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後編
絵描きの恋
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芸大に、芸術の秋も何もない。
芹澤芸術大学、油画専攻の四年生が使う某アトリエでは、いつもと変わらない静けさの中で、十人ほどの生徒が粛々と、それぞれの作品に向き合っていた。
その静けさを、そっと遠慮がちに破る声があった。
「お邪魔します」
アトリエは出入り自由だ。みんな好きな時間に来て、好きなだけ描いて帰る。わざわざ「お邪魔します」なんて言うのは、生徒でも教授でもない証拠。
何者かと顔を上げた生徒達は、皆一様に驚きの表情を浮かべた。
そこにいたのは一人の青年。
艶やかな黒髪を乱して、白い頰を真っ赤にして、彼はなぜか息を切らして立っていた。背中にはリュックサック、右手には真っ白なキャンバス、左手には学内の画材屋の大きな紙袋を提げて。
「綺!?」
福田柚乃が悲鳴のような声を上げる。
このアトリエを使っているのは宮里教授に師事する生徒だ。三年次からメンバーはほとんど変わっておらず、そうでなくとも生徒はみんな彼を鮮烈に記憶していた。
緒月綺。
去年の夏。制作の道具を何者かに壊されて激昂し、キャンバスをパレットナイフで突き破って何かに憑かれたように絵を描き上げ、夏休みの後姿を消してしまった、かつてのアトリエの住人。
彼の劇的な去り際は、学科内で伝説になっていた。
「すみません、これから三日間、間借りさせてもらうことになりました。宮里教授には了承いただいてて、ご迷惑をおかけしないように気を付けますので……よろしくお願いします」
肩で息をしながら、深々と頭を下げる。
申し訳なさそうな言葉や姿勢とは別に、その声や表情にはひどく切迫した雰囲気があった。頭の中であの伝説と結びついて、生徒達は気圧され、誰も何も言えなくなる。
「間借りって?」
自身も綺の雰囲気に飲まれながら、いつまでも続く沈黙を不憫に思って、蒼井遥は立ち上がった。
アトリエ内に、綺が特別親しく付き合っている友人はいなかったが、比較的言葉を交わしていたのが蒼井だった。
綺は頭を上げ、ホッとしたように微笑んだ。
「ごめん、どうしても一枚、描きたい絵があって」
「三日で?」
「三日で」
なら、切迫した雰囲気は時間に追われているせいだろうか。公募の締め切り間際でも、一切取り乱すことのなかった彼が?
違う、と内心首を振る。
何かよほどの事情があるのだ。
蒼井は綺の手から紙袋を取り上げた。
「先生の許可が下りてるなら好きにすればいいんじゃない。急ぐんでしょ? 空いてるとこどこでもいい?」
「ありがとう、蒼井さん。うん、できるだけみんなの邪魔にならない所で」
「そうね……」
言いながら、蒼井の目は自然と窓際の隅――かつて緒月がいた場所を見てしまう。そこには今、四年生になってからこのアトリエに入ってきた男子生徒が陣取っていたが。
「ごめん。ちょっとどいてくれる?」
顎でクイッ隣を指すと、彼は「おう」と気まずそうに頷いて、いそいそと移動を始めた。空いたばかりの場所を指す。
「ここなんてどう?」
「いや、それはさすがに……」
あんまりな態度だと思ったのだろう、戸惑う綺に、近付いてきた柚乃がキャンバスを取り上げながら「蒼井さんの元カレなのよ。すごいダメンズでね……」と耳打ちする。
それ以上余計なことを吹き込ませまいと、蒼井は柚乃に鋭い一瞥を送った。何があったかは推して知るべし、だ。
「すみません、場所譲ってもらっちゃって……」
「気にしなくていいのよ」
恐縮して元カレに頭を下げる綺に、蒼井は彼に代わってにっこり言ってやる。
綺は困り切った顔で二人を見て「ありがとう」と口にした。
懐かしいオイルの匂いを胸に吸い込みながら、アトリエにイーゼルを立て、真新しい画材をザラザラと並べていく。それが使い慣れた油絵の具ではなく、アクリル絵の具だというのが、ひどく奇妙な感じだ。
アクリル絵の具は予備校の授業でよく使っていたし、油絵の具のように匂いを気にしなくていいからステュディオでも使っていたが、まだまだ使いこなせるというレベルではない。
だが、許された制作日数はたった三日。
正確には二日と半日。
油絵の具は乾くのを待たなければ色を重ねられない。乾くのにかかる時間は、どんなに薄く塗っても一日、厚塗りすれば半年待っても乾かない以上、油画は諦めざるをえなかった。
水彩画や版画では勝手が違いすぎる。消去法でアクリル画に決めたが、アクリル画にしたって、そう描き込めるほどの時間はない。
それでも――
(描き上げる)
床に置いた真っ白なキャンバスを前に、綺は強く決意する。
自分はもう玲一といることはできないけれど、玲一が心から恐れていることを知り、玲一の一番弱い部分に触れたのは、恐らく自分だけだ。
玲一の復讐がどんな結末を迎えたとしても、その後何度心を殺さなければならない局面があったとしても、傷ついた心を癒し蘇らせる。何があったって玲一は玲一で、決して支倉燿隆と同じにはならない――そう伝えられる絵を描きたかった。
そうして、幼い彼は母親を救えなかったけれど、成長した彼は一人の画家を立派に救ったのだと、もう自分を責めなくていいのだと、絵を通して彼を抱きしめたい。
そう。
自分にできることなど、結局絵を描くことくらいしかない。
だけど、こんなことができるのも自分しかいないに違いない。
玲一に救われ絵の道を歩き始めた自分が、自分の描いた絵で少しでも彼の力になれるなら、これ以上に名誉で幸せなこと、あるはずがない。
白石商事のロビーは今、騒然となっていた。
警備員が珍妙な二人組を相手に揉めているのだ。
「騒ぐな! 黙ってこっちへ来なさい!」
「いいからさっさと呼び出せよ!」
「いい加減にしろ! 警察に引き渡すぞ!」
「るせぇ! ……ったく、さっさと出ろつーんだ、クソが!」
オレンジの髪にエメラルドグリーンの目というド派手な配色の青年が、携帯を耳に当てて悪態をつく後ろで、輝くような金髪に灰色の目をした外国人の少年が、不機嫌丸出しで腕組みして立っている。
「すみません、私の知り合いです」
息を切らせてロビーに現れた男が、そう言って警備員の肩に手をかけた瞬間。
ドスッ。
電光石火。鈍い音がロビーに響き、場が静まり返る。
一瞬の後、ワッと押しかけた警備員を手で制したのは、殴られた腹に手を当て顔を歪めた玲一だった。
受け身を取るのが間に合ったとはいえ、杏介の渾身の一撃は、玲一から声を奪っていた。騒ぎを聞きつけて集まってきた社員の手前、膝を付かなかったのは彼の意地だろう。
「殴られた理由はわかってるな!?」
杏介は怒りに体を震わせて唸った。
玲一を睨み付ける緑の目がギラリと燃え上がる。
「あんなことさせるために綺ちゃんを呼んだんじゃねぇ!!」
「呼べ、なんて……誰が言った……」
玲一が静かな声で呟いた。
氷の目が杏介を射る。
「バカなことを……」
「バカはテメェだ! 自分を捨て駒にしやがって!」
「ハナから、余裕のあるゲームじゃない」
「それでもゲームはゲームだろうが!?」
「そうだ。たかがゲームだ。だから、嫌なら降りればいい」
「ああ、そうかよ! こんな胸糞悪いゲーム、もううんざりだ!」
杏介が力一杯吐き捨てて、ロビーを出て行く。
その背中を見送りながら、ラファエルは玲一に歩み寄った。
『初めまして、王子様。フランス語通じるといいんだけど……』
ここに来るまで、玲一に会ったらどんな言葉を投げつけてやろうかと、携帯の翻訳機能にありとあらゆる罵詈雑言を入力しておいたが、杏介の痛快な一撃でなんだか気が削がれてしまった。
携帯越しの会話も面倒だし、もし通じないようなら引き上げるつもりで尋ねたのだが。
『なんだ?』
玲一が短く応えた。
『ああ、わかる? よかった』
到底自分と似ているとは思えない、冷たいアイスグレーの瞳を見上げる。
こちらに対して何者かと問うほどの興味さえ持たない、無感情な視線を、ラファエルは少しゾッとしながら受け止めた。
『聞かせて。一年前、なんでアヤを追いかけなかったの?』
過去を知っていることをチラつかせても玲一は瞬き一つしない。
『一年ぶりの再会で、誰にも取られたくないって叫ぶみたいに全身跡だらけにするくらい執着してるくせに、一回フラれただけで、追いかけて口説くこともしないでいられたなんて、あんたの理性どうなってんの? それとも壊れてんのはむしろ本能の方?』
挑発するように言っても、玲一は眉一つ動かさない。
やれやれ、とラファエルは肩を竦めて見せた。
『オレもあんたと似たような家に生まれたから、あんたの立場ちょっとは理解できるし、あんたがどんだけ重い荷物背負って生きてきたんだろうって思うとゾッとする。それでもさ……恋に落ちたときくらい、それ全部捨ててもよかったんじゃないの?』
異国の言葉で一方的な会話を続ける二人を、大勢の社員が固唾を飲んで見守っている。中にはフランス語を解する人がいるかもしれないが、これだけざわついた中では聞き取れやしないだろう。
ラファエルは人の輪に息苦しさを覚えて、小さく鼻を鳴らした。
『アヤは、あんたとすごした日々が人生で一番幸せだったって言ってた。思い出すたび辛くても、その辛さはあんたとすごした日々が夢じゃなかった証だからって、オレに慰めさせもしなかった。それほど幸せな日々から逃げ出してきちゃうくらい、どうしようもなくバカで臆病だけどさ……たぶん、本当は繋がれたがってる。優しく迎え入れてロープを渡してくれる、居心地のいい港を欲しがってるんだよ』
少し伸び上がって、玲一の耳元に囁く。
『オレ、ドックになって、あんたの付けた傷、全部消しちゃうよ?』
玲一は冷ややかな視線でラファエルを見つめ、小さく頷いた。
『ああ。好きにすればいい』
そしてロビーの奥へ消えていった。
その後ろ姿を、ラファエルは少し意外に思いながら見送った。
(あいつ、最後まで聞いてたな……)
時間の無駄と中断するでもなく、煩わしいとはね除けるでもなく、見知らぬ少年の声に最後まで耳を傾けた。
言葉はなくとも、そのこと自体に彼の意思が現れているように思えて、ラファエルは唇の端に笑みを浮かべた。
「話しかけていい?」
慣れた手つきでキャンバスに下地を塗り、床にあぐらをかいて乾くのを待ちながらスケッチブックに鉛筆を走らせている綺に、隣で描いていた蒼井はそっと小声で尋ねた。
「あ、うん、大丈夫。むしろそうしてくれると助かるかも」
「助かる?」
「なんか緊張して、手が震えちゃって……」
鉛筆を持ったまま、綺が両手を持ち上げて苦笑する。
スケッチブックを覗き込んでも線にブレがあるようには見えなかったが、その指先を握ると「わっ」と声に出してしまうほど冷たかった。
「なんでそんな緊張してるの? 公募か何かに応募するの?」
「まさか。個人的に贈りたい人がいて」
「もしかして、また?」
「またって?」
「去年の夏休みも、好きな人の気を引くためだけに絵を描いてたんだって言ってた。不純な動機を神様に叱られた気がした、って殊勝なことも言ってたけど?」
「あぁ、そういえば、そんなこと言ったか。よく覚えてるね」
「だって緒月君、あの後休学しちゃったから……何かあったんじゃないかって、自分の知ってること、いろいろ思い返したり考えたりしちゃったのよ」
「ごめんね。でも今は違うし、今回の絵は特別なものだから、きっと神様も叱ったりしないで許してくれると思うんだ」
綺はやっぱり殊勝なことを言う、と思う。
だが、歴史を振り返っても、愛を表現したり、愛を伝えるための絵を描いたりした巨匠はたくさんいる。彼らを、神様は叱ってきただろうか。否。
「好きな人のために描くことを咎める存在がいるとしたら、それって神様じゃなく、人間なんじゃないかと思う。描き手自身や、描き手を取り巻く人間の、愛への懊悩がそうさせるんじゃないかって……わたし、綺が愛を描く人でもいいと思う」
「蒼井さん……」
綺が驚いたようにこちらを見る。
自分が口にしたことが急に恥ずかしくなって、蒼井が言い訳を口にしようとしたときだった。
不意に、バタバタと廊下を駆ける足音がして、二人はハッとした顔を見合わせた。足音は瞬く間に近付いてきて、アトリエの前でピタリと止まり、入口に栗色の髪の青年が姿を現す。
「冬樹!」
綺が抑えた声で叫び、立ち上がる。
それに応えるように、冬樹は少し甘い顔立ちをクシャッと歪めて駆け寄ってきて、二人はギュッと抱き合った。
「お帰り!」
「ただいま、冬樹! 帰ってきちゃった。会ったら気持ちが揺らぎそうだから、連絡しないつもりだったんだけど……」
「おいおい、落ち着いたら連絡するって言ってたのに、いっこうに連絡よこさなかったのもそのせいかよ!? お前今までどこで何してたの?」
熱い抱擁を交わしながらのセリフに驚いたのは、蒼井だけではないだろう。
綺は影で『アトリエの住人』と揶揄されるほどアトリエに入り浸っていたものの、人付き合いがいいとは言い難く、アトリエ内に親しい付き合いのある生徒はいなかった。
そんな綺が唯一心を許していたのが、彼の高校からの親友だという、この工芸学科の生徒――紺野冬樹。
冬樹は時々ふらりとアトリエにやってきては、綺とたわいもない話をしたり、絵を描く綺の横で工芸学科の課題をしたりと、自由にすごして帰っていった。その自然体でありながら近すぎる距離感に、二人が付き合っているんじゃないかという噂もあったほどだ。
そんな冬樹にも何も知らされていなかったとは、いったいどういうことなのか。
「ごめん、僕もあっちに慣れるのに必死で……」
「あっちって?」
「フランス」
「「フランス!?」」
蒼井と冬樹の声が重なる。
同時に、バッと他の生徒たちの視線が集まった。小声で話していたが、アトリエ中の耳がこちらの会話にそばだてられていたのは間違いない。
そもそも、それほど広いわけでもないアトリエで誰にも聞かれずに会話するなど不可能だし、何より綺は伝説の人物。突然現れて、息をつく間もなく制作を始めたから誰も話しかけられなかったが、本当はみんな取り囲んで質問責めにしたいはずなのだ。
「えっ、じゃ今フランスにいんの? 綺、フランス語なんかできたっけ?」
「全然。だから最初の一年は語学学校に通って、この秋からやっと絵の勉強を……。今はバカンスで帰国してるんだけど、四日後には学校が始まるから、三日後には日本を出ないといけなくて」
そう言いながら時間が差し迫っていることを思い出したのか、キャンバスに塗った下地に触れ、乾き具合を確認する。
「はぁ……すごいな、絵の勉強するのに語学習得するところから始めなくちゃいけないとか、オレだったら絶対心が折れてる。そんで綺がアクリル使ってんのも不思議。画材持ってきてたの?」
「全然すごくないんだよ、ただの行き当たりばったりで。画材はさっき一通り買ってきた」
「こっちも行き当たりばったりなのね。何か手伝えることある? 時間ないんでしょ? 遠慮しないでよ?」
「ありがとう、でも蒼井さんだって卒制で忙しいだろう? あっ、でも、冬樹には手伝ってもらいたいことがあって連絡したんだった」
乾きが十分だと判断したのだろう。アクリル絵の具のセットから手早くチューブを選び出していた綺がハッと顔を上げて、ジャケットのポケットから携帯を取り出す。
「いや、オレも卒制が……」
もったいぶるように言った冬樹に、綺が携帯を操作しながらフッと笑う。
「先週、卒業旅行なんていって彼女とお泊りデートしてたくらいだから、余裕あるだろう?」
「えっ! なんで知ってんの!?」
冬樹がバッと振り返る。
そこにいた柚乃が、自分じゃないと、ブンブン首を振った。
「杏介さん情報だよ。今朝まで杏介さんの家に泊めてもらってたから」
「なんであいつん家!? ってか大丈夫なのか!? 食われてねぇ!?」
「大丈夫、味見程度だよ」
「それ大丈夫じゃないよな!?」
「冬樹、三日後以降で空いてる日に、この絵を搬入してほしいんだ。僕は立ち会えないけど、もう一人協力してくれる人がいるから、その人と一緒に。今詳細と連絡先送った」
杏介とは誰なのか。
食われるとは、味見とはどういうことなのか。
人に贈ると言っていたのに、搬入とはどういうことなのか。
聞きたいことがどんどん増えていくが、綺と冬樹が打ち合わせを始めてしまったので、蒼井はまぁいいかと質問を諦めて二人を眺めた。
この場所から、綺と冬樹が話しているのを聞くともなしに聞いていると、なんだか一年前に戻ったようで胸が締めつけられる。
この光景が見られるのは、わずか三日だけ。
果たして綺はどんな絵を描くのだろう。
芹澤芸大の学園祭には毎年足を運んでいたが、イベント事以外で来るのは、玲一に誘われて来た日以来二度目だ。
油画専攻の学生が使う校舎に辿り着いたはいいが、片っ端から教室を覗いて綺を探すのは面倒だなぁ、と杏介が入り口で足を止めていると、目の前を弟が駆け抜けていった。
冬樹は目をキラキラさせながら、なぜかドライヤーを手に階段を駆け上がっていく。これはもう見つけたも同然、と追いかけていった先に、予想通り綺がいた。
「綺、借りてきたぞ」
「えっ、本当に? ありがとう!」
だだっ広い白い箱のような教室の、窓際の隅に彼はいた。
冬樹から満面の笑みでドライヤーを受け取って、早速イーゼルに立てかけたキャンバスに風を当てる。どうやら絵の具を乾かしているらしい。
「速っ! 文明の利器最高!」
そう言ってはしゃぐ姿は、とても一昨日の夜、玲一に無残に散らされたようには見えなかった。
一瞬ラファエルに騙されたのかとさえ思ったが、注意深く見れば、不自然な点はいくつもあった。
空港ではゆるりと巻いていたストールを、空調の効いた室内でグルグル巻きつけていること。意識しているのか無意識なのか、誰かが後ろから絵を覗き込もうとすると、背後を取られるのを避けるように体の向きを変えること。側にスツールがあるのに、決して座ろうとしないこと。
力尽くで傷付けられた心と体を押して描こうとしている。
それはきっと、自身を傷付けた男のためで。
「なんで、そこまで……」
廊下にしゃがみ込み、両手で顔を覆う。
綺の報告の通りなら、玲一に傷付けられたその翌日に、彼はボロボロの体を引きずって燿隆の元へ向かったのだ。今朝だって玲一にされたことには一言も触れず、それどころか玲一のためにまだ打てる手はあると真剣な目で話していた。
すべて、すべて、あんな男のために。
ふと気配を感じて顔を上げると、廊下の向こうから見覚えのある金髪の少年がやってくる。
彼は杏介のような幸運には恵まれなかったらしい。息を切らしながら教室の中を覗いて、フッと笑みを浮かべると、杏介の隣にズルズルと座り込んだ。携帯を操作して、翻訳アプリの画面を突きつけてくる。
『私を置き去りにするのはひどい』
「……悪かったな」
グチャグチャと金髪の頭を掻き回す。
頭に血が上っていたのだ。一刻も早く綺の様子を確認したくて、白石商事を出たその足でここに来た。右も左も分からない異国の少年を置き去りにしてしまったことは、素直に申し訳ないと思う。
「よく辿り着けたな」
杏介の携帯にも翻訳アプリはデフォルトでインストールされていたはずだが、使うのは面倒だ。ニュアンスだけでも伝わればいいやと日本語で呟いたが、どうやらニュアンスさえ伝わらなかったらしい。
次に向けられた画面には、噛み合わない文章。
『私はそのような愛を持ったことがない』
(なんだそれ……)
だがまぁ、今の状況と翻訳機能のクセを考慮すれば、なんとなくわかる気もする。あんな恋はしたことがない、とでも言いたいのだろう。
そうだな、と頷いた。
あんな恋、したことがない。
したことがないから、まるで恋ではなく狂気の沙汰に思える。
それでも、あんな男のどこがいいんだ、とは思い切れなかった。
魅力のない男なら、十年も親友なんてやっていない。
玲一と出会ったのは高校生の頃だ。
当時の杏介は、高校の入学祝いに買い与えられたパソコンにのめりこみ、ハッキング行為に夢中になっていた。
出会ってしばらくして、ゲームを持ちかけられたとき、その実態が復讐であることに驚いたし、白桜のトップを失脚させるなんてできるはずがないと思った。
それでも協力すると誓ってしまったのは、自分の能力を発揮できるのが嬉しかったから。そして何より、杏介にとって玲一はとんでもなくかっこいいヒーローで、彼の隣に立てることが誇らしかったからだ。
地元で知らない人はいない名門私立高校の生徒会長。整った容姿に品のある立ち居振舞い。どんな相手にも物怖じせず、どんな状況でも取り乱さない度胸。何もかも杏介とは真逆。
こんな男がいるものなのかと、同世代ながら尊敬を通り越して畏怖を覚えるほどだったが、彼の根底には優しさがあった。
出会ってすぐの頃、タチの悪い大人に捕まっていたところを、玲一に助けられた。助けた理由を、駒として使えると思ったからだと言ったが、自分という駒の価値が、彼の犯したリスクの大きさに見合わないことは、杏介が一番よくわかっていた。
非情に徹し切れないところに人間臭さを感じ、好感を持った。
あれから十年。
ゲームの盤面は少しずつ、けれど確実に勝ちに傾いていた。
その裏で、玲一は極限まで自分を追い込んでいるように見えた。
時間に対する病的なまでのストイックさ。自身に課すハードルの高さ。やるべきことに優先順位をつけ、計画通りに淡々とクリアしていく努力の姿勢など、杏介が真似ようとしたら発狂してしまうだろう。
わかっている。ハナから余裕のあるゲームじゃない。
そんな中で玲一は綺を救い、恋に落ち、おそらく今も――
綺を傷付けた理由はわからないが、あの男本来の優しさを思えば、きっと心が捻れるような苦しみを伴っただろう。
だが、どんな理由があったとしても、玲一が綺に対してしたことは人として最低だ。絶対に許せない。
『お前、英語できんの?』
ふと思いついて、杏介はラファエルに英語で尋ねる。
少年は「あっ!」と言うように目を見張った。
『少しね。上手くないけど』
『上手くないのはお互い様だ。翻訳アプリよりゃいい』
『早く気付けばよかった。あ、さっきのあんたカッコよかったよ』
『そりゃどうも』
苦笑して杏介は立ち上がる。
教室の入り口から顔を覗かせて、綺と冬樹を眺め、
『調査に戻るわ。お前どうする?』
ラファエルを見下ろすと、彼は『観光』と親指を立てた。
『疲れたらあんたの家戻っていい?』
いいけど泊めないぞ、と言いかけて、相手が未成年だということを思い出す。見た目は綺や冬樹と変わらないのに、これで十代だなんて、外国の子どもは恐ろしい。
『しゃーねーな。迷子なんなよ』
杏介はラファエルにひらりと手を振って、賑やかな教室を後にした。
芹澤芸術大学、油画専攻の四年生が使う某アトリエでは、いつもと変わらない静けさの中で、十人ほどの生徒が粛々と、それぞれの作品に向き合っていた。
その静けさを、そっと遠慮がちに破る声があった。
「お邪魔します」
アトリエは出入り自由だ。みんな好きな時間に来て、好きなだけ描いて帰る。わざわざ「お邪魔します」なんて言うのは、生徒でも教授でもない証拠。
何者かと顔を上げた生徒達は、皆一様に驚きの表情を浮かべた。
そこにいたのは一人の青年。
艶やかな黒髪を乱して、白い頰を真っ赤にして、彼はなぜか息を切らして立っていた。背中にはリュックサック、右手には真っ白なキャンバス、左手には学内の画材屋の大きな紙袋を提げて。
「綺!?」
福田柚乃が悲鳴のような声を上げる。
このアトリエを使っているのは宮里教授に師事する生徒だ。三年次からメンバーはほとんど変わっておらず、そうでなくとも生徒はみんな彼を鮮烈に記憶していた。
緒月綺。
去年の夏。制作の道具を何者かに壊されて激昂し、キャンバスをパレットナイフで突き破って何かに憑かれたように絵を描き上げ、夏休みの後姿を消してしまった、かつてのアトリエの住人。
彼の劇的な去り際は、学科内で伝説になっていた。
「すみません、これから三日間、間借りさせてもらうことになりました。宮里教授には了承いただいてて、ご迷惑をおかけしないように気を付けますので……よろしくお願いします」
肩で息をしながら、深々と頭を下げる。
申し訳なさそうな言葉や姿勢とは別に、その声や表情にはひどく切迫した雰囲気があった。頭の中であの伝説と結びついて、生徒達は気圧され、誰も何も言えなくなる。
「間借りって?」
自身も綺の雰囲気に飲まれながら、いつまでも続く沈黙を不憫に思って、蒼井遥は立ち上がった。
アトリエ内に、綺が特別親しく付き合っている友人はいなかったが、比較的言葉を交わしていたのが蒼井だった。
綺は頭を上げ、ホッとしたように微笑んだ。
「ごめん、どうしても一枚、描きたい絵があって」
「三日で?」
「三日で」
なら、切迫した雰囲気は時間に追われているせいだろうか。公募の締め切り間際でも、一切取り乱すことのなかった彼が?
違う、と内心首を振る。
何かよほどの事情があるのだ。
蒼井は綺の手から紙袋を取り上げた。
「先生の許可が下りてるなら好きにすればいいんじゃない。急ぐんでしょ? 空いてるとこどこでもいい?」
「ありがとう、蒼井さん。うん、できるだけみんなの邪魔にならない所で」
「そうね……」
言いながら、蒼井の目は自然と窓際の隅――かつて緒月がいた場所を見てしまう。そこには今、四年生になってからこのアトリエに入ってきた男子生徒が陣取っていたが。
「ごめん。ちょっとどいてくれる?」
顎でクイッ隣を指すと、彼は「おう」と気まずそうに頷いて、いそいそと移動を始めた。空いたばかりの場所を指す。
「ここなんてどう?」
「いや、それはさすがに……」
あんまりな態度だと思ったのだろう、戸惑う綺に、近付いてきた柚乃がキャンバスを取り上げながら「蒼井さんの元カレなのよ。すごいダメンズでね……」と耳打ちする。
それ以上余計なことを吹き込ませまいと、蒼井は柚乃に鋭い一瞥を送った。何があったかは推して知るべし、だ。
「すみません、場所譲ってもらっちゃって……」
「気にしなくていいのよ」
恐縮して元カレに頭を下げる綺に、蒼井は彼に代わってにっこり言ってやる。
綺は困り切った顔で二人を見て「ありがとう」と口にした。
懐かしいオイルの匂いを胸に吸い込みながら、アトリエにイーゼルを立て、真新しい画材をザラザラと並べていく。それが使い慣れた油絵の具ではなく、アクリル絵の具だというのが、ひどく奇妙な感じだ。
アクリル絵の具は予備校の授業でよく使っていたし、油絵の具のように匂いを気にしなくていいからステュディオでも使っていたが、まだまだ使いこなせるというレベルではない。
だが、許された制作日数はたった三日。
正確には二日と半日。
油絵の具は乾くのを待たなければ色を重ねられない。乾くのにかかる時間は、どんなに薄く塗っても一日、厚塗りすれば半年待っても乾かない以上、油画は諦めざるをえなかった。
水彩画や版画では勝手が違いすぎる。消去法でアクリル画に決めたが、アクリル画にしたって、そう描き込めるほどの時間はない。
それでも――
(描き上げる)
床に置いた真っ白なキャンバスを前に、綺は強く決意する。
自分はもう玲一といることはできないけれど、玲一が心から恐れていることを知り、玲一の一番弱い部分に触れたのは、恐らく自分だけだ。
玲一の復讐がどんな結末を迎えたとしても、その後何度心を殺さなければならない局面があったとしても、傷ついた心を癒し蘇らせる。何があったって玲一は玲一で、決して支倉燿隆と同じにはならない――そう伝えられる絵を描きたかった。
そうして、幼い彼は母親を救えなかったけれど、成長した彼は一人の画家を立派に救ったのだと、もう自分を責めなくていいのだと、絵を通して彼を抱きしめたい。
そう。
自分にできることなど、結局絵を描くことくらいしかない。
だけど、こんなことができるのも自分しかいないに違いない。
玲一に救われ絵の道を歩き始めた自分が、自分の描いた絵で少しでも彼の力になれるなら、これ以上に名誉で幸せなこと、あるはずがない。
白石商事のロビーは今、騒然となっていた。
警備員が珍妙な二人組を相手に揉めているのだ。
「騒ぐな! 黙ってこっちへ来なさい!」
「いいからさっさと呼び出せよ!」
「いい加減にしろ! 警察に引き渡すぞ!」
「るせぇ! ……ったく、さっさと出ろつーんだ、クソが!」
オレンジの髪にエメラルドグリーンの目というド派手な配色の青年が、携帯を耳に当てて悪態をつく後ろで、輝くような金髪に灰色の目をした外国人の少年が、不機嫌丸出しで腕組みして立っている。
「すみません、私の知り合いです」
息を切らせてロビーに現れた男が、そう言って警備員の肩に手をかけた瞬間。
ドスッ。
電光石火。鈍い音がロビーに響き、場が静まり返る。
一瞬の後、ワッと押しかけた警備員を手で制したのは、殴られた腹に手を当て顔を歪めた玲一だった。
受け身を取るのが間に合ったとはいえ、杏介の渾身の一撃は、玲一から声を奪っていた。騒ぎを聞きつけて集まってきた社員の手前、膝を付かなかったのは彼の意地だろう。
「殴られた理由はわかってるな!?」
杏介は怒りに体を震わせて唸った。
玲一を睨み付ける緑の目がギラリと燃え上がる。
「あんなことさせるために綺ちゃんを呼んだんじゃねぇ!!」
「呼べ、なんて……誰が言った……」
玲一が静かな声で呟いた。
氷の目が杏介を射る。
「バカなことを……」
「バカはテメェだ! 自分を捨て駒にしやがって!」
「ハナから、余裕のあるゲームじゃない」
「それでもゲームはゲームだろうが!?」
「そうだ。たかがゲームだ。だから、嫌なら降りればいい」
「ああ、そうかよ! こんな胸糞悪いゲーム、もううんざりだ!」
杏介が力一杯吐き捨てて、ロビーを出て行く。
その背中を見送りながら、ラファエルは玲一に歩み寄った。
『初めまして、王子様。フランス語通じるといいんだけど……』
ここに来るまで、玲一に会ったらどんな言葉を投げつけてやろうかと、携帯の翻訳機能にありとあらゆる罵詈雑言を入力しておいたが、杏介の痛快な一撃でなんだか気が削がれてしまった。
携帯越しの会話も面倒だし、もし通じないようなら引き上げるつもりで尋ねたのだが。
『なんだ?』
玲一が短く応えた。
『ああ、わかる? よかった』
到底自分と似ているとは思えない、冷たいアイスグレーの瞳を見上げる。
こちらに対して何者かと問うほどの興味さえ持たない、無感情な視線を、ラファエルは少しゾッとしながら受け止めた。
『聞かせて。一年前、なんでアヤを追いかけなかったの?』
過去を知っていることをチラつかせても玲一は瞬き一つしない。
『一年ぶりの再会で、誰にも取られたくないって叫ぶみたいに全身跡だらけにするくらい執着してるくせに、一回フラれただけで、追いかけて口説くこともしないでいられたなんて、あんたの理性どうなってんの? それとも壊れてんのはむしろ本能の方?』
挑発するように言っても、玲一は眉一つ動かさない。
やれやれ、とラファエルは肩を竦めて見せた。
『オレもあんたと似たような家に生まれたから、あんたの立場ちょっとは理解できるし、あんたがどんだけ重い荷物背負って生きてきたんだろうって思うとゾッとする。それでもさ……恋に落ちたときくらい、それ全部捨ててもよかったんじゃないの?』
異国の言葉で一方的な会話を続ける二人を、大勢の社員が固唾を飲んで見守っている。中にはフランス語を解する人がいるかもしれないが、これだけざわついた中では聞き取れやしないだろう。
ラファエルは人の輪に息苦しさを覚えて、小さく鼻を鳴らした。
『アヤは、あんたとすごした日々が人生で一番幸せだったって言ってた。思い出すたび辛くても、その辛さはあんたとすごした日々が夢じゃなかった証だからって、オレに慰めさせもしなかった。それほど幸せな日々から逃げ出してきちゃうくらい、どうしようもなくバカで臆病だけどさ……たぶん、本当は繋がれたがってる。優しく迎え入れてロープを渡してくれる、居心地のいい港を欲しがってるんだよ』
少し伸び上がって、玲一の耳元に囁く。
『オレ、ドックになって、あんたの付けた傷、全部消しちゃうよ?』
玲一は冷ややかな視線でラファエルを見つめ、小さく頷いた。
『ああ。好きにすればいい』
そしてロビーの奥へ消えていった。
その後ろ姿を、ラファエルは少し意外に思いながら見送った。
(あいつ、最後まで聞いてたな……)
時間の無駄と中断するでもなく、煩わしいとはね除けるでもなく、見知らぬ少年の声に最後まで耳を傾けた。
言葉はなくとも、そのこと自体に彼の意思が現れているように思えて、ラファエルは唇の端に笑みを浮かべた。
「話しかけていい?」
慣れた手つきでキャンバスに下地を塗り、床にあぐらをかいて乾くのを待ちながらスケッチブックに鉛筆を走らせている綺に、隣で描いていた蒼井はそっと小声で尋ねた。
「あ、うん、大丈夫。むしろそうしてくれると助かるかも」
「助かる?」
「なんか緊張して、手が震えちゃって……」
鉛筆を持ったまま、綺が両手を持ち上げて苦笑する。
スケッチブックを覗き込んでも線にブレがあるようには見えなかったが、その指先を握ると「わっ」と声に出してしまうほど冷たかった。
「なんでそんな緊張してるの? 公募か何かに応募するの?」
「まさか。個人的に贈りたい人がいて」
「もしかして、また?」
「またって?」
「去年の夏休みも、好きな人の気を引くためだけに絵を描いてたんだって言ってた。不純な動機を神様に叱られた気がした、って殊勝なことも言ってたけど?」
「あぁ、そういえば、そんなこと言ったか。よく覚えてるね」
「だって緒月君、あの後休学しちゃったから……何かあったんじゃないかって、自分の知ってること、いろいろ思い返したり考えたりしちゃったのよ」
「ごめんね。でも今は違うし、今回の絵は特別なものだから、きっと神様も叱ったりしないで許してくれると思うんだ」
綺はやっぱり殊勝なことを言う、と思う。
だが、歴史を振り返っても、愛を表現したり、愛を伝えるための絵を描いたりした巨匠はたくさんいる。彼らを、神様は叱ってきただろうか。否。
「好きな人のために描くことを咎める存在がいるとしたら、それって神様じゃなく、人間なんじゃないかと思う。描き手自身や、描き手を取り巻く人間の、愛への懊悩がそうさせるんじゃないかって……わたし、綺が愛を描く人でもいいと思う」
「蒼井さん……」
綺が驚いたようにこちらを見る。
自分が口にしたことが急に恥ずかしくなって、蒼井が言い訳を口にしようとしたときだった。
不意に、バタバタと廊下を駆ける足音がして、二人はハッとした顔を見合わせた。足音は瞬く間に近付いてきて、アトリエの前でピタリと止まり、入口に栗色の髪の青年が姿を現す。
「冬樹!」
綺が抑えた声で叫び、立ち上がる。
それに応えるように、冬樹は少し甘い顔立ちをクシャッと歪めて駆け寄ってきて、二人はギュッと抱き合った。
「お帰り!」
「ただいま、冬樹! 帰ってきちゃった。会ったら気持ちが揺らぎそうだから、連絡しないつもりだったんだけど……」
「おいおい、落ち着いたら連絡するって言ってたのに、いっこうに連絡よこさなかったのもそのせいかよ!? お前今までどこで何してたの?」
熱い抱擁を交わしながらのセリフに驚いたのは、蒼井だけではないだろう。
綺は影で『アトリエの住人』と揶揄されるほどアトリエに入り浸っていたものの、人付き合いがいいとは言い難く、アトリエ内に親しい付き合いのある生徒はいなかった。
そんな綺が唯一心を許していたのが、彼の高校からの親友だという、この工芸学科の生徒――紺野冬樹。
冬樹は時々ふらりとアトリエにやってきては、綺とたわいもない話をしたり、絵を描く綺の横で工芸学科の課題をしたりと、自由にすごして帰っていった。その自然体でありながら近すぎる距離感に、二人が付き合っているんじゃないかという噂もあったほどだ。
そんな冬樹にも何も知らされていなかったとは、いったいどういうことなのか。
「ごめん、僕もあっちに慣れるのに必死で……」
「あっちって?」
「フランス」
「「フランス!?」」
蒼井と冬樹の声が重なる。
同時に、バッと他の生徒たちの視線が集まった。小声で話していたが、アトリエ中の耳がこちらの会話にそばだてられていたのは間違いない。
そもそも、それほど広いわけでもないアトリエで誰にも聞かれずに会話するなど不可能だし、何より綺は伝説の人物。突然現れて、息をつく間もなく制作を始めたから誰も話しかけられなかったが、本当はみんな取り囲んで質問責めにしたいはずなのだ。
「えっ、じゃ今フランスにいんの? 綺、フランス語なんかできたっけ?」
「全然。だから最初の一年は語学学校に通って、この秋からやっと絵の勉強を……。今はバカンスで帰国してるんだけど、四日後には学校が始まるから、三日後には日本を出ないといけなくて」
そう言いながら時間が差し迫っていることを思い出したのか、キャンバスに塗った下地に触れ、乾き具合を確認する。
「はぁ……すごいな、絵の勉強するのに語学習得するところから始めなくちゃいけないとか、オレだったら絶対心が折れてる。そんで綺がアクリル使ってんのも不思議。画材持ってきてたの?」
「全然すごくないんだよ、ただの行き当たりばったりで。画材はさっき一通り買ってきた」
「こっちも行き当たりばったりなのね。何か手伝えることある? 時間ないんでしょ? 遠慮しないでよ?」
「ありがとう、でも蒼井さんだって卒制で忙しいだろう? あっ、でも、冬樹には手伝ってもらいたいことがあって連絡したんだった」
乾きが十分だと判断したのだろう。アクリル絵の具のセットから手早くチューブを選び出していた綺がハッと顔を上げて、ジャケットのポケットから携帯を取り出す。
「いや、オレも卒制が……」
もったいぶるように言った冬樹に、綺が携帯を操作しながらフッと笑う。
「先週、卒業旅行なんていって彼女とお泊りデートしてたくらいだから、余裕あるだろう?」
「えっ! なんで知ってんの!?」
冬樹がバッと振り返る。
そこにいた柚乃が、自分じゃないと、ブンブン首を振った。
「杏介さん情報だよ。今朝まで杏介さんの家に泊めてもらってたから」
「なんであいつん家!? ってか大丈夫なのか!? 食われてねぇ!?」
「大丈夫、味見程度だよ」
「それ大丈夫じゃないよな!?」
「冬樹、三日後以降で空いてる日に、この絵を搬入してほしいんだ。僕は立ち会えないけど、もう一人協力してくれる人がいるから、その人と一緒に。今詳細と連絡先送った」
杏介とは誰なのか。
食われるとは、味見とはどういうことなのか。
人に贈ると言っていたのに、搬入とはどういうことなのか。
聞きたいことがどんどん増えていくが、綺と冬樹が打ち合わせを始めてしまったので、蒼井はまぁいいかと質問を諦めて二人を眺めた。
この場所から、綺と冬樹が話しているのを聞くともなしに聞いていると、なんだか一年前に戻ったようで胸が締めつけられる。
この光景が見られるのは、わずか三日だけ。
果たして綺はどんな絵を描くのだろう。
芹澤芸大の学園祭には毎年足を運んでいたが、イベント事以外で来るのは、玲一に誘われて来た日以来二度目だ。
油画専攻の学生が使う校舎に辿り着いたはいいが、片っ端から教室を覗いて綺を探すのは面倒だなぁ、と杏介が入り口で足を止めていると、目の前を弟が駆け抜けていった。
冬樹は目をキラキラさせながら、なぜかドライヤーを手に階段を駆け上がっていく。これはもう見つけたも同然、と追いかけていった先に、予想通り綺がいた。
「綺、借りてきたぞ」
「えっ、本当に? ありがとう!」
だだっ広い白い箱のような教室の、窓際の隅に彼はいた。
冬樹から満面の笑みでドライヤーを受け取って、早速イーゼルに立てかけたキャンバスに風を当てる。どうやら絵の具を乾かしているらしい。
「速っ! 文明の利器最高!」
そう言ってはしゃぐ姿は、とても一昨日の夜、玲一に無残に散らされたようには見えなかった。
一瞬ラファエルに騙されたのかとさえ思ったが、注意深く見れば、不自然な点はいくつもあった。
空港ではゆるりと巻いていたストールを、空調の効いた室内でグルグル巻きつけていること。意識しているのか無意識なのか、誰かが後ろから絵を覗き込もうとすると、背後を取られるのを避けるように体の向きを変えること。側にスツールがあるのに、決して座ろうとしないこと。
力尽くで傷付けられた心と体を押して描こうとしている。
それはきっと、自身を傷付けた男のためで。
「なんで、そこまで……」
廊下にしゃがみ込み、両手で顔を覆う。
綺の報告の通りなら、玲一に傷付けられたその翌日に、彼はボロボロの体を引きずって燿隆の元へ向かったのだ。今朝だって玲一にされたことには一言も触れず、それどころか玲一のためにまだ打てる手はあると真剣な目で話していた。
すべて、すべて、あんな男のために。
ふと気配を感じて顔を上げると、廊下の向こうから見覚えのある金髪の少年がやってくる。
彼は杏介のような幸運には恵まれなかったらしい。息を切らしながら教室の中を覗いて、フッと笑みを浮かべると、杏介の隣にズルズルと座り込んだ。携帯を操作して、翻訳アプリの画面を突きつけてくる。
『私を置き去りにするのはひどい』
「……悪かったな」
グチャグチャと金髪の頭を掻き回す。
頭に血が上っていたのだ。一刻も早く綺の様子を確認したくて、白石商事を出たその足でここに来た。右も左も分からない異国の少年を置き去りにしてしまったことは、素直に申し訳ないと思う。
「よく辿り着けたな」
杏介の携帯にも翻訳アプリはデフォルトでインストールされていたはずだが、使うのは面倒だ。ニュアンスだけでも伝わればいいやと日本語で呟いたが、どうやらニュアンスさえ伝わらなかったらしい。
次に向けられた画面には、噛み合わない文章。
『私はそのような愛を持ったことがない』
(なんだそれ……)
だがまぁ、今の状況と翻訳機能のクセを考慮すれば、なんとなくわかる気もする。あんな恋はしたことがない、とでも言いたいのだろう。
そうだな、と頷いた。
あんな恋、したことがない。
したことがないから、まるで恋ではなく狂気の沙汰に思える。
それでも、あんな男のどこがいいんだ、とは思い切れなかった。
魅力のない男なら、十年も親友なんてやっていない。
玲一と出会ったのは高校生の頃だ。
当時の杏介は、高校の入学祝いに買い与えられたパソコンにのめりこみ、ハッキング行為に夢中になっていた。
出会ってしばらくして、ゲームを持ちかけられたとき、その実態が復讐であることに驚いたし、白桜のトップを失脚させるなんてできるはずがないと思った。
それでも協力すると誓ってしまったのは、自分の能力を発揮できるのが嬉しかったから。そして何より、杏介にとって玲一はとんでもなくかっこいいヒーローで、彼の隣に立てることが誇らしかったからだ。
地元で知らない人はいない名門私立高校の生徒会長。整った容姿に品のある立ち居振舞い。どんな相手にも物怖じせず、どんな状況でも取り乱さない度胸。何もかも杏介とは真逆。
こんな男がいるものなのかと、同世代ながら尊敬を通り越して畏怖を覚えるほどだったが、彼の根底には優しさがあった。
出会ってすぐの頃、タチの悪い大人に捕まっていたところを、玲一に助けられた。助けた理由を、駒として使えると思ったからだと言ったが、自分という駒の価値が、彼の犯したリスクの大きさに見合わないことは、杏介が一番よくわかっていた。
非情に徹し切れないところに人間臭さを感じ、好感を持った。
あれから十年。
ゲームの盤面は少しずつ、けれど確実に勝ちに傾いていた。
その裏で、玲一は極限まで自分を追い込んでいるように見えた。
時間に対する病的なまでのストイックさ。自身に課すハードルの高さ。やるべきことに優先順位をつけ、計画通りに淡々とクリアしていく努力の姿勢など、杏介が真似ようとしたら発狂してしまうだろう。
わかっている。ハナから余裕のあるゲームじゃない。
そんな中で玲一は綺を救い、恋に落ち、おそらく今も――
綺を傷付けた理由はわからないが、あの男本来の優しさを思えば、きっと心が捻れるような苦しみを伴っただろう。
だが、どんな理由があったとしても、玲一が綺に対してしたことは人として最低だ。絶対に許せない。
『お前、英語できんの?』
ふと思いついて、杏介はラファエルに英語で尋ねる。
少年は「あっ!」と言うように目を見張った。
『少しね。上手くないけど』
『上手くないのはお互い様だ。翻訳アプリよりゃいい』
『早く気付けばよかった。あ、さっきのあんたカッコよかったよ』
『そりゃどうも』
苦笑して杏介は立ち上がる。
教室の入り口から顔を覗かせて、綺と冬樹を眺め、
『調査に戻るわ。お前どうする?』
ラファエルを見下ろすと、彼は『観光』と親指を立てた。
『疲れたらあんたの家戻っていい?』
いいけど泊めないぞ、と言いかけて、相手が未成年だということを思い出す。見た目は綺や冬樹と変わらないのに、これで十代だなんて、外国の子どもは恐ろしい。
『しゃーねーな。迷子なんなよ』
杏介はラファエルにひらりと手を振って、賑やかな教室を後にした。
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