Liar

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後編

フォーレか猫か人肌か

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 ヒッチハイクでは、車に乗せてもらいやすい場所というものがある。

 高速道路のサービスエリアや入口付近、街中ならガソリンスタンドなど、車を運転する側が停まりやすく、向かう方向が同じなのが明らかだったり、わざわざ走行中のところを引き止めずに交渉できたりする場所だ。

 だが、毎回毎回そう都合のいい場所に降ろしてもらえるとは限らない。

 朝から二台の車に乗せてもらい、少しずつ高速道路から外れていって、三台目の車探しは、人気のない田舎のガソリンスタンドでのスタートとなった。だがそこは元々車通りがない上に、たまに車がきても乗っているのは地元の人間ばかり。乗車交渉は難航していた。

 彼女の車が停まってくれたのは、ガソリンスタンドで一時間以上粘っても捕まらず、とにかくもっと人気のある場所に移ろうと、のんびり歩いていたときだった。

 車が走ってきたら足を止めて、スケッチブックを掲げ親指を突き出すというのを繰り返していた綺は、けれど彼女が停まってくれるとは思っていなかったので少し驚いた。

 なぜなら、まず、彼女は若く一人だった。そんなドライバーが得体の知れない男二人を拾ってくれることは、これまでだって一度もなかった。それはそうだろう、逆の立場だったら怖すぎる。

 次に、彼女と目が合ったのは一瞬で、しかも明らかに機嫌がよさそうではなかった。

「おっ、停まってくれた!」

 乗車交渉はラファエルの役目だ。

 夕方。疲れと眠気で口数が減っていた彼が赤いステーションワゴンに駆け寄っていくのを、綺は少し不安に思いながら見守った。

「アヤー、乗せてくれるってー」

 グーサインを見せられ、内心戸惑いながらも、笑顔でお礼を言って後部座席に乗り込む。

 車内には物悲しいピアノ曲が流れていた。

「ああ、ごめんなさいね、辛気臭い曲かけて」

 女性がオーディオに手を伸ばしたのを、ラファエルが止めた。

「いいじゃないですか、フォーレ。オレ好きですよ」

「あら。君、クラシック詳しいの?」

 ラファエルのバイオリンケースに気付いていたのだろう、女性が尋ねる。

「少しね。着いたらお礼に『シシリエンヌ』でも演奏しましょうか?」

 ラファエルが言うのに、女性はほんの一瞬ひどく傷付いたような表情を浮かべ、黙り込んでしまった。

 ラファエルは綺と目を合わせて肩を竦めて見せると、窓の外を向いてしまった。

 静かな車内にピアノの音が響く。

 何度も転調を繰り返し、漣のように表情を変える美しい旋律に、柔らかなソプラノが合わさる。

 車窓の夕暮れを見つめながら聞き入っていると、胸が締め付けられて、切なさに目を閉ざしたくなってくる。

「自暴自棄になってるんですか?」

 一曲終わったところで、そっと切り出した。

 ルームミラー越しに女性と目が合う。無言のまま、けれど明るい茶色の瞳は図星を示すように、驚きを浮かべている。

「ごめんなさい。詮索するつもりはないんですけど、でも……僕達にあなたをどうこうしようってつもりはないし、別の方法で、何か少しでも力になれたらと思って」

 スッと、車が停まった。

 直線道路で、それなりのスピードは出ていたはずなのに、衝撃はほとんどなかった。

 心の動揺が少しも現れていない丁寧なブレーキは、彼女の自身を律する心の強さか、見知らぬ青年二人に対する気遣いか。

 オーディオにセットされているCDの、次の曲が始まる。

 美しい旋律が彼女の心に触れたのだろう。

 やがて号泣が音楽を掻き消した。







「ごめんなさいね、取り乱しちゃって」

 女性はもう開き直ることに決めたらしい。助手席の下から取り出したボックスからティッシュを引き出して、涙を拭い、ズズーッと鼻をかんだ。

「失恋したの。ただそれだけのことなのよ」

「それだけってことないでしょ。聞かせて?」

「本当にそれだけなのよ。別におもしろくもなんともないわよ?」

 女性が落ち着くのを待つ間に休憩できて、いつもの調子を取り戻したのか、目を輝かせるラファエルに、女性は苦笑した。

「五年付き合った彼氏に裏切られたの。このバカンスに、二人でわたしの実家に行って、両親に結婚前の挨拶をしてくれるって約束してたのに……っ」

 鼻を啜り、ボロボロこぼれる涙をグイッと手の甲で拭って、女性は続けた。

「五年よ、五年! 大学生の時に付き合い始めて、もうこの人しかいないって思ってたのに、昨日急に、別に好きな人ができたからって。それでもう、なんだかやけになっちゃって……」

「それで、フォーレで気持ちに追い打ちをかけて、男二人組を招き入れたと」

「そう。もういっそここであなた達にどうかされちゃって、殺されるか自殺するかすれば、ちょっとは彼に後悔させられるんじゃないかって……でも正直、あなた達、そんな危ない人達には見えなかったけどね。そっちの黒髪の子なんか十代でしょう? わたし空手習ってるし、最悪襲われても、なんとかできるかなって」

「……僕、二十二ですけど」

「見えないわ」

「見えないよ」

 二人にバッサリ切り捨てられて口を噤む。

「あ、でも、オレは十代ね」

「えっ、ラフ十代!?」

「言わなかったっけ? 十九だよ」

「僕、てっきり同じか、少し上くらいだと……」

 未成年にベッドに誘われていたのだと知って、一人青褪める。

 あの時、最後まで致さずに終われたことに心の底から安堵した。

「……あなた達、親しいんじゃないの?」

「そういえば、まともに話したのって……五日前だっけ?」

「そうそう、アヤも失恋して、ヤケになって、抱いてくれ~ってオレん家まで付いてきたんだよね。まぁ、残念ながら未遂だったんだけどさ」

「ちょっ、ラフっ! そんなこと言ってないだろう!?」

「えっ、何、あんた達ゲイなの!?」

 騒がしくなった車内で、フォーレはいつの間にか鳴り止んでいた。







 失礼な動機で車に乗せたことのお詫びと、気分を晴らしてくれたお礼だと言って、女性――レティシャは、両親を説得し、二人が彼女の実家に泊まれるように計らってくれた。

 レティシャは自身の失恋をまだ両親に伝えていなかったらしい。彼女の母親は、娘が恋人と帰省すると思って用意していた食材があるからと、夕食にまで誘ってくれた。

 昨日は教会の庭で野宿だったから、想定外の豪華な手作りディナーは、青年二人の胃と心を大いに満たしてくれた。何より、食事の後に屋根の下で寝られるという安心感は格別だ。

「このまま淋しさに耐えきれなくなったら、わたし、猫でも飼おうかしら。猫なら、わたしがいないと生きていけないし、裏切ったりしないじゃない?」

 リビングの大きなソファで、実家の飼い猫を膝に乗せてくつろぎながら、レティシャは溜息をついた。車では散々はしゃいでいたが、さすがに失恋の痛手がそうかんたんに癒えるはずもない。

 それはともかく、彼女の思考はやや過激に寄っているようだ。

「出かける先々で子ども作ってくるかもしれないけど?」

「去勢するわ。ああ、あの人もそうしてやればよかった」

「うわー、ゾッとするようなことを真顔で!」

 言葉とは逆に、ラファエルはケラケラ笑いながら、ワインボトルを持った手を伸ばした。空になっていたレティシャのワイングラスに、美しいルビー色がなみなみと注がれる。

「セフレでも作れば?」

「ちょっ、ラフ、それセクハラ……!」

「いいのよアヤ、まどろっこしいのは好きじゃないわ」

 ピシャリと言い放って、勢いよくワインを飲むレティシャ。

「完璧な避妊なんてないのよ? うっかり子どもでもできちゃったらどうするのよ?」

「うーん。そういうリスク考えなきゃいけないから、男女関係は面倒だよなぁ」

「男同士だって、子どもができないからって、ヤりたい放題ヤっていいわけじゃないでしょ? あなた倫理観どうなってるのよ?」

 夕食の後、縁あってすれ違っただけの相手だからこそこぼせる愚痴もあるだろうと、レティシャの両親が傷心の娘を気遣って席を外してくれたことに感謝する。こんな会話を聞かれたら、今すぐ放り出されてしまいそうだ。

 勧められたワインを勧められるままに空けて、いい気分で酔っ払っているラファエルを横目に、綺は砂糖をたっぷり入れた甘いエスプレッソに口をつけ、慎重に飲み干した。郷に入れば郷に従え、と普段からフランス流の飲み方をしているが、こればかりはなかなか慣れない。

「そりゃそうだけどさ。独り身の夜って、なんかこう、どうしようもなく淋しかったり不安だったりして胸がギューッてなることない? そういう時に人肌に癒しを求められないのは気の毒だと思って」

「あなたがゲイじゃなかったら誘われてるのかと思うようなセリフね……。まぁでも、それができないから、わたしには猫が必要なのよ。あなたも変な病気もらう前に猫を飼いなさい」

「うーん、猫かぁ。すぐ逃げられちゃいそうだけど」

「……というか、それはさすがに猫に失礼じゃない?」

 自分に恋愛経験がほとんどないからか、こういう話題はなんとなく苦手だ。ずっと黙って聞いていたが、それでも思わず呟くと、二人の目が綺をロックオンした。

 後悔先に立たず。

「アヤはどうなの? 淋しくて胸がギューッてなったら。ゲイであるのをいいことに、誰彼構わずセックスするの?」

 レティシャの容赦ない表現がおもしろかったのか、ラファエルがケラケラと笑う。彼に対する皮肉のはずだが。

「しないよ。残念ながら、僕はラフみたいに心と体は別だって割り切れないタイプの人間だし、独りには慣れてるから、部屋に花でも飾って、絵でも描きながら時間に癒されるのを待つよ」

「うわぁ、美大予備校生の鑑!」

「でも独りに慣れてるってどういうこと? 見た目だけならモテそうなのに、性格に難ありってこと? 特殊性癖でパートナーが見つからないとか?」

「ブッ!」

 酔っ払いが遠慮なく吹き出して爆笑する。

「アヤがSMの女王様だったら、オレ喜んで犬になるけど」

「そうね。あなたみたいに発情しっぱなしの犬は、女王様の鞭でも食らって大人しくしてるのがいいと思うわ」

「ワンっ!」

「あはは、バカ!」

 ひとしきり笑った後、レティシャは笑いすぎて滲んだ涙を拭い、

「やっぱり猫が一番ね。あなたを助手席に乗せて連れて帰れたらいいのに」

 膝の猫を抱き上げて、ビロンと伸びたお腹に顔を埋めた。







 昔レティシャの兄が使っていたという部屋を使わせてもらえることになった。一日ぶりにシャワーを浴びて、スッキリした気持ちで部屋に戻ると、先にシャワーを終えていたラファエルは既にベッドに入っていた。

「もう寝るだろう? 電気消すよ?」

「真っ暗は嫌だな」

「わかった」

 チェストの上にあったテーブルランプを灯してから、部屋の明かりを落とす。ホッとするオレンジの光の中で、清潔なピローとシーツの用意されたソファに転がった。

 ラファエルに「おやすみ」と声をかけて、シーツに潜り込み目を閉じると、疲れとアルコールが睡魔を呼んで、すぐに夢現になる。

「しないの?」

 落ちそうになる意識を呼び止めたのは、笑いを含んだ声だった。

 特殊性癖の話だと気付き、ベッドの方を睨む。綺はナルシストで、一人上手になりすぎて相手を必要としなくなった、と結論付けられたのだ。

「人に見せる趣味はないよ。バカなこと言ってないで寝なよ」

「ね、実際のところ、なんで独りに慣れてるの?」

「一人暮らしが長いだけ」

「いつから?」

「十六」

「なんで?」

「楽しい話じゃない」

「聞きたい。聞かせて?」

 綺は小さく溜息をついた。

「親が不仲で、二人とも家に帰ってこなくなったんだ」

「兄弟は?」

「いない」

「うわぁ。あ、でも、てことは、恋人連れ込み放題だったんだ」

「残念ながら、高校入ってすぐ上級生に襲われて、あの頃は恋どころか、友達付き合いも上手くできなくなってたんだよ。まぁ、襲われたっていっても未遂だったんだけど……」

「上級生って男? 去勢してやればよかったのに」

 サラリと述べられたレティシャ流の対策に、少し笑った。

 ラファエルは直情的なところがあるから、あのとき助けてくれたのが親友じゃなく彼だったら、あの上級生は逃げる間もなくボコボコにされていたかもしれない。

「じゃあ、もしかして灰色の目の王子様が初恋?」

「王子様って……まぁ、初恋なのはそうだけど」

「そりゃあ引きずるな。どんな人だったの?」

「……王子様みたいな人だよ」

「えっ、惚れた欲目じゃなく? 大金持ちってこと?」

「惚れた欲目であれば……いっそ僕みたいに何も持たない人だったらよかったんだけどね」

「恵まれた人と付き合うのはプレッシャーだった? 怖くなって逃げ出しちゃうほど?」

 たった今まではしゃいでいたラファエルの声が、急に落ち着きを取り戻す。会話の内容が急に深度を増したように感じて、怖くなった。

「ごめん、ラフ、あまり話したくない。……もう寝よう」

 ギュッと目を閉じる。だが――

「アヤ、オレ、淋しい」

 ラファエルという男は自由だ。

 ヒッチハイク中も、留まりたい場所で留まり、先を急いだりしない。見たいものを見、食べたいものを食べ、眠りたい場所に寝袋で転がる。話したい人とはとことん話し、弾きたいだけ弾き、笑いたいだけ笑う。

 性についても奔放だ。まだまだ偏見の残る性的マイノリティであることを隠そうともせず、それどころかそれをネタに人の心を懐柔してしまう。

 綺といて、ゲイカップルだと誤解されても仕方ないくらいスキンシップを図ってくることもあれば、街に着いた瞬間別行動を取りたがったりもする。そしてそんな日の夜は、一人でいた時間の反動のように、綺にくっついていたがる。

 ラファエルにとって人の温もりというものは、特別なものではないのだ。喉が渇いたらコップの水を飲むように、心が冷えたら身を寄せる。

 綺が自分の両親や親友にさえ言えなかった「淋しい」だって、彼はたった五日前に知り合ったばかりの綺にサラリと言ってのける。

 常に欲に素直な彼を見ていると、もしかしたら人間は本来そういう生き物なのかもしれない、こんな風に在っていいのかもしれない、と思わされる。

 そして、まるでリミッターでもかかっているかのように、彼のように在れない自分に、ひどい不自由を感じるのだ。

 綺はラファエルの求めを無視して眠ろうとして、けれどやっぱり無視し切れず、仕方なく起き上がった。

 ベッドに行くと、ラファエルは待ち構えていたようにシーツを持ち上げた。こちらを見つめる彼の目は、オレンジの灯りを映して金色に光っている。

「誰彼構わずで、心と体が別の男に添い寝するのは嫌?」

「そんなこと思ってないよ」

 ベッドに乗り、ラファエルの隣に潜り込む。

 服を脱ぐほどのサービスはしないが、子供を寝かしつける親のように、彼の胸に手を添えてやった。

「セックスはできないけど、君とこうして触れ合うことで、僕に君の在り方を否定するつもりはないってわかってもらえるなら、触れ合うことに抵抗はないよ」

「あーあ、リベンジしようと思ってたのに。そんなこと言われちゃったら、ここでアヤに手を出したら、オレがアヤの在り方を踏みにじることになるじゃないか」

 不服そうに言いながら、その顔は嬉しそうに微笑んでいる。

「そういえば、ラファエルの家族って、どんな人達?」

「え、オレの家族? どうした急に。籍でも入れてくれるの?」

「どんな環境で育ったら、君みたいな奔放な男が生まれるのかと」

「オレくらい自由奔放で魅力的な男は、家庭環境より、持って生まれたものの方が大きいと思うけど……」

 ラファエルといるとスルースキルがどんどん向上していく。ラファエル本人も、自分で言っていておかしくなったのか、手の平に彼の胸の震えが伝わってくる。

「家族構成は、父一人、母一人、兄二人、姉二人」

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「そ。父は仕事の鬼。母はボランティアの鬼。兄弟はみんな成績優秀な美男美女。家族仲はちょっと暑っ苦しいくらいよくて、かわいい末っ子のオレは、みんなに構い倒されて育ったんだよ、高校リセ入ってゲイだってカミングアウトするまではね」

「……ご家族に受け入れてもらえなかった?」

「いや、それが、そういう話じゃなくて。父さんと下の姉さんは今もあんまりいい顔しないけど、母さんはLGBTの支援団体に入って高額寄付したり、上の姉さんは『わたしが支えてあげないと』って変に張り切り始めたり、みんなそれぞれのやり方で向き合おうとしてくれたんだ。家族がそんなだったから、オレ、ホッとしすぎてハメ外しちゃってさ。恋人の家に転がり込んでたら、さすがに家族みんなにキレられて、高校リセ卒業した後、絵を描くくらいしか取り柄がないんだからって、体よく今の予備校プレパに放り込まれちゃったんだよね」

 なるほど。勉強熱心じゃないと思ったら、自分から志願して入学したわけではなかったのだ。

「家に居辛いからバカンス中に帰省しないのかと思った」

「いや、帰省も何も、オレの実家パリ市内だよ。時々顔出してるし、上の姉さんが抜き打ち検査みたいにアパルトマン襲撃してくるから、正直困ってるんだよね」

 人の気配の絶えない生活を想像して、綺は小さく笑った。

 ラファエルは、そんな綺を見て、なぜか困ったように微笑んだ。

「羨まないんだな」

「えっ?」

「アヤには、帰る家も、待ってる家族もいないんだろう?」

「ああ、そういうことか。うん。でもまぁ、今更だよ」

「今更なんて言って、淋しさや不幸に慣れるなよ」

「ラフ……?」

「不幸に慣れて、幸せを前にする度に怖気付いてたら、いつまでたっても幸せをつかめないだろ。幸せでいる努力をするんだよ。淋しくなったら抱きしめるくらいは、オレがいつだってしてやれるんだから、時間に癒されるのを待ったりするなよ。心と体は別だって割り切れないタイプでも、それくらいは許せるだろう?」

「…………」

 ラファエルの言葉が、家庭環境だけでなく、恋愛も示唆していることは、なんとなくわかった。

 じっと、ラファエルを見つめる。

 夜を照らすキャンドルライトような金の瞳に浮かぶ優しさは、海辺の別荘で見たアイスグレーの瞳に浮かぶそれに似ていた。

 けれど、似ているということは違うということで。

 苦しさにたまらなくなって、背を向ける。

「怒った?」

「…………」

「アヤ」

「怒ってないよ。ただ……」

 静かに呼吸を繰り返し、胸に手を当てる。

 そこを詰まらせているものを思って、そっと目を伏せる。

「癒されたくない淋しさもあるんだよ」

「どういうこと?」

「あの人がいない淋しさは……僕にとって一番幸せだった、夢みたいだった日々が、夢じゃなかった証だから。いつか、もういいって思える日が来るまでは、抱き締めていようって決めてるんだ」

 後ろから手が伸びてきて、ギュッと抱き締められる。

 ビクッと強張った体を、けれどラファエルは離さず囁いた。

「勃ちそう」

「……は?」

 あまりに脈絡ない言葉に、一瞬呆気にとられた後、どん引いた。

「なんで!? そんな話してなかったよね!?」

「他の男の思い出抱きしめてるアヤを、このまま後ろから抱いて慰めるの想像したら、なんか興奮しちゃって」

「バカ!」

 さすがに身の危険を感じてラファエルを振りほどこうとするが、後ろから羽交い締めにされてどうしようもない。

「いや、しないよ? エッチしてんのバレて、ここ追い出されたりしたくないし。でもアヤお風呂上がりであったかいし、いい匂いだし、しばらくヤってなかったからさぁ。アヤだってそうだろ? 抜き合いっこしない?」

「しない! 離せ!」

「逆に、アヤはなんで、こんな魅力的な男とベッドにいるのに、その気になんないの? やっぱり特殊性癖――」

「うるさい、黙れ!」

「ごめんごめん、じゃ手、いやせめて太腿貸して」

「貸すわけないだろう、バカ! もう去勢しろ!」

 しばらく全力で組み合って、やがて二人して力尽きた。

「わかった、諦めるから、せめてこのまま寝させて」

「ちょっとでも変なことしたら、ご実家に訴えるからね」

「えっ、それはやめて!? でもそもそもベッドに入ってきたのはアヤ――」

「何か言った!?」

「いや、何もっ!」

 息を切らし、背中にラファエルの温もりを感じながら、目を閉じる。

(バカなことしてるなぁ……)

 そう思いながら眠りに落ちる間際。

 瞼の裏の暗闇にアイスグレーの輝きがちらついた。

 こんな風にバカなことを繰り返していれば、いつか、この輝きも消えてしまうのだろう。







「ひどい顔ね」

 翌日の朝、というよりはもう昼に近い時間。

 レティシャが起きてリビングに行くと、ソファで刺繍をしていた母親は顔を合わせるなり笑った。

 レティシャが二日酔いでグワングワンする頭を押さえながらソファに座ると、入れ替わるように立ち上がってキッチンに行ってしまう。

「あの二人、もう行っちゃったの?」

「ずっとあなたが起きるのを待ってくれてたけど、ついさっきね。待ってる間、街にお使いに行ってくれたり、庭の手入れや屋根の修理を手伝ってくれたりして、助かっちゃったわ」

 戻ってきた母親の手には、湯気に包まれたタオル。ありがたく受け取って顔に乗せると、微かにローズマリーの香りがして、気持ち良さに思わず「あぁ」と声が上がった。

 夜遅くまで三人でバカ騒ぎをした後、自室の静けさが車内のフォーレよりも効いて、一人で夜通し泣いてしまった。おかげで気持ちはスッキリしたが、顔面はバリバリ突っ張っている。

「引き止めてくれればよかったのに」

「引き止めたわよ? でも、今日は天気がいいから先に進みたいって、ラファエル君が」

「あの子、本っ当に自由ね……」

「車、乗せてくれてありがとうって」

「はいはい。どういたしましてー……」

「はい」

 耳元でカチャンと音がして、顔に乗せていたホットタオルをどける。目の前に車の鍵。それを指先に引っ掛けている母親は、なぜかとても楽しそうだ。

「何?」

「まぁいいから。見てきなさい」

「はぁ?」

 母親に促されて、ガレージに向かう。

 昨日リヨンから飛ばしてきた愛車は、変わらずそこにあった。

 したたかなレディのルージュのような落ち着いた赤の車体に、黒のホイール、無駄にスポーツカー仕様の国産車。鍵を渡されたからには、どこかしらのドアを開けなければならないのだろう。

 だがなぜ。

「あ……」

 あの二人が妙なイタズラでも仕掛けていったのではないかと、警戒して窓から車内を覗いたレティシャは、すぐに異変に気付いた。

 助手席のドアを開ける。

 シートの上に、リボンを巻いた猫がいた。

 ドキドキしながら抱き上げて、そっとリボンを解く。

 画用紙に描かれたその猫は、確かに実家で飼っているシャルトリュー。だが紙は一枚ではなかった。めくっていくと、近所で飼われていたはずの二匹のシャムや、生意気なペルシャの姿。お馴染みの日用品店のスケッチが混ざっていると思ったら、店先に看板猫の尻尾のない茶トラがいる。

 最後の一匹の足元に付箋。

『帰り道の助手席に ラファエル&アヤ』

 何度も紙をめくって。

 じっと鉛筆で描かれた愛らしい猫達の姿を見つめて。

 やがて、ハーーーッ、と深く長い息を吐き、レティシャは空を見上げた。

「天気がいいから、ね……」

 二日酔いで頭はグワングワンする。

 夜通し泣いて顔面はバリバリ痛い。

 なのに空はバカみたいに青く澄み渡っていて。この空の下のどこかの道路沿いを、あの二人はスケッチブックとバイオリンを持って、のんきに歩いているに違いない。

 そういえば、お礼の『シシリエンヌ』はどうなったのだろう。

 だが、まぁ、いい。

 今の自分には猫がいる。

「わたしも先に進むか」

 レティシャはシャルトリューに微笑んだ。
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