18 / 25
後編
王子様とお姫様
しおりを挟む
久しぶりの日本は、フランスより少し温かかった。
飛行機を降り、首に巻いたストールをほどきながら見上げた空は、虚ろな秋晴れ。
「懐かしい?」
杏介に聞かれて「あまり」と首を振った。
きっと自分に帰るべき場所がないからだろう。
フランスに発つ直前まで使っていたアパートは既に退去していたし、実家には二、三度顔を合わせたことがあるだけの義理の家族が住んでいて、綺の荷物はほとんど残っていない。
「とりあえず、こっちいる間はオレん家泊まりな」
「それは助かりますけど……」
渡仏後、ビザの切り替えのため一度だけ帰国し、父親に今後の進学予定を説明して、留学費用の負担をお願いしたいと頭を下げた。
彼は息子を放置していたことを負い目に感じているからか、事を荒立てたくないからか、すぐに了承してくれたが、留学費用は決して安くない。自立できるようになったら返すつもりだし、贅沢をするわけにはいかない。
予備校の始業まで、残された日数は七日。一週間ずっとホテルに滞在するよりは、居心地が悪くとも実家に戻って、空けてくれているはずの自室に泊まらせてもらおうかと悩んでいたところだった。
「いいんですか? 杏介さんって、胡桃さんにも冬樹にも住所とか連絡先とか内緒にしてるって聞きましたけど」
「内緒にしてるわけじゃねぇよ。胡桃は放任だし、冬樹はちょっとからかうと『もういい!』ってなるから、伝えそびれてるだけ」
「ああ……」
いかにも彼の弟がしそうな反応だと思って、綺は笑った。
「お世話になります」
「よっし!」
杏介がガッツポーズする。
「じゃ、宿代は体で払ってね。普段のお触りとか、家帰ったときの『お風呂にしますか? ゴハンにしますか?』ってあれは別料金?」
「えっ……と、やっぱり実家に――」
「帰らせませーん!」
叫びながら、タクシー乗り場まで手を引かれ、後部座席に押し込まれる。
ヒッチハイクの途中、杏介と再会した街に近いマルセイユ・プロヴァンス空港から直接来たから、荷物は膝の上のリュックサック一つだ。
ラファエルとは空港で別れた。
綺自身まだしっかり把握できているとは言えない事情をかいつまんで説明すると、彼は玲一に対して「不甲斐ない!」と怒っていたが、最終的には「ヨリを戻すチャンス!」と笑って送り出してくれた。
杏介は、綺が帰国を決めてからは、綺のよく知る杏介に戻っていた。
飄々としていて、いつもふざけていて、スキンシップが多い。綺を挟んで、ラファエルとは別れる直前まで睨み合っていた。その騒々しさが、もう既に懐かしい。
「はい到着~」
タクシーを降りた杏介が、じゃじゃーんと示したマンションに、綺は少しホッとした。
代々木公園近くにあるごく普通のマンションだ。エントランスの前に立って見上げると首は痛くなるが、そこでの生活が想像できなくて胸が痛むほどではない。
杏介の部屋も、玄関から見通せる広さの2LDKで、玲一のマンションのように部屋数が多くて開けるドアを迷うこともないし、ラファエルのアパルトマンのように入ってすぐに大きなベッドが目に飛び込んでくることもない。
勧められたリビングのソファで、綺は嬉しくなって微笑む。
「なんか落ち着きます……」
「あ、ごめんね。刺激が足りなかった?」
キッチンから運んできた烏龍茶のボトルとグラスを二つ、器用にテーブルに置いた杏介は、お茶をいれもせず飛び付いてくる。
もう以前のような執着はないとはいえ、やっぱり冬樹と杏介は綺にとって特別な存在で、押し倒されたところで警戒心ははたらかない。高校時代、冬樹の実家に入り浸っていた頃は、こんなのは日常茶飯事だった。
「久しぶりですね」
「そだね」
にっこり笑って、杏介は綺をそっと抱きしめ頰を寄せた。
そこにいやらしさはなく、彼がよく口にする下ネタまがいの軽口とは逆に、子犬同士の戯れのようなあどけなさを感じるほどだった。
しばらくじっと抱き締めたままでいた後、
「お帰り、綺ちゃん」
杏介は今やっとホッとしたように呟いた。
「ただいま、杏介さん。心配かけてごめんなさい」
「うん。冬樹は大丈夫だって言ってたけど、タイミング的に、玲一に何かひどいことでもされたんじゃないかって思ってた……あいつ、時々ブッとんでるとこあるから」
「杏介さんは元気でしたか?」
「綺ちゃんいなくなってから、玲一にこき使われて大変だよ」
「そういえば杏介さんって何の仕事してるんですか?」
「フリーランスのハッカー」
「は……えっ!?」
綺の反応に、杏介は苦笑しながら説明してくれる。
「ハッカーって言うと世間には悪いイメージ持たれてっけど、そもそもはちょっとすごいだけのIT技術者のことなんだよ。その技術を悪い方向に使えば犯罪者、良い方向に使えばサイバーセキュリティを守るお仕事になる」
「なるほど……」
「ま、オレの依頼主は横暴な奴が多いから、グレーゾーンに片足突っ込こむことも多いんだけどね。中でも玲一には、この一年、ヤバイ案件ばっか持ち込まれててさ……」
さらりと言うが、飛行機の乗客名簿を見ただの、携帯のGPSを追っただのという時点で、既に依頼主に関係なくブラックゾーンに両足どっぷり浸かっていると思う。
「さっそく作戦会議、といきたいとこだけど、まずはシャワー浴びて少し休みな。移動が長かったから疲れてるだろ?」
杏介は器用にウインクをした。
そのギャラリーは、緑の池にポンと投げ込まれた白い小石のように、神楽坂の静かで落ち着いた街並みの中にポツンと存った。
看板もなく、窓も少なく、ほぼ真四角の白いキューブ。
入り口のガラス戸の横に『haku』とだけ記されていて、一見何の商売をしているのかわからない。今日は看板代わりにイーゼルが出されていて、そこに企画展のポスターが額に入れて置かれていた。
それを少し眺めた後、綺は意を決してガラス戸を押し開けた。
入ってすぐ、真っ白な壁に、大きな油画が飾ってあった。
ポスターにも使われていた、密林の絵。
原色に近い色使いと、大らかに笑いながら筆を振るったようなのびのびとした画風は、同じ油画でありながら、綺とはまるで違う世界を描き出している。そこにある光と熱を感じて見入っていると、ポンと肩を叩かれた。
「緒月君じゃないか」
ひょろりと背が高くて手足の長い男性が、綺の隣に立つ。
黒いジャケットに銀縁の眼鏡。動物のナマケモノを思わせるような、ぼんやりとした表情で綺を見下ろす彼は、hakuのオーナーの生島博栄いくしま・ひろえだ。
「ご無沙汰してます、生島さん。お元気でしたか?」
「元気だよ。久しぶりだね。今何してるの?」
「パリの美大編入を目指して、あちらの予備校に通ってます。今はバカンスで、昨日日本に帰ってきたんです」
「留学先にパリを選んだの? それは意外。でも緒月君なら予備校なんか行かなくても編入できるでしょう?」
「編入するのに必要な語学力が足りなくて」
「フランス語難しいもんね。よく行ったよね」
「最初は誰にも相手にされなくて。でも死ぬ気で新しい世界に挑むって経験をしてみたかったから、まぁ望み通りになりました」
「たくましいな。修行明けたら、また絵見せてよ」
「はい。ぜひ感想を聞かせてください」
生島は穏やかに微笑んだ。
「今日は個展の初日なんですね」
「そう、十八時からオープニングレセプション。よかったらどう?」
「いいんですか?」
「というか、そのために来たのかなって思ったんだけど」
メガネの奥の小さな目が、何かおもしろい出来事を期待するように綺を見つめている。
年中あちこち飛び回って現代アートを研究している彼は、作品だけでなく、個性豊かな作家たちの観察と理解にも長けている。
綺は「すみません」と苦笑した。
ギャラリーのオープニングレセプションは、美術関係者やコレクターをもてなしたり、次の機会につなげてもらえるよう交渉したりするのが主な目的だが、基本的には誰でも参加できる気さくなパーティーだ。
招待状もいらないし、ドレスコードもない。作家の家族、友人、一般の人々も気軽にやってきて、作品を楽しんだり軽食をつまみながら談笑したりと自由にすごすことができる。
今は、ギャラリーの一番奥で、作者が作品を解説していた。
作者は綺と同年代の女性。作品は綺の身長を優に超える大作だ。
彼女の絵はどれもエネルギーに満ちた植物の絵で、シダ植物のレースのように繊細な葉が夜の工場を覆っていたり、つる植物が鉄塔をオベリスク代わりにして伸びたりしていた。自然破壊を繰り返しながら発展する人類への風刺とも取れるが、陽気な雰囲気と色彩の美しさが、メッセージの攻撃性を和らげている。
「緒月君、いらっしゃったよ」
生島に声をかけられて、綺はドキッとしながら彼についていく。
「蒼城さん」
若者の輪の中で談笑していた男性が、生島の呼びかけに振り返り、綺の姿を認めて相好を崩した。
「以前お求めいただいた『αシリーズ』の――」
「ああ、覚えているよ。緒月綺君だ」
黒いハイネックのセーターに黒のジャケットを合わせた、ロマンスグレーの紳士は、綺を見てニヤリと笑う。
蒼城は有名なコレクターで、綺が初めて彼と知り合ったのは、綺が大学一年生のとき。
某雑誌が開催している新人賞でグランプリを受賞し、特典として開かれた個展でのことだったが、二人の出会いは決して穏やかではなかった。
「つまんないよね。なんでこんな絵描いたの?」
蒼城はまだ右も左もわからない綺をつかまえて、開口一番そう言ったのだ。その後も散々こき下ろされ質問責めにされたが、頭が真っ白になってしまって、ほとんど答えられなかった。
今になってみれば、あの質問は質問というよりは発問だった。蒼城は綺の絵に何かしら引っかかるものがあったからこそ、綺の自身の絵に対する考えを深掘りしたり鮮明にしたりするのを、手助けしてくれたのだと思う。
その証拠に、あれだけ綺にショックを与えておきながら、蒼城は翌日、綺の処女作『α-1』を購入していったのだ。
綺はさっき生島に、今日蒼城が現れたら引き合わせてほしい、と頼んでおいた。
「あのときはありがとうございました」
「お礼を言われるようなことはしていないと思うけどね。それに、結局あの絵は、知り合いに譲ってしまったんだ」
「支倉玲一さんですよね」
「ああ、なんだ、知ってたのかい?」
「実は『α-1』以降の『αシリーズ』も購入してくださっていて、去年、僕がスランプになったときに、心配して大学まで会いにきてくださったんです。僕にとって、感謝してもし切れない恩人です」
「へぇ、玲一君が」
「えっ、そうなの?」
蒼城と生島が、それぞれ驚きの声を上げる。
「玲一君がそこまで絵画にのめり込むとは思わなかったよ。それとも『αシリーズ』が彼にとって特別なものなのかな。『α-1』がまだ私の手元にあった頃、あの絵は我が家のリビングに飾ってあったんだけど、あの絵を見ていた玲一君は、なんだか泣きそうな顔をしていたしね」
「泣きそうな顔……」
「よほど彼の心が欲していたものだったんだろう。そう思ったから譲ってあげたんだ」
当時を思い出してか、蒼城が懐かしそうに目を細める。
自分の絵が玲一にとって特別なものだと言ってもらえたことが嬉しくて、密かに胸を熱くしていた綺は、けれど蒼城の最後の言葉にきょとんとした。
「心が欲していた……って、どういうことですか?」
「そうだな、例えば……今から十秒、この部屋にある赤いものを探してごらん」
「えっ?」
「始めるよ。十、九……」
「ええっ!?」
突然始まったカウントダウンに、綺はわけがわからないまま、慌ててギャラリーの中を見回した。赤いもの、赤いもの、と心の中で唱えながら、目に映る赤を視界の端から記憶して行く。
絵を眺めている女性が手にしている携帯のカバー、その絵の中の鉄塔と、それを照らす夕日。絵の横に貼られたキャプションに貼られた、売約済みを示す丸いシール。サンドイッチを頬張る少年の、運動靴の踵と靴下のロゴ。目の前を通りすぎた男性のネクタイ。
「はい、おしまい」
軽く手を打って、蒼城がニヤリと笑う。
「じゃあ、散々部屋の中を眺めた緒月君に質問。青いものは何があった?」
「ええっ……青、ですか?」
いくつもあったはずなのに、何も思い出せない。
記憶を蘇らせようと眉を寄せる綺に、蒼城は「そういうことだよ」と笑った。
「我々の目には様々なものが映っているようでいて、結局のところ気にしているものや求めているものしか見えていない。玲一君から聞いているかもしれないが、あの日はクリスマスパーティでね。可愛い女の子もいっぱいいたし、彼の勤める会社の取引先の人間や、彼のお祖父さんと付き合いのある要人も多くいた。そして我が家には他にもたくさんの絵が飾ってあった。そんな中で『α-1』が目が留まったということは、ね」
「カクテルパーティー効果ですね。広告業に携わる方らしい」
「さすがに生島さんはご存知ですね」
蒼城が生島と顔を見合わせて笑う。
どうやら有名な話らしい。
「僕は支倉さんにお会いしたことがないんですよ。いつもメールかお電話でやり取りさせていただいていて。大丈夫だったかい?」
生島が気にしているのは、いわゆるギャラリーストーカーではなかったのかということだろう。
作家、特に若手の女性作家などに多いと言われ、個展を開くとギャラリーに長時間居座ったり、購入をチラつかせてプライベートな付き合いを迫ったり、SNSで付きまとったりするらしい。
「大丈夫です。本当に親身に相談に乗ってくださっただけですから。支倉さんに出会わなかったら、僕はフランス留学しようとも思わなかったでしょうし、もしかしたら今頃絵を描いていなかったかもしれません」
「そうか。まぁ、蒼城さんにご紹介いただいた方だし、それほど心配はしていないけど……」
「緒月君、フランスに留学したのかい? 美術の勉強で?」
蒼城が興味を示したので、綺は留学先でのことを話した。
急に思い立ってフランスに発ち、約一年語学学校で勉強し、今年の九月から、美大進学のため予備校に通い始めたこと。そして今、制作に行き詰まり悩んでいること。
「なるほど、スタンスか。だけど、予備校が受験対策だけでなく制作内容にまで触れてくるなんて、珍しいんじゃない?」
「はい。でも、だからこそ重要な指摘に思えて。僕としては、作品を通して伝えたいことははっきりしていますし、コンセプトにもブレはないつもりなんですが……」
「伝わらなければないのと同じ――なんだか、アートじゃなく広告デザインの話のようだね」
「最近は自分でも腑に落ちないものを感じてはいるんです。以前は、こんな感覚なかったんですけど……」
「『学びて然る後に足らざるを知る』」
蒼城は、どことなく嬉しそうに微笑みながら言った。
「なんですか?」
「学ぶことによって初めて自分に足りないものが見えてくる、という意味の中国の名言だ。緒月君の感じている不足感は、君がきちんと学び成長していることの証なんだろう。そして、そこをクリアしたら化けるかもしれないというのには、私も賛同するな。緒月君の描くあの美しく繊細な心象風景が、鋭いメッセージを胸に叩きつけてくるのを想像すると、なんだか堪らない気分になるよ」
蒼城の言葉に耳を傾けながら、綺は胸を詰まらせた。
この二年、綺が何を目指し、何を経験し、どんな努力を重ねてきたのかを知っている人間は一人もいない。
父親とは金銭的な援助を求める以外のやり取りはしていないし、親友の冬樹や杏介とは連絡を絶っていた。他に親しい人もいない。
だから、蒼城の言葉は、初めて受け取る、この一年に対する評価のようなものだった。直接的に苦労を労ったり褒められたりしたわけではないけれど、努力を認めてくれていることは十分に理解できる。
「ありがとうございます」
目を潤ませながら深く頭を下げた綺に、綺が孤軍奮闘していることを知らない二人は驚いた顔をした。
「そっ、そうだ。せっかく帰国しているんだし、また支倉さんに相談させてもらったら?」
綺の目に溜まった涙を、制作に行き詰まってのものだと勘違いしたのか、生島が言った。綺は慌てて首を横に振る。
「お会いしたい気持ちは山々ですけど、もう一年以上連絡を取っていませんし、最近ご結婚が決まったそうでお忙しいでしょうから。あ、もし蒼城さんが支倉さんにお会いする機会があれば、ご結婚おめでとうございますって伝えてもらえますか?」
「それは構わないが……」
蒼城は顎に手を当てて少し考える素振りを見せた。
「せっかくだから自分で伝えるかい?」
「えっ?」
「実は明日、都内でちょっとしたパーティーがあってね。玲一君と彼の婚約者も現れるはずだ。少し急だけど、都合がつくなら連れていってあげるよ?」
「……いいんですか?」
「もちろん。玲一君も、君がそれだけ熱心に勉強していると知ったら喜ぶだろうからね。目をかけている画家の成長は嬉しいものだ」
蒼城はそう言って、エールを送るように綺の肩を叩いた。
「ってわけで、作戦成功です」
hakuからの帰り、綺は杏介に電話をかけ、顛末を報告した。
今日企画展を開いているのが蒼城のお気に入りの作家で、彼がオープニングレセプションに顔を出すことも、明日都内で行われるパーティーに出席することも、そのパーティに玲一が現れることも、杏介のリサーチで既にわかっていたことだった。
杏介によれば、最近の玲一は過密スケジュールで、綺が日本にいられる残り一週間の内にアポイントを取るのは不可能だった。こちらが玲一が現れる場に顔を出すしかなく、明日のパーティーは招待制なのがネックだったが、これで問題なく入り込めるだろう。
「よっし! さすが綺ちゃん。これで明日には玲一に会えるわけだ。長く引き止めて話すのは難しいかもしんねぇけど、可能性は見えてきたな」
「そうですね」
会う算段はついた。
けれど決して楽しい再会にはならないだろう。
「僕の声が、届けばいいですけど……」
綺はギュッと携帯を握りしめた。
パーティ会場は都内のホテルの宴会場だった。
こんな所を土足で歩いていいのか、とドキドキするほど柔らかな絨毯が敷かれた広い廊下を、綺はカルガモの雛のように、蒼城にくっついて歩いていく。
今日のパーティーは、某一部上場企業の創立五十周年記念パーティーだった。会場に向かう広い廊下は、社員と思しき人々で溢れ返っている。男性はスーツ、女性はドレスと、みんな華やかな装いだ。
かく言う綺も、今日の衣装は格別だ。
紺の一つボタンのスーツに、薄いブルーのシャツ、ネイビーのネクタイ。スーツは細身のすっきりとしたシルエットだが、綺が唯一要望した「動きやすいのがいいです」という声が見事に反映されていて、窮屈さは感じない。
今綺が身につけているものは、すべて蒼城に買い与えられたものだった。
待ち合わせにパーティー開始よりだいぶ早い時間を指定され、さらに普段着で来いと言われ、もしかしたらと思っていたら、案の定百貨店に連れて行かれた。
初めて会った日に散々こき下ろしたお詫びだとか、どうせこれから必要になるんだからとか、いろいろ説得されている内に、店員に手際よく試着させられ、そのまま上から下まで一式購入。
恐縮ではあったが、着の身着のまま帰国した綺はパーティーに着ていける衣装なんて持っていなかったし、杏介のスーツを借りたのではサイズが違いすぎる。蒼城も気分がよさそうなので、素直に甘えた。
「こうして見ると、緒月君の瑞々しさが際立つね」
颯爽と歩きながら蒼城がおかしそうに笑う。
「すみません……」
どんなに着飾ったところで、本来ならこんな所にいるはずもない一介の学生だ。洗練された人々の集まりに、野暮ったい人間を同伴させてしまったことを申し訳なく思ったのだが。
「違う違う。純粋に、美しいという意味だよ」
「美しいって……えっ、僕ですか!?」
「なんだ、一片の自覚も無いのか」
「はぁ……」
蒼城は小さく声を上げて笑いながら、受付に招待状を提示した。
綺は一歩下がってそれを見守っていたが、そういえばもう玲一が来ている可能性もあるのだと思い至って、辺りを見渡し――一人の男性と目が合った。
ゾクッとした。
なぜかはわからない。
特段おかしな相手でもなく、睨まれているわけでもない。それなのに、彼の切れ長の目に見られていると、背筋に氷を押し当てられたように震えが走る。
「ああ、支倉じゃないか」
綺が蛇に睨まれたカエルのように固まっていると、蒼城が軽く手を上げて、綺と目が合った男性に近付いていく。
(支倉!?)
玲一と同じ名字にドキッとする。
だが彼が立ち止まったのは、切れ長の目が印象的な男性の前ではなく、その手前にいた蒼城と同年代の男性の前だった。
(もしかして、玲一さんのお祖父さん……!)
杏介曰く、綺と玲一が懇意にしていることを知って邪魔だと判断し、フランスに渡った綺の足取りを消したという、支倉家の家長。
マズイと思ったが、時既に遅し。燿隆の目は、既に蒼城と綺を捉えていた。だが、綺に視線を留めることもなければ、顔色を変えることもない。
(あれ……?)
「なんだ、最近こういう場に出てこないから体でも壊したのかと思ったが、元気そうだな」
「玲一が結納を済ませた後、最初のハレの場だからな。婚約披露パーティーの代わりに顔を出したまでだ」
「玲一君の結婚話なら、もうそんな必要がないほど広まっているようだけどね。彼も、玲一君にお祝いが言いたいらしい」
蒼城が綺を手招く。
一歩一歩、針の上を歩くような心地で綺は近付く。
燿隆も恐ろしいが、その後ろに控えている、さっき目の合った男性も恐ろしい。恐らく燿隆の関係者なのだろうが。
「緒月君、こちらは支倉燿隆さん。玲一君のお祖父さんだよ」
「初めまして、緒月綺です」
名乗っても、やはり燿隆は小さく頷くだけで関心はなさそうだ。
(どういうことだ……?)
蒼城と燿隆は連れ立って宴会場に向かう。
二人の数歩後ろを、切れ長の目の男性が付いていく。
そのさらに数歩後ろに続いていた綺は、重厚な扉を潜った瞬間、ホウッと溜息をついた。
パーティー会場は、一流芸能人の結婚披露宴会場のように広々としていた。天井は高く、豪奢なシャンデリアが金の光を降らせる下に、真っ白なクロスと花で飾られた大きな丸テーブルが、ずらりと並んでいる。ヒッチハイクの途中でフォンテーヌブロー宮殿を訪れていなかったら、足が竦んでいたかもしれない。
三人の男性と同じテーブルに着き、給仕に注いでもらった水で、緊張でカラカラになっていた喉を潤す。
「燿隆さん」
居心地の悪さを感じていると、その響きだけで場を華やがせるような、明るい声が響いた。
振り向くと、声の印象の通り、華やかで美しい女性が微笑んでいる。
綺麗に結い上げられたナチュラルブラウンのロングヘア。クルンと巻かれた人形のように長い睫毛。バラ色のルージュで彩られたふっくらした唇。シャンパンのグラスを持つ手は白くほっそりしていて、やはりバラ色のネイルが愛らしく映えている。
華奢な体に、ウエストをキュッと絞った紺のレースのワンピースがよく似合っていて、その裾をふわりと揺らしながら歩み寄ってくる姿は、一国の姫君のようだった。
「御堂あやめさん。玲一君の婚約者だよ」
蒼城に耳打ちされなくても、わかる気がした。
この会場に来るまでに見たどの女性よりも輝いている。
大勢の目を集めていながら少しも臆することなく、むしろそれが当然であるような堂々とした立ち居振舞い。きっと幼い頃から、このような場所を何度も経験しているのだろう。
いつの間にか席を立っていた切れ長の目の男が、あやめと、その背後にいた、おそらく彼女の両親であろう男女のために椅子を引く。
「ありがとう、榊さん」
あやめが微笑むと、切れ長の目の男――榊は、光栄だと言わんばかりに微笑んだ。そして恭しく会釈して離れる間際、チラリと綺を流し見た。
その瞬間、直感した。
(あの人……!)
自分の足取りを消したのはきっと、燿隆ではなく榊だ。
だが、彼は一体何者なのだろう。
燿隆に付き従う様子からして、彼の身内ではなさそうだが。
言い知れない恐怖を感じて固まっている間に、あやめは燿隆達と雑談を交え、ちらりと会場の入口に目をやった。
「玲一さんは、まだいらっしゃらないんですか?」
「まもなく到着するかと……ああ、参りましたね」
榊が言い終わるのを待たずに、あやめは立ち上がった。
毛足の長い絨毯の上を、高いピンヒールで器用に歩いていく先に、美しい男が立っていた。
異国の血を引く、彫りが深く秀麗な顔立ち。
冬の湖を思わせるような、アイスグレーの髪と瞳。
鍛えられた長身にスーツをまとった、凛とした立ち姿。
まだ二十代だとはとても思えない落ち着きは、もはや貫禄と言ってもいいほど。会場に入ってすぐ、そわそわと自分に集まってきた好奇の目を、まるで湖面に凍てつく疾風を吹き渡らせるように、彼は冷ややかな視線で一掃した。
だが、あやめに気付くと、その雰囲気は一変。
まるで春の日の雪解けを見るようだった。
作り物めいていた顔が柔らかな微笑みを浮かべ、あやめに手を差し伸べる。彼女がその手を取ると、そっと愛しそうに引き寄せて、親密な空気の中で言葉を交わす。
(ダメだ……)
玲一の微笑みがあやめに向けられたのを見た瞬間、綺の胸はナイフを突き立てられたように堪えようのない激痛に襲われた。
「当てられるね。一年ほど前だったか、玲一君が一目惚れして以来、猛アタックしてたんだよ」
蒼城の言葉にギョッとする。
「……政略結婚じゃないんですか?」
「まさか! 大恋愛の末の結婚だよ。断り続けるあやめさんを玲一君が口説き続けて、あやめさんが根負けしたんだ。あやめさんの出席するパーティーやイベントには必ず彼が現れて、人目も憚らず手を替え品を替え、それはもう情熱的でね。なんだか恋愛映画を見せられているような気分だったよ」
どういうことだろう。
杏介は確かに政略結婚だと言っていたのに。
わけがわからない。
「支倉家と御堂家につながりができたとなると、白桜上層部の結束も固くなるんでしょうし。支倉燿隆の後継者争いは、玲一君の一人勝ちかな?」
「あまり買いかぶられても困りますが、そうなるよう尽力致します」
蒼城の言葉に、あやめの父親が力強く応える。
その場の誰もが、仲睦まじい二人の姿に目を奪われ、あるいは温かく見守っていた。
綺の目にさえ、二人は結婚を間近に控えた幸せなカップルにしか見えなかった。
(なんだ……)
俯く。
(やっぱり、何も心配いらなかったんだ……)
玲一が失恋から自暴自棄になるなんて、あるはずなかったのだ。
たとえ平静ではなかったとしても、こんなにも幸せそうなのだ。
きっと彼が後悔することなどないに違いない。
杏介の心配は杞憂だったのだ。
(よかった……よかった……)
彼が幸せなら、他に望むことなど何もない。
もう自分がここにいてするべきことは何もない。
過去に関係を持ち、未だに思いを寄せている自分は、不穏分子でしかない。だから――
(早く消えないと……)
――平静を装えなくなる、その前に。
あやめが玲一の腕を引いて、こちらのテーブルを示す。
玲一が綺の姿を認めて、軽く目を見張った。
時が止まったと思った。
あの美しいアイスグレーの目にもう一度映る日が来るなんて。
そんな日が来たら、どんなに幸せだろうと思っていたのに。
それが叶った今、胸が張り裂けて、生きた心地さえしない。
綺は静かに立ち上がり、二人に歩み寄った。
「お久しぶりです、支倉さん」
そっと微笑みかける。
本当は黙って立ち去りたかった。そうすべきだった。
だが、玲一に見つかってしまった以上、綺にできることがあるとすれば、この再会をできるだけ綺麗な思い出にして、彼の記憶から消えることだ。
「久しぶりだな、緒月君。杏介から帰国しているとは聞いていたが、まさかこんな所で会えるとは思わなかった」
玲一は怒ってもいない悲しんでもいない、ただ長く会っていなかった知り合いと再会し、驚いているだけの表情で綺を見つめた。
「玲一さん、どなた?」
あやめが小首を傾げて玲一を見上げる。
「画家の卵の緒月綺君です」
玲一は微笑んで応える。
そのやりとりを見ているだけで、今すぐ逃げ出したくなる。
「ここには、蒼城さんに連れてきてもらいました。杏介さんから、支倉さんがご結婚されると聞いて、どうしても一言、感謝とお祝いの言葉を伝えたくて」
早く。
早く。
一刻も早くこの場を立ち去らなければ。
「一年前、支倉さんに救っていただいて、僕は今も絵に生きています。描く幸せに気付かせていただいたこと、感謝してます。それと……」
早く。
早く。
ああ、もう、立っていられない。
「ご結婚、おめでとうございます。どうかお幸せに」
玲一があやめの手をぎゅっと握って「ありがとう」と微笑む。
彼女の華奢な薬指には、大きな石の付いた指輪が光っていた。
飛行機を降り、首に巻いたストールをほどきながら見上げた空は、虚ろな秋晴れ。
「懐かしい?」
杏介に聞かれて「あまり」と首を振った。
きっと自分に帰るべき場所がないからだろう。
フランスに発つ直前まで使っていたアパートは既に退去していたし、実家には二、三度顔を合わせたことがあるだけの義理の家族が住んでいて、綺の荷物はほとんど残っていない。
「とりあえず、こっちいる間はオレん家泊まりな」
「それは助かりますけど……」
渡仏後、ビザの切り替えのため一度だけ帰国し、父親に今後の進学予定を説明して、留学費用の負担をお願いしたいと頭を下げた。
彼は息子を放置していたことを負い目に感じているからか、事を荒立てたくないからか、すぐに了承してくれたが、留学費用は決して安くない。自立できるようになったら返すつもりだし、贅沢をするわけにはいかない。
予備校の始業まで、残された日数は七日。一週間ずっとホテルに滞在するよりは、居心地が悪くとも実家に戻って、空けてくれているはずの自室に泊まらせてもらおうかと悩んでいたところだった。
「いいんですか? 杏介さんって、胡桃さんにも冬樹にも住所とか連絡先とか内緒にしてるって聞きましたけど」
「内緒にしてるわけじゃねぇよ。胡桃は放任だし、冬樹はちょっとからかうと『もういい!』ってなるから、伝えそびれてるだけ」
「ああ……」
いかにも彼の弟がしそうな反応だと思って、綺は笑った。
「お世話になります」
「よっし!」
杏介がガッツポーズする。
「じゃ、宿代は体で払ってね。普段のお触りとか、家帰ったときの『お風呂にしますか? ゴハンにしますか?』ってあれは別料金?」
「えっ……と、やっぱり実家に――」
「帰らせませーん!」
叫びながら、タクシー乗り場まで手を引かれ、後部座席に押し込まれる。
ヒッチハイクの途中、杏介と再会した街に近いマルセイユ・プロヴァンス空港から直接来たから、荷物は膝の上のリュックサック一つだ。
ラファエルとは空港で別れた。
綺自身まだしっかり把握できているとは言えない事情をかいつまんで説明すると、彼は玲一に対して「不甲斐ない!」と怒っていたが、最終的には「ヨリを戻すチャンス!」と笑って送り出してくれた。
杏介は、綺が帰国を決めてからは、綺のよく知る杏介に戻っていた。
飄々としていて、いつもふざけていて、スキンシップが多い。綺を挟んで、ラファエルとは別れる直前まで睨み合っていた。その騒々しさが、もう既に懐かしい。
「はい到着~」
タクシーを降りた杏介が、じゃじゃーんと示したマンションに、綺は少しホッとした。
代々木公園近くにあるごく普通のマンションだ。エントランスの前に立って見上げると首は痛くなるが、そこでの生活が想像できなくて胸が痛むほどではない。
杏介の部屋も、玄関から見通せる広さの2LDKで、玲一のマンションのように部屋数が多くて開けるドアを迷うこともないし、ラファエルのアパルトマンのように入ってすぐに大きなベッドが目に飛び込んでくることもない。
勧められたリビングのソファで、綺は嬉しくなって微笑む。
「なんか落ち着きます……」
「あ、ごめんね。刺激が足りなかった?」
キッチンから運んできた烏龍茶のボトルとグラスを二つ、器用にテーブルに置いた杏介は、お茶をいれもせず飛び付いてくる。
もう以前のような執着はないとはいえ、やっぱり冬樹と杏介は綺にとって特別な存在で、押し倒されたところで警戒心ははたらかない。高校時代、冬樹の実家に入り浸っていた頃は、こんなのは日常茶飯事だった。
「久しぶりですね」
「そだね」
にっこり笑って、杏介は綺をそっと抱きしめ頰を寄せた。
そこにいやらしさはなく、彼がよく口にする下ネタまがいの軽口とは逆に、子犬同士の戯れのようなあどけなさを感じるほどだった。
しばらくじっと抱き締めたままでいた後、
「お帰り、綺ちゃん」
杏介は今やっとホッとしたように呟いた。
「ただいま、杏介さん。心配かけてごめんなさい」
「うん。冬樹は大丈夫だって言ってたけど、タイミング的に、玲一に何かひどいことでもされたんじゃないかって思ってた……あいつ、時々ブッとんでるとこあるから」
「杏介さんは元気でしたか?」
「綺ちゃんいなくなってから、玲一にこき使われて大変だよ」
「そういえば杏介さんって何の仕事してるんですか?」
「フリーランスのハッカー」
「は……えっ!?」
綺の反応に、杏介は苦笑しながら説明してくれる。
「ハッカーって言うと世間には悪いイメージ持たれてっけど、そもそもはちょっとすごいだけのIT技術者のことなんだよ。その技術を悪い方向に使えば犯罪者、良い方向に使えばサイバーセキュリティを守るお仕事になる」
「なるほど……」
「ま、オレの依頼主は横暴な奴が多いから、グレーゾーンに片足突っ込こむことも多いんだけどね。中でも玲一には、この一年、ヤバイ案件ばっか持ち込まれててさ……」
さらりと言うが、飛行機の乗客名簿を見ただの、携帯のGPSを追っただのという時点で、既に依頼主に関係なくブラックゾーンに両足どっぷり浸かっていると思う。
「さっそく作戦会議、といきたいとこだけど、まずはシャワー浴びて少し休みな。移動が長かったから疲れてるだろ?」
杏介は器用にウインクをした。
そのギャラリーは、緑の池にポンと投げ込まれた白い小石のように、神楽坂の静かで落ち着いた街並みの中にポツンと存った。
看板もなく、窓も少なく、ほぼ真四角の白いキューブ。
入り口のガラス戸の横に『haku』とだけ記されていて、一見何の商売をしているのかわからない。今日は看板代わりにイーゼルが出されていて、そこに企画展のポスターが額に入れて置かれていた。
それを少し眺めた後、綺は意を決してガラス戸を押し開けた。
入ってすぐ、真っ白な壁に、大きな油画が飾ってあった。
ポスターにも使われていた、密林の絵。
原色に近い色使いと、大らかに笑いながら筆を振るったようなのびのびとした画風は、同じ油画でありながら、綺とはまるで違う世界を描き出している。そこにある光と熱を感じて見入っていると、ポンと肩を叩かれた。
「緒月君じゃないか」
ひょろりと背が高くて手足の長い男性が、綺の隣に立つ。
黒いジャケットに銀縁の眼鏡。動物のナマケモノを思わせるような、ぼんやりとした表情で綺を見下ろす彼は、hakuのオーナーの生島博栄いくしま・ひろえだ。
「ご無沙汰してます、生島さん。お元気でしたか?」
「元気だよ。久しぶりだね。今何してるの?」
「パリの美大編入を目指して、あちらの予備校に通ってます。今はバカンスで、昨日日本に帰ってきたんです」
「留学先にパリを選んだの? それは意外。でも緒月君なら予備校なんか行かなくても編入できるでしょう?」
「編入するのに必要な語学力が足りなくて」
「フランス語難しいもんね。よく行ったよね」
「最初は誰にも相手にされなくて。でも死ぬ気で新しい世界に挑むって経験をしてみたかったから、まぁ望み通りになりました」
「たくましいな。修行明けたら、また絵見せてよ」
「はい。ぜひ感想を聞かせてください」
生島は穏やかに微笑んだ。
「今日は個展の初日なんですね」
「そう、十八時からオープニングレセプション。よかったらどう?」
「いいんですか?」
「というか、そのために来たのかなって思ったんだけど」
メガネの奥の小さな目が、何かおもしろい出来事を期待するように綺を見つめている。
年中あちこち飛び回って現代アートを研究している彼は、作品だけでなく、個性豊かな作家たちの観察と理解にも長けている。
綺は「すみません」と苦笑した。
ギャラリーのオープニングレセプションは、美術関係者やコレクターをもてなしたり、次の機会につなげてもらえるよう交渉したりするのが主な目的だが、基本的には誰でも参加できる気さくなパーティーだ。
招待状もいらないし、ドレスコードもない。作家の家族、友人、一般の人々も気軽にやってきて、作品を楽しんだり軽食をつまみながら談笑したりと自由にすごすことができる。
今は、ギャラリーの一番奥で、作者が作品を解説していた。
作者は綺と同年代の女性。作品は綺の身長を優に超える大作だ。
彼女の絵はどれもエネルギーに満ちた植物の絵で、シダ植物のレースのように繊細な葉が夜の工場を覆っていたり、つる植物が鉄塔をオベリスク代わりにして伸びたりしていた。自然破壊を繰り返しながら発展する人類への風刺とも取れるが、陽気な雰囲気と色彩の美しさが、メッセージの攻撃性を和らげている。
「緒月君、いらっしゃったよ」
生島に声をかけられて、綺はドキッとしながら彼についていく。
「蒼城さん」
若者の輪の中で談笑していた男性が、生島の呼びかけに振り返り、綺の姿を認めて相好を崩した。
「以前お求めいただいた『αシリーズ』の――」
「ああ、覚えているよ。緒月綺君だ」
黒いハイネックのセーターに黒のジャケットを合わせた、ロマンスグレーの紳士は、綺を見てニヤリと笑う。
蒼城は有名なコレクターで、綺が初めて彼と知り合ったのは、綺が大学一年生のとき。
某雑誌が開催している新人賞でグランプリを受賞し、特典として開かれた個展でのことだったが、二人の出会いは決して穏やかではなかった。
「つまんないよね。なんでこんな絵描いたの?」
蒼城はまだ右も左もわからない綺をつかまえて、開口一番そう言ったのだ。その後も散々こき下ろされ質問責めにされたが、頭が真っ白になってしまって、ほとんど答えられなかった。
今になってみれば、あの質問は質問というよりは発問だった。蒼城は綺の絵に何かしら引っかかるものがあったからこそ、綺の自身の絵に対する考えを深掘りしたり鮮明にしたりするのを、手助けしてくれたのだと思う。
その証拠に、あれだけ綺にショックを与えておきながら、蒼城は翌日、綺の処女作『α-1』を購入していったのだ。
綺はさっき生島に、今日蒼城が現れたら引き合わせてほしい、と頼んでおいた。
「あのときはありがとうございました」
「お礼を言われるようなことはしていないと思うけどね。それに、結局あの絵は、知り合いに譲ってしまったんだ」
「支倉玲一さんですよね」
「ああ、なんだ、知ってたのかい?」
「実は『α-1』以降の『αシリーズ』も購入してくださっていて、去年、僕がスランプになったときに、心配して大学まで会いにきてくださったんです。僕にとって、感謝してもし切れない恩人です」
「へぇ、玲一君が」
「えっ、そうなの?」
蒼城と生島が、それぞれ驚きの声を上げる。
「玲一君がそこまで絵画にのめり込むとは思わなかったよ。それとも『αシリーズ』が彼にとって特別なものなのかな。『α-1』がまだ私の手元にあった頃、あの絵は我が家のリビングに飾ってあったんだけど、あの絵を見ていた玲一君は、なんだか泣きそうな顔をしていたしね」
「泣きそうな顔……」
「よほど彼の心が欲していたものだったんだろう。そう思ったから譲ってあげたんだ」
当時を思い出してか、蒼城が懐かしそうに目を細める。
自分の絵が玲一にとって特別なものだと言ってもらえたことが嬉しくて、密かに胸を熱くしていた綺は、けれど蒼城の最後の言葉にきょとんとした。
「心が欲していた……って、どういうことですか?」
「そうだな、例えば……今から十秒、この部屋にある赤いものを探してごらん」
「えっ?」
「始めるよ。十、九……」
「ええっ!?」
突然始まったカウントダウンに、綺はわけがわからないまま、慌ててギャラリーの中を見回した。赤いもの、赤いもの、と心の中で唱えながら、目に映る赤を視界の端から記憶して行く。
絵を眺めている女性が手にしている携帯のカバー、その絵の中の鉄塔と、それを照らす夕日。絵の横に貼られたキャプションに貼られた、売約済みを示す丸いシール。サンドイッチを頬張る少年の、運動靴の踵と靴下のロゴ。目の前を通りすぎた男性のネクタイ。
「はい、おしまい」
軽く手を打って、蒼城がニヤリと笑う。
「じゃあ、散々部屋の中を眺めた緒月君に質問。青いものは何があった?」
「ええっ……青、ですか?」
いくつもあったはずなのに、何も思い出せない。
記憶を蘇らせようと眉を寄せる綺に、蒼城は「そういうことだよ」と笑った。
「我々の目には様々なものが映っているようでいて、結局のところ気にしているものや求めているものしか見えていない。玲一君から聞いているかもしれないが、あの日はクリスマスパーティでね。可愛い女の子もいっぱいいたし、彼の勤める会社の取引先の人間や、彼のお祖父さんと付き合いのある要人も多くいた。そして我が家には他にもたくさんの絵が飾ってあった。そんな中で『α-1』が目が留まったということは、ね」
「カクテルパーティー効果ですね。広告業に携わる方らしい」
「さすがに生島さんはご存知ですね」
蒼城が生島と顔を見合わせて笑う。
どうやら有名な話らしい。
「僕は支倉さんにお会いしたことがないんですよ。いつもメールかお電話でやり取りさせていただいていて。大丈夫だったかい?」
生島が気にしているのは、いわゆるギャラリーストーカーではなかったのかということだろう。
作家、特に若手の女性作家などに多いと言われ、個展を開くとギャラリーに長時間居座ったり、購入をチラつかせてプライベートな付き合いを迫ったり、SNSで付きまとったりするらしい。
「大丈夫です。本当に親身に相談に乗ってくださっただけですから。支倉さんに出会わなかったら、僕はフランス留学しようとも思わなかったでしょうし、もしかしたら今頃絵を描いていなかったかもしれません」
「そうか。まぁ、蒼城さんにご紹介いただいた方だし、それほど心配はしていないけど……」
「緒月君、フランスに留学したのかい? 美術の勉強で?」
蒼城が興味を示したので、綺は留学先でのことを話した。
急に思い立ってフランスに発ち、約一年語学学校で勉強し、今年の九月から、美大進学のため予備校に通い始めたこと。そして今、制作に行き詰まり悩んでいること。
「なるほど、スタンスか。だけど、予備校が受験対策だけでなく制作内容にまで触れてくるなんて、珍しいんじゃない?」
「はい。でも、だからこそ重要な指摘に思えて。僕としては、作品を通して伝えたいことははっきりしていますし、コンセプトにもブレはないつもりなんですが……」
「伝わらなければないのと同じ――なんだか、アートじゃなく広告デザインの話のようだね」
「最近は自分でも腑に落ちないものを感じてはいるんです。以前は、こんな感覚なかったんですけど……」
「『学びて然る後に足らざるを知る』」
蒼城は、どことなく嬉しそうに微笑みながら言った。
「なんですか?」
「学ぶことによって初めて自分に足りないものが見えてくる、という意味の中国の名言だ。緒月君の感じている不足感は、君がきちんと学び成長していることの証なんだろう。そして、そこをクリアしたら化けるかもしれないというのには、私も賛同するな。緒月君の描くあの美しく繊細な心象風景が、鋭いメッセージを胸に叩きつけてくるのを想像すると、なんだか堪らない気分になるよ」
蒼城の言葉に耳を傾けながら、綺は胸を詰まらせた。
この二年、綺が何を目指し、何を経験し、どんな努力を重ねてきたのかを知っている人間は一人もいない。
父親とは金銭的な援助を求める以外のやり取りはしていないし、親友の冬樹や杏介とは連絡を絶っていた。他に親しい人もいない。
だから、蒼城の言葉は、初めて受け取る、この一年に対する評価のようなものだった。直接的に苦労を労ったり褒められたりしたわけではないけれど、努力を認めてくれていることは十分に理解できる。
「ありがとうございます」
目を潤ませながら深く頭を下げた綺に、綺が孤軍奮闘していることを知らない二人は驚いた顔をした。
「そっ、そうだ。せっかく帰国しているんだし、また支倉さんに相談させてもらったら?」
綺の目に溜まった涙を、制作に行き詰まってのものだと勘違いしたのか、生島が言った。綺は慌てて首を横に振る。
「お会いしたい気持ちは山々ですけど、もう一年以上連絡を取っていませんし、最近ご結婚が決まったそうでお忙しいでしょうから。あ、もし蒼城さんが支倉さんにお会いする機会があれば、ご結婚おめでとうございますって伝えてもらえますか?」
「それは構わないが……」
蒼城は顎に手を当てて少し考える素振りを見せた。
「せっかくだから自分で伝えるかい?」
「えっ?」
「実は明日、都内でちょっとしたパーティーがあってね。玲一君と彼の婚約者も現れるはずだ。少し急だけど、都合がつくなら連れていってあげるよ?」
「……いいんですか?」
「もちろん。玲一君も、君がそれだけ熱心に勉強していると知ったら喜ぶだろうからね。目をかけている画家の成長は嬉しいものだ」
蒼城はそう言って、エールを送るように綺の肩を叩いた。
「ってわけで、作戦成功です」
hakuからの帰り、綺は杏介に電話をかけ、顛末を報告した。
今日企画展を開いているのが蒼城のお気に入りの作家で、彼がオープニングレセプションに顔を出すことも、明日都内で行われるパーティーに出席することも、そのパーティに玲一が現れることも、杏介のリサーチで既にわかっていたことだった。
杏介によれば、最近の玲一は過密スケジュールで、綺が日本にいられる残り一週間の内にアポイントを取るのは不可能だった。こちらが玲一が現れる場に顔を出すしかなく、明日のパーティーは招待制なのがネックだったが、これで問題なく入り込めるだろう。
「よっし! さすが綺ちゃん。これで明日には玲一に会えるわけだ。長く引き止めて話すのは難しいかもしんねぇけど、可能性は見えてきたな」
「そうですね」
会う算段はついた。
けれど決して楽しい再会にはならないだろう。
「僕の声が、届けばいいですけど……」
綺はギュッと携帯を握りしめた。
パーティ会場は都内のホテルの宴会場だった。
こんな所を土足で歩いていいのか、とドキドキするほど柔らかな絨毯が敷かれた広い廊下を、綺はカルガモの雛のように、蒼城にくっついて歩いていく。
今日のパーティーは、某一部上場企業の創立五十周年記念パーティーだった。会場に向かう広い廊下は、社員と思しき人々で溢れ返っている。男性はスーツ、女性はドレスと、みんな華やかな装いだ。
かく言う綺も、今日の衣装は格別だ。
紺の一つボタンのスーツに、薄いブルーのシャツ、ネイビーのネクタイ。スーツは細身のすっきりとしたシルエットだが、綺が唯一要望した「動きやすいのがいいです」という声が見事に反映されていて、窮屈さは感じない。
今綺が身につけているものは、すべて蒼城に買い与えられたものだった。
待ち合わせにパーティー開始よりだいぶ早い時間を指定され、さらに普段着で来いと言われ、もしかしたらと思っていたら、案の定百貨店に連れて行かれた。
初めて会った日に散々こき下ろしたお詫びだとか、どうせこれから必要になるんだからとか、いろいろ説得されている内に、店員に手際よく試着させられ、そのまま上から下まで一式購入。
恐縮ではあったが、着の身着のまま帰国した綺はパーティーに着ていける衣装なんて持っていなかったし、杏介のスーツを借りたのではサイズが違いすぎる。蒼城も気分がよさそうなので、素直に甘えた。
「こうして見ると、緒月君の瑞々しさが際立つね」
颯爽と歩きながら蒼城がおかしそうに笑う。
「すみません……」
どんなに着飾ったところで、本来ならこんな所にいるはずもない一介の学生だ。洗練された人々の集まりに、野暮ったい人間を同伴させてしまったことを申し訳なく思ったのだが。
「違う違う。純粋に、美しいという意味だよ」
「美しいって……えっ、僕ですか!?」
「なんだ、一片の自覚も無いのか」
「はぁ……」
蒼城は小さく声を上げて笑いながら、受付に招待状を提示した。
綺は一歩下がってそれを見守っていたが、そういえばもう玲一が来ている可能性もあるのだと思い至って、辺りを見渡し――一人の男性と目が合った。
ゾクッとした。
なぜかはわからない。
特段おかしな相手でもなく、睨まれているわけでもない。それなのに、彼の切れ長の目に見られていると、背筋に氷を押し当てられたように震えが走る。
「ああ、支倉じゃないか」
綺が蛇に睨まれたカエルのように固まっていると、蒼城が軽く手を上げて、綺と目が合った男性に近付いていく。
(支倉!?)
玲一と同じ名字にドキッとする。
だが彼が立ち止まったのは、切れ長の目が印象的な男性の前ではなく、その手前にいた蒼城と同年代の男性の前だった。
(もしかして、玲一さんのお祖父さん……!)
杏介曰く、綺と玲一が懇意にしていることを知って邪魔だと判断し、フランスに渡った綺の足取りを消したという、支倉家の家長。
マズイと思ったが、時既に遅し。燿隆の目は、既に蒼城と綺を捉えていた。だが、綺に視線を留めることもなければ、顔色を変えることもない。
(あれ……?)
「なんだ、最近こういう場に出てこないから体でも壊したのかと思ったが、元気そうだな」
「玲一が結納を済ませた後、最初のハレの場だからな。婚約披露パーティーの代わりに顔を出したまでだ」
「玲一君の結婚話なら、もうそんな必要がないほど広まっているようだけどね。彼も、玲一君にお祝いが言いたいらしい」
蒼城が綺を手招く。
一歩一歩、針の上を歩くような心地で綺は近付く。
燿隆も恐ろしいが、その後ろに控えている、さっき目の合った男性も恐ろしい。恐らく燿隆の関係者なのだろうが。
「緒月君、こちらは支倉燿隆さん。玲一君のお祖父さんだよ」
「初めまして、緒月綺です」
名乗っても、やはり燿隆は小さく頷くだけで関心はなさそうだ。
(どういうことだ……?)
蒼城と燿隆は連れ立って宴会場に向かう。
二人の数歩後ろを、切れ長の目の男性が付いていく。
そのさらに数歩後ろに続いていた綺は、重厚な扉を潜った瞬間、ホウッと溜息をついた。
パーティー会場は、一流芸能人の結婚披露宴会場のように広々としていた。天井は高く、豪奢なシャンデリアが金の光を降らせる下に、真っ白なクロスと花で飾られた大きな丸テーブルが、ずらりと並んでいる。ヒッチハイクの途中でフォンテーヌブロー宮殿を訪れていなかったら、足が竦んでいたかもしれない。
三人の男性と同じテーブルに着き、給仕に注いでもらった水で、緊張でカラカラになっていた喉を潤す。
「燿隆さん」
居心地の悪さを感じていると、その響きだけで場を華やがせるような、明るい声が響いた。
振り向くと、声の印象の通り、華やかで美しい女性が微笑んでいる。
綺麗に結い上げられたナチュラルブラウンのロングヘア。クルンと巻かれた人形のように長い睫毛。バラ色のルージュで彩られたふっくらした唇。シャンパンのグラスを持つ手は白くほっそりしていて、やはりバラ色のネイルが愛らしく映えている。
華奢な体に、ウエストをキュッと絞った紺のレースのワンピースがよく似合っていて、その裾をふわりと揺らしながら歩み寄ってくる姿は、一国の姫君のようだった。
「御堂あやめさん。玲一君の婚約者だよ」
蒼城に耳打ちされなくても、わかる気がした。
この会場に来るまでに見たどの女性よりも輝いている。
大勢の目を集めていながら少しも臆することなく、むしろそれが当然であるような堂々とした立ち居振舞い。きっと幼い頃から、このような場所を何度も経験しているのだろう。
いつの間にか席を立っていた切れ長の目の男が、あやめと、その背後にいた、おそらく彼女の両親であろう男女のために椅子を引く。
「ありがとう、榊さん」
あやめが微笑むと、切れ長の目の男――榊は、光栄だと言わんばかりに微笑んだ。そして恭しく会釈して離れる間際、チラリと綺を流し見た。
その瞬間、直感した。
(あの人……!)
自分の足取りを消したのはきっと、燿隆ではなく榊だ。
だが、彼は一体何者なのだろう。
燿隆に付き従う様子からして、彼の身内ではなさそうだが。
言い知れない恐怖を感じて固まっている間に、あやめは燿隆達と雑談を交え、ちらりと会場の入口に目をやった。
「玲一さんは、まだいらっしゃらないんですか?」
「まもなく到着するかと……ああ、参りましたね」
榊が言い終わるのを待たずに、あやめは立ち上がった。
毛足の長い絨毯の上を、高いピンヒールで器用に歩いていく先に、美しい男が立っていた。
異国の血を引く、彫りが深く秀麗な顔立ち。
冬の湖を思わせるような、アイスグレーの髪と瞳。
鍛えられた長身にスーツをまとった、凛とした立ち姿。
まだ二十代だとはとても思えない落ち着きは、もはや貫禄と言ってもいいほど。会場に入ってすぐ、そわそわと自分に集まってきた好奇の目を、まるで湖面に凍てつく疾風を吹き渡らせるように、彼は冷ややかな視線で一掃した。
だが、あやめに気付くと、その雰囲気は一変。
まるで春の日の雪解けを見るようだった。
作り物めいていた顔が柔らかな微笑みを浮かべ、あやめに手を差し伸べる。彼女がその手を取ると、そっと愛しそうに引き寄せて、親密な空気の中で言葉を交わす。
(ダメだ……)
玲一の微笑みがあやめに向けられたのを見た瞬間、綺の胸はナイフを突き立てられたように堪えようのない激痛に襲われた。
「当てられるね。一年ほど前だったか、玲一君が一目惚れして以来、猛アタックしてたんだよ」
蒼城の言葉にギョッとする。
「……政略結婚じゃないんですか?」
「まさか! 大恋愛の末の結婚だよ。断り続けるあやめさんを玲一君が口説き続けて、あやめさんが根負けしたんだ。あやめさんの出席するパーティーやイベントには必ず彼が現れて、人目も憚らず手を替え品を替え、それはもう情熱的でね。なんだか恋愛映画を見せられているような気分だったよ」
どういうことだろう。
杏介は確かに政略結婚だと言っていたのに。
わけがわからない。
「支倉家と御堂家につながりができたとなると、白桜上層部の結束も固くなるんでしょうし。支倉燿隆の後継者争いは、玲一君の一人勝ちかな?」
「あまり買いかぶられても困りますが、そうなるよう尽力致します」
蒼城の言葉に、あやめの父親が力強く応える。
その場の誰もが、仲睦まじい二人の姿に目を奪われ、あるいは温かく見守っていた。
綺の目にさえ、二人は結婚を間近に控えた幸せなカップルにしか見えなかった。
(なんだ……)
俯く。
(やっぱり、何も心配いらなかったんだ……)
玲一が失恋から自暴自棄になるなんて、あるはずなかったのだ。
たとえ平静ではなかったとしても、こんなにも幸せそうなのだ。
きっと彼が後悔することなどないに違いない。
杏介の心配は杞憂だったのだ。
(よかった……よかった……)
彼が幸せなら、他に望むことなど何もない。
もう自分がここにいてするべきことは何もない。
過去に関係を持ち、未だに思いを寄せている自分は、不穏分子でしかない。だから――
(早く消えないと……)
――平静を装えなくなる、その前に。
あやめが玲一の腕を引いて、こちらのテーブルを示す。
玲一が綺の姿を認めて、軽く目を見張った。
時が止まったと思った。
あの美しいアイスグレーの目にもう一度映る日が来るなんて。
そんな日が来たら、どんなに幸せだろうと思っていたのに。
それが叶った今、胸が張り裂けて、生きた心地さえしない。
綺は静かに立ち上がり、二人に歩み寄った。
「お久しぶりです、支倉さん」
そっと微笑みかける。
本当は黙って立ち去りたかった。そうすべきだった。
だが、玲一に見つかってしまった以上、綺にできることがあるとすれば、この再会をできるだけ綺麗な思い出にして、彼の記憶から消えることだ。
「久しぶりだな、緒月君。杏介から帰国しているとは聞いていたが、まさかこんな所で会えるとは思わなかった」
玲一は怒ってもいない悲しんでもいない、ただ長く会っていなかった知り合いと再会し、驚いているだけの表情で綺を見つめた。
「玲一さん、どなた?」
あやめが小首を傾げて玲一を見上げる。
「画家の卵の緒月綺君です」
玲一は微笑んで応える。
そのやりとりを見ているだけで、今すぐ逃げ出したくなる。
「ここには、蒼城さんに連れてきてもらいました。杏介さんから、支倉さんがご結婚されると聞いて、どうしても一言、感謝とお祝いの言葉を伝えたくて」
早く。
早く。
一刻も早くこの場を立ち去らなければ。
「一年前、支倉さんに救っていただいて、僕は今も絵に生きています。描く幸せに気付かせていただいたこと、感謝してます。それと……」
早く。
早く。
ああ、もう、立っていられない。
「ご結婚、おめでとうございます。どうかお幸せに」
玲一があやめの手をぎゅっと握って「ありがとう」と微笑む。
彼女の華奢な薬指には、大きな石の付いた指輪が光っていた。
0
あなたにおすすめの小説
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
革命のエチュード
鳴真 のわか
BL
────────────────────────
黒髪穏やかイケメン×プライド高めな日独クォーター
────────────────────────
月島秋人はピアニストを目指している。
プロのピアニストである母がヨーロッパを拠点に活動しているためそれに付いて回る生活を送っていたが、中学進学を機に日本の音楽学校に入学させられて寮暮らしをスタートすることに。
ルームメイトになったのは、東城陽介。
国内外のピアノコンクールで優勝し続けていた秋人が一度だけ『二番』になった時に『一番』を掻っ攫っていった、物腰の柔らかい少年であった。
慣れない日本での生活を送るが、やけにスキンシップが過多な陽介に「好き」だと言われ…?
「おまえ、東城陽介?」
「好き、愛してる。……これ、ドイツ語だとなんて言うの?」
「大丈夫だよ、俺は絶対に月島のこと裏切らないから」
──難攻不落かと思われた孤高の天才は愛に飢えていた──
「俺は愛してるよ、……陽介のこと」
これは、二人の"天才"が世界の片隅で"家族"として幸せになるまでの物語である。
星降る夜に ~これは大人の純愛なのか。臆病者の足踏みか。~
大波小波
BL
鳴滝 和正(なるたき かずまさ)は、イベント会社に勤めるサラリーマンだ。
彼はある日、打ち合わせ先の空き時間を過ごしたプラネタリウムで、寝入ってしまう。
和正を優しく起こしてくれたのは、そこのナレーターを務める青年・清水 祐也(しみず ゆうや)だった。
祐也を気に入った和正は、頻繁にプラネタリウムに通うようになる。
夕食も共にするほど、親しくなった二人。
しかし祐也は夜のバイトが忙しく、なかなかデートの時間が取れなかった。
それでも彼と過ごした後は、心が晴れる和正だ。
浮かれ気分のまま、彼はボーイズ・バーに立ち寄った。
そしてスタッフメニューの中に、祐也の姿を見つけてしまう。
彼の夜の顔は、風俗店で働く男娼だったのだ……。
運命の番ってそんなに溺愛するもんなのぉーーー
白井由紀
BL
【BL作品】(20時30分毎日投稿)
金持ち社長・溺愛&執着 α × 貧乏・平凡&不細工だと思い込んでいる、美形Ω
幼い頃から運命の番に憧れてきたΩのゆき。自覚はしていないが小柄で美形。
ある日、ゆきは夜の街を歩いていたら、ヤンキーに絡まれてしまう。だが、偶然通りかかった運命の番、怜央が助ける。
発情期中の怜央の優しさと溺愛で恋に落ちてしまうが、自己肯定感の低いゆきには、例え、運命の番でも身分差が大きすぎると離れてしまう
離れたあと、ゆきも怜央もお互いを思う気持ちは止められない……。
すれ違っていく2人は結ばれることができるのか……
思い込みが激しいΩとΩを自分に依存させたいαの溺愛、身分差ストーリー
★ハッピーエンド作品です
※この作品は、BL作品です。苦手な方はそっと回れ右してください🙏
※これは創作物です、都合がいいように解釈させていただくことがありますのでご了承くださいm(_ _)m
※フィクション作品です
※誤字脱字は見つけ次第訂正しますが、脳内変換、受け流してくれると幸いです
【完】君に届かない声
未希かずは(Miki)
BL
内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。
ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。
すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。
執着囲い込み☓健気。ハピエンです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる