羅針盤の向こう

一条 しいな

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 紙コップを持って、車の中で飲む中年男性がいた。それを横目に僕はコンビニで買ったコーヒーの紙コップを持って街を歩く。
 月が出ている。暗闇の中、シャッターがしまった商店街はいつも人通りが少ない。街灯が明るく見える。だから、見つけるには楽だ。
 歌声が聞こえる。それははっきりとしたものだ。バラードだ。ギターをかき鳴らしている。人がいない中、一人で歌っている。夜だ。夜野トキ。彼が名乗っている名前だ。芸名だから本名は別だと思う。僕はコーヒーをすすりながら、聞いていた。懐かしいような、ありきたりなメロディーに僕の耳にはよくなじんだ。百円を缶にいれる。拍手はしない。
「なに、冷やかし?」
「そんなところ」
「最低だな」
「人が来た?」
 くっという顔が夜に浮かぶ。それをどうするつもりもなく、夜はギターをしまう。
「今は、いない」
「いるじゃん」
 夜は笑った。きれいだと僕は思った。夜と商店街を歩く。どこも店を開いていない。街灯がついているだけ。移動販売のパン屋に人が集まっている。夜はそんな様子をにらんでいた。
「にらむなよ」
「嘘」
 夜はびっくりしたような声を出した。
「今日はバイトはないの?」
 僕が尋ねるとうなずいた。夜は嫌そうな顔をしてうなずいた。よしっと僕はガッツポーズを心の中でした。
 夜に対して邪な気持ちを僕は持っている。夜はそれに気がついているのかわからない。夜を知ったのは、僕が小さなライブハウスでアルバイトをしたときだ。夜が現れた。僕はお客さんにビールを売っている。お客さん、夜目当ての女の子が笑っている。
 夜が歌う。
 そんな光景を見ていた。夜のどこがいいってやっぱり声だなと思う。柔らかさのある声で子守歌を歌ってほしいと僕はそのときに思った。
「ビール、ください」と言われて僕は我に返った。夜はきっとそんなことを知らない。
「夜は、ご飯は食べた?」
 僕が問いかけると夜は「いい。いらない」と言われた。犬には成り下がりたくないと言うが、目がギラギラと光っている。それがたまらないと僕は思う。あんな目でヤられたらきっと僕は夜に抱きついて、キスをして、それからと。
「何をぼうっとしているんだよ」
「好きなバンドが活動停止になったんだよ」
「よくあることじゃん」
「そうだけどさ。なんか慰めろよ」
「別に。慰めろと言えば簡単に慰めるなんて思うなよ」
 僕はそれを聞いて笑ってしまう。確かにそうだなと思う。僕は顔を上げた。
 温かなコーヒーを持って、今日の弁当を持って、何かが満たされるような気持ち。夜はそんな僕をあきれている。幸せなやつと夜は言うが、僕はそんなに幸せなやつだろうかと悩んでしまう。
「夜。なんで夜って名前にしたの。ありきたり」
「ダサいなんて言うなよ」
「言うよ」
「なんていうの。ノリ。そのとき、俺は黒い服を着ていていたから」
「死神じゃなくね」
「死神じゃあな。いやだ」
「縁起でもないもんな」
 僕達は笑っている。僕と夜はたわいのない会話だ。夜が僕をどう思っているのかわからない。第一、夜自体僕の気持ちを知っているのかわからない。わからないことに安心する日が来るなんてと僕は思っていた。
「眉間にシワ!」
「うわあ。やだな。寄っていたのかよ」
「おまえ、考えるとそれをよくやるよな」
「やらない? 眉間にシワ!」
「やったらやるだけ」
 気にするかと夜が言う。気にしないならば、夜は僕のことをどう思うのかだ。それが一番気になる。今のままがいいのか、嫌われるのがいいのか。結局二つしか答えのない狭い自分に気がついた。夜の顔を見る。バンドというか、一人で歌っているせいか、かっこいい。今風の顔だ。
「夜はかっこいいからわからないよ」
「わかるかよ」
 おまえのことなんかと夜はつぶやいた。確かに夜は僕のことなんか気にしない。夜は気にするのは多分音楽だろう。
「で、学校は楽しい?」
「楽しいよ」
 そう僕は言っていた。夜は笑う。僕の目にはどんな美女も負けてしまう、美しい笑みに見えた。


 夜と別れて、マンションについた。こぢんまりとしたマンションで目立たないようにある。僕はマンションに入って、パスワードを入れて入る。
 途中自分と同じように学生と一緒に階段を登っていく。階段を登るのは単にマンションにはエレベーターがないからだ。古いマンションであるから仕方がない。セュキリティーはしっかりしている。
「おっ。お帰り」と隣の部屋の玉部(たまべ)さんが言う。これから出かけるようだった。僕は「いってらっしゃい」と答えた。玉部さんと仲良くなったのはよく覚えていない。だいたい大学が一緒でよく会うなと思っていたら、気がついたら旧知の仲のように話していた。
 玉部さんは階段をスタスタと降りていく。意外とこのマンションは近所の付き合いが残っているようだ。僕は自分の部屋に来て、手洗いうがいをして、コンビニ弁当が入ったビニールとコーヒーを置く。
 今日は振られたと思う。スマホを見ると、仲間から連絡がある。レポートどうしたとか。いい参考文献を知らないかとか。そんなこと。僕は返事を返す気にはなれず、見ていくだけだった。
「必修科目の授業、一緒に行かない?」
「行く」
 と僕は返事した。それでいいかと思った。とりあえず、僕は寝坊しないようにバイトを確認しながら、レポートを書いていた。
 何を隠そう、僕は夜が学生なのか、フリーターなのか、知らない。もし知れたら何なると言われそうだから聞かない。夜の連絡先も知らない。夜とはお互いに待ち合わせをしない。それが時々歯がゆくもある。例えばこんな夜、夜に連絡したいときに連絡できない。
 夜は何をしているんだろうか。夜は何を食べているんだろうとか。インスタで夜のアカウントがあれば見るが、結局ないのだ。あるのは、夜の歌声が入ったCDだ。
 僕はCDをパソコンに入れて聞いてみる。自分の趣味とは合わない音楽だが、夜の曲を聞くために買った。
「夜」
 夜はどうしているんだろう。僕の気持ちを知っていてこんなことをしているんだろうか。それとも僕は、ただの友達として一緒にいるんだろうか。わからないが、ムカつくと僕は思う。ラブソングが流れたからだ。
 スマホを見て家族から連絡がある。
「拓磨。ちゃんとご飯は食べた? 週末うちに来い」
 乱暴な口調で姉からメッセージが届く。僕は既読にすると「拓磨。既読をしたことは読んだことになるからね」と脅しのようなことを書いていた。僕はどうしようかと考えて「バイトがなかったら行きます」と答えた。
 バイトだあとつぶやいた。多分帰るのは遅くなるだろうか。そんなことを僕は考えていた。夜の顔を浮かんだ。会いたいな。とつぶやく僕に、夜はなんというか、想像していた。
「もしもし」
 で、夜ですかと言ってみたが、夜が返事をするわけはない。夜が僕に返事をしたらステキだけどそれはない。それを知っているから安心する。魔法が使えたらきっと僕は何を隠そう、夜と話ができること、いつでも気が向いたときに。
 僕はレポートを書いていく。研究しているわけではないから浅いけれど、それは先生達の指示通りなんだろう。きっと。
 僕は書いていくうちに夜の顔を忘れていく。書いていくことで、何か忘れられるのはいいことだと僕は思う。夜の歌声を耳をすませながら。


 朝である。憂鬱な月曜日。休みが終わると、どうして学校や会社に行くのだろう。それはみんなが考えていることだと玉部先輩が言った。階段を降りて、ゴミ捨てをする。ゴミ当番はいつだっけと僕は考えている。
 爽やかな朝だ。晴れている。寒いけど、朝日がすける。まぶしさに目を細めて、北風が吹いていることに気がつく。コートを着ているが、そでや襟元から冷気が入ってくるのだ。体を縮むような思いから歩く。スニーカーは軽やかな足取りで光の中を影だけが追う。
 僕は歩きながら学校に向かっていた。
「拓磨」
 おはようと同じ授業を受ける女の子に挨拶をした。ちょうど学校に向かうところで、彼女はリュックを背負っている。小柄な彼女がかわいらしく見えるのはこういうときだ。
「美由(みゆ)ちゃん。必修科目の授業を受けに行きたの?」
「ううん。部活」
「そうなんだ」
「拓磨は」
「授業」
「がんばるね」
「お互いにね」
「一限目はつらいね」
 うんと言いながら歩いていく。夜はいるかなと考えていると、夜に似た人を見かけた。夜に似ているけど背格好だけだと僕は自分に言い聞かせた。夜はここにはいない。
「真澄ちゃんがさ。拓磨のことを気にしていたよ」
「なんで」
 さあと美由がいう。笑いながら言っているので僕はどうしようかと悩んだ。真澄というと女か男かで迷うが、真澄ちゃんは中間である。おねえという人種で、女の子には人気だが、男にはなかなか苦手な部類に入るタイプだ。
「気に入られたのかな。僕」
「嫌そうな顔をするねえ」
 他人ごとだから笑っていられるのだと僕は思った。なんで真澄ちゃんに好かれるのかはなぞだ。ひょろひょろだし、かわいい顔つきをしている方だと言われているから。あっちの人には人気がないというのに。
「あっ。真澄ちゃんだ」
 おおいと手を振る美由にやめてほしいと僕は心から願った。真澄ちゃん、マスカラで目をぱっちりにさせ、金髪をなびかせて、ルージュで明るい唇を彩ったごつい彼女を僕は小さくなって見つめていた。
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