Liar

lein

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後編

王様への直訴

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 目が覚めるとコーヒーの香りがした。

 だがぼんやりした視界の中に、コーヒーカップはない。

 あるのは高い天井。美しい壁紙の貼られた壁。大きな窓。

 窓の外には澄んだ青空が広がり、その下に小さく都会の景色。

 遠くに見える東京タワーに、なんだエッフェル塔じゃないのか、と寝惚けたことを思う。

 だが視覚からの情報を増やそうと寝返りを打とうとして、全身のあちこちに走った痛み、とりわけ尻の激痛に思わず「っ!」と声にならない悲鳴を上げて仰け反った。完全に目が覚めて、何もかもを思い出す。

「あら、お目覚め?」

 見知らぬ女性が、口をモグモグ動かしながらやってきて、ベッドに横たわったままの綺を覗き込んだ。

 歳は三十歳前後だろうか。綺麗なミルクティー色のAラインのワンピースに、リボンのついた黒くて細いベルトを巻いている。確実に美人なのだが、高い位置できっちり結った長いストレートヘアと冷めた眼差しは、愛嬌に類するすべてを、どこかに置き去りにしてきたようだった。

 その左手には、小さなケーキが乗ったプレート。

 右手には、イチゴの刺さったデザートフォーク。

 いろいろとアンバランスな彼女は、口の中のものを飲み込んでから、不機嫌そうな顔のまま聞いてきた。

「気分はどう? 最悪?」

「ぇっ、ぁ……」

 話そうとして、唇の傷が痛んで、思わず口を閉ざす。

 声を殺そうとして自分で噛んだのだったか、乱暴に揺すられて噛んでしまったのだったか、記憶は定かではない。

 だが、彼女に聞かれて初めて、自分の身に降りかかったことを思い出しても、それほど悪い気分ではないことに気付いた。暴力的な行為に対する恐怖と、全身の痛みは相当なものだが、気分はむしろスッキリしているくらいだ。

 おそらく、この一年ずっと心の隅を占領していた玲一への罪悪感が、昨日の強引なセックスで相殺されたように思えるからだろう。

 それに、怪我の功名と言うには負った怪我が大きすぎる気はするが、綺が知りたかったことはすべて知ることができた。彼が何に苦しんでいるのかにも見当がついた。

 問題が明確になりさえすれば、後は解決するだけだ。

「ふぅん、最悪ってわけでもなさそうね。でも、いつ何がきっかけでフラッシュバックするかわからないから注意しなさい」

 まるで、昨夜あったことをすべて知っているような口ぶりだ。

 綺は自分にかけられているシーツをめくった。腕を縛っていたネクタイが外されているのはもちろん、体に飛び散っていた各種体液の感触もなく、糊のきいた真新しいパジャマを着せられている。

「私は支倉家の主治医をしている佐伯静流さえき しずる。玲一さんにあなたの手当てを依頼されて来たの。肛門の裂傷はしばらく痛むと思うから、辛ければ痛み止めを飲むように、排便が辛ければ便秘薬を一錠か二錠、弁の硬さを見て調節しながら飲んで」

 ひどく現実的なことを口にして、枕元に置いてあった薬袋をチラつかせる。

「それと、玲一さんはもう出勤したわ。この部屋は支倉家のプライベートルームのようなものだから、好きなだけ泊まって、好きなだけルームサービスを利用しろっていうのが伝言。安い慰謝料ね」

 それで静流は遠慮なくルームサービスでアフタヌーンティーを頼み、堪能していたのだろう。

 綺の手当てをしてくれたということは、男性の下半身、もっと言えば男同士のセックスで傷付いた尻の穴を見た後なのだろうに。すごい精神力だ。

 だがビジネスライクに説明してくれるおかげで、綺も顔を真っ赤にする程度で済む。本当なら今すぐ布団を被って、二度と出てきたくないくらい恥ずかしいはずなのに。

「ぁ、くは……」

 安くはないでしょう、と言おうとして、声が出ないことに驚く。

 静流が溜息をついて、リビングを出ていった。高い位置で結んだ黒いポニーテールが揺れる後ろ姿を見て、なんとなく北欧の童話に出てくる小さな女の子のキャラクターを思い出す。確か彼女は赤いワンピースだったが。

 体のどこにどんな痛みが走るのか、歯を食いしばりながら探り探り上体を起こし、壁際の時計を確認する。十五時。

 静流が持って来てくれたミネラルウォーターを数口飲み、ヒリヒリと痛む喉に顔をしかめてから、綺は改めて口を開いた。

「ありがとうございます」

 ものすごいかすれ声に、思わず笑ってしまう。

 静流はベッド脇に腕組みして立ったまま、変わらず不機嫌そうな顔をして、じっと綺を見下ろしていたが。

「訴えるべきよ」

「えっ?」

「あなた、自分が何をされたかわかってるの? 強姦は犯罪よ。なのにあなたに謝りもせずに、私を呼びつけて秘密裏に治療させて、ほとぼりが冷めるまでここで休んでろなんてバカにしてる。相手が支倉家だろうが犯罪は犯罪よ。有罪に持っていくのは難しいかもしれないけど、一度誰かが灸を据えてやらなくちゃダメよ」

「強姦じゃ、ありませんから……」

「は!?」

 パッチリした一重の目が、キッと釣り上がる。

 思わず口を噤むと、イライラしたように言い募る。

「法廷に持ち込むのが嫌なら支倉邸に行けばいいわ。玲一さんのお父様はフランスだけど、彼のお祖父様がいらっしゃるはず。なんなら一緒に行ってあげるから、直談判して、キチンとした謝罪と慰謝料を要求しなさい」

 静流の話を聞いていた綺の中で、不意に何かがひらめいた。

 彼女の「戦う気があるなら弁護士を紹介するわ」という声を聞きながら、そのひらめきに思考を凝らす。黙り込んでしまった綺を見つめ、返答を待っていた静流を見上げる。

「訴える、いや、脅せますかね……?」

「は?」

 綺の言葉に、静流が素っ頓狂な声を上げた。







 携帯でカレンダーを確認する。

 日本にいられるのは今日を含め四日しかない。

 悠長に考えたり立ち止まったりしている暇はないが、十八時をすぎ、高層階に直通のエレベーターから見覚えのある男が降りてきたとき、綺は運がこちらに向いていると思った。

「支倉さん!」

 誰にでも臆することなく声をかけられるようになったのは、フランス留学の賜物だ。

 綺は語学力ゼロ、土地感ゼロ、文化やマナーに関する知識もゼロと、フランスという国に大変失礼な留学生だった。少しでも早く現地で生活できるようになるためには、なりふり構っていられず、習得した語学力を伸ばすため、出かける先々で様々な人に声をかけて実践を積んできたのだ。

 語学力と共に培った度胸が、まさかこんな所で役立つとは夢にも思わなかったが。

 オフィスビルのロビーに響き渡った若い声に、おそらくロビーにいたすべての人の視線が綺に集まった。

 もちろん目的の人物――支倉燿隆はせくら あきたかの視線も。

 綺はできるだけゆっくりと燿隆に歩み寄った。

 落ち着いているわけじゃない。激痛と戦っているのだ。特に尻の。

「昨日お目にかかりました、緒月綺といいます。お忙しいとは思いますが、少しで結構ですので、お話する時間をいただけないでしょうか?」

「緒月さん、失礼にもほどがあります」

 燿隆は足を止めることなくビルの出口に向かう。

 彼の歩調に合わせて歩きながら願い出ると、間に身を滑らせるようにして榊が入ってきた。

 あまりに気配がしなかったのでいることに気付かなかったが、会社で燿隆に会うとなれば、彼の秘書が側にいるだろうとは予想していた。だが、今日だけは邪魔されるわけにはいかない。

 疎ましげに見下してくる視線を、綺は決死の思いでキッと睨み返した。ほんの一瞬、榊の気配が揺らぐ。

 そんな攻防の向こうから、燿隆は動揺の欠片もない静かな声を投げかけてきた。

「話とは?」

「会長!」

「お孫さんのことで」

 少しの沈黙の後、返答があった。

「聞こう。移動の車中でだが、構わないかね?」

「ありがとうございます!」

 やはり運が向いている。







 黒い宝石のような、黒塗りの車の後部座席に綺は座っていた。

 隣には、白桜ホールディングス会長、支倉燿隆。

 昨日蒼城がタメ口をきいていたので同世代なのだろうが、彼がロマンスグレーであったのに対し、燿隆はまだ黒さの残る髪を短く整えていて、だいぶ若く見えた。

 老眼鏡越しに膝の上のタブレットを見つめる目の、半分降りた瞼や眦には、彼が重ねた年月を思わせるシワが幾重にも刻まれていたが、その瞳は静けさの向こうに爛々とした光を湛えている。

 昨日は別世界の住人に思えたが、こうして小さな箱の中で向き合うと、彼も人なのだなと妙な感慨を覚えた。

 そうは言っても彼の発するただならぬオーラに圧され、綺の心臓はドキドキと忙しなく鼓動を打ち、指先が痺れるような感覚を誤魔化すのに必死なのだけれど。

「待たせたな。話を聞こう」

 操っていたタブレットから顔を上げ、老眼鏡を外し、燿隆は静かに綺を見つめた。突然押しかけてきた失礼な若者に対し、怒ってもいないが、特に興味もなさそうだった。

「ありがとうございます。あの、最初にお見せしたいものがあるんです。多少、いやだいぶお見苦しいとは思うんですけど、我慢してもらえますか?」

「見なくて済むなら見たくはないが、意味があるなら見よう」

「ありがとうございます」

 飲まれて怖気付く前に、一番やりにくいことをやってしまおうというのは、綺が唯一立てた作戦とも言えない作戦だった。

 覚悟を決めてフッと小さく息を吐く。

 首元を覆っていたストールを外し、セーターとその下に着ていたTシャツをまとめて脱ぐ。たったそれだけの動作さえ辛くて、気を緩めれば呻き声が漏れそうだったが、被害を誇張していると思われても嫌なので唇を噛み締めて耐えた。

 首を絞められた跡や手首を拘束された跡はともかく、あまりに数の多い鬱血や、明らかに歯形とわかるような傷を見られる恥ずかしさは、どうしようもない。

「玲一さんにレイプされました」

 端的に告げる。

「なるほど」

 燿隆は顔色一つ変えずに頷いた。

「それをネタに脅迫でもするつもりか?」

「そう思ったんですけど、僕には向いてなさそうなので、お願いです」

「脅迫ではなくお願いとは、ヤクザのようなことを言うな」

 燿隆は服を着ろと手で示した。

 特に見せつけたかったわけでもないので、綺は素直に従いながら話を続ける。移動の時間がどれだけあるのかわからない以上、一分一秒無駄にはできない。

「お祖父様として、お孫さんを助けてあげてください。玲一さんは今回の結婚に当たって、同性相手に性犯罪に走るほど鬱憤を溜め込んでます。なので具体的な要望としては、婚約を破棄させてほしいんです」

 杏介が綺に頼んだのと同じようなことを、燿隆に頼む。

 内容は突拍子もなく、いろいろ端折ってはいるが、嘘はない。

「その前に確認したい。そもそも君と玲一はどういう関係だ?」

 その質問に、綺はパーティー会場で直感したことは正しかったのだと確信した。燿隆は綺と玲一の関係を知らない――玲一が綺を追えないように手を打ったのは榊の一存だったのだ。

 チラリとルームミラーを窺うが、榊とは目も合わなかった。少しイラっとしたが、このまま口を出さずにいてくれれば、綺にとっても好都合だ。

「僕は元絵描きで、玲一さんは僕の絵を買ってくださったお客様です。僕が以前スランプに陥ったときに相談に乗っていただいて、それ以来、僕にとって大切な恩人でもあります。ちなみに、今回こんなことになりましたけど、お付き合いしていたなんてことはありません。僕も、たぶん玲一さんも、ゲイではないので」

 変に追及されて嘘をつくのが嫌なので、先回りして説明する。

「すると、君はレイプされた腹いせでもなく、嫉妬からでもなく、ただ玲一の精神状態を案じてこんな暴挙に出たのか。恩返しのつもりかね?」

「そんな感じです」

「……なるほど。とりあえずは理解した」

 そうは言ったが、腑に落ちていないのは明らかだ。

 綺だって、昨夜嵐に巻き込まれて妙にハイになっている今でなければ、玲一に恩義以上のものを感じているとはいえ、こんな暴挙に出ようとは思わなかっただろう。きっと明日になったら、頭を抱えて後悔するに違いない。

「だが、そもそもあやめさんとの結婚は玲一が言い出したことだ。それに最初から思うところがあったにせよ、心変わりがあったにせよ、結納まで済ませた今となってはもう遅い。仮に私が玲一に命じて婚約破棄させたとして、玲一の信用は失墜するだろうし、御堂家に訴えられる可能性も高い」

「だからこそ、支倉さんの鶴の一声を期待してお願いに来たんです。支倉さんなら、お立場とキャラクターからして、そういうことをしても許されると思ったので……」

 ホテルを出て、白桜本社に向かう道すがら、携帯で燿隆についてざっと調べた。

 インターネット上の記事は、燿隆の経営手腕や功績を褒めそやすものがほとんどではあったが、中には業界の慣習を踏み倒すような破天荒な戦略や、リスクと判断したものを敵味方関係なく切り捨てる容赦のなさを、痛烈に批判するものもあった。

 世間の理解や評価は二の次で、己の信念のまま豪胆に舵を切る。そんな姿が、非情だと恐れられる一方、彼の強烈なカリスマにつながっているらしい。

 表現には気をつけたが、どうしたって失礼なことを言っているのは間違いない。ハラハラしながら燿隆の反応を見守っていると、彼は意外にもフッと唇の端を緩めた。

「なるほど」

 感想はそれだけ。

 だが、おもしろがるような気配があった。

「だが、これが一番大切なことだと思うが、そもそも玲一が婚約破棄を望んでいるわけではあるまい? なぜ君はそうまでして結婚を阻止したいのかね?」

「それは、玲一さんが鬱憤を溜め込んでいる理由を知っているからです」

「ほう。その理由とは?」

「良心の呵責です。玲一さんは御堂あやめさんを愛しているわけではなく、出世に利用するために婚約して、今になってそれを後悔しているんです」

 多少事実を含んではいるが、大嘘だ。

 できるだけ嘘はつきたくないが、玲一が復讐を企てていることを、綺が勝手に暴露するわけにもいかない。

 燿隆はおもしろくなさそうに首を横に振った。

「生きていれば、心を殺すのが必要な局面はある。こと、私や玲一のような立場の人間であればな。それが上手くできず君に迷惑をかけたことについては、祖父として謝罪する。だが玲一ならじき慣れる。君が心配することはない」

「何、言ってるんですか……?」

 綺はギュッと拳を握って、体ごと燿隆に向き合った。

 尻の傷が開く嫌な感覚があったが、そこから全身に突き抜けた痛みよりも、燿隆に対して沸いた怒りが、綺を震えさせた。

「心を殺すのが正解みたいに言わないでください。お仕事で心より利益を優先しなくちゃならない局面があったとしても、玲一さん個人の人生で心より優先すべきことなんかないはずです! 結婚は一生ごとで、玲一さんの人生を左右するものなのに、彼の後悔を黙って見すごすんですか!?」

「私は、玲一が選んだ道を先に歩んできた先達として、心を殺すことには早く慣れた方が楽なことを知っている。それに、その道を選んだのは玲一だ。本当に嫌なら、いつだって別の道を選ぶことはできる」

 その道を選んだ理由は、あなたへの復讐のためなのに、と。

 罵倒が口を突いて出そうになって、グッと奥歯を噛み締めた。

「玲一さんには、そうできない理由があるんでしょう……」

 この交渉は綺が勝手にしていることで、燿隆の指摘する通り、玲一が望んでいることじゃない。そして綺が望んでいるのは婚約破棄だけで、復讐の阻止じゃない。

 もしも燿隆に何かを勘付かれて玲一の企みが知れれば、彼が十年積み重ねてきた努力が水の泡になるだけでなく、燿隆が玲一に対してどんな手を打つかわからない。

 だが――

「それは、私への報復かね?」

 燿隆がことさら静かな声で口にした言葉に、息が止まった。

 何かそう悟られるようなことを、自分は口にしただろうか。

 全身から血の気が引いていくサーッという音が、耳の奥に聞こえるような気がした。否定しようと思うのに言葉が見付からない。驚きに見開いた目で、ただただ目の前の男を見つめる。

 綺の反応に、燿隆はすべてを理解したようだった。

「君に落ち度はない。私も詳しく把握しているわけじゃない。ただ、玲一が私を憎んでいて何か企てているということなら、とっくに把握している。大方、私の失脚か、支倉家の資産流出でも企んでいるのだろう」

 落ち度はないと言われたが、推測を確信に変えてしまうような言動があったのかもしれない。自身の言動を振り返ろうとしたが、燿隆の発言ですっかりフリーズしてしまった頭は、何一つ思い出せない。

 ただ明確に理解したのは、玲一が自分自身まで駒として捧げたゲームの勝敗は、燿隆の手中にあるも同然だということ。

 そしておそらく、燿隆は玲一とあやめの結婚がどういうものなのかも把握していて、その上で黙って見ていたということだ。綺なんかが直談判に来たところで動いてくれるはずもない。

「…………っ!」

 体の奥底からこみ上げてきた悲しみに、綺は体を震わせた。

 胸が詰まって、喉が詰まって、息をすることもできない。

「……っ……ふ」

 引き攣れた呼吸を繰り返していると、目の前に何かが差し出された。それが何か見ようとして目を凝らし、いつの間にか涙で視界がぼやけていたことに気付き、綺はギュッと目を閉じた。

 瞳を覆っていた涙が、ボロボロと膝に落ちた。自分が泣いてどうするのだ。そう思うのに、涙は一向に止まらない。

 膝の横で爪が食い込むほど握っていた拳に、さっきまで差し出されていたものがそっと触れる。綺麗な正方形に畳まれた、グレーのハンカチ。

 綺は素直に受け取って涙を拭い、嗚咽を止めようと口元を覆った。

 幾分かクリアになった視界の中で、燿隆は窓の外に目をやった。

 いつの間にか、車は光に溢れる都会を抜け、夜の帳が降りた静かな住宅街を走っていた。

 ずいぶん長く話し込んだように思うが、白桜の本社を出てからどれくらい経ったのだろうか。そういえばこの車はどこに向かっているのだろうと、綺は回らない頭でぼんやり思った。

「大企業の経営者を〈システム〉に擬える者がいる」

 唐突に、燿隆が言った。

「私も、利益を優先して非情に徹するような判断を繰り返し、そのために何度心無い人間だと謗られてきたかしれない。自分自身をそう錯覚することもある。だが、私には守ると決めたものがある。それを守るためなら、非情にもなれるし、謗りに身を晒すことも厭わない。玲一が何を守るかは、あいつが決めればいいことだ。それが私と重なっていれば協力するし、相反するようなら身内でも容赦しない」

 玲一の復讐が燿隆の利害と一致しているから、何もせず見逃してくれているということだろうか。それとも、婚約破棄が燿隆の利害と一致すれば、協力してくれるということだろうか。

 言われている意味がよくわからなかったが、聞いてみたいことができた。

「あなたは、プライベートでも、心を殺して生きてきたんですか?」

「必要とあれば」

「それで、あなたの守りたいものは守れたんですか? あなたは今幸せなんですか? もしそうでないなら……玲一さんはあなたとは違います。玲一さんに、あなたと同じ生き方を強要するのはやめてください」

 燿隆は振り返り、大型の猛禽を思わせる目で、じっと綺を見据えた。

 そうして、クックックと、愉快そうに喉の奥で笑った。

 ふと気配を感じてそちらを向くと、ルームミラー越しに榊と目が合った。すぐに逸らされてしまったが、目が合う直前に浮かべていた驚きの表情が、綺の目に残像として残った。

 綺の問いに答えることも、笑った理由を話すこともなく。

 しばらくして笑いを収めた燿隆は、ゆっくりと首を横に振った。

「君の要望に対する答えだが、私が婚約破棄させることはない」

「どうしてですか?」

「一度正式に結んだ契約だ。若さゆえの過ちだからと手を貸すことはかんたんだが、失敗から学ぶことは大きい。それにこちらから動いて御堂家の信用を失うことはできない。万が一、婚約破棄をあちらから言い出してくるようなことがあれば、特に咎めず頷いてやっても構わないがな。玲一だって理解しているだろう」

「…………」

「会長、一旦門前で停めますか? それとも近くの駅まで?」

 車内に降りた沈黙を破るように、榊がルームミラー越しに視線をよこす。燿隆はチラリと綺を見て「ガレージへ」と言った。

 自分が下される場所の相談だとはすぐにわかった。門前だのガレージだのという単語から、この車が帰路を辿っていたこともわかったが、燿隆がガレージを指定した意味がわからない。

「顔色が悪い。少し休んで行くといい」

「いえ、そんな――」

「その泣き顔のまま帰らせては寝覚めが悪い」

「……すみません」

 暗いせいもあって、どこまで続いているのか確認できないような壁沿いを少し走った車は、やがて音もなく開いた大きな門扉の中に滑り込んだ。

 公共施設かと思うほど大きくて立派な洋館が建っていた。その脇にあるガレージに入ると、元々エンジン音も揺れもほとんどなかった車は、完全に音と動きを止めた。

 榊が車を降り、燿隆の側のドアを開ける。

「最後に一つ、すごく失礼な質問をしてもいいですか?」

「これまでの質問が失礼じゃなかったとでも?」

「いえ、すみません。では最後にとびきりのを」

「……言ってみなさい」

 支倉邸を目にして思い出したことだった。

「報復される理由を、ご存知ですか?」

「大方、私が母親を殺したように思っているのだろう。親族内で冷遇されているのを知りながら、私は庇わなかった」

「それだけですか?」

「…………」

 燿隆はじっと綺を見つめた後、洋館を見上げた。

 視線の先にあるものより遥かに遠くにあるものに、想いを馳せるように。

「物心ついた玲一は、クロエが苦しんでいる姿を見て、何をおいても彼女に寄り添うようになった。だから手を差し伸べた」

「手を差し伸べたって……助けようとしたってことですか? それはクロエさんを? それとも玲一さんを?」

「最初は玲一を。やがて、クロエを」

「それって……」

 綺は燿隆を凝視して口を開き、けれど結局何も言うことはできなかった。

 燿隆が車を降りて榊と何か話し始める。綺は燿隆に打ち明けられた話を上手く飲み込めないまま、ぐったりとシートに背中を預け、言葉にならないやり切れなさに打ちのめされていた。

「そうだ、一つ忠告しておこう」

 話を終えたらしい燿隆が、外から顔を覗かせる。

「今度会社を訪問することがあれば、スーツくらいは着てきなさい。学生でもそれくらいのマナーは弁えた方がいい」

「……一張羅を、あなたのお孫さんに台無しにされたので」

「それは申し訳なかった。今度詫びるように言っておこう」

「いえ、結構です。もうお会いする予定はありませんから」

「そうか。残念だ」

 燿隆は小さく頷いた。

 綺は車を降り、去っていく燿隆の背中を見送った。

 燿隆の姿が視界から消えると、凄まじい緊張感から解放されたせいか急激に体から力が抜けて、その場にしゃがみ込んでしまった。

 息苦しさを感じて額に触れると、じっとり嫌な汗をかいている。夜になって尻の傷が熱を持ち始めたのか、ズクンズクンと脈打つような痛みが走っている。カバンの中に静流からもらった薬袋が入っているが、痛み止めは座薬だった。

「いっ、た……」

 なんとか立ち上がろうとするが、膝に力が入らない。

「あなたはいつも無茶をする」

「えっ、あっ、うわっ!!」

 不意にすぐ側で声がして、膝の後ろに何かが差し入れられ、体が持ち上がった。思わず手に触ったものにしがみつくと、それは榊の首で。

「ええっ!?」

 驚いてパッと手を離すと、落ちそうになって、また慌ててしがみつく。ありえないほど近い距離で、榊があからさまに顔を顰めた。

「大人しくしてください。私は玲一様のように鍛えてはおりませんので」

「えっ、はい?」

「客室をお使いいただくようにと、支倉から言付かっております。お食事もそちらにお持ちする予定ですが、よろしければダイニングで支倉と召し上がりますか?」

「いっ、いえ、食欲はありませんし、すぐにお暇しますので……」

「かしこまりました」

 離してくれとも言い難い威圧感に、キューっと心臓が縮こまる。

 綺は顔を伏せて、大人しく横抱きにされたまま客室に運ばれた。







 客室に着いてすぐにしたことは、ドアに鍵をかけて尻に座薬を押し込むことだった。とてつもなく情けない気分だったが、歩けないほどの激痛には代えられない。

 熱っぽい呼吸を繰り返しながら、ありがたくベッドに横になる。

 携帯を開くと、何件か杏介からの着信履歴があった。

 そう言えば昨夜から連絡していなかったなと、昨日の昼、杏介に送り出されてから我が身に降りかかったことを、しみじみと思い出す。フランスでの日々も、最初は当たっては砕けるような体当たりの連続だったが、ここまで心身共にボロボロになりはしなかった。

 電話越しでもいいから、杏介の少し甘さを含んだ明るい声を聞きたいと思ったが、直接話すと何もかも見透かされてしまいそうで、メッセージのアプリケーションを立ち上げた。明日には報告に戻るので心配しないでほしい、と短いメッセージを送り、携帯を握ったままの手をパタリとシーツに落とす。

 燿隆とは一晩かけて話し込んだような気さえするのに、実際には一時間ほどで、現在時刻は十九時すぎ。

 目を閉じて静けさに耳をすませていると――

 カシッカシッ。

 不意に、ドアの外を何かが引っ掻くような音がした。

 ドキッとして、何の音だろうと身構える。

 ワンッ。

 元気よく吠え立てるのではなく、何かを合図するような、控えめな犬の鳴き声が聞こえた。あれ、と思って体を起こしたのは、二つの音の組み合わせに覚えがあったからだ。

 果たして、ドアを開けるとそこには見覚えのあるハスキー犬がいた。

「ラーク!」

 思いがけない再会に、思わずはしゃいでその首を抱き締める。

 フワフワの毛並みに顔を埋めると、シャンプーをしてもらって日が浅いのか、いい匂いがした。顔を離すと、釣り上がった灰色の目が綺を見つめて、口元をベロベロと舐めてくる。

「ふふっ、まさかこんなところで会えるなんて! そういえば玲一さんのマンションにはいなかったけど、普段はここにいるの?」

 部屋に迎え入れて、いつかのようにベッドに一緒に横になる。

 ラークが自分を覚えていてくれたことが嬉しくて、綺は大きくて温かな体を愛しく抱き締め、そっと目を閉じた。

 見知らぬ部屋の冷たいベッドの上も、ラークがいるだけで安らげる場所になって、すぐに猛烈な睡魔に襲われる。

 コンコン。

 ドアをノックする音がした。榊だろうか。

 そう思いながら、綺の意識は眠りに落ちていた。
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