21 / 25
後編
天使の涙
しおりを挟む
ふと目が覚めたのは、ラークが身じろいだからだ。
「んっ……」
瞼が重い。
体が重い。
だが、うっすら開けた目に携帯の画面が光っているのが見えて、ハッと飛び起きた。
(今何時だ!?)
慌てて携帯を手にとって、まだそれほど時間が経っていないことに安堵し、着信を知らせる画面に表示されていた名前に驚く。
Raphaelラファエル・ Laurentローラン。
登録した覚えはないが。
『……もしもし?』
『出るのおっそいよ! 王子様とヨリ戻して盛り上がってる最中だったら申し訳ないんだけどさ、今すぐ迎えに来てくれない? 日本語全然わかんないし、携帯に通訳させるのも面倒臭くなってきたし。あと今日泊めて』
『は?』
『とりあえず羽田から、えーっと、品川駅? までは来たんだけどさ』
ラファエルのセリフに、綺の頭は完全に目覚めた。
電車に乗り込み吊革につかまりながら、ラファエルは『これが噂の通勤ラッシュかぁ』と感慨深そうに呟いた。
終電間近。モノトーンコーデのサラリーマンを中心に、乗客のほとんどが一日の疲れに沈み込んでいる中で、金髪に灰色の目を輝かせている彼は、暗闇に射したスポットライトのように色彩も声も表情も明るい。
『残念ながら通勤ラッシュは終わってるよ』
『えっ、これで!?』
『もっと早い時間に来ないと。そういえば何時に着いたの?』
『十九時半くらいかな』
ラファエルからの着信を取ったのは二十二時をすぎていた。
あの後、ギシギシ軋む体に鞭打って客室を出ると、玄関前で鉢合わせた家政婦が榊を呼んでくれて、榊は黒い宝石で品川駅まで送ってくれた。
「一年前、携帯を送ってきたの、榊さんですよね? まだ借りてていいですか? フランスの知人や、留学を手配してもらったエージェントの連絡先、まだ移してなくて」
「好きなだけお使いいただいて結構です。不要になれば廃棄してください。そのタイミングでご一報いただければ助かりますが、なくても問題ありません」
車の中で尋ねると、榊は悪びれた様子もなくそう応えた。
いっそ清々しいほどの鉄面皮に、少し笑った。
「本当にもう、お会いにならないのですか?」
ロータリーで車を降り、駅へ向かう階段を登ろうとしたところで、抑揚のない声が投げられた。
振り返った綺は、少し呆れて肩を竦めた。
「心配しなくても、玲一さんの結婚生活を脅かすようなことはしませんよ」
榊は切れ長の目で、何かを見定めようとするように綺をじっと見つめた。
相変わらず冷ややかで鋭い視線だったが、昨日のように背筋がゾクッとする感覚はなかった。もしかしたらこれが素なのかもしれない。
「……去年の夏、黒崎に玲一様のご様子を尋ねたところ、反応が妙だったので、玲一様の素行を調べ、あなたに辿り着きました。失礼ながら、支倉家に迎え入れることはできないと判断致しました」
なぜそんなことを面と向かって、改めて言われなければならないのか。さすがに少しイラっとして、綺は眉間にシワを寄せた。
「わかってます。榊さんの判断は正しかったと思いますよ」
「…………」
「何か、迷うようなことがありますか?」
榊は肯定する代わりに少し沈黙し、やがて呟くように言った。
「もし、あなたがまだ、玲一様のために何かなさるおつもりでしたら、支倉の言葉をよく思い出してください」
「それって……まだ、婚約を破棄する手立てが残ってるってことですか?」
「私は、そう考えております」
榊はそれ以上を伝える自分自身に耐えかねるように、そっと会釈し、車に乗り込んで戻っていった。
だが綺は、彼が最後の最後で希望を残していってくれたのを理解していた。
まだ、玲一のためにできることがある。
『やーっぱり盛り上がってたか。呼び出して悪かったな~』
思い出して黙り込んでしまったのをどう捉えたのか、灰色の瞳にニヤニヤと覗き込まれて、綺は慌てて首を振った。
『だから違うって。なんでそう思うわけ?』
『いや、だって』
ラファエルが自分の目の下を、トントンと指先でタップする。
『泣いただろ? 赤くなってる。それになんかずっとボーッとしてるし、さっきの過剰反応』
さっきの、というのは品川駅の改札でラファエルが綺を見つけて駆け寄ってきたときのことだ。彼は満身創痍の綺を、そうとは知らず力一杯抱きしめてきて、綺は痛みのあまり悶絶しかけたのだ。
『ヤりすぎ』
車内にフランス語が堪能な人がいないことを祈りながら、綺はとりあえず否定しないでおいた。公共の場で昨夜のことを説明するよりは、セックス直後で敏感になっていたと誤解されたままでも、黙っていてくれた方がましだ。
『ラフ、何しに来たの?』
『綺の恋の結末を聞きに。ついでに観光リベンジ』
『リベンジ?』
『日本には何年か前に一回来たことがあるんだよ。でも、その時は親と一緒で、仕事に連れ回されてたから観光らしい観光もできなくてさ』
目的の駅について綺が向かったのは、昨晩すごしたホテルの部屋だった。
あまり気は向かなかったが、さっきあんなメッセージを送ったばかりで、杏介の部屋に戻る気にはなれなかった。それに、こんな夜遅くに友達を連れて戻って、彼まで泊めてもらうのは、さすがに気が引ける。
『何この部屋、スイートルーム!? すげぇリッチ!!』
部屋に入ったラファエルは、窓から夜景を眺めてピューと口笛を吹き、リビングのソファに座った。
『お風呂、お湯張っとく?』
『いいね、お願い。コーヒー淹れられる?』
『やってみる。お腹は?』
『さっき空港着いた時食べちゃったんだよね』
綺は慣れない設備を探り探り、一人分のコーヒーを淹れた。
『で、この部屋何?』
さすがに綺が自分で取った部屋だとは思っていないのだろう。
ラファエルが、どんな経緯を聞けるのかと目を輝かせている。
『ごめん、話すけど、ちょっと横になっていい?』
綺は自分に用意した白湯を少し口にすると、ソファのアームレストにクッションを並べ横になった。まだ痛み止めは効いているはずなのに、体の熱っぽさが引かない。
『何、そんなに激しくヤられたの?』
『まぁ、そんなとこ……』
目を閉じる。
『ラフにはどこまで話したんだっけ?』
『アヤが灰色の目の王子様と恋に落ちて、せっかく告られたのにフランスに逃げてきちゃって。残された王子様が自暴自棄になって婚約しちゃったのを、王子様の親友のエイリアンが心配して、アヤに助けてくれって泣きついて来たとこ』
無闇に玲一のプライベートを明かすのも躊躇われる。どう話したものかと考えるが、どうにも頭がボーッとしてしまって考えがまとまらない。
『昨日、エイリアンの手引きで王子様の出席するパーティーに潜入して、王子様と婚約者に会うことができたんだけど、その後この部屋で王子様に抱かれて、改めてお別れしたんだ』
『は? ヨリ戻したんじゃなかったの?』
『元々そんなつもりで帰国したわけじゃないよ。でも、王子様が婚約者を愛してるわけじゃないって知って、さっきまで王子様のお祖父様に婚約破棄できないか相談に行ってたんだ』
ラファエルがまたピューと口笛を吹いた。
『いいね! ドラマティック! でも、なんで祖父さん? 父親のとこに行くべきじゃないの?』
『王様はフランス在住なんだよ』
『あっ、そうなんだ。んで、アヤの次の手は?』
『まだ決まってない。けどヒントはもらったから今夜考える』
『そっかぁ。もうこうなったら結婚式で花婿強奪しちゃえば?』
『言っただろう、お別れしたんだって。もう会わないよ』
ラファエルの軽口に応えながら、綺は閉じた瞼の裏に、玲一の姿を描く。
十年前、彼は母親を亡くし、その間接的な原因となった支倉一族、とりわけ母親をレイプした祖父を恨んで、復讐を企てている。
そして玲一が復讐を遂げようとする目的は、きっと敵討ちだけじゃない。彼は母親を救えなかったことを悔やみ、自分を責めているのだ。
だが燿隆の言葉通りなら、燿隆は玲一が復讐を企てていることを知っていて、あえて何もせずに見守っている状態。さらに、クロエと燿隆の関係は、玲一が想像しているほど一方的で醜悪ななものではなかったかもしれないのだ。
これらの事実を伝えれば、玲一は復讐をやめるだろうか。
だが復讐を遂げても諦めても、ビジネスの世界に身をおく限り、玲一は遅かれ早かれ人の上に立つ存在になるだろう。そうなったとき、心を殺さなければならない局面に立つ度に、燿隆と同化するように感じて自分を嫌悪したりしないだろうか。
御堂あやめは「大丈夫、あなたは違う」と、彼を抱きしめてあげてくれるだろうか。
自分にできることは、もうないのだろうか。
暗闇があった。
意識をしっかり持っていないとそこに溶けてしまいそうな深い深い暗闇の中を、一人の少年が唇を引き結び、足早に歩いている。
年は高校生くらいだろうか。
スッと伸びた背中。
少し長い前髪はアイスグレー。
同色の瞳が、月明かりを受けたナイフのように煌く。
その綺が愛してやまない色で、彼が誰かはすぐにわかった。
嬉しくなって手を伸ばすが、肩に触れた瞬間、景色が変わった。
相変わらず彼は歩いていた。
大きな屋敷の広い廊下。
そこに微かに響く、ドンッと壁を打つ音。
そして、ひっきりなしに上がる、ゾッとするような女の声。
「嫌っ、やだ、やめてっ……!」
だが少年が歩いても歩いても、その声は少しも遠ざからない。
「離してっ! やっ……あ、あぁっ……」
扉の向こうから、悲鳴と、嬌声と、不穏な物音が響き続ける。
少年は歩みを止めない。
逃げ出したいはずなのに走りもしない。
動揺を見せれば負けだとでもいうように。
背筋を伸ばして、まっすぐに前を見て、一人淡々と歩き続ける。
けれどその灰色の目にはいっぱいの涙が浮かんでいるのだ。
今にも零れそうなそれを拭ってあげたいと、手を伸ばした瞬間。
少年はアヤの手を躱すように側にあった扉のノブに手をかけた。
それをひねり、ドアを押し開けると。
(そ、んな……)
そこにあったのは大きなベッドで。
こちらに背を向けて腰を振っているのは、さっきまで少年であったはずの人。
そして、彼に背中を押さえつけられて、狂ったように悲鳴を上げているのは――
(ぼ、く……)
そう認識した瞬間、視点が変わる。
視界が急に真っ暗になった。違う。
真っ白なシーツに顔面を押し付けられている。
全身を焼けた鉄の棒で貫かれたように、どこもかしこも熱い。
臓腑が潰され掻き混ぜられるような感覚に、息ができない。
痛い。苦しい。死んでしまう。
「ひっ……ぐっ、あっ、あぁっ!」
グチュッ、グチュッ、と律動の度どこからか水音が響く。
シーツに縋り付く手にはもう力が入らず、乱暴な揺さぶりに耐えることもできない。
悲鳴を上げすぎた喉は裂けたように痛み、時折獣のような呻き声を漏らす。
「ぐっ……ぁ、あっ……」
最後の力を振り絞って、頰をシーツに擦り付けながら振り返る。
見えたアイスグレーの瞳は、雲のかかった月のように暗い。
ああ、どうやったらあの雲を払えるのだろう。
「俺のいる世界では、誰も朝焼けを待ったりしない……」
意識が薄れる直前。
優しい声が聞こえた気がした。
「さようなら、綺。もう二度と会わない」
『アヤっ、アヤっ、起きろ!』
ガクガクと揺さぶられる感覚に、夢がフラッシュバックする。
「ひっ、あ……ぁっ! は、っぁ……!」
『アヤ!』
「や――――っ!」
パンッ。
鋭い痛みが頰を刺した。
それでようやく思考が停止する。
『アヤ、しっかりしろ!』
「あ、ぁ……」
ハァ、ハァ、と引き攣れた呼吸を必死で繰り返しながら、目の前の友人をぼんやりと見つめる。
眉を寄せて心配そうにこちらを覗き込む灰色の瞳には、なぜか怒りが滲んで見えた。
『ラフ……』
どうやら、あのままソファでうたた寝してしまったらしい。
ソファの縁にかけたパジャマ姿のラファエルが、綺に平静を取り戻させようとするように、肩から腕にかけてをゆっくりと撫でてくれる。
だが、その手の平の温もりが余計に胸をざわつかせるようで、綺は咄嗟にその手を止めた。何、と説明を求める視線に、ぎこちなく笑みを返す。
『ごめん。今は、ちょっと……』
ラファエルは小さく息を吐いて立ち上がった。
テーブルに置いたままだったカップに、白湯を注いで戻ってくると、何も言わずに差し出してくれる。その無機質な温もりが、今は何よりありがたい。だが、
『説明しろよ』
『……何が?』
『魘されてた理由と、その首の跡の意味』
ソファの脇に立ったまま、激しい怒りを押し殺した低い声で言って、綺の喉元を指す。
手で探ると、眠っている間に緩んだのか、ストールが外れかけていた。
『王子様か?』
『ラフ、これは……』
『王子様かって聞いてんだろ!』
声を荒げ、綺が逃げる間もなく、綺のシャツをたくし上げる。
『ラフ、やめてっ!』
『おい、これっ……どういうことだよ!?』
白い肌に散った傷や鬱血を前に、ラファエルが息を飲んだ。
『なんでこんなことなってんの!? 別れ話がこじれたにしたって、こんなっ、ここまでっ……これはセックスじゃなくてただの暴力だぞ!?』
そう言葉で突きつけられて、綺はギュッとストールを握って唇を噛み締めた。
昨夜ベッドで我が身を襲った嵐。それが、セックスの形を取った玲一の慟哭だったことはわかっていた。
なぜなら、似たようなものを綺はよく知っていたからだ。
幼い頃ずっと聞かされてきた、両親がお互いを罵倒する声や、母親が自分を拒絶する言葉。それは、夫婦喧嘩の形を取った二人の慟哭だった。
相手を傷つけることも厭わない乱暴な言動の奥底に、誰にも言えずに抱え込んでいた悲しみや怒りがある。
人の一番脆くて、弱くて、そこを守らなければ立っていられなくなるような部分が隠されている。
それを受け止めて、力になってあげたい。
そう思ってはいるけれど。
それとは別に――
圧倒的な力でねじ伏せられ、与えられ続けた激痛。
そこから逃れることもできず、終わりも見えない絶望感。
触れられない、目を合わせてももらえないことの心細さ、不安。
目を背けていた自分自身の感情が、ラファエルの言葉の激しさに呼応して、胸の奥から込み上げてくる。
心と体に刻み付けられた、思い出す度震えが走り、体を搔き抱いて耐えなければならないほどの恐怖が蘇る。
『こんな、ひどいこと……』
天使の名前を持つ少年は、怒りに震え、一筋涙を流した。
その優しい嘆きが呼び水になった。
綺はソファに丸まって、クッションを抱き締めた。
そこに顔を押し付けて、やがて静かに肩を震わせて泣いた。
「そんなわけで、説得には失敗しましたけど、まだ打てる手はありそうなんです」
翌朝。綺はラファエルを連れて杏介のマンションに戻った。
強引なセックスがあったことと、燿隆とクロエの関係を除いて、ここ二日の顛末をざっと説明すると、杏介は、綺を玲一と引き合わせるために騙したことと、復讐について黙っていたことを素直に謝ってくれた。
そしてすべて聞き終えると「そうか」と目を伏せて黙り込んでしまった。
綺は杏介の心情を慮って見守っていたが、やがて彼は取り乱すことも消沈することもなく、うっすらと微笑んだ。ふてぶてしくも、強がっているようにも、どこか晴れやかにも感じられる、見ていて胸が締め付けられるような笑みだった。
そうして気を取り直すように「そっか、そっか」と呟き、綺を見つめてニッと笑った。
「しっかしまぁ、あの支倉燿隆に直談判とか、綺ちゃんすげぇな!」
「昨日はちょっと気分が動転してたというか、ハイだったというか……」
その理由を伏せているのであまり追求されても困る。
綺はジャケットのポケットから携帯を取り出し、メモ帳を起動した。ここに来る途中、電車の中で打ち込んだ内容をコピーして、杏介へのメッセージの本文にペースト、送信する。
「それで、今杏介さんの携帯にも送ったんですけど、昨日の会話の要点をできるだけ思い出して書き出してみたんです」
杏介はノートパソコンを操作しながら綺を呼び、隣に来て画面を見るように促した。携帯と同期しているのだろう、そこには綺が送ったばかりのメッセージが表示されていた。
「なんか、思い当たることある?」
「強いて言えばここ、ですかね」
綺は画面の上を指先で辿った。
「『支倉家から動いて御堂家の信用を失うことはできない。万が一、御堂家から婚約破棄を言い出してくれば、特に咎めず頷いてやってもいい』?」
「それってつまり、御堂家から婚約破棄を言い出してきたら、責めたり慰謝料要求したりしないで受け入れてもいい、ってことですよね? 玲一さんにも、燿隆さんと榊さんが守りを固めてる支倉家にも、婚約破棄を言い出されるような落ち度があるとは思えないんですけど……」
「じゃあ御堂家の方に、婚約破棄を願い出ざるを得ないような事情がないか、ちょっと調べてみるか」
既に何か引っかかっていることがあるのか、杏介は早速キーボードを叩き始める。
「後は、あの……玲一さんがパーティーの後、あやめさんも今頃別の男性と会ってるみたいなことを匂わせていたのが気になるっていうか……」
「おっ、やるじゃん、あやめちゃん! 支倉玲一と婚約中の身で浮気とか。前に調べたときには男遊びしてる気配なんかぜーんぜんなくて、今時珍しく身持ちの堅いお姫様だと思ったけど……」
ふと、杏介が黙り込む。
「杏介さん?」
「いや、うん。じゃあ、あやめちゃんの動向も洗ってみるわ」
「ありがとうございます」
何か引っかかることがあったようだが、綺はあえて追求せずに頷いた。
それからチラっとキッチンのカウンターに置かれたデジタル時計に目をやる。
「あの……お任せしてしまって申し訳ないんですけど、僕これから大学のアトリエに籠ろうと思うんです」
「えっ、なに? 復学すんの?」
「いえ、そうじゃないんですけど……今どうしても描きたい絵があって」
「そういうことなら、こっちは気にしないで行ってきな。もう綺ちゃんは十分体張って頑張ってくれたし、後はオレの仕事だ。でも日本にいられんのは今日入れてあと三日だろ? 足りんの?」
綺は強く頷いた。
「三日で描ける最高のものを描き上げてみせます」
綺は杏介のマンションを出て、駅へ向かった。
途中信号で引っかかり、足を止めると同時に古い携帯を取り出し、着信履歴にある番号に発信する。
携帯を耳に当てながら、青く澄んだ空を見上げた。
逸る気持ちを落ち着かせるように、胸の深くまで息を吸う。
ひんやりとした空気が体の奥まで行き渡る感覚に目を細める。
(急げ、急げ……)
「はい」
受話口の向こうから聞こえた声に、鼓動が跳ねる。
歩道の信号が青に変わる。
綺は駆け出した。
「で、何の用だよ?」
杏介はドッカとソファに座って、部屋の入り口に立ったまま携帯を弄っている少年に首を傾げる。
綺と一緒に出て行ったはずの彼は、数分もしない内に戻ってきた。
忘れ物でもあったのだろう、とは思わなかった。綺がこの二日間にあったことを話し、入手した情報に頭を捻っている後ろで、彼が難しい顔をして宙を睨んでいたことには気付いていたからだ。
携帯から顔を上げたラファエルの目は、やはり殺気立っていた。
なんだ、と身構える杏介に、携帯の画面が突きつけられる。
翻訳アプリケーションが立ち上がっていた。
和訳の欄の二文に、息を飲んだ。
『灰色の目の男がどこにいるか教えてください』
『アヤはレイプされました』
「んっ……」
瞼が重い。
体が重い。
だが、うっすら開けた目に携帯の画面が光っているのが見えて、ハッと飛び起きた。
(今何時だ!?)
慌てて携帯を手にとって、まだそれほど時間が経っていないことに安堵し、着信を知らせる画面に表示されていた名前に驚く。
Raphaelラファエル・ Laurentローラン。
登録した覚えはないが。
『……もしもし?』
『出るのおっそいよ! 王子様とヨリ戻して盛り上がってる最中だったら申し訳ないんだけどさ、今すぐ迎えに来てくれない? 日本語全然わかんないし、携帯に通訳させるのも面倒臭くなってきたし。あと今日泊めて』
『は?』
『とりあえず羽田から、えーっと、品川駅? までは来たんだけどさ』
ラファエルのセリフに、綺の頭は完全に目覚めた。
電車に乗り込み吊革につかまりながら、ラファエルは『これが噂の通勤ラッシュかぁ』と感慨深そうに呟いた。
終電間近。モノトーンコーデのサラリーマンを中心に、乗客のほとんどが一日の疲れに沈み込んでいる中で、金髪に灰色の目を輝かせている彼は、暗闇に射したスポットライトのように色彩も声も表情も明るい。
『残念ながら通勤ラッシュは終わってるよ』
『えっ、これで!?』
『もっと早い時間に来ないと。そういえば何時に着いたの?』
『十九時半くらいかな』
ラファエルからの着信を取ったのは二十二時をすぎていた。
あの後、ギシギシ軋む体に鞭打って客室を出ると、玄関前で鉢合わせた家政婦が榊を呼んでくれて、榊は黒い宝石で品川駅まで送ってくれた。
「一年前、携帯を送ってきたの、榊さんですよね? まだ借りてていいですか? フランスの知人や、留学を手配してもらったエージェントの連絡先、まだ移してなくて」
「好きなだけお使いいただいて結構です。不要になれば廃棄してください。そのタイミングでご一報いただければ助かりますが、なくても問題ありません」
車の中で尋ねると、榊は悪びれた様子もなくそう応えた。
いっそ清々しいほどの鉄面皮に、少し笑った。
「本当にもう、お会いにならないのですか?」
ロータリーで車を降り、駅へ向かう階段を登ろうとしたところで、抑揚のない声が投げられた。
振り返った綺は、少し呆れて肩を竦めた。
「心配しなくても、玲一さんの結婚生活を脅かすようなことはしませんよ」
榊は切れ長の目で、何かを見定めようとするように綺をじっと見つめた。
相変わらず冷ややかで鋭い視線だったが、昨日のように背筋がゾクッとする感覚はなかった。もしかしたらこれが素なのかもしれない。
「……去年の夏、黒崎に玲一様のご様子を尋ねたところ、反応が妙だったので、玲一様の素行を調べ、あなたに辿り着きました。失礼ながら、支倉家に迎え入れることはできないと判断致しました」
なぜそんなことを面と向かって、改めて言われなければならないのか。さすがに少しイラっとして、綺は眉間にシワを寄せた。
「わかってます。榊さんの判断は正しかったと思いますよ」
「…………」
「何か、迷うようなことがありますか?」
榊は肯定する代わりに少し沈黙し、やがて呟くように言った。
「もし、あなたがまだ、玲一様のために何かなさるおつもりでしたら、支倉の言葉をよく思い出してください」
「それって……まだ、婚約を破棄する手立てが残ってるってことですか?」
「私は、そう考えております」
榊はそれ以上を伝える自分自身に耐えかねるように、そっと会釈し、車に乗り込んで戻っていった。
だが綺は、彼が最後の最後で希望を残していってくれたのを理解していた。
まだ、玲一のためにできることがある。
『やーっぱり盛り上がってたか。呼び出して悪かったな~』
思い出して黙り込んでしまったのをどう捉えたのか、灰色の瞳にニヤニヤと覗き込まれて、綺は慌てて首を振った。
『だから違うって。なんでそう思うわけ?』
『いや、だって』
ラファエルが自分の目の下を、トントンと指先でタップする。
『泣いただろ? 赤くなってる。それになんかずっとボーッとしてるし、さっきの過剰反応』
さっきの、というのは品川駅の改札でラファエルが綺を見つけて駆け寄ってきたときのことだ。彼は満身創痍の綺を、そうとは知らず力一杯抱きしめてきて、綺は痛みのあまり悶絶しかけたのだ。
『ヤりすぎ』
車内にフランス語が堪能な人がいないことを祈りながら、綺はとりあえず否定しないでおいた。公共の場で昨夜のことを説明するよりは、セックス直後で敏感になっていたと誤解されたままでも、黙っていてくれた方がましだ。
『ラフ、何しに来たの?』
『綺の恋の結末を聞きに。ついでに観光リベンジ』
『リベンジ?』
『日本には何年か前に一回来たことがあるんだよ。でも、その時は親と一緒で、仕事に連れ回されてたから観光らしい観光もできなくてさ』
目的の駅について綺が向かったのは、昨晩すごしたホテルの部屋だった。
あまり気は向かなかったが、さっきあんなメッセージを送ったばかりで、杏介の部屋に戻る気にはなれなかった。それに、こんな夜遅くに友達を連れて戻って、彼まで泊めてもらうのは、さすがに気が引ける。
『何この部屋、スイートルーム!? すげぇリッチ!!』
部屋に入ったラファエルは、窓から夜景を眺めてピューと口笛を吹き、リビングのソファに座った。
『お風呂、お湯張っとく?』
『いいね、お願い。コーヒー淹れられる?』
『やってみる。お腹は?』
『さっき空港着いた時食べちゃったんだよね』
綺は慣れない設備を探り探り、一人分のコーヒーを淹れた。
『で、この部屋何?』
さすがに綺が自分で取った部屋だとは思っていないのだろう。
ラファエルが、どんな経緯を聞けるのかと目を輝かせている。
『ごめん、話すけど、ちょっと横になっていい?』
綺は自分に用意した白湯を少し口にすると、ソファのアームレストにクッションを並べ横になった。まだ痛み止めは効いているはずなのに、体の熱っぽさが引かない。
『何、そんなに激しくヤられたの?』
『まぁ、そんなとこ……』
目を閉じる。
『ラフにはどこまで話したんだっけ?』
『アヤが灰色の目の王子様と恋に落ちて、せっかく告られたのにフランスに逃げてきちゃって。残された王子様が自暴自棄になって婚約しちゃったのを、王子様の親友のエイリアンが心配して、アヤに助けてくれって泣きついて来たとこ』
無闇に玲一のプライベートを明かすのも躊躇われる。どう話したものかと考えるが、どうにも頭がボーッとしてしまって考えがまとまらない。
『昨日、エイリアンの手引きで王子様の出席するパーティーに潜入して、王子様と婚約者に会うことができたんだけど、その後この部屋で王子様に抱かれて、改めてお別れしたんだ』
『は? ヨリ戻したんじゃなかったの?』
『元々そんなつもりで帰国したわけじゃないよ。でも、王子様が婚約者を愛してるわけじゃないって知って、さっきまで王子様のお祖父様に婚約破棄できないか相談に行ってたんだ』
ラファエルがまたピューと口笛を吹いた。
『いいね! ドラマティック! でも、なんで祖父さん? 父親のとこに行くべきじゃないの?』
『王様はフランス在住なんだよ』
『あっ、そうなんだ。んで、アヤの次の手は?』
『まだ決まってない。けどヒントはもらったから今夜考える』
『そっかぁ。もうこうなったら結婚式で花婿強奪しちゃえば?』
『言っただろう、お別れしたんだって。もう会わないよ』
ラファエルの軽口に応えながら、綺は閉じた瞼の裏に、玲一の姿を描く。
十年前、彼は母親を亡くし、その間接的な原因となった支倉一族、とりわけ母親をレイプした祖父を恨んで、復讐を企てている。
そして玲一が復讐を遂げようとする目的は、きっと敵討ちだけじゃない。彼は母親を救えなかったことを悔やみ、自分を責めているのだ。
だが燿隆の言葉通りなら、燿隆は玲一が復讐を企てていることを知っていて、あえて何もせずに見守っている状態。さらに、クロエと燿隆の関係は、玲一が想像しているほど一方的で醜悪ななものではなかったかもしれないのだ。
これらの事実を伝えれば、玲一は復讐をやめるだろうか。
だが復讐を遂げても諦めても、ビジネスの世界に身をおく限り、玲一は遅かれ早かれ人の上に立つ存在になるだろう。そうなったとき、心を殺さなければならない局面に立つ度に、燿隆と同化するように感じて自分を嫌悪したりしないだろうか。
御堂あやめは「大丈夫、あなたは違う」と、彼を抱きしめてあげてくれるだろうか。
自分にできることは、もうないのだろうか。
暗闇があった。
意識をしっかり持っていないとそこに溶けてしまいそうな深い深い暗闇の中を、一人の少年が唇を引き結び、足早に歩いている。
年は高校生くらいだろうか。
スッと伸びた背中。
少し長い前髪はアイスグレー。
同色の瞳が、月明かりを受けたナイフのように煌く。
その綺が愛してやまない色で、彼が誰かはすぐにわかった。
嬉しくなって手を伸ばすが、肩に触れた瞬間、景色が変わった。
相変わらず彼は歩いていた。
大きな屋敷の広い廊下。
そこに微かに響く、ドンッと壁を打つ音。
そして、ひっきりなしに上がる、ゾッとするような女の声。
「嫌っ、やだ、やめてっ……!」
だが少年が歩いても歩いても、その声は少しも遠ざからない。
「離してっ! やっ……あ、あぁっ……」
扉の向こうから、悲鳴と、嬌声と、不穏な物音が響き続ける。
少年は歩みを止めない。
逃げ出したいはずなのに走りもしない。
動揺を見せれば負けだとでもいうように。
背筋を伸ばして、まっすぐに前を見て、一人淡々と歩き続ける。
けれどその灰色の目にはいっぱいの涙が浮かんでいるのだ。
今にも零れそうなそれを拭ってあげたいと、手を伸ばした瞬間。
少年はアヤの手を躱すように側にあった扉のノブに手をかけた。
それをひねり、ドアを押し開けると。
(そ、んな……)
そこにあったのは大きなベッドで。
こちらに背を向けて腰を振っているのは、さっきまで少年であったはずの人。
そして、彼に背中を押さえつけられて、狂ったように悲鳴を上げているのは――
(ぼ、く……)
そう認識した瞬間、視点が変わる。
視界が急に真っ暗になった。違う。
真っ白なシーツに顔面を押し付けられている。
全身を焼けた鉄の棒で貫かれたように、どこもかしこも熱い。
臓腑が潰され掻き混ぜられるような感覚に、息ができない。
痛い。苦しい。死んでしまう。
「ひっ……ぐっ、あっ、あぁっ!」
グチュッ、グチュッ、と律動の度どこからか水音が響く。
シーツに縋り付く手にはもう力が入らず、乱暴な揺さぶりに耐えることもできない。
悲鳴を上げすぎた喉は裂けたように痛み、時折獣のような呻き声を漏らす。
「ぐっ……ぁ、あっ……」
最後の力を振り絞って、頰をシーツに擦り付けながら振り返る。
見えたアイスグレーの瞳は、雲のかかった月のように暗い。
ああ、どうやったらあの雲を払えるのだろう。
「俺のいる世界では、誰も朝焼けを待ったりしない……」
意識が薄れる直前。
優しい声が聞こえた気がした。
「さようなら、綺。もう二度と会わない」
『アヤっ、アヤっ、起きろ!』
ガクガクと揺さぶられる感覚に、夢がフラッシュバックする。
「ひっ、あ……ぁっ! は、っぁ……!」
『アヤ!』
「や――――っ!」
パンッ。
鋭い痛みが頰を刺した。
それでようやく思考が停止する。
『アヤ、しっかりしろ!』
「あ、ぁ……」
ハァ、ハァ、と引き攣れた呼吸を必死で繰り返しながら、目の前の友人をぼんやりと見つめる。
眉を寄せて心配そうにこちらを覗き込む灰色の瞳には、なぜか怒りが滲んで見えた。
『ラフ……』
どうやら、あのままソファでうたた寝してしまったらしい。
ソファの縁にかけたパジャマ姿のラファエルが、綺に平静を取り戻させようとするように、肩から腕にかけてをゆっくりと撫でてくれる。
だが、その手の平の温もりが余計に胸をざわつかせるようで、綺は咄嗟にその手を止めた。何、と説明を求める視線に、ぎこちなく笑みを返す。
『ごめん。今は、ちょっと……』
ラファエルは小さく息を吐いて立ち上がった。
テーブルに置いたままだったカップに、白湯を注いで戻ってくると、何も言わずに差し出してくれる。その無機質な温もりが、今は何よりありがたい。だが、
『説明しろよ』
『……何が?』
『魘されてた理由と、その首の跡の意味』
ソファの脇に立ったまま、激しい怒りを押し殺した低い声で言って、綺の喉元を指す。
手で探ると、眠っている間に緩んだのか、ストールが外れかけていた。
『王子様か?』
『ラフ、これは……』
『王子様かって聞いてんだろ!』
声を荒げ、綺が逃げる間もなく、綺のシャツをたくし上げる。
『ラフ、やめてっ!』
『おい、これっ……どういうことだよ!?』
白い肌に散った傷や鬱血を前に、ラファエルが息を飲んだ。
『なんでこんなことなってんの!? 別れ話がこじれたにしたって、こんなっ、ここまでっ……これはセックスじゃなくてただの暴力だぞ!?』
そう言葉で突きつけられて、綺はギュッとストールを握って唇を噛み締めた。
昨夜ベッドで我が身を襲った嵐。それが、セックスの形を取った玲一の慟哭だったことはわかっていた。
なぜなら、似たようなものを綺はよく知っていたからだ。
幼い頃ずっと聞かされてきた、両親がお互いを罵倒する声や、母親が自分を拒絶する言葉。それは、夫婦喧嘩の形を取った二人の慟哭だった。
相手を傷つけることも厭わない乱暴な言動の奥底に、誰にも言えずに抱え込んでいた悲しみや怒りがある。
人の一番脆くて、弱くて、そこを守らなければ立っていられなくなるような部分が隠されている。
それを受け止めて、力になってあげたい。
そう思ってはいるけれど。
それとは別に――
圧倒的な力でねじ伏せられ、与えられ続けた激痛。
そこから逃れることもできず、終わりも見えない絶望感。
触れられない、目を合わせてももらえないことの心細さ、不安。
目を背けていた自分自身の感情が、ラファエルの言葉の激しさに呼応して、胸の奥から込み上げてくる。
心と体に刻み付けられた、思い出す度震えが走り、体を搔き抱いて耐えなければならないほどの恐怖が蘇る。
『こんな、ひどいこと……』
天使の名前を持つ少年は、怒りに震え、一筋涙を流した。
その優しい嘆きが呼び水になった。
綺はソファに丸まって、クッションを抱き締めた。
そこに顔を押し付けて、やがて静かに肩を震わせて泣いた。
「そんなわけで、説得には失敗しましたけど、まだ打てる手はありそうなんです」
翌朝。綺はラファエルを連れて杏介のマンションに戻った。
強引なセックスがあったことと、燿隆とクロエの関係を除いて、ここ二日の顛末をざっと説明すると、杏介は、綺を玲一と引き合わせるために騙したことと、復讐について黙っていたことを素直に謝ってくれた。
そしてすべて聞き終えると「そうか」と目を伏せて黙り込んでしまった。
綺は杏介の心情を慮って見守っていたが、やがて彼は取り乱すことも消沈することもなく、うっすらと微笑んだ。ふてぶてしくも、強がっているようにも、どこか晴れやかにも感じられる、見ていて胸が締め付けられるような笑みだった。
そうして気を取り直すように「そっか、そっか」と呟き、綺を見つめてニッと笑った。
「しっかしまぁ、あの支倉燿隆に直談判とか、綺ちゃんすげぇな!」
「昨日はちょっと気分が動転してたというか、ハイだったというか……」
その理由を伏せているのであまり追求されても困る。
綺はジャケットのポケットから携帯を取り出し、メモ帳を起動した。ここに来る途中、電車の中で打ち込んだ内容をコピーして、杏介へのメッセージの本文にペースト、送信する。
「それで、今杏介さんの携帯にも送ったんですけど、昨日の会話の要点をできるだけ思い出して書き出してみたんです」
杏介はノートパソコンを操作しながら綺を呼び、隣に来て画面を見るように促した。携帯と同期しているのだろう、そこには綺が送ったばかりのメッセージが表示されていた。
「なんか、思い当たることある?」
「強いて言えばここ、ですかね」
綺は画面の上を指先で辿った。
「『支倉家から動いて御堂家の信用を失うことはできない。万が一、御堂家から婚約破棄を言い出してくれば、特に咎めず頷いてやってもいい』?」
「それってつまり、御堂家から婚約破棄を言い出してきたら、責めたり慰謝料要求したりしないで受け入れてもいい、ってことですよね? 玲一さんにも、燿隆さんと榊さんが守りを固めてる支倉家にも、婚約破棄を言い出されるような落ち度があるとは思えないんですけど……」
「じゃあ御堂家の方に、婚約破棄を願い出ざるを得ないような事情がないか、ちょっと調べてみるか」
既に何か引っかかっていることがあるのか、杏介は早速キーボードを叩き始める。
「後は、あの……玲一さんがパーティーの後、あやめさんも今頃別の男性と会ってるみたいなことを匂わせていたのが気になるっていうか……」
「おっ、やるじゃん、あやめちゃん! 支倉玲一と婚約中の身で浮気とか。前に調べたときには男遊びしてる気配なんかぜーんぜんなくて、今時珍しく身持ちの堅いお姫様だと思ったけど……」
ふと、杏介が黙り込む。
「杏介さん?」
「いや、うん。じゃあ、あやめちゃんの動向も洗ってみるわ」
「ありがとうございます」
何か引っかかることがあったようだが、綺はあえて追求せずに頷いた。
それからチラっとキッチンのカウンターに置かれたデジタル時計に目をやる。
「あの……お任せしてしまって申し訳ないんですけど、僕これから大学のアトリエに籠ろうと思うんです」
「えっ、なに? 復学すんの?」
「いえ、そうじゃないんですけど……今どうしても描きたい絵があって」
「そういうことなら、こっちは気にしないで行ってきな。もう綺ちゃんは十分体張って頑張ってくれたし、後はオレの仕事だ。でも日本にいられんのは今日入れてあと三日だろ? 足りんの?」
綺は強く頷いた。
「三日で描ける最高のものを描き上げてみせます」
綺は杏介のマンションを出て、駅へ向かった。
途中信号で引っかかり、足を止めると同時に古い携帯を取り出し、着信履歴にある番号に発信する。
携帯を耳に当てながら、青く澄んだ空を見上げた。
逸る気持ちを落ち着かせるように、胸の深くまで息を吸う。
ひんやりとした空気が体の奥まで行き渡る感覚に目を細める。
(急げ、急げ……)
「はい」
受話口の向こうから聞こえた声に、鼓動が跳ねる。
歩道の信号が青に変わる。
綺は駆け出した。
「で、何の用だよ?」
杏介はドッカとソファに座って、部屋の入り口に立ったまま携帯を弄っている少年に首を傾げる。
綺と一緒に出て行ったはずの彼は、数分もしない内に戻ってきた。
忘れ物でもあったのだろう、とは思わなかった。綺がこの二日間にあったことを話し、入手した情報に頭を捻っている後ろで、彼が難しい顔をして宙を睨んでいたことには気付いていたからだ。
携帯から顔を上げたラファエルの目は、やはり殺気立っていた。
なんだ、と身構える杏介に、携帯の画面が突きつけられる。
翻訳アプリケーションが立ち上がっていた。
和訳の欄の二文に、息を飲んだ。
『灰色の目の男がどこにいるか教えてください』
『アヤはレイプされました』
0
あなたにおすすめの小説
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
革命のエチュード
鳴真 のわか
BL
────────────────────────
黒髪穏やかイケメン×プライド高めな日独クォーター
────────────────────────
月島秋人はピアニストを目指している。
プロのピアニストである母がヨーロッパを拠点に活動しているためそれに付いて回る生活を送っていたが、中学進学を機に日本の音楽学校に入学させられて寮暮らしをスタートすることに。
ルームメイトになったのは、東城陽介。
国内外のピアノコンクールで優勝し続けていた秋人が一度だけ『二番』になった時に『一番』を掻っ攫っていった、物腰の柔らかい少年であった。
慣れない日本での生活を送るが、やけにスキンシップが過多な陽介に「好き」だと言われ…?
「おまえ、東城陽介?」
「好き、愛してる。……これ、ドイツ語だとなんて言うの?」
「大丈夫だよ、俺は絶対に月島のこと裏切らないから」
──難攻不落かと思われた孤高の天才は愛に飢えていた──
「俺は愛してるよ、……陽介のこと」
これは、二人の"天才"が世界の片隅で"家族"として幸せになるまでの物語である。
星降る夜に ~これは大人の純愛なのか。臆病者の足踏みか。~
大波小波
BL
鳴滝 和正(なるたき かずまさ)は、イベント会社に勤めるサラリーマンだ。
彼はある日、打ち合わせ先の空き時間を過ごしたプラネタリウムで、寝入ってしまう。
和正を優しく起こしてくれたのは、そこのナレーターを務める青年・清水 祐也(しみず ゆうや)だった。
祐也を気に入った和正は、頻繁にプラネタリウムに通うようになる。
夕食も共にするほど、親しくなった二人。
しかし祐也は夜のバイトが忙しく、なかなかデートの時間が取れなかった。
それでも彼と過ごした後は、心が晴れる和正だ。
浮かれ気分のまま、彼はボーイズ・バーに立ち寄った。
そしてスタッフメニューの中に、祐也の姿を見つけてしまう。
彼の夜の顔は、風俗店で働く男娼だったのだ……。
運命の番ってそんなに溺愛するもんなのぉーーー
白井由紀
BL
【BL作品】(20時30分毎日投稿)
金持ち社長・溺愛&執着 α × 貧乏・平凡&不細工だと思い込んでいる、美形Ω
幼い頃から運命の番に憧れてきたΩのゆき。自覚はしていないが小柄で美形。
ある日、ゆきは夜の街を歩いていたら、ヤンキーに絡まれてしまう。だが、偶然通りかかった運命の番、怜央が助ける。
発情期中の怜央の優しさと溺愛で恋に落ちてしまうが、自己肯定感の低いゆきには、例え、運命の番でも身分差が大きすぎると離れてしまう
離れたあと、ゆきも怜央もお互いを思う気持ちは止められない……。
すれ違っていく2人は結ばれることができるのか……
思い込みが激しいΩとΩを自分に依存させたいαの溺愛、身分差ストーリー
★ハッピーエンド作品です
※この作品は、BL作品です。苦手な方はそっと回れ右してください🙏
※これは創作物です、都合がいいように解釈させていただくことがありますのでご了承くださいm(_ _)m
※フィクション作品です
※誤字脱字は見つけ次第訂正しますが、脳内変換、受け流してくれると幸いです
【完】君に届かない声
未希かずは(Miki)
BL
内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。
ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。
すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。
執着囲い込み☓健気。ハピエンです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる