Liar

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後編

ぶちかませ!

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 アトリエの空気を乱して迷惑をかけないよう、ひっそり描こうと思っていたのに、おかしなことになってしまった。

 冬樹が来たのをきっかけにしたように、アトリエのメンバーが入れ替わり立ち替わり話しかけてきたのだ。それだけ心配してくれていたのだと思うと無碍にもできず、ライブペインティングのように会話しながら制作を続けていると、今度はアトリエ外からも人が来た。

 話を聞きつけたアトリエのメンバーの知り合いが、使わずに余っている画材を仲間から集めて持ってきてくれたり、以前撮影に協力した写真部のメンバーが、差し入れを持ってきてくれたり。

 ようやく静かになったのは、すっかり日が暮れてからだった。

「これはもはやアイドルの扱いだな……」

 綺の荷物と寄付と差し入れが山になった作業スペースの片隅で、もはや誰が差し入れてくれたかもわからないベーグルサンドに齧り付きながら、冬樹がおかしそうに笑った。

 だが、綺は困惑しきりだ。気遣いはありがたいが、集中できないのは困る。何しろ時間がないのだ。それに――

「ダメだ……」

「えっ?」

「なんか、これじゃない気がする……」

 綺は途方に暮れてキャンバスを見つめた。

 いろんな人の協力もあって、思い描いていたイメージが現れ始めているのに、描き進めれば進めるほどこれじゃないと思ってしまう。そして、その理由がまったくわからない。

 口の中のものをゴクンと飲み込んで、冬樹が綺の隣に立つ。

「ちょっと外出よう、綺。気分転換」

 しばらくキャンバスを眺めた後、彼はにっこり微笑んだ。







 昼間は温かく、ジャケットを脱いでもいいなと思うほどだったが、夜になると急に冷え込む。

「はー、なんか怒涛の一日だったなぁ……」

 校舎を出た冬樹は、そのまま並木道を横切って、キャンパス中央の芝生の広場に入った。真ん中のあたりまでズンズン歩いて行って、ゴロンと寝転ぶ。

 その隣に自分もそっと寝転んで、綺は両手を広げて大きく息を吸った。疲労と興奮で熱くなっていた体から、ひんやりとした地面に熱が移っていくのが心地いい。

「星キレー」

「ほんとだ。結構見えるね」

「星座まったくわかんねーけど」

 ハハッと笑って、冬樹が顔を右に倒して綺を見つめる。

「フランス楽しい?」

「必死だった。今ようやくちょっと楽しくなってきたとこ」

「そりゃそうか、フランス語ゼロからだもんな。確か玲一さんがフランス人とのハーフだっけ?」

 唐突に出てきた名前に、少しドキッとする。

 何が言いたいのかと見つめ返すと、冬樹はニヤッとした。

「留学先、英語圏にしとけばもっと早く楽しくなってたはずだし、綺、特別フランス美術が好きってわけでもなかっただろ? なのにわざわざフランスを選ぶ要因があるとしたら、それくらいかなぁって思ったんだけど?」

 昔から思いつきのように話しながら、ポンと本心を言い当てたり、真理をついたりするのが、冬樹の楽しくも恐ろしいところだ。

「灰色の目の素敵な恋人が見つかればと思ってさ……」

「見つかんなかっただろう?」

「なんでそう思うの?」

「だって綺が好きなのは、灰色の目の人じゃなくて、玲一さんの灰色の目じゃん。搬入先のRATソリューションズってさ、もしかしなくても玲一さんの職場じゃね?」

「…………」

「当たったか」

 得意げに笑う。

「……杏介さんが、玲一さんが婚約したって教えてくれて。でもそれが愛のない政略結婚だって言うから、婚約破棄してくださいって説得するために戻ってきたんだ。玲一さんのお祖父さんにも協力してほしいってお願いしたんだけど、聞いてもらえなくてさ……」

「はぁ!?」

 冬樹が起き上がって、まじまじと綺を見つめた。

「結局どうにもならなくて……せめて、あの人がこれ以上自分の心を殺さなくてすむように、心を殺さなくちゃならなくなっても上手く立ち直れるように、エールを送るような絵を描きたかったんだけど……」

「今描いてるのは何か違うと」

「うん……何がダメなんだろう。時間がないのにっ!」

 芝生に拳を打ち付ける。ドンっと響いたくぐもった音が、自分の中にわだかまっている感情を示唆するようで、苛立ちが増す。

 胸が詰まって苦しくて、喉元まで何かが出かかっているのに、そこからどうしていいかわからない。描きかけの絵に違和感を覚えてからずっと、こんな感覚が付きまとっている。

「悶えてんなぁ」

「悶えてるよ。苦しい。喉んとこで何かつっかえてるみたいな」

「みたいなじゃなくて、つっかえてんじゃね?」

「どういうこと?」

「エールを送る心持ちじゃないだろ、どう考えても」

 胡坐をかく冬樹の顔を見上げる。

 彼はクックックッと楽しそうに笑った。

「玲一さんっていいトコのお坊ちゃんだろ? 婚約破棄なんて、下手したら一族郎等ひっくり返るような大事件を、わざわざフランスから帰ってきて『玲一さんのため』の一言で起こそうとしてたのにさ。『結婚しても頑張ってね』なんて、最後の最後でしおらしくなりすぎじゃね?」

 冬樹の言葉に、フランスで杏介と再会してから今日までのことが、まざまざと胸に蘇る。

 hakuで蒼城に会って会話を誘導したり、財界人のパーティに潜入したり、白桜の会長を待ち伏せて家までついて行ったり。百貨店で見立ててもらった上等なスーツも、高級ホテルのスイートルームも、さらに言えば肛門の裂傷の痛み止めや、お姫様抱っこも、これまでの綺の人生にはなかったものだ。

 正気を失っていたとしか思えない。

 今の自分だって正気じゃないかもしれない。

 そんな日々の最後を締めくくるのが『結婚しても頑張ってね』というのは、確かに、急に熱量が変わったようで不自然だ。

「ぶちかませ、綺!」

 星空にスコーンと白球を打ち上げるように、冬樹が言い放った。

「ええっ!?」

「ぶちかませよ。だって、まだ好きなんだろ?」

 冬樹には、フランスに発つ前にすべて打ち明けてある。

 今更隠すつもりもなく、綺は小さく頷く。

「それ伝えればいいじゃん。それしかない」

「伝えないよ。その先がない。意味がない」

「意味はあるって! ちゃんと伝えりゃ未練も吹っ切れて、綺もスッキリする」

「だけど、僕は玲一さんにそう言われて逃げ出した身で、玲一さんはもうすぐ結婚するのに……」

「ならむしろ好都合じゃん! 綺がどう足掻いたって破談にできなかったんだから、今更綺が何を伝えようが、もう玲一さんの未来を台無しにしようもないわけだろ? 玲一さんが見た瞬間、殺した心もドキッとして息を吹き返すような、とびっきり熱烈なやつ描いてみたら?」

 満天の星を背負って、親友はニヤリと笑った。

「思いっきり好きだって叫ぶチャンスだぜ!」







 アトリエは特別なことがない限り二十二時で閉まる。

 宮里教授に頼み込んで、泊まり込みで作業する許可をもらっていた綺は、誰もいなくなったアトリエの床に座り込んで、さっき親友に打ち明けられた話を思い出していた。

「あのさ、怒らないでやってほしいんだけど……」

 閉店間際の画材屋に駆け込んだ帰り。

 冬樹は、少し声のトーンを落として切り出した。

「去年、オレが綺にあげたガラス瓶を割ったの、柚乃なんだ」

「えっ……!?」

 パッと、脳裏に、あの日のアトリエの光景が蘇った。

 砕けてなお、陽射しに美しく輝いていた青いガラス片。

「綺に嫉妬したんだってさ」

「僕に、嫉妬!? なんで!?」

「実はあの頃、綺との距離感おかしいでしょ、ってよく怒られてたんだよ」

 冬樹の手が、柚乃の言う距離感を再現するように綺の頰に触れる。セクシャルな要素など何もない、ただくすぐったいだけの温もりに、綺は首を傾げる。結果的に、冬樹の手の平に頬を摺り寄せることになって「こういうとこ」と冬樹が苦笑する。

「それで、オレの初めてのガラス作品を綺が持ってるのが気に食わなくなったらしい。綺がいなくなった後、綺は絵の勉強しに行ったんだって話したんだけど、ガラス瓶の一件のせいで大学が嫌になったんじゃないかって、あいつすげー落ち込んでさ。最後には、自分にはオレと付き合ってる資格がないから別れようって」

「そんなっ! 別れたの……?」

 綺と冬樹の距離感が、二人の関係性を疑われるほど近かったのは、付き合いの長さもあるだろうが、綺が冬樹を心の拠り所にして執着していたせいもあるだろう。

 それが思わぬところで波紋を生み、よりによって冬樹の幸せを奪ってしまったのかと焦ったが。

「別れねぇって」

 冬樹はあっさりと否定した。

「だってオレは、綺がいなくなった理由にガラス瓶の件が関係ないって知ってたし、嫉妬の仕方が過激すぎてビックリしたけど、柚乃がそんだけオレのこと好きなんだってわかって嬉しかったし。だからさ」

 冬樹は少し照れたように笑いながら言った。

「理由はどうあれ、綺がアトリエに帰ってきてくれてよかった」

 そう言った冬樹の大人びた表情は、綺が見たことのないもので。

 彼に守りたいものができたのだなぁと、少し眩しく思った。

 真相を知っても、柚乃に対する怒りは不思議なほどなかった。

 柚乃を嫉妬に駆り立て、冬樹を少し大人にしたのと同じものが、今自分の胸いっぱいに詰まっている。喉元まで上ってきて、描きかけの絵を前にして『これじゃない』と訴え、別の吐け口を求めている。

 真っ白なキャンバスを前に、あぐらを組んで座る。

 両肘を膝の内側につき、組んだ手を額に当て、目を閉じる。

 綺の中にはいつも、夜の窓辺で誰かの帰りを待つ子どもがいる。

 彼を初めて「ご褒美」と言って抱きしめてくれた、温かくて大きな手を、アイスグレーの瞳の優しさを、注いでくれた愛情の心地よさを、綺はきっと一生忘れられはしないだろう。

「玲一さん……」

 名前を口にするだけで体が震えそうになるのに。

 好きだ、なんて、とても言えない。

 だから、筆を取る。







 午後。部活を終えて、帰る前に綺の様子を見ていこうとアトリエに立ち寄った蒼井は、肩透かしを食らったような気がした。

 昨日のように、ファンに囲まれたアイドルよろしく賑やかにやっていると思ったのに、綺は一人だった。

 二日目だし、もう遅い時間だからそんなものかとも思ったが、どことなくアトリエの空気も張り詰めている。

「ね、何かあったの?」

 なんとなく近寄り難くて、入り口近くで絵を描いていた柚乃に尋ねると「うん……」と浮かない声。

「綺、昨日泊まり込みで作業してて、徹夜なんだって」

「ああ、そうなんだ。まぁ、急いでるって言ってたしね」

 そう言われて見れば、着ている服は昨日と一緒だし、目の下にはうっすらとクマができている。だが、そんなことより――

「ちょっ、と、待って……キャンバス大きくなってない!?」

 昨日のキャンバスは五号か六号、一辺が腕の長さ程度に収まるものだったはずだ。だが、今綺が向き合っているキャンバスはどう見ても一辺が一メートル程度、三十号はある。

「昨日、みんなが帰った後に一からやり直したんだって。朝一で来た渡部君が綺からそれ聞いて、昨日自分達が騒ぎ立てたせいで集中できなかったのかもしれないから、今日は話しかけないでおこうって」

「それにしたって、あのサイズを明日までにって……」

 本来数ヶ月かけてもおかしくないサイズだ。記憶にある綺の繊細な画風を思えば、乾くのが速いアクリル絵の具を使い、ドライヤーを駆使して色を重ねても、完成させられるとは思えない。

 それでも、綺本人が完成を諦めていないのは明らかだった。

 少し伸びた黒髪をピンで留め、黒目がちな目が食い入るように筆先を見つめている。

 彼の頭にはしっかりと完成図が出来上がっているのだろう、動きには迷いがない。次から次に美しい色を作っては、そこにその色を置くことが決まっているかのように、手早くキャンバスに足していく。一筆一筆が確実に世界を形作っていく様に、思わず目が吸い寄せられる。

 少し前かがみになった背中が伝えてくるのは、制作への熱意と、脳が焼き切れるような集中力。取り憑かれたような熱い眼差しと、うっすら微笑んでいるようにも見える唇は、綺麗な顔に陶酔したような表情を浮かべる。

 まるで見えない何かに語りかけ、心を通わせようとしているようだ。例えばそう、神様との対話を試みる敬虔な信者のように――そう思った瞬間、蒼井の体にゾクッと震えが走った。

 今の彼を前にして、話しかけないでいようなんて、示し合わせる必要なんかない。

 綺が一度本気で描き始めてしまえば、その世界には、誰も踏み込めない。







 空想の世界では、綺は自由だ。

 筆に絵の具を取りキャンバスに重ねながら。

 綺は羽を生やしたようにフワリと世界を飛び回る。

 綺の中に子どもがいるように、玲一の中にも子どもがいる。

 虚勢を張って平静を装うため、限られた時間でゲームに勝つため、先の見えない廊下を一人背筋を伸ばして歩き続ける少年だ。

 夢で見たその少年の、いっぱいに涙を浮かべた灰色の瞳が、あの夜、嵐に巻き込まれる前に見た、玲一の灰色の瞳と重なる。

 ――その瞳の色を、涙の色を、筆にとって重ねる。

 少年の手を取り、大人になった彼が綺にしてくれたことをなぞるように、心の傷ごと細い体を抱き締める。

 綺の腕の中で、少年は大人になる。

 幼い頃に負った傷をそのままに、優しく微笑みかけてくれる強い男に、今度は逆に抱き締められる。

 ――彼を欲する心のままに筆をふるう。

 本当はずっと側にいたい。

 ありふれたことを語る低い声を聞いていたい。

 朝焼けも、月の満ち欠けも、彼に寄り添って見上げたい。

 アイスグレーの瞳が微笑む相手は、自分だけであってほしい。

 ――世界を焼き落とし生まれ変わらせるような赤を、叩きつけるように激しく。

 ――誘い導き幸せを行き渡らせるような白を、上昇気流が押し上げるように勢いよく。

 子どものように笑い合って。獣のように抱き合って。家のことも、将来のことも、偏見も、不安も、全部忘れて、向けられる微笑みに、同じ微笑みを返したい。

 そうして喉が裂けるほど叫びたい。

 あなたが好きだ、愛していると。







 三日目。

 最初の日に約束した通り、二十一時にアトリエにやってきた冬樹は、驚きのあまりそのままUターンしそうになった。

 綺が絵を描いていたはずの教室の窓辺の隅に、アトリエの生徒達と、見覚えのない外国人と、そしてなぜか兄が立っていたのだ。

 エスパーか、弟専用の高性能センサーが搭載されているとしか思えない杏介は、こちらに背中を向けていたにも関わらず、クルリと振り向いて満面の笑みを浮かべた。

「冬樹! 元気にしてたか~? 兄ちゃんいなくて淋し――」

「黙れ! こんな所で何してんだよ!?」

「何って、綺ちゃんの見送りに決まってんだろ~。こんなカワイイ子を一人でフランスに帰すのも心配だから、付いて行って送り狼になろうかと。でもそうすると今度、カワイイ弟が寂しくて泣いちゃうからどうしたもんかな~、って悩んでたところだよ」

「兄貴も元気そうで何よりだ。取りあえず死ね」

 そういえば綺はこの男の家に泊まっていたのだった。帰国中のスケジュールも、ここで何をしていたのかも知っているのだろう。

 だが、久しぶりの再会を喜んでいる時間はない。綺は三十分後に最寄駅を出る電車に乗らなければ、帰りの飛行機に間に合わない。

 両手を広げて抱擁を求めてくる杏介を容赦なく突き飛ばして、綺の元へ向かうが――

「あっ、れ……?」

 綺はイーゼルの前で、床に丸くなって眠っていた。

「ついさっき描き終わって、すぐ寝ちゃったのよ」

 傍にしゃがみ込んでいた柚乃が立ち上がる。

 綺を見つめ、呆れたような笑みを浮かべる。

「あの集中力で二徹だもん。驚異」

「完成したのか?」

「驚異」

 頷きながら同じ言葉を繰り返して、目でイーゼルを指す。

 アトリエの生徒達がなぜか遠巻きに眺めている絵を見て、冬樹は一瞬呆気にとられ、そして爆笑した。

「こんなんつっかえてたら、そりゃ悶えもするわ!」







 いつもと変わらない朝だった。

 いつもと同じ時間に起きて、いつもと同じように身支度をし、けれど、いつもならメールチェックをする時間を削って、だいぶ早い時間にマンションを出た。

 今日、本業の方は有休を取ってある。

 向かう先はRATソリューションズだ。

 呼んでおいたタクシーに乗ってからメールチェック。

 毎日百通以上届くメールへの対応は、基本的には秘書に任せてある。彼女が対応できずに玲一の元まで回ってくるメールはそれほど多くなく、余った時間で取引先の重役が寄稿している雑誌の記事に目を通す。

 会社に着くと正面の車寄せでタクシーを降りた。

 ビルに入っている会社はRATソリューションズだけではないが、さすがにこの時間は人気がない。無人のロビーを突っ切ってエレベーターに乗り最上階へ向かう。

 入館証を兼ねた社員証を取り出しながら、オフィスの入口へ。

 ドアの脇にある端末に社員証を翳し、微かな電子音を聞いて、ドアを開ける。

 応接ブースを横目に、奥にある副社長室へ向かう――違和感に立ち止まった。

(なんだ……)

 五感のどれかに何かが引っかかった。

 だが、それが何なのかわからない。

 昭和の頃にアール・デコを意識して建てられたこのビルは、外観はあっさりしているが、一歩中に入ればガラリと印象が変わる。

 共有部分は、真珠を連ねた耳飾りのような照明と、色のないステンドグラスからの自然光が、モザイクタイルに柔らかな光を落とし、螺旋を描く階段はロートアイアンの手摺りが描く直線との対比が美しい。

 RATソリューションズのオフィスは、入居の際、デザインをビルの共有部に合わせてリフォームしてあり、照明も一般的なオフィスに比べると少し落としてある。

 見慣れた景色にじっと目を凝らしていた玲一は、あるものに気付いた瞬間、ドスンと心臓を一突きされた――そんな衝撃に動けなくなった。

 心臓を貫いたのは、応接ブースに何枚か飾られた絵の内の一枚。

 一メートル四方はありそうな大きな絵だった。

 描かれているのは月下の世界。

 画面上部の中央に、眩く輝く、大きな白銀の月。

 画面下部には暗い海が覗き、そこに月の光が、見ている人間を絵の中に導くように、星屑をばらまいたような煌めく道を作っている。

 道の先の地平線からは、画面のほとんどを占めるような大きな雲が、竜巻のようにうねりながら月へ向かって昇っていた。

 空は朝焼け。

 ハッ、と、自分の口から息が漏れるのを、玲一は聞いた。

 物理的に胸を突かれたのでもないのに、息ができない。

 描かれた色彩を、玲一は知っていた。

 心をざわつかせる始まりの金朱。

 何もかもを燃え上がらせるような情熱的な赤。

 焼け落ちそうな空をそっと宥めるようなバラ色。

 朝を迎え入れ受け止めようとするような優しい藤色。

 そして最後に訪れる、日常を象徴するような夏空の青。

 その凄まじいグラデーションが、空全体と雲の右側に映り込んでいる。そして雲の左側は、朝焼けの極彩色さえ白く飛ばしてしまうほどの、煌々とした月光に照らされていた。

 雲のうねりと相まって、朝焼けと月光は、無邪気に手を取り合ってクルクルと踊っているようにも、淫らに絡み合って溶け合おうとしているようにも見えた。二者の向かう先には眩い月。

 美しく壮大な自然の風景なのに、宗教画を前にしたように救いを感じ、同時に、愛欲を見せ付けられたように興奮を覚えるのは、見ている自分がおかしいのだろうか。

 心をそっと揺さぶられ、冷え切った体の奥底で、確かに殺したはずの温かいものが目を覚ます。よく知る腕に抱きしめられているような深い安堵の中、実際には一度も聞いたことのないセリフを、耳元に囁かれているような気持ちにさせられる。



「     」



(なんだ、これ……)

 目を奪われる。

 ハッ、ハッ、とみっともなく息を乱す。

 氷が溶けて露をまとうように、アイスグレーの瞳に涙が滲む。

 ピッ。

 覚えのある電子音に、弾かれたように振り返る。

 黒崎だった。

 やっぱり、いるはずがない。

 渇望に震えながら、目線を戻す。

「……っ……これは?」

 喘ぐように息をしながら、背後に問う。 

「『αシリーズ』の最新作です。緒月さんがあなたに、と」

「なぜっ……こんな所に……?」

 滲んだ涙が、ツと一筋、頰を伝う。

 頬を伝った涙が、顎先から、ポタリ、ポタリ、とタイルに落ちる。

「あなたの心が求めているのなら、きっとどこにあっても目に留まるだろうと。一日飾って気付かれないようなら、廃棄してほしいと言われていました」

 廃棄、という単語を口にされただけで、黒崎がそうしようとしたわけでもないというのに、彼につかみかかりそうになる。

(綺……)

 一年前は、祖父への復讐と天秤にかけて追いかけもしなかった。

 数日前は、確かにこの腕でボロボロに抱いて突き放した。

 なのに、どうして、彼はこんな絵が描けたのだろう。

(綺……)

 幸せになれと言う。

 こんなに明解なメッセージを持った絵を贈ってくる。

 自分は決して玲一の思いを受け入れないのに。

 玲一のものにはならないのに。

(欲しい……)

 ハッ、と一際大きく息が漏れる。

 ただ狂おしく絵を見つめる。

(綺が、欲しい……)

 玲一は少し上向いて目を閉じ、やがてゆっくりと息を吐いた。

 旅人が、肩に背負い続けた荷を降ろし、歩んできた長い旅路に思いを馳せながら吐くような、深く、重い、息だった。

「黒崎さん」

 目を開き、手の甲で涙を拭う。

 嬉しそうに輝くアイスグレーの双眸が、黒崎を捉えた。

「綺は、今どこに?」

「一昨日の便でフランスに戻られました。それと、この絵を搬入してくださった緒月さんのご友人が、もしあなたがこの絵にお気付きになったら、これを渡してほしいと。そのご友人も、別の方から託されたそうですが」

 黒崎が差し出したのは、一片の白い紙切れ。

 半分に折られたそれを、そっと開く。

 中にはフランス語で、一件の住所と一言のメッセージ。

『ハッピーエンド以外お断り』

 先日杏介と一緒にやってきた少年の、ケラケラ笑う顔が浮かんだ。

「出かけてきます」

「玲一さん」

 踵を返した玲一を、黒崎が呼び止める。

「車寄せにタクシーを呼んであります」

「えっ……」

「それと十時発の便を抑えてあります。詳細を後ほど携帯にお送りしますので、ご確認ください」

 まじまじと、いつの間にか十年来の付き合いになっていた男を見つめると、彼はフッと頰を緩めた。

「私にできることがあれば尽力させていただきますと、申し上げました」

 いつか聞いたセリフ。

 玲一は驚き、そして破顔した。

 その笑みに、黒崎が僅かに目を見張る。

「感謝します。あっ、それと、この絵は外しておいてもらえますか? 誰にも見せたくない……」

 黒崎は恭しく会釈した。

「かしこまりました。行ってらっしゃいませ」
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