Liar

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後編

エイリアンの依頼

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 その音色が響いたのは、十月後半。

 世間ではヨーロッパの慣習に便乗して、仮装した人々が週末ごとにどこかでパレードしたりパーティしたりして盛り上がっている。

 いつもなら男は率先してその輪に飛びこみハメを外しているところだが、今年に限ってはオーバーワークで、そんな気力も体力もすっかり削がれていた。

 リビングのソファにだらりと寝そべって、テレビがバカ騒ぎを報じ始めたのにうんざりして電源を落としたところで、不意に聞こえてきた、美しいピアノの音色――ドビュッシーの『月の光』。

 男はハッとして立ち上がり、隣室に駆け込んだ。

 暗闇の中、小さなノートパソコンのモニターが白く光っている。

 興奮に震える手でトラックパッドを操作しログインすると、異国の地図が表示されていた。その真ん中に、赤い点が一つ。

 男は緑の目を瞠って、その点をじっと見つめた。

(奇跡、いや……運命だ……!)

 自分の目で確かめてもまだ信じられない。身体中がゾクゾクして、何者に対してかわからない感謝の気持ちがフツフツと湧いてきて、ワケのわからないことをめちゃくちゃに叫び出したくなる。

「見つけた……見つけた! 見つけた!!」

 男は額を押さえ、泣きそうになりながら笑った。

 鮮やかなオレンジ色の髪をかき上げ、弾かれたように動き出す。

 リュックサックの中に必要最低限のものを詰め込み、最後にお守りを携えて、住処を飛び出した。







 最初、幻覚でも見ているのかと思った。

 様々な人種が集まるフランスにあっても、男の姿は異彩を放っていた。陽の光を受けて煌めくエメラルドグリーンの瞳に、もぎたての柑橘類を思わせるハッとするようなオレンジの髪。

 綺と目が合った瞬間、男もまた信じられないものを見たように目を瞠り、だが次の瞬間には、顔をクシャッと歪めて駆け寄ってきた。

 瞬時に思ったことは一つ。

(逃げないと)

 パッと身を翻し、駆け出す。

 目的地にしていたマルセイユまでは、後一度車を捕まえれば辿り着けるだろうという距離にある、小さな街に来ていた。どこに逃げればいいのか、どこに身を隠せばいいのか。何も考えられないままとにかく走る。

「アヤっ!?」

 道路脇に腰を下ろし、バイオリンを片付けていたラファエルが顔を上げるが、事情を説明している余裕はない。

 だが彼は、綺の後を追って駆け出した男の存在に気付くと、目の前を全速力で通りすぎた男の背中に渾身の力でリュックサックを投げつけた。よろめいたところを羽交い締めにする。

「逃げろ!」

 力強い声を背中に聞いて走る続けるが、

『綺ちゃん! 玲一を助けてくれ!』

 ラファエルを突き飛ばしながら男が叫んだセリフに、思わず足が止まった。

 一度立ち止まってしまうともうダメだった。勢いで振り切ったショックと緊張に捕まり、ガタガタと体が震え始めて、もう一歩も踏み出せなくなる。

 立ち尽くし、振り返ることもできなくなった綺を、男が後ろからギュッと抱き締めた。

『やっと、つかまえた』

 耳元で男――杏介が、心底ホッとしたように囁いた。







 カフェに入り、テーブルを挟んで杏介と向かい合う。

『助けてくれって、どういうことですか?』

 久しぶりの日本語だ。

 元気でしたかとか、どうしてましたかとか、当たり障りのないセリフはいくらでもあった。冬樹のことだって聞きたかった。

 けれど、どうしたって一番気になることは決まっていて、それを聞かないことには、他に何を話してもおざなりになりそうな気がした。

 杏介もそれがわかっているからか、余計なことは言わなかった。

『ああ。こんな話、本当は綺ちゃんに聞かせたくねぇんだけどさ』

 前置きをして、真っ直ぐに綺を見据える。

『玲一が婚約したんだ』

 細く長い針がスッと心臓を貫いたようだった。

 あまりの痛みに声も出ない。心臓は貫かれたことに気付かないまま鼓動を続けるが、その度に血が吹き出して、脳裏を赤く染めていく。体温が失われ、すべての感覚が麻痺していく。

 動けなくなるその前にと、綺は微笑んだ。

『それは、おめでとうございま――』

『あいつは綺ちゃんにフラれて自暴自棄になってるだけなんだ』

 被せられた言葉に、微笑みが消える。

 言っている意味を理解できず、まじまじと杏介を見つめる。

 彼が何を知っているのか。どこまで知っているのか。それがわからないまま迂闊に口を開けば、玲一のプラーベートを暴露し、名誉を傷つけることになりかねない。

『フラれて、って……玲一さんに何か聞いたんですか?』

『いや、玲一からは何も。全部オレの推測だ』

『推測?』

『冬樹にも知ってること全部吐けって言ったんだけど、あいつ何を隠してんのか、ざっくりしか話さなくてさ。でも聞いた話だと、玲一は綺ちゃんに二週間も時間を割いた。綺ちゃんはその後すっげぇ唐突に海外に留学して、残された玲一はバカみたいに仕事に没頭してる――よくある、女に逃げられた男の行動パターンだろ?』

『そんなこと……玲一さんは元々仕事熱心な人だから――』

『頼むから、はぐらかすのはやめてくれ!』

 急に、杏介が声を荒げた。

 それは特別大きな声ではなく、低く押し殺したような声だったが、追い詰められた動物の最後の威嚇のように切迫していた。

 日本語を理解しないラファエルまで、綺の隣で息を飲んでいる。

『二週間だ! 玲一は綺ちゃんに二週間も時間を割いたんだ! それがどれだけとんでもないことか……これが惚れたんじゃなきゃ何だってんだよ!? 説明してくれよ!!』

 杏介が緑の目をギラつかせる。

『何より、綺ちゃんのフランス留学には、玲一の実家が一枚噛んでる』

『えっ……』

『携帯、二台持ってんだろ? 日本で使ってた方、昨日まで電源落ちてたの、なんで? こっちで使ってるやつ、誰名義のやつ? どうやって手に入れた?』

 杏介の言う通り、綺は携帯を二台持っている。

 日本にいた頃使っていた古いものが一台。

 そして、それと全く同じ機種がもう一台。

 後者は、フランスに発つ前、綺のアパートの郵便受けに入っていた。携帯が納められていた箱には宅配便の伝票もなく、差出人の名前も書かれていなかった。

 同梱されていた手紙には、必要最低限のデータを新しい携帯に移し次第、今使っている携帯の電源を落とし、最低一年は新しい携帯だけを使うようにと書かれていた。名義がどうなっているかは知らない。

 薄気味悪いと思いながら、素直に従ったのは、送り主に心当たりがあったからだ。

 指示通り一年以上が経っていたとはいえ、古い携帯の電源を入れてしまったのは、まったくの偶然だった。

 昨夜、野宿を始めてから携帯の充電が切れているのに気付き、薄闇の中、間違えて古い携帯をモバイルバッテリーにつないでしまったのだ。

 古い携帯を持ち歩いていたのは、旅先で万が一のことがあったときに、そこにしか連絡先を登録していない古い知人に連絡が取れるように。携帯を取り違えてしまったのは、普段ポーチにしまいこんでいた古い携帯が、リュックの中に転がり出ていたから。

 この旅に出なければ、綺が古い携帯の電源を入れるのは、もう何年も先のことだっただろう。

『綺ちゃんがいなくなってすぐ、綺ちゃんの携帯のGPSは追えなくなってた。日本発の飛行機の乗客名簿にも綺ちゃんの名前はヒットしなかった。こんな隠蔽工作、支倉家でもなきゃできっこない』

『それは、多分違います。僕が、ある人に頼んだんです。玲一さんが、僕の後を追ってこられないよう手を回してくださいって……』

『ある人って誰?』

『言えません。僕にとっては恩人です。迷惑はかけられない』

 杏介はイライラと溜息をついた。

『まぁいい。どういう経路をたどったかは知らねぇけど、最終的には玲一の実家に情報が流れたんだろう。それで支倉家が綺ちゃんの失踪に手を貸したんなら、それは支倉家にとって綺ちゃんがいなくなった方が都合がいいって判断したからだ。玲一にとってただのお気に入りの画家だったなら、そんな風には判断されない。いずれ玲一の将来を左右し得る存在だったから、そう判断されたんだ』

『…………』

 話の内容についていけない。

 だってあまりにも現実離れしている。

 GPSを追った? 飛行機の乗客名簿の改竄? とっくに成人した子供の恋愛への介入? サスペンス映画の世界じゃあるまいし。

 だが、いくら杏介でも、そんな突拍子もない作り話を聞かせるために、わざわざフランスまで来たりはしないだろう。

(本当に……)

 背筋にゾクリと寒気が走った。

「大丈夫か? 顔が真っ青だ」

 綺の隣で不機嫌そうに頬杖を付いていたラファエルが、顔を覗き込んでくる。

「ありがとう、ラフ。でも大丈夫だから」

「なぁ、このエイリアンなんなの? 王子様じゃないんだろ?」

「そうなんだけど……ごめん、説明は後にさせて。長くなるかもしれないから、外行っててもいいよ?」

「いいよ。どうせこっちが気になって楽しめないのわかってるし、こんな怪しい奴と二人で残して行けないだろ……」

「心配するようなことには、ならないはずなんだけど……」

 綺はゆっくりと深呼吸して、頷いた。

『……杏介さんの推測通りです。玲一さんが告白してくれたのに、僕は、怖くなって逃げたんです』

『怖くなって!? あいつに何かされたのか!?』

 杏介の顔がグッと険しくなる。

 綺は慌てて首を振った。

『ちっ、違います。ただ僕が臆病だっただけです』

 今でもはっきり思い出せる。

 初めて玲一に抱かれた夜、彼からは他の女性の香りがした。

 心が潰れて、地獄に突き落とされた気分だったが、それでいいとも思った。

 ゲイでもない玲一が自分に性的な興味を持ったのは、きっと何人もの女性と関係を持ってきたからこその気まぐれなのだ。親にも愛されなかった自分が、彼の愛まで手に入れられるはずがなかったのだと、そう思えばむしろ納得できて、少し気分が楽になった。

 ――だから。

「俺と付き合ってくれ。恋人として」

 玲一に最後に会った夜。

 そう言われた瞬間、嬉しさより怖さが先に立った。

 玲一との距離が縮まるほど思い知らされた、社会的な立場の違い。彼から家庭を持つ未来を奪うこと。彼の将来を嘱望する彼の家族を裏切ること。自分との関係が、いつか夢を追う彼の足かせになるかもしれないこと――それらから目を逸らして頷くことなど、できなかった。

 何より、自分などが彼に愛されるなんて現実は、そうなり得ないことを前提にして彼に抱かれてきた綺には、到底受け止められなかった。

『あいつに何かされたわけじゃないんだな?』

 こく、と小さく頷く。

『あいつのこと、好きだったの?』

 もう一度、頷く。

『今も、あいつのこと好き?』

『……もう終わったことです』

『好き?』

『……好きなんかじゃ、ないです』

『じゃ、熨斗つけて婚約者にくれてやんの? 玲一が政略結婚で、惚れてもいない女と結婚しようが、形だけの家族を作ろうが、どうでもいい? 気にもなんない?』

 綺はグッと杏介を睨んだ。

『なんでっ……なんで、そんなことになってるんですか? 玲一さんなら、幸せな家庭を作れるって……そのために、僕は……っ』

 最後まで言えないまま、わななく唇をきつく噛み締める。

 殺した嗚咽の代わりに、涙が溢れ出る。

『綺ちゃんは嘘つきだなぁ……』

 霞んだ視界の奥で、杏介がフッと微笑む気配がした。







『で、その気持ちにつけ込むようで申し訳ないんだけど、綺ちゃんに助けてやってほしいんだよね。具体的に言うと、日本に戻って玲一に婚約破棄するよう説得してほしいんだけど』

 もうすっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけて、杏介が改めて切り出す。

『だけど、どうして僕なんですか? もし杏介さんの言う通り、僕が原因で自暴自棄になって婚約したんだとしても、今さら僕が会いに行ったところで耳を貸してくれるとは思えません。むしろ親友の杏介さんが説得した方が……』

『もちろんオレも頑張って説得してたんだけど、あいつ全然聞かなくてさ。でも綺ちゃんが説得してくれれば、玲一も立ち止まって考え直すくらいはすると思うんだよね』

『どうして……』

『あいつ、毎年行ってるあの別荘に、今年は行かなかったんだよ』

 それがどうしたというのか。

 じっと聞き入っていると、杏介は小さなカフェテーブル越しに手を伸ばしてきて、綺の髪にそっと触れた。くすぐったさに少し体を竦めると、彼は目を細めて『猫みてぇ』と笑う。

『オレには、綺ちゃんとの思い出を避けてんだとしか思えない。綺ちゃんのこと思い出すと気持ちが揺らぐって、玲一に自覚があるからこそ、警戒してるんだよ』

『たまたまお仕事が忙しかっただけなんじゃないですか?』

『確かにあいつはワーカホリックだけど、それ以前にすげーマザコンなの』

 杏介は小さく溜息をついた。

『あいつが昔から優等生なのも、世に出てエリート街道爆進してんのも、そのために昼も夜もなく働いてんのも、ぜーんぶ母親のためみたいなもん。あいつの母親がフランス人なの知ってる?』

『聞いてます。確か、クロエさんですよね』

『うん。あいつの父親がフランス出張した時に、通訳として雇われて一目惚れ。その後、強引に結婚までしちまったから、支倉家の親族は総スカン。異国の田舎娘が支倉家の後継者を誑かしたって散々いじめられてる環境で、母親の血が優秀だって証明するために頑張った結果が、今のサイボーグ玲一』

(あの人に、そんな背景が……)

 あの夏、仕事部屋で見た玲一の姿を思い出す。

 机に向かう広い背中。

 疲れは見せても、鋭さを失わないアイスグレーの眼差し。

 仕事部屋の窓からは海が一望できたのに、きっとそんなものが目に入らないほど仕事に没頭していたのだろう、朝焼けを見るのも初めてだと言っていた。

 毎日毎晩、綺と抱き合った夜でさえ、夜中に起き出して仕事をしていた。その姿に、自分は確かに違和感を覚えたはずなのに、深く考えもせず、訳を知ろうともせず、あの時はただ与えられる幸せを享受していた。

 玲一はどんな思いで、あの別荘で仕事していたのだろう。

『あいつの原動力は母親にある。ぶっちゃけ、去年の夏、綺ちゃんを別荘での療養に誘ったきっかけだって、弱ってた綺ちゃんの姿が、晩年の母親の姿と重なったからだと思う。そんであの別荘は、玲一にとっては母親の墓標みたいな場所で、毎年夏の何日かをあの別荘ですごすのは墓参りみたいなもんなんだよ。なのに、今年は行かなかった。もし綺ちゃんとの思い出を避けてるんじゃなかったとしても、平静な状態だとは思えない。納得してくれた?』

『……はい。だけど僕は、たとえ婚約が破談になったとしても、玲一さんとお付き合いするつもりはなくて……だから、なんて言って説得すればいいか。それに、たとえ政略結婚だとしても、玲一さんなら、幸せな家庭を築けるんじゃないですか? お見合い結婚した人達だって、最初から愛情があったわけじゃなくても、その後幸せな夫婦になる人はいっぱいいますよね?』

『そうだな。確かに、どう説得すればいいかは、オレにもわかんねぇ。平静な状態で婚約に踏み切ったんなら、オレも止めないよ。だけどそうじゃないから、一度冷静になって考え直すチャンスをやりたいんだ』

『…………』

『婚約相手は、玲一の祖父さんの会社の重役の一人娘だ。一度結婚してしまえば、後で我に返って離婚したいと思っても、玲一一人の問題じゃすまない。まして子どもでもできちゃってたら、あいつは離婚なんかできねぇよ……』

 杏介が言い募るのを聞きながら、何をしているのだろう、と思う。

 玲一ほどの男が、自分との恋に破れたからといって、自暴自棄になって取り返しのつかないことをしようとしている? しかもそれに実家や会社、婚約者となる女性を巻き込み、杏介にここまで心配をかけているなんて。

 なんだか、とても信じられない。

 信じられない、が。

『それ、本当の話ですよね?』

 思わず尋ねる。

 杏介の顔がハッと強張る。

『僕のしたことが、玲一さんをそこまで追い詰めたんですね……』

 罪悪感に押しつぶされそうになって、自身を掻き抱く。

 その手が、自分のしてしまったことを知り、恐ろしさに震える。

『玲一さんは僕を救ってくれて、絵を描く道を示してくれたのに。僕はっ……玲一さんに何も返せないどころか、玲一さんの人生を狂わせてっ……』

『あくまできっかけになっただけだよ! それにほら、あいつ、あんなだから、フラれるってことに耐性がなさすぎたんだよ! いい勉強になった部分もあるって!』

 血相を変えた杏介が、椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がる。

 だが、彼の言葉の意味を理解できるほどにも頭が回らない。

 一年前、綺は玲一の前から姿を消した。

 玲一の愛を一身に受けるのが怖くて逃げ出したのは確かだが、自分さえいなくなれば玲一の輝かしい未来は守れると、彼の幸せを願ったのも本当だ。

 よかれと思ってしたことだったのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 どう謝ればいい?

 どう償えばいい?

 目の前が真っ暗になる。

 ――だけど。

 こうやって杏介は、玲一の現状を伝えに来てくれた。

 まだ彼のためにできることがあると教えてくれた。

 それなら、綺が選ぶ答えは決まっている。

『僕、玲一さんに会いに行きます』

『綺ちゃん……』

 眉を寄せ、苦しそうな顔をした杏介が隣にやって来る。

 感覚の麻痺した体を、ギュッと、強く抱きしめる。

『ごめんな』

 震える声が、静かに呟いた。
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