一方的に気持ちを伝えて綺が逃げてしまった経験から怯えているのか、前回強いたセックスを反省しているのか、綺に触れることを躊躇っているように感じた。もしかしたら、ただ綺に拒む余地を与えてくれているだけかもしれないが、それだって彼らしくはない。

「話をしよう、綺」

 囁く声が、耳に、胸に、優しく響く。

「お前がどうして逃げたのか、この前話して少しわかった気がしているが、お前の口から聞かせてほしい。それから、お前が不安に思っていることをどう解決していくか、一緒に考えたい。そのために、せめてコーヒー一杯分は時間をくれないか?」

 顎先にスーツのさらりとした生地が触れ、香水が儚く香った。背中に手を回すどころか、そこに頰を預けることさえできない自分が、急に不甲斐なく感じられた。

 支倉玲一は白桜の御曹司で、女性に不自由しない容姿の持ち主で、その努力と才能からビジネスで成功をおさめ将来を嘱望されている、遠い世界の人だ。

 けれど今目の前にいるのは――悲しい過去に復讐なんて方法で対峙し、そのために自分自身まで駒にしてしまうような、恐ろしく無茶ばかりする男。

 そして彼の立場や未来を思い、彼の愛情を一身に受けることに怯え、彼を置き去りにしてしまった綺に、一生懸命に言葉を尽くして歩み寄ろうとしてくれている優しい男だ。

 そんなことを感じてしまって、綺は狼狽えた。

「俺の時間は好きなだけやる」

 玲一は言い募る。

「愛している」

 玲一が復讐を打ち明けてくれた時、彼を抱きしめたいと思ったのは本当だ。今こそそうするべきなのに、どうしても応えられない自分に、不自由を感じた。

 不意に思い出したのは、ヒッチハイクの途中、日々を奔放に生きる友人が自分に言ってくれたセリフ。

「淋しさや不幸に慣れるなよ」

「不幸に慣れて、幸せを前にする度に怖気付いてたら、いつまでたっても幸せをつかめないだろ。幸せでいる努力をするんだよ」

 不幸に慣れているつもりなんてなかった。

 幸せでいる努力だってしたい。なのに――

 同じ言葉を返すだけ。

 手を持ち上げて、背中に触れ、抱き締め返すだけ。

 それだけのことをしようと思うだけで、体が強張る。

(やっぱり、できないっ……)

 何もできないでいる内に、玲一は体を離してしまった。

 立ち上がり、足元に転がしてあったカバンを手にする。

 引き止めたい気持ちと同じだけホッとしている、臆病な自分にがっかりする。

「……もう、帰るんですか?」

「綺を口説く準備があるからな」

「婚約を破談にするんですか?」

「俺が自分で蒔いた種だ。お前が心配する必要はない」

「でも……」

「もちろん、策はある」

「策?」

 燿隆に協力を求めての説得は失敗した。玲一は何と言って御堂家に婚約破棄を願い出るのだろう。燿隆が憂慮していたように、玲一の信用は失墜し、御堂家に訴えられてしまうのだろうか。

 黙り込んだ綺の髪を、名残惜しそうに撫でて、玲一が踵を返す。

 ハッと思い出したことがあって、慌てて後を追った。

「玲一さんっ」

 ドアに手をかけた玲一が振り向く。

 玲一の復讐に燿隆が気付いていることを知らせておかなくては。

 そう思ったのだが。 

「悪い」

 綺が伸ばした手を捕まえ、引き寄せ、玲一が顔を傾けた。

 えっ、と思った瞬間には唇をかすめ取られていた。

「行ってくる」

 得意げにも、そんな自分に照れているようにも見える、子どもみたいな笑顔を残して。

 凛とした後ろ姿が、十一月の風の中に躍り出る。
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