羅針盤の向こう

一条 しいな

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 喜一さんは車を止めた。駐車場だ。広いとは言えないが、ビルが囲むようにある。砂利がしいていた。こうして下りると僕はここがどこにいるのかわからなかった。
「不安がるならついてくるなよ」
 喜一さんに言われてしまった。その通りだ。喜一さんは車のキーを持って僕についてこいとも言わずにひとりで歩いていく。僕は慌てて歩いた。
 街は静かだった。時折忘れたように人が歩いている。会社勤めの人だろう。僕をちらりと見たがそのまま歩いていく。
 アパートはすぐにあった。小綺麗である。新築だというのがわかり、郵便受けがずらりと並んでいる。
「入れよ」
 そういわれておずおずと入っていく。そんな僕に喜一さんは気にしなかった。青い壁に、青いドア。角部屋に喜一さんの部屋があった。鍵を開けて電気がつく。おじゃましますと言う。フローリングに敷物がしいてある。畳のような風合い。そこだけ夏みたいたなと僕は思った。テレビがあり、ワンルームマンションよりか広い。バスや台所もある。意外である。忙しいはずが、整頓されている。僕が入ると鍵を閉められた。
「飯はどうする」
「あっちで済ましたので」
「あっそう。ベッドに横になれ」
「えっ」
「おまえそっちか」
「違います。わかりました」
 ベッドに横になる。布団をどかして、意外としっかりとしたベッドは僕の重みを受け止めた。
「肩バリバリだな」
 暖かい手が背中を触る。暖かくてほっとしていきなり、シャツをあげられた。びっくりしている僕に喜一さんは暖房をつける。
「そっちか」
「違いますから」
 背中にオイルをつけられ、ヒヤリとするので思わず声を上げた。それ以外は至って普通のマッサージだ。
 腰も肩もバリバリだと言われた。
「整体に行けよ。整形外科でもいいから」
 マッサージが終わってぼんやりしている僕に喜一さんは言った。マッサージを終えて疲れているのか、眉間にシワが寄っている。
「ありがとうございます。行きます」
「なんか」
「はい」
「危ない奴だな」
「はあ」
 送ると言って立ち上がり、駅前でいいですと断った。僕はぼんやりしていた。気持ちよさのためで腰が軽いのは久しぶりだったためである。喜一さんは機嫌が悪いのか何も言わない。
「おまえさ。もうちょっと警戒した方がいいぞ」
「はあ」
「わからねえならいいよ」
 喜一さんの言葉はなんとなくわかった。多分喜一さんがゲイならば、襲われたかもしれない。いや違うかもしれないが。僕はうなずいた。
「それじゃあ」
「おう」
 頭を下げた僕に車が去っていく。僕は帰ろうとすると「拓磨」と呼ぶ声がした。
「やっぱり拓磨じゃん。なに帰り」
 夜がいた。夜はギターケースを担いでいる。そうして、少し痩せたように僕には見えた。明るい光の下で見る夜はやっぱりきれいで僕は見とれた。
「うん。まあ」
「送ってもらったのか。大丈夫か。ぼーっとして」
「大丈夫だからさ。ただマッサージしてもらって血行がよくなったせいかぼーっとするんだ」
「なにそれ、いやらしい」
「からかうなよ。ただのマッサージだ」
 そう言って別れようとする夜に寂しさを感じてしまうが、今日の夜はおかしかった。
「送る」
「いや、家がわからないだろう」
「近くまで」
「えっいいから」
「気になる」
 そんな押し問答をしていた。つい僕が折れると夜は隣を歩いた。


 夜は何も言わなかった。僕達は歩いていた。商店街を通らず、夜は僕の後をついていく。いきなり夜が「おまえさ。なんか疲れている」と言い出す。
「いやいや、なんだよ。いきなり」
「まあ。いいけどさ。忠告。判断力が鈍っているな。お互いに」
「なんでそんな話になるんだよ」
「いや。なんか俺も焼きが回ったなって」
 なんだよ、それと僕は言った。夜の言いたいことを考えてみるが、今こうしていることに後悔しているのかもしれない。僕はぎゅっと胸を掴まれたような気持ちになった。僕はそれを隠すように「あっ、パン屋でさ」とバイトと社員が抜けたことをようやく夜に話せた。
「酒、飲める?」
「飲めない」
「わかった」
 コンビニに入っていく夜がいた。そうして温かい飲み物、コーヒーではなくココアを二つ買ってきた。僕はあとについていき、雑誌を読んでいた。
「ほれ、外に出るぞ」
「ありがとう。金入ったの?」
「まあ。そんなところ」
「悪いな。なんか買うべき」
「学生にもらうほど落ちぶれていない」
「仕事しているのか」
「フリーター」
「よく体がもつな」
「体力勝負だからなんでも」
「整体に行けって言われた」
「ふうん。腰ガチガチなんだ。ドラマーがよく行くな」
「ああやっぱり」
「俺も手で整形外科に行ったことがある」
「マジ」
「ピアノを弾きすぎて腱鞘炎コース」
 金大丈夫かと僕はいうと夜は笑った。あの僕を魅力する笑顔で。
「親持ち。ガキだったら泣いた」
「痛くて」
「まあ、そんなところかな」
 夜は立ち止まった。僕は振り返った。マンションが見えてきた。夜は僕を見た。夜の目はキラキラと光っているように見えた。まるでたくさんの光を集めたようだった。僕は初めて夜の目に何か欲情のようなものがあることに発見した。
「夜」
「上がっていく」
「彼女が待っているから」
「うん。わかった」
 僕の気持ちは簡単に、あっさりと看破されたようだ。自分の浅はかさに笑うように「またな」と言った。明るく言えた。夜は何か言いそうだった。
 でも聞かないことにした僕はさっさとその場を去った。彼女がいるのに僕が勘違いをしただけなのだ。そう気がついて赤面するような思いがあった。夜は警戒したのだろう。
「バカだな」
 そればかり繰り返して僕は階段を登っていた。僕は素直になれなかった。夜は僕を心配しているのに。なんで素直になるんだ。
 ココアの缶は温かく、そうして遠いもののように僕は思えた。そんな僕をよそに缶は冷えていくようだった。


 バスが学区内に入っていく。僕はとぼとぼと大学校内に入っていく。夜のことを思い出して後悔しているのだ。浅ましい自分にイライラさせられている。
 空は秋晴れ。澄んだ空に飛行機雲がまっすぐきれいに飛んでいる。あっ、飛行機雲とスマホで写真を撮っている人がいた。
「拓磨ちゃん」
 ものすごい形相で真澄ちゃんは手を振っている。隣に梨田さんがいた。
 梨田さんは明後日の方向を見ていた。それはなんだか背を向けられたときと同じ気持ちになった。
「私さ。思うんだけど」
 いきなり真澄ちゃんが言った。真澄ちゃんは髪を直しながら梨田さんを見た。
「そういう反応が余計に尾を引くのよね」
「悪かったって。どんな顔をして会えばいいのかわからなくて」
「まあね」
「……」
 僕が黙っているとちらりと梨田さんが見つめてきた。正直困った顔をしている。それはお互い様だ。
「梨田さん。気にしてくださいね」
 僕は笑っていった。梨田さんは変な顔をした。そうして頭を掻いた。わからないといいたげなのかわからないが。
「そりゃあ、どうも。気をつけるよ」
 梨田さんはにっこと笑った。苦笑に近いものだった。梨田さんはそういうとはあとため息をついた。
「悪かった」
「本当に」
「本当よね。あんな騒ぎを起こして」
「真澄ちゃんはどうしてあんなところにいたんだ」
「そういえば」
 真澄ちゃんに注目が集まる。真澄ちゃんは平然として「静かな場所で執筆活動をするため。ほら、あんたが余計なことを言ったからよ」と言い出す。
 やぶ蛇だったと僕はようやく気がついた。梨田さんはそうかなと考えているようだった。偶然に感謝しなきゃいけないと僕は考えていた。
 本当に偶然なのかわからない。わからないけどあのままだったら危なかったのは確かだ。
「真澄ちゃん、ありがとう」
「圭介ちゃんもありがとうは」
「はいはい。ありがとう」
 ムッとしている真澄ちゃんをよそに僕達は歩き出した。秋晴れの中、冷たい風が吹いている。ニットの長袖を着た真澄ちゃんは皮の上着を着ている。
「暑くない」
「女は体を冷やしちゃだめなの」
「男だろう」
「なんですって」
 そんな二人の会話に自然と僕は笑っていた。いきなり真澄ちゃんは僕のお尻を叩く。
「ようやく笑った」
「笑っちゃだめなのかよ」
「いいのよ。いいの」
 なぜか僕は胸が暖かくなった。真澄ちゃんのせいかわからないけど、僕達の頭上にはヒイラギの葉が生い茂っていた。そうしてキラキラと太陽が葉に反射していた。
「行くわよ。拓磨ちゃん」
「えーっ」
「がんばれよ」
「あの梨田さん」
「なんだよ」
「仲直りの握手」
 手を広げて差し出すと、梨田さんはくすぐったいのか笑って、僕の手をつかんだ。
「変な二人」
 真澄ちゃんが言った。真澄ちゃんらしい物言いに僕達は笑った。
「拓磨」
 戸井田の声が聞こえる。梨田さんはじゃあと言った。
「もしかしたら圭介ちゃん、あんたに惚れていたりして」
「そんなわけないよ。気の迷いがそうしただけだ」
「あら。そうかもね」
 真澄ちゃんはそう言って梨田さんの背中を見つめていた。
「ラブの方はどうなのよ」
「さあ」
 肩をすくめる僕に戸井田がなんの話と尋ねてきた。
「あら、気になるの。それは」
「行くぞ。戸井田」
 そう言って僕は戸井田を引っ張る。
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