Liar

lein

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後編

慟哭

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 どこをどう歩いたのかわからない。

 いや、歩くこともままならなかった。

 会場を出てすぐ、目に付いたレストルームに駆け込んだ。

 広々としたレストルームは、入口近くが小さなラウンジのようになっていて、綺は隅に置かれていたソファに倒れ込むように座った。

「緒月さんっ!」

 そろそろパーティーは始まったのだろうか。

 レストルームから人の気配が消えた頃、名前を呼ばれた。

 顔をあげる気力もなく俯いたままでいると、視界の中に、上品な光沢をまとった革靴の先が飛び込んできた。

「探しました。玲一さんから、お戻りになっていると聞いて……」

 聞き覚えのある声。

「約束を守って来てくださった、と思っていいんですよね? ですが、どうして半年も空けられたんです。連絡を差し上げてすぐ帰国してくださっていたら、まだ手の打ちようも――緒月さん?」

 異様な息遣いと、靴の上に落ちた雫に気付いたのだろう。

 パッとしゃがみ込み、顔を覗き込んでくる。

(黒崎、さん……)

「場所を変えましょう」

 黒崎が立ち上がり、腕を引いた。

「……いえ……もう、帰りますから」

「無理ですよ。ひどい顔色です。歩けますか?」

 強引に腕を引かれ、エレベーターに乗せられる。

「上に部屋を取ってありますから、そこまで頑張ってください」







 黒崎に案内された部屋で、ベッドを勧められ横になる。

 長居するつもりもないが拒む気力もなく、されるがままだった。

 体を固く縮こまらせて、声を殺して泣いていたせいか、ひどく頭が痛い。けれどその痛みが、綺に少し正気を取り戻させていた。

「さっき、何かおっしゃっていましたか? すみません、気が削がれていて……」

「半年前に残した着信履歴に応じて玲一さんに会いに来てくださったのなら、少し遅かったと話しました」

「半年前……?」

 何のことだろう。記憶にない。

「僕の、カバンをください」

 体を起こし、蒼城が選んでくれた立派な本革のカバンを受け取る。携帯を取り出して確認するが、着信履歴に黒崎の名前はない。

 ベッドの脇に立って様子を見ていた黒崎が、怪訝そうな顔をする。

「確かに、緒月さんの携帯にかけたはずですが……」

 ハッとして、先日電源を入れてしまった古い携帯を取り出す。

 着信履歴を確認すると、やはりそこに黒崎の名前があった。

「同じ携帯が二台? どういうことですか?」

「どういうことって……これ、黒崎さんが送ってくれたんじゃないんですか?」

「私が? 何のために……まさかっ!?」

 黒崎のセリフと何か思い当たったような表情で、綺には合点がいった。

 一年間使うなと指示があった古い携帯に、黒崎はそうと知らず電話をかけた。つまり、渡仏前に届いた携帯の送り主は黒崎ではなかったのだ。おそらくは――

「申し訳ありませんっ!」

 ガバッと、黒崎が頭を下げる。

 それをどこか遠くの出来事のように眺めて、首を傾げる。

「どうして黒崎さんが謝るんですか?」

「去年の夏、私が支倉家の親族会議に出席した際に、上司の追求をごまかせなかったせいです。ですがまさか、ここまで手を回すと思いませんでした」

「ああ……もしかして、その上司って榊さんのことですか? どうりで冷たい目で見られていると思いました」

「お会いになられたんですね。榊は支倉家の執事としても働いています。有能ですが、支倉家のためという大義名分があれば、手段を選ばない男で……」

「いいんです。榊さんのしたことは間違っていません。身内をごまかさないとできないような後ろ暗い恋愛なんて、するべきじゃありませんから……」

 虚ろな笑いが、涙と一緒にこみ上げてきて、綺は額を押さえた。

「だけど、支倉さんの住む世界は……ほんとに、もう……僕の住む世界と違いすぎて――」

「そんな風に仰らないでください!」

 黒崎は強い口調で言った。

 ともすればつかみかかられそうな気配。

 だが綺の感情は凪いだまま、微かな波も立たない。

 どうせこの男も玲一と同じ、綺とは別の世界の人間だ。どれほど言葉をかわそうと、わかり合える気がしない。

「……あなたがいなくなってから、玲一さんは笑いません」

 やがて黒崎は、おかしなことを口走った。

「僕はついさっき支倉さんの笑顔を見てきました。たくさんの方に見守られ、祝福される中で、支倉さんは、あやめさんの手を取って幸せそうに笑っていましたよ」

「あれを笑顔だなんて、あなただけはおっしゃらないでください!」

「あれが笑顔じゃなかったら、なんだっていうんですか?」

「あんなの、仕事です!」

「仕事であんなに幸せそうに笑えるんですか?」

「仕事だから完璧にこなすんです! そういう人だとご存知のはずでしょう!?」

「大恋愛の末の結婚だって聞きました! 支倉さんが一目惚れして、猛アタックしてたって……」

「それは……っ!」

「ごめんなさい……。お願いですから、もう、これ以上惨めにしないでください……。一人にしてもらえませんか。少し休んだら出て行きますから」

 何も考えたくない。

 少しでも不用意なことを考えて感情が揺らげば、必死で押さえ込んでいる何かが溢れ出してしまいそうで。心が折れて、膝が折れて、もう二度と立てなくなりそうで。

 綺は布団に潜り込み、胎児のように体を丸めた。

 やがて、ドアの閉まる硬質な音が冷たく響いた。







 静けさに耳を澄ましていると、心が去年の夏に飛んでいった。

 月明かり。潮の香り。波の気配。微かなエンジン音が近付いてきて、車がガレージに入るときにタイヤがアスファルトの砂を噛むザリザリという音が聞こえてきたときの、なんとも言えず幸せな気持ちが、昨日のことのように思い出される。

 心を引き戻したのは、さっき聞いたのと同じ硬質な音だった。

 別荘の無垢材の床とは違い、ホテルの上等な絨毯は、人が戻ってくる足音さえ消してしまう。それを淋しく思いながら、綺は体を起こした。

 時間の感覚がなくて、少し休んだら出ていくなんて言いながら、うとうとしている内に長居してしまったらしい。

 枕元に備え付けの時計で時間を確認する。二十一時すぎ。

「すみません、もう出ますから」

「ゆっくりしていってくれて構わない」

「――――!」

 返ってきた声は黒崎のものではなかった。

 ベッドで体を強張らせる綺の前に現れたのは――

「玲一さん……」

「体調はどうだ?」

 玲一はジャケットを脱ぎ、ネクタイを解いて、ベッドルームにある小部屋ほどもあるクローゼットに姿を消す。綺が息をのんで見守っていると、リビングルームからミネラルウォーターのボトルを持ってきて、ベッド脇にあった一人がけのソファに腰を下ろした。

「夕食まだなんだろう? ルームサービスでも取るか?」

「いえ……」

「まだ少し顔色が悪いな。幽霊でも見たような顔してる」

 ボトルの水を一気に半分ほど空け、フッと、玲一が微笑む。

「そう固くなるな。会いに来てくれたのは綺の方だろう?」

「それは……」

 言い淀んでいると、またリビングへ行ってしまう。

 戻ってきた玲一の手には、ウィスキーのボトルと、氷の入ったグラスが二つ。慣れた手つきでダブルのロックと、薄めの水割りを作り、水割りを綺に差し出した。

「乾杯だけ。無理に飲まなくていいから」

 受け取ると微笑んで、ごく軽くグラスを触れ合わせた。

 カランと氷の揺れる涼やかな音に続き、低い声が囁く。

「一年ぶりの再会に」

 玲一が美味そうにグラスに口付けるのを見て、つられるように水割りを口にしながら、自分はいったい何をしているのだろう、とぼんやり思う。

「さっきは驚いた。消息不明だった綺が、まさか祖父さん達と一緒に現れるとはな。いったい何があってあのメンツがそろったんだ?」

「昨日、hakuで偶然蒼城さんにお会いして……玲一さんにご結婚おめでとうございますって伝えてくださいって言ったら、自分で伝えるかって誘ってくださって……」

「あの人は昔から、なかなか粋なことをする」

「そうですね……。粋かどうかはわかりませんけど、今日のスーツも蒼城さんが買ってくださって……。あんなパーティーに着ていけるような服を持っていなかったから助かったんですけど、ちょっと甘えすぎたでしょうか」

「あの人は若いアーティストに投資するのが好きだから、気にすることはないさ。……よく似合っていた」

 玲一は笑いながらグラスに口付けた。

「今、どこで何してるんだ?」

「フランスで、美大進学のための予備校に通ってます」

「フランス……」

 呆気に取られたように、玲一が綺を見つめる。

 その視線から逃げるように、綺は目を伏せた。

「だけど、綺ならすぐに編入できるんじゃないのか?」

 hakuの生島にも同じことを言われたなと思いながら、綺は淡々と経緯を説明した。

 急に思い立ってフランスに発ち、去年の秋から約一年、リヨンにある語学学校でフランス語を勉強していたこと。

 フランスの大学入試は三月で、入学は九月。渡仏翌年の春に美大の編入試験を受けようと思ったものの、ポートフォリオの準備もできておらず、語学力も大学側の受け入れ基準に達していなかったので、一年見送らなくてはならなかったこと。

 それで語学学校を卒業した後、引き続きフランス語を磨きながら、編入試験に備えるために予備校に通い始めたこと。

 話す内に、あちらでの体当たりの日々をまざまざと思い出して、綺はこの部屋に入って初めて頰を緩めた。

「帰国する直前まではヒッチハイクをしてました」

「ヒッチハイク? 君が?」

「予備校に旅慣れてる友人がいて、彼と二人で」

「無茶なことを……」

 感心と呆れが混ざったような目で、玲一が見つめてくる。

 けれどこの一年を乗り越え、日々の生活を楽しむ余裕が生まれ始めていることは、綺には誇らしいことだ。

「誰にも頼れない、依存する相手もいないような場所で、生まれ直すつもりで生きてみたかったんです。今は毎日、朝目が覚めた瞬間から絵のことを考えていて……行き詰まってばかりだし、心が折れそうになることも多いですけど、幸せです」

「そうか、どうりで垢抜けるはずだな。すっかり見違えて……」

 玲一が、眩しいものでも見るように目を細める。

「帰国中は実家にいるのか?」

「いえ、今は杏介さんのマンションに」

「あいつの? ……それは、大丈夫なのか?」

「今のところは」

 緊張は少しずつ解けてきたものの、当たり障りのない会話が気持ち悪かった。

 玲一は本気で、綺のこの一年に興味を持ってくれているのかもしれないが、今この場において、綺にとっては自分がどこで何をしていたのかなど心底どうでもいいことだ。

 手の中で氷が溶けるばかりの水割りに口を付ける。

 普段口にしない洋酒が喉を焼く。

「怒らないんですか?」

 覚悟を決め、真っすぐに玲一を見つめた。

 その短い言葉の意味を、彼がわからないはずがない。

「そんなこと、聞きたいか?」

「聞かせてください」

「物好きだな」

 玲一は笑ってウィスキーの残りを飲み干した。

「一年前の夏。突然綺がいなくなって……わけもわからず手当たり次第探しながら、俺はお前のことを何もわかってなかったと思い知った。生活範囲も、交友関係も、あのときお前が何を考えていたのかも。今思い返せば、あの夏は俺も浮かれてたんだよな。仕事して、お前と抱き合って、ろくに会話もしていなかっただろう?」

 苦笑。当時の自分をおもしろがるように。

「ただ事故や事件に巻き込まれたわけじゃなく、自発的に姿を消したらしいとはわかった。大学の休学手続き、ギャラリーとの契約解消、冬樹にも会いに行っていたのに、俺にはメッセージの一つ、手がかりの一つも、残されていなかった。それで、お前は俺から逃げたんだと思った。あってるか?」

「……ごめんなさい」

「そうか……」

 玲一はグラスにウィスキーを足した。

 美しいセピア色をクルリと揺らして氷に馴染ませ、口を付ける。

「まぁ、さすがに直後は喪失感で何も手につかなかった。腹も立ったし、悲しみもしたし、後悔も……いろんな感情に苛まれながら、ずっとお前が逃げた理由を考えてた。考えて、考えて……考える内に、ふと、お前との出会いは試練だったんだと思った」

「試練?」

「俺にはやるべきことがある。だが、綺といると、それを最優先にするのが難しかったからな……きっと綺は、神様が俺の決意を試すためによこした試練だったんだろうと。だから、俺は綺を追わないと決めた。探偵を雇うなり、実家の力を借りるなり、打てる手はいくらでもあったが、何もしないことを選んだんだ。だから……もし綺が何か気に病んでいるなら、全部忘れろ。お前は自分の幸せを追えばいい」

「なんで、そんな言い方……」

 理由はどうあれ、玲一から逃げたのは自分だ。

 逃げ出した後、玲一が綺という存在をどう捉えようと、綺を追うより自分のやるべきことを優先しようと、そこに関しては何も言うつもりはない。だけど――

「あなたは、自分の幸せを追うつもりがないんですか?」

 それだけは、黙って看過できない。

「まさか。俺は幸せだよ」

 玲一が穏やかに微笑む。

「今日のパーティーで、そう見えなかったか?」

 やはり穏やかな声に促され、あの宴会場で見た景色を思い出す。

「白桜ホールディングスの会長の孫であり、支倉家唯一の嫡子が、御堂家で蝶よ花よと育てられた美しく聡明な女性と結婚するんだ。祖父の会社の基盤はますます堅固なものになるし、俺が祖父の会社に移ったときの味方も増える。血筋を重んじる高慢な親戚も文句のつけようがない」

(白桜ホールディングス……!?)

 不意に飛び出した、日本を代表する大企業の名前に驚愕する。

 ビジネスに疎い綺でも、その名を冠する百貨店やホテルがあるのは知っているし、白桜と名は付かなくても劇場や球場、都市交通や不動産の運営に関わっていることはなんとなく知っている。確かこのホテルも。

 けれど、そんなことより――

(なんだ、これ……)

 玲一が口にしたのは、綺が彼に望んだ通りの未来だ。

 支倉家に釣り合う立派な家柄の女性と結婚し、温かな家庭を築き、彼の親族が望むような社会的地位を手に入れる。偏見の目に晒されることもなく胸を張って生きていけて、誰からも祝福され受け入れられる未来。

 なのになぜ。

 こんなに薄ら寒く感じるのか。

 穏やかなアイスグレーの目を見つめながら、不意に脳裏をよぎったのは、ついさっき聞いた黒崎の言葉だった。

 綺がいなくなってから、玲一は笑わなくなったと。御堂あやめの手を取って玲一が笑みを浮かべたのは仕事だと。そう、彼は言った。

 あの時、頭が理解できなかった言葉の意味に、心が勘付き始めている。

「……政略結婚なんですか?」

「なぜ?」

「杏介さんが……」

「ああ。もしかして、フランスにいた綺が俺の結婚を知ったのは、あいつが知らせたからなのか?」

「……杏介さんは、玲一さんが僕にフラれたせいで自暴自棄になって、平静じゃない状態で婚約に踏み切ったって言ってました。政略結婚で、好きでもない女性と形だけの家族を作ろうとしているから、婚約破棄するよう説得してほしいって」

「なるほど。それで綺は、責任を感じてわざわざ帰国したってわけだ」

「はい。でも、さっき蒼城さんから、玲一さんとあやめさんは大恋愛の末の結婚だって聞いて、お二人の幸せそうな姿を見て、杏介さんは何か誤解しているのか、そうでなくても杞憂だと思いました。それで僕は、何もせず帰ろうとしたんですけど……今のあなたを見ていると、どっちが本当だったのか、わからなくなる……」

「今の俺は、お前の目にどう見えている?」

 アイスグレーの目が綺を見つめる。

 凪いだ湖面のように静かな眼差しを、じっと見つめ返しながら思い出したのは、彼とすごした最後の夜のことだった。

 ベッドで綺の体をくすぐり、意見を聞かせろと強請った。

 まじめに述べた意見に、心底愉快そうに爆笑し。

 その後、虹を見つけた子どものように微笑んで「好きだ」と。

 あの時の彼の方が、よほど――

「嘘つき」

 言葉がこぼれ出た。

「なんでだか、僕にもわかりません。でも、今のあなたを見て、幸せそうだって感じられない……」

「ああ」

 玲一は、一つ、ゆっくり頷いた。

 なぜか少し嬉しそうに微笑んで。

「どういうことなんですか? どうしてこんなことに……」

 玲一が立ち上がる。怒らせたかと身を固くしていると、ベッドサイドに歩み寄ってきて、綺の目元に指先で触れた。

「杏介はお前を騙したんだよ」

「えっ……」

 いつの間にか自分は泣いていたらしい。

 玲一は指ですくった涙を唇に運び、口付けた。

「あいつはずっと、この結婚に反対してた。だから、俺がお前にまだ未練があるのを見抜いた上で、お前と引き合わせれば結婚を思い留まるとでも考えたんだろう。お前を俺にけしかけるために、お前のしたことがきっかけで婚約に至ったような言い方をして、罪悪感を煽って帰国させたんだ」

 凪いだ目のまま、玲一は淡々と語る。

「だが、さっき話しただろう? お前がいなくなった後、自分がやるべきことをやると決めた俺に、自暴自棄になっている暇なんかなかったさ。婚約は至って冷静に決めたことだ。綺や杏介がどう説得してきたところで破棄するつもりはないし、お前が責任を感じることもない。だから、もう忘れろ」

「だけど、じゃあ、政略結婚っていうのも杏介さんの嘘なんですか? そもそも杏介さんが玲一さんの結婚に反対していたのはどうしてなんですか? 僕を騙しまでして帰国させて、玲一さんの結婚を引きとめようとしたのは――」

「綺。もうこれ以上関わろうとするな」

 言い募る綺に、玲一が語気を強める。

 思わず怯みかけたが、それまでずっと凪いでいた目が揺らいだのを見て、ここで引いてはいけないと直感した。

「体調が落ち着いたならもう帰れ。あまり遅くなると杏介が心配するぞ」

「はぐらかさないでください。今のあなたを、こんなわけがわからないまま放っていけるはずないじゃないですか。幸せを装って、自分にも周りにも嘘をついてまでして、どうして結婚しようとするんですか!?」

「お前には関係のないことだ」

「それでも知りたいんです」

「なぜ?」

「あなたの幸せを見届けたいからです」

「俺の元から逃げ出したお前がそれを言うのか!?」

「うっ!」

 胸ぐらを掴まれ、ベッドヘッドに押し付けられる。

 獲物を追い詰めた狼のような、鋭利な眼光に射抜かれて。

 それでも凪いだ目よりよほどいいと、恐怖よりも安堵を覚えた。

「あなたの、言う通りだ。一年前、あなたから逃げた僕に、本当はこんなことを言う資格なんかない。自分のこともおぼつかない僕には、あなたが僕に対してしてくれたようなことは何もできない。それでも……僕はあなたの幸せを願っているんです! そのためにできることがあるなら何だってします!」

 綺が言うのを聞いて、玲一がハッと鼻で笑う。

「恩返しか? それとも償いのつもりか? 気持ちはありがたいが、お前にできることは何もない。これ以上関わるな!」

「なら僕が勝手に見つけます!」

「綺!」

 耐えきれなくなったように叫ぶ。

 綺をベッドに突き飛ばして、苛々とソファに座る。

「……そこまで知りたいなら、幻滅させてやる」

「幻滅?」

 テーブルに置いてあってロックグラスの中身を呷り、乱暴に息をついた。

「杏介をフォローするようで癪だが、あいつは誤解なんかしていないし、あいつの心配は杞憂でもない。あいつが俺の結婚に反対していたのは、あいつの言った通り、この結婚が政略結婚だからだ。それも自作自演のな」

「自作自演って、どういうことですか?」

「一目惚れを装って御堂あやめを口説き落とし、恋愛結婚を装って婚約した。人選から結婚まで全部、俺自身による綿密な事前調査と計画に則ったものだということだ」

「そんなっ! 何のために!?」

「ゲーム」

 玲一が口にした異質な言葉に、喉を鳴らす。

「具体的に言うと、十年前に母を殺した祖父、それから支倉一族への復讐だな。祖父を失脚させれば勝ち。失脚させる前に引退してしまったら負け。祖父はもう六十七で、いつ引退してもおかしくないし、病気にでもかかればいつ死んでもおかしくない。だから俺には時間がない」

(時間……)

 杏介がフランスに現れた時に、力説していたのを思い出す。

 玲一が綺のために二週間という時間を割いたことを、とんでもないことだと言っていたのは、きっとこのことを知っていたからだ。

「でっ、でも、前に、クロエさんは事故で亡くなったって……」

「そう、死因は主治医に処方された睡眠薬や精神安定剤を大量摂取した状態での支倉邸からの転落死。警察は事故と断定したが、マスコミは支倉一族内で陰湿なイジメがあったんじゃないか、そもそも本当に事故だったのかって騒ぎ立てていた。火のないところに煙は立たない」

「親戚の方達が……クロエさんを追い詰めたってことですか?」

「白桜の創業一家。そんな特権意識の塊みたいな連中にとって、フランスの田舎娘が支倉家の跡継ぎを掻っ攫ったのは、よほど屈辱だったんだろう。母を影で『白い胎はら』と呼んで蔑むに始まり、母が死んでも悼みもしなかった。まぁ、華やかな支倉一族も、裏を返せばそんなものだ。一族を憎んでる俺だって、結局は同じ穴のムジナ。お前みたいな非力な人間に貢献してもらわなくても、ほしいものは手に入れるし、邪魔なものは排除する。ほら、幻滅しただろう?」

 歌うように淀みなく、玲一は語った。

 きっと、心の中でもう何度も追体験を繰り返してきたのだろう。

 玲一の住むマンションを訪れたときも、杏介からサスペンス映画のような実家の介入を聞かされたときも、今日のパーティーに出席したときも。そして今この話を聞きながらも、玲一の生きる世界は遠いと思った。

 けれどそれは、もしかしたら、そう思うことで、彼の気持ちを受け入れられないことを正当化して、楽になろうとしていただけだったのかもしれない。

 突き放すばかりで、歩み寄る努力をしなかったことを、初めて後悔した。もし少しでも玲一のことを理解しようとしていたら、彼の苦しみに、少しでも早く気付けたかもしれないのに。

 綺は玲一を見つめた。

 ゆったりとソファに腰掛ける、若く美しい一人の男。

 一日の職務を終え、アルコールのせいか少し気怠そうに背もたれに体を預けている姿にさえ、年齢不相応な気品が漂っている。アイスグレーの双眸には、復讐の憎悪などカケラも見えない――その意味に、思いを馳せる。 

 目を閉じる。

 想像の翼を広げることは綺が唯一得意としていること。

 玲一が復讐を胸に生きてきた十年に、できるだけ丁寧に思いを馳せる。

 玲一が母親を亡くしたのは十年前。玲一の母親に対する親族の嫌がらせは、もっと以前、彼女が嫁いだ瞬間から、つまり玲一が生まれる前から始まっていたのだろう。

 祖国を出て嫁ぐ覚悟をしたような強い女性が、大量の薬に頼り、やがて死に至ってしまったほど壮絶な大人同士のいじめだ。母親は隠そうとしても隠し切れない。幼い日の玲一の目に、親族は、恐ろしい悪魔のように映っただろう。

 限られた時間の中で戦っている現在でさえ、弱っていた綺に母親を重ね、救いの手を延べたくらいだ。幼い日の彼も、母親を救おうと戦っただろうが、大勢の大人相手に、何ができただろう。

 そしてついに、玲一が高校生のときに、母親は亡くなった。

 ゲームと称した復讐の始まりだ。

 勝利の条件は、親族の頭、白桜のトップ、支倉燿隆を失脚させること。

 到底勝ち目はない。勘付かれれば容易く潰されるだろう。だから敵意は徹底的に殺し、周到に準備を重ねる必要があった。勉学に励み、仕事に打ち込み、異例の若さで出世して成功をおさめ、あらゆる努力を生まれ持った才能と見せかけて自然を装い、静かに忍び寄った。

 若さを考えれば、誘惑は多かったはずだ。秀麗な容姿を利用して女性に溺れることも、手にした金の力で豪遊することも、玲一なら自由にできたはず。それでも、彼は自身を律し続けた。

 夏の海を前にしても、朝焼けに気付かないほど集中して。

 最低限の眠りで、自身を酷使して。

 そんな極限状況で、彼は恋に落ち、そして手放し。

 今、彼は自分自身まで、ゲームの駒にしようとしている。

 閉じた目を押し開くように、涙が溢れた。

「やっぱりあなたは嘘つきだ……」

 滲んだ視界に、玲一の苛立ちを捉える。

 けれど、涙も言葉も止められなかった。

「ほしいものは手に入れる? あなたは、ほしいものを手に入れたりできない。やるべきことなんて言って、ゲームだなんて言って、復讐を遂げるまで、ほしいものを手に入れるための時間さえ割くつもりないんでしょう……?」

 そうやってどれほどのものを見送ってきたのだろう。

 優しい彼が、復讐を抱いて、身内を憎んで、十年を費やした。そうせずにいられなかった彼の怒りと悲しみと、玲一が身を置く世界の残酷さを思うと、体が芯からゾクッと冷えて。

 思わず自身を搔き抱いたが、違う、と思った。

 この手が今、本当に抱きしめるべきは玲一だ。

「ごめんなさい……あなたを一人にして……」

「何を言って……」

「僕は自分のことで頭がいっぱいで、あなたに抱きしめてもらうばかりで……あなたを抱きしめなかった。あなたの苦しみに気付かなかった……」

「どうしてそうなるんだ」

 苛立ち、押し殺した声が呻く。

「復讐をやめろなんて、僕には言えません。でも、そのために結婚するなんて……それだけは、やめてください。それじゃ復讐が終わっても、あやめさんを見る度、あなたはきっと過去に囚われる」

 手にしたままだったグラスを、縋るように握る。

 氷が溶け切った薄い水割りが大きく揺れる。

「幸せになってください」

 わななく唇で懇願する。

「僕みたいな、立派な家柄も、子どもを残せる体も持たない、ちっぽけな画家への未練なんか捨ててください……。あなたが心から愛せる、あなたの愛を受けとめられる女性と出会って、温かな家庭を作ってください……。十年苦しんだ分……ううん、それ以上に……幸せだって笑ってください」

 嗚咽をこらえて、玲一の応えを待つ。

 玲一は深く考えに沈み込んだようにじっとしていた。

 だが、やがて何も言わずに立ち上がり、綺の手からグラスを取り上げた。その中身をゆっくり空にして、静かにテーブルに置く。

「綺が言った通り、ゲームに勝つまでは、ほしいものに手を伸ばす時間も惜しい。だがな……一晩快楽に浸るくらいの時間はある」

「な……に、言って……」

 玲一がこちらを振り返る。

 背筋がゾクッとした。

 それは決して甘い疼きなどではなく、恐怖から来るもの。

 目の前の男は確かに玲一であるはずなのに、まるで知らない男のようだった。美しい顔に酷薄な笑みを浮かべ、反射的に逃げ出そうとした綺の腕を鷲づかみにして、そのまま手荒くベッドに押し倒す。

「やっ、やめてください! あなたは婚約してるんですよ!? こんな誠実さに欠くことしたら、きっと後悔します!!」

「そんなことを気にするのは綺くらいだよ。あやめだって支倉家うちと似たような家の女だ。今頃は……」

 綺に馬乗りになって動きを封じておきながら、優しく涙を拭う。

 狂気を感じ、心臓が壊れそうに鼓動を打つ。

 恐ろしさに身体が竦み、歯の根が合わない。

「俺の幸せのためにできることなら何でもしてくれるんだろう?」

 酔いしれたように囁きながら、涙を拭ったその手で綺のネクタイを抜き取り、両手首を縛り上げた。

「やっ、やだっ! おっ、お願いです、やめてください!」

「暴れなきゃひどいことはならないさ」

「なんで、こんなっ……」

「こうでもしないと、お前はまた逃げてしまうかもしれないだろう」

 綺のジャケットのボタンを外し、シャツのボタンを外し。

 薄い胸に手の平を這わせた。

「玲一さんっ! やだ、やめっ――!」

 玲一が胸元に鼻筋を押し付け、唇を寄せる。生暖かく濡れた感触が尖りを包んで蠢くのに、綺は息を詰まらせた。

 あやめのことを考えれば抱かれるわけにはいかないのに、この異様な状況でさえ、玲一に与えられる愛撫は、驚くほど呆気なく綺の体を追い上げた。

「相変わらずすごい感度だな……」

 玲一が嘲るように笑って、下腹部の膨らみを撫で上げる。

 ベルトのバックルに手を掛けられ、がむしゃらになって身をよじると、綺の首を掴んでシーツに押さえつけた。

「ぐぁっ!」

「そういえば、杏介にも話していない、とっておきの秘密があるんだ。特別に教えてやろう」

 首を絞める手に緩やかに力を加えながら、玲一がもう一方の手で、何かを示唆するように、綺の下腹部をツと指先でなぞった。

「祖父は母をレイプしていたんだ」

「!」

「当時は祖父と同居していたんだ。体調不良で塾を早退して屋敷に戻ると、祖父の部屋から母の悲鳴が聞こえた……情けないことに、足が竦んで何もできなかった」

 明かされた過去の衝撃に抵抗を忘れた。

 息ができずパニックになりかけながら、綺は見開いた目で、目の前のアイスグレーの瞳を凝視する。玲一が微笑む。今度は自嘲するように。

「残念ながら、俺にもアイツの血は流れてる。ゲームに勝つためにと、会社組織のトップに上り詰めるほど、仕事に私情を挟む余地はなくなった……個人の良心よりも組織としての利益を優先して、非情に徹し、機械的に判断を下すというのを繰り返す内に、どんどんアイツと同化していってるような感覚に陥った……」

「ち、がぅ……」

「違わないさ! 今の俺は、ゲームに勝つって目的のためなら、このままお前を壊すことも厭わない……アイツが母にしたように!」

(違うっ! 違う、違う、違うっ!!)

 叫びたいのに、もう声も出ない。

 ああ、溢れ出す涙の向こうにも、はっきりと見えるのに。 

 深く傷付き途方に暮れた子どものような目の彼がいるのに。

 もう、否定することも、抱き締めることもできない。

「ゥェホッ! ゲホッゲホッ――!」

 綺の首を解放した玲一が、スラックスと下着を引き抜き、すっかり力をなくしていた性器を力任せに握った。そこから全身に走った激痛に顔を歪めながら、綺は張り付いた喉で必死に空気を求め、震える唇で懸命に言葉を紡いだ。

 これからひどい嵐が来るだろう。

 その前に、どうしても伝えたい。

「こ、はっ……レイプ、じゃ、な……」

 玲一の暗い目が綺を見つめる。

「だって、僕は……あなたを……愛してっ……」

 その言葉が、言葉の意味が、届いたかどうかはわからない。

 玲一は表情一つ変えずに綺の口に手を突っ込んで、口内を乱暴にかき回した。綺の体をうつ伏せにする。恐怖に竦んだ足を開き、細い腰を抱え上げ、唾液を絡ませた指を固く閉ざされた秘部に突き入れる。

「うっ、ぐ……」

 激痛に身体が強張る。

 息をつく間もなく指が引き抜かれ、次の瞬間。

「ぅあああぁぁぁぁぁっ!」

 途轍もない質量のものがねじ込まれ、綺は唇を噛み締めることも、歯を食いしばることもできないまま、絶叫した。

「ああっ、あぁっ、あっ、んっ!」

 何が起きたのか理解するより早く、容赦のない抽送が始まった。

 内臓がすべてゾロリと引きずり出されるような感覚と、それを無理やり押し戻されるような圧迫感が呼吸を奪う。乾いた皮膚が裂けて引っ張られる鋭い痛みに悶絶しそうになる。

 パンパンパンッと、肌がぶつかり合う音が響く。

 ハァハァハァと、獣じみた息遣いが聞こえる。

 凄まじい激痛が、意識を奪っては返す。

「はっ、んあっ、あっ……ぁああっ!」

 綺は涙でグチャグチャの顔をシーツに押し付け、くぐもった悲鳴を上げる。

 快感などあるはずもない。玲一の顔を見ることも許されずに、身体を内側から裂くような痛みと、臓腑を抉るような突き上げに、ただただ耐えるしかない。

 抽送が早まり、玲一の息がいっそう荒くなる。

 ドンッ、ドンッと、体ごと持っていかれそうになる。

「っぐ、あぁっ、あぁっ……ぁっ!」

 奥に熱いものが叩きつけられ、じんわりと広がる。だが――

 グチュッ、グチュッ。

 腰をつかむ手は緩まなかった。

 いやらしい水音を加えて、また力任せな抽送が始まる。

 青褪めて、ガタガタ震えながら振り返ろうとすると、玲一の姿をした獣は素早く身を乗り出し、綺の頭をシーツに押さえつけた。

 埋め込まれた楔が、命の危険を感じるほどの奥を穿つ。

「ひっ……!」

 目の奥に火花が飛ぶ。

 そのまま再び狂気に飲まれる。

「ひっ、が、あっ……あぁっ!」

 激しさを増す律動。

 傷口を開かれる激しい痛み。

 発情期の獣のような熱い息遣い。

 腰に、背中に、滴り落ちる玲一の汗。

 そんなものを感じながら綺の意識は次第に薄れ、だが焼けるような痛みがそれを何度も引き戻した。

 逃げ出すことすら考えられなくなるような嵐が、綺を飲み込んだ。







 朝の気配に玲一は目覚めた。

 頭がひどくボーっとしていて、身体が重い。寒い。

 最近よく泊まるホテルの一室。見慣れた天井。

 ふと隣に気配を感じ、寝返りを打った瞬間。

 目に飛び込んできた光景に一気に覚醒し。

 そして頭は理解することを拒否した。

(……な、んだ……?)

 真紅のバラを思わせる花弁が、辺りに点々と散っていた。

 何枚かは一言に赤とは言えない、奇妙な色をしている。

 辺りには生臭くも甘ったるくも感じる異臭。

 そこに混ざる、鼻を突く鉄の匂い。

 空気が、重い。

 そんな中、一体の人形が倒れていた。

 ひどく華奢な作りの、綺麗な人形だった。

 長い睫に、滑らかな頬。血の気のない真っ白な肌。ほっそりとしたしなやかな肢体にもバラが撒かれている。乱れた黒髪には白く乾いた何かが絡んでいて、なぜかおぞましい気配を漂わせていた。

 窓から射す朝の光が、人形に降り注ぐ。ぐったりと横たわって目を閉じているが、今にも命を宿して動き出しそうだ。

(命を、宿して……?)

 ふと、その人形を知っているような気がした。

 その人形が微笑むのを、見たことがあるような気がした。

 全幅の信頼と幸せを伝えてくるような、花が綻ぶような微笑み。

「……綺……」

(嫌だ……違う……!)

 彼であるはずがない。

 最後に見た彼は、よく似合う紺のスーツをまとい、この一年の冒険を誇らしげに語り、絵を描く喜びと、美大進学という将来の希望に、綺麗な顔を輝かせていた。

 こんな酷い光景に溶け込んでいるのが。

 こんな惨い姿を晒しているのが。

 彼であるはずがない。

 だけど。

「……綺……」

 恐る恐る、覗き込む。

 躊躇いながら、乱れた黒髪が張り付いた青白い頬に、指先で触れる。

 その柔らかく冷たい感触が恐ろしくなって手を離し、赤黒い血がこびりついた唇に耳を近付けると、微かに、いつ消えてもおかしくないような息遣いが聞こえた。

「っ――!」

 絶望のどん底で、自分のしたことがまざまざと思い出され、後悔に叫び出したくなる。

 綺の闇色の瞳は、いつだって、玲一の見えないものを見る。

 玲一が見るのを忘れていたもの。

 玲一が自覚していなかったこと。

 そして、玲一が殺して沈めた心を揺さぶってしまう。

 彼が現れた瞬間から、こうなることは予感していた。パーティーで黒崎から綺を部屋に足止めしていることを耳打ちされ、パーティーの後この部屋に向かいながら、その予感はどんどん強くなった。

 会ってはいけない。

 会ったら絶対に暴かれる。

 そう思ったが、抑えられなかった。

 気付けばこの部屋にいて、やっぱり暴かれて。

「幻滅させてやる」

 そんなことを言ったけれど。

 高校入学と同時に自分を省みなくなった両親のことも、未遂とはいえ自分を襲った男達のことも、一度も責めなかった綺だ。何を打ち明けたって幻滅なんかせずに受け止めてしまうのだろうと、本当はわかっていた。

 だから、幻滅しなくてもいいから、せめて関わる気をなくして去ってほしい。顔を合わせる度暴かれていては、心を揺るがされていてはいずれ支障が出る。そう思って、復讐のことを打ち明けたのに。

 玲一の復讐を知った彼に、玲一の愛を受けとめられる女を見付けて家庭を持てと言われた瞬間――玲一の意思とは相反する、殺して沈めたはずの心が悲鳴を上げた。

 俺の幸せを願っていると、そのためなら何だってすると言いながら、どうしてお前は側にいようとしない!? どうしてお前自身には俺の愛を受け止める気がない!? そして――

「幸せになってください」

 そう言われた瞬間、無理矢理にでも奪おうと決めた。

 我ながら名案だとさえ思った。

 もう二度と会おうなんて気が起きなくなるように、この世で最も醜悪な男が母にした、惨くおぞましいことを教えてやろう。彼が自分の幸せを望んでいるというのなら、ベッドで彼の温もりに溺れるくらいの幸せは、与えてもらってもいいだろうと。

 一年ぶりに会った綺は、心も体も健康を取り戻し、見違えるほど綺麗な青年になっていた。そんな彼が他の男と日々をすごしていて、他の男に贈られた服を着ていて、この部屋を出れば他の男の家に帰っていく。

 そう思うと嫉妬で気が狂った。壊してしまいたいとさえ思った。

 獣がマーキングするように何度も精を叩き付けた。

 だが、そこに幸せは、カケラもありはしなかった。 

(お前は、わかっていたんだな……)

 十年、親友をやっていた男を思った。

 彼は玲一の弱点をきちんと見抜いていたのだ。

 綺ほど玲一の心を揺さぶり、復讐と天秤にかけて釣り合う以上の重みを持つ可能性のある存在はいないと。だが――

 玲一は綺の手の拘束を解いた。赤黒い痣の残る手首に触れ、折れていないことにホッとする。よかった、絵は描ける。

 大切な腕を胸に抱いて、きつく目を閉じた。

 この青年がほしい。

 彼の感性に触れていたい。

 彼といると、成長や出世を急ぐために、殺してきた心が蘇る。成長するに従って祖父に同化していく感覚が薄れ、本来の自分を取り戻せる気がする。

 ともすると、それは玲一に隙や甘さを生み、ゲームにおいては悪手を誘発するかもしれない。それでもこの手を離したくない。

 だが結局、自分は復讐をやめることはできないのだ。

 目を開き、窓の外の白い太陽を見上げる。

 なぜか彼と見た朝焼けを思い出す。

 美しい空の下で、朝の訪れに微笑んだ彼に見惚れ、口付けた。

 あの瞬間、自分は間違いなく幸せだった。

「俺のいる世界では、誰も朝焼けを待ったりしない……」

 抱きしめていた、痛ましい手首に唇を寄せる。

「さようなら、綺。もう二度と会わない」
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