羅針盤の向こう

一条 しいな

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 パン屋は昼に営業している。本格的なパン屋というよりか、近所にあるパン屋である。クリームコロッケパンが人気だ。このためにホワイトソースを仕込む。鈴さんはここの女主人で、パン職人だ。手さばきが他のパートさんと違う。まるでパン状態も、総菜もすべてわかった上で作り出す。ひょいと手を動かしているだけなのに、まるで生地がいうことを聞いてみるみたいに生成されるのだ。
 僕は人手不足に使われただけで、まだ見習い以下である。そんな僕にイライラしながら鈴さん達、パートさんは働く。僕も気持ちを入れ替える。
 暑い部屋である。オーブンがあるから当然である。しっかりとマスクと手袋をした僕は手を動かす。器用にパンを生成する。それだけで安心しないように気をつけていた。



 疲れた体でゆっくりと歩いていていた。僕はどうしようもなく夜に会いたかった。恋人のように慰めてほしいとは思っていない。ただ、歌声が聞きたかった。それだけで十分だった。体はいつもの商店街に向かう。夜の姿は見つからなかった。
「何をやっているんだ。今日はライブ終わったぞ」
 後ろから声が聞こえてきた。夜の声だ。僕は後ろを振り返る。街灯の下、夜が黒いギターケースを背負っている。夜はニコッと笑った。
「友達はいないのかよ。変な人と一緒にいたじゃん」
「変は認めるけど友達ではない」
「変だな」
 夜は気に入ったフレーズのように言った。笑っている。夜の隣に来ると夜は顔を近づけてきた。
「お疲れ?」
「そうだよ。バイト」
「あっそう」
「何をしているバイトか気にならないのかよ」
「別に」
 夜はそう言った。
「夕飯まだ」
 夜が言った。付き合ってという意味だろう。きっと。僕の目が輝いた。それに気がついた夜は「割り勘だから」と言った。今日の夜は機嫌がいい。僕とは正反対だ。それでも夜に感化されるように僕の機嫌の悪さもどこかに行ってしまう。きっと夜は影響力があるタイプなんだと僕は好意的に考える。
「ラーメンに食おう」
「夜には重い」
「いいラーメン屋を知っているからさ。うまいんだ」
「なら、行く」
 うんうんと僕はうなずいた。夜の背中をさわりたくなった。ひょろひょろの背中。それなのに時々たくましく見える。僕はそんな気持ちを消化できず、ごまかすように「ラーメン屋、どこ、なんていうラーメン屋?」と尋ねていた。
「九州ラーメン、男前」と夜に言った。僕は笑った。
「ラーメン屋なのに男前?」
「いいじゃん。名前なんて。うまければなんでもいい」
 夜はそう言った。屋台のラーメン屋だった。サラリーマンが座っていた。僕達みたいな学生もいた。屋台から離れたテーブルに座り、チャーシュー麺を頼む。夜だから冷える。冷える中、あつあつのラーメンをすするだけだった。夜にラーメン屋なんて重いと思ったのに、ラーメンはあっさりして食べやすい。チャーシューはジューシーで食べるには食べ応えがある。
「うまいだろう」
 そう言われてうなずいた。確かにうまい。僕は夢中になって食べていた。湯気が顔に当たる。それさえも気にならない。
「元気になったかよ」
「うん」
 僕は座ったままうなずいた。夜は水を飲んでいる。冷たい冬の風に僕らの火照った体にはちょうどいい。しばらくぼんやりと見ていた。屋台のラーメン屋のオヤジがラーメンの湯切りをしている姿を見つめていた。客は自分達の話で盛り上がっている。酒は出ないが、タバコを吸いながら笑いあっている。平和だなと思う。
「帰るか」と夜は言う。
「うん」
 本当はまだ帰りたくない僕はうなずいた。夜は苦笑いをした。
「寒い中帰りたくないけどな」
「まあね」
 本当は本心を見抜かれたと思った。だけど、夜はあえてスルーしているのか、よく僕はわからなかった。夜空が見える。星が遠い。僕はそれを見上げていた。
「星を見て、楽しい」
「楽しくないけどさ。きれいじゃん」
「ふうん」
 夜は特別面白そうな顔やバカにした顔もしなかった。ロマンチストねとちくりと言う真澄ちゃんとは違っていた。僕は深呼吸をする。肺一杯に冷たい空気が入る。町の、排気ガスのような匂いがした。ランタンが発光して夜道を照らす、おもちゃで見たことがある黄色い機械が僕達の前に通る。工事中だとわかる。穴を埋めるように置いた、ぐらぐらする厚い鉄板を渡り、僕と夜は黙っていた。夜も星を見る。
「小さい星だな」
 夜はそう言った。夜の言葉に僕は笑った。
「遠くにあるからだよ。そうだ。うちに来ない」
「なんで」
「星の本があるんだ」
「じゃあ。今度持ってこい」
 なぜ命令形になるんだと僕は考えている。本当、僕はマヌケなのかもしれない。それを言った意味の裏は、いやらしい気持ちもなかった。だから、ちょっとだけいやな気分になった。
「今日は疲れた」
「ふうん」
「何を隠そう、歌ったからな」
「一人で」
 まあね、と夜は言った。ちょっと自慢そうである。夜と僕はどんな関係なんだろうか。このまま変化はないだろうか。近寄れば離れる夜。それは僕の錯覚か。
「前さ。冷やかしって言った。撤回してくれる」
「忘れた」
 夜はそう言って笑った。夜は気にしていないみたいだ。僕は気にしていた。その事実に打ちのめされた。小さいことを考える奴だと僕は考えた。恥ずかしいやらなんやらと思う。
「いいよ。その程度だ」
「本当は。違うのか」
「冷やかしって言われたのは傷ついたってこと」
「気にしすぎ」
 夜はそう言った。確かに僕は気にしすぎのように思えた。相手だって本気で言ったわけではない。独り相撲をしているだけだ。相手の気持ちをうかがって、疑心暗鬼に陥っているだけだ。それがどんな滑稽なことか、僕はまだ知らない。
 夜はジャケット、くすんだグリーンのジャケットのポケットに手を入れた。僕は考えることをやめようとした。やめて星だけを見ていた。
「病んでいると思う」
「そうなんだ」
 夜はそうつぶやいた。僕を一人にしようとはしない。ただ、当たり前のことを聞いているような口振りだ。僕は前を向いていた。住宅街に入っていく。明かりが均等に配置された街灯。一人の部屋に向かう僕。
「みんな、病んでいる」
 夜はぽつりとつぶやいた。慰めかもしれない。でも僕には嬉しかった。実際にはどうなのかわからないけど、夜の言葉に少し僕は救われた。
「あんたは、強いよ」
「夜は?」
 どうなんだと僕は言った。夜は何かを考えているようだった。何か言葉を探しているような雰囲気だった。
「俺も強いよ」
 そう言った。当たり前だよと僕は言いそうになりながら「そうだね」と答えていた。寂しい気持ちもない。暖かな気持ちである。それは確かに僕が誰かに優しくされたこと。何より、僕は夜に強いって言われたことが嬉しかった。僕はそんな些細なことでも嬉しい。
「夜。おやすみ」
「おやすみ」
 僕は別れ道に入った。そうして、ようやく僕はため息をついた。星はよく輝いていた。小さな光でも、住宅街の光に負けようとしても、キラキラとしていた。僕はそれにほっとした。



「結局、僕と夜は進展しなかった」と日記に書いた。紙の日記には一行だけ書いた。それ以上書きたいことなどなく、僕は机に伏せたまま、目を閉じようとした。僕の気持ちとしてはこのまま仲良くなって、いろいろ話す予定だった。
「やっぱり気持ちがバレているのかな」
 僕はそうつぶやいていた。チャイムが鳴る。玉部さんがドアの前にいた。日記を閉じて、机にしまう。
「どう。元気」
「元気です」
「うそつくな」
 開けるなり、ドカドカと部屋に入ってくる。玉部さんはおみやげに、柿ピーをくれた。自分にはビールで僕にはジュースだ。
「早くも落ち込んでいるんじゃん」
「落ち込んでいません」
「うそつくなよ。相手にしろ」
「それが本音じゃないですか」
「悪いか」
 悪いですと言いながら僕は缶のプルトップを開ける。清涼飲料水である。それを飲みながら、柿ピーをつまんでいく。手がベタベタするのもかまわず。
「コンビニで見たぞ」
「何を」
「男と二人で話しているのを。おまえ、泣きそうな顔をしていたぞ。大丈夫か」
「大丈夫です。いじめられたわけではないんで」
 僕がそういうとそっかと玉部さんが言った。玉部さんはポリポリとピーナッツだけ食べていく。
「柿の種も食べてくださいよ」
「ええ。まあ仕方ないか」
「そもそも玉部さんが買ってきたんですよ」
「悪い、悪い」
「悪いとは思っていませんね」
 そんな会話を僕はしていた。いつもの自分の調子が戻ってきた。それが嬉しくて、僕は柿ピーを食べていた。
「冷やかしはどうでもいいんですって」
「またわけのわからないことを言い出すな」
 玉部は僕をバカにさせず、酒の力かのんびりとつぶやいていた。それがありがたいような、嬉しいような気持ちに僕はした。玉部さんはピーナッツばかりまた食べていた。
「柿ピー、食べてください」
 僕はうるさく言いながら「細かいな」と言われた。けして細かくではないと僕は思っていた。愉快な気分でジュースを僕は飲んだ。
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