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喜一さんは平然とした顔で鈴さんを見つめていた。鈴さんは怒りを我で忘れていないようだが、次第にあきらめたように「わかった」と言った。
「あんたはいつでも正しい」
その言葉はなぜかナイフのように鋭かった。僕の錯覚だろうかと考えていた。喜一さんは顔をこわばっていたようだった。
「ありがとう、姉さん」と言った。鈴さんはしばらく黙っていたが、うんと言った。僕達は黙って作っていた。
「あー良かった」
おばちゃんの一人が言った。僕はなにがよかったのかわからないでもない。
「喧嘩にならなくてよかったわね」
「ええ。でもよく鈴さん折れたわよ。鈴さんの元恋人芳賀(はが)さんがいる会社も出店するらしい。うちが使えなくなったレピシで」
「シチューパンでしょう」
「どうやって」
「冷凍で持っていくらしくて」
なんでやめちゃうんだろうとおばちゃん達は言った。あんなに美味しいのに。と言った。
「見たくないんだよ。シチューパンは芳賀さんとの思い出のパンだし。いやなんじゃないかな。やっぱり誰かと同じ。自分の子、パンだけどそっくりな子は見たくないんだよ」
話題が政治になった。僕は外に出た。白い呼気がふわりと出た。冷たい風がないのに体が寒いと訴える。
喜一さんは自動販売機のベンチでちびちびとお茶を飲んでいた。僕はゆっくり近づいた。
「なにしに来た」
「ちょっと居づらくて」
「どうせ、ゴシップネタを聞かされたんだろう」
「はい」
ニッと喜一さんは笑った。喜一さんの隣に座る。冬のベンチは氷のように冷たい。僕は腰に大丈夫か心配になった。やっぱり立つ。
「おまえさ。泥船って奴、わかるか」
「はい」
「ここは泥船さ」
「そんなことはないです」
「アネキの城だからか」
「えっ」
「近くにライバル店がある。いやらしいことにうちが出せないパンを出している」
「それは」
「なんで、アネキが出さないかわかるか。あっちの方が数倍うまいからさ」
それだけだ。喜一さんは笑っていた。笑っているのに泣いているように見える。
「大企業の力はすごいな」
「うちのパンの方が美味しいです」
「あっちは工場で作り、人件費を減らしている。コストも安上がりな冷凍。現場の負担も軽く大量生産で安く売れる。冷凍がまずいなんて昔じゃあ言われたけど、実際は技術があがり、冷凍食品うまいだろう?」
「そんな」
「やめちまえよ」
一人やめれば、ゆっくりやめるぜ。教えてやる前にやめていく人もいるが、なと。喜一さんが言った。
僕は身じろぎできなかった。知らなかったからだ。
「おばちゃん達はやめていくぜ」
「あの。なんでそんなことを」
「アネキの城だから、いるのか」
「いえ。お金がほしいだけです」
「じゃあ、違うところに行けばいい。腰が痛まないところに」
「喜一さん。僕は怖いけれど、鈴さんが好きです」
「そうか。ありがとう」
喜一さんはようやくニヤリと笑った。そうしてお茶を飲んだ。それくらいしか言えない僕はバカやろう。 鈴さんはどうしたんだろうか。自分の力がないと気がついたとき、絶望したのだろうか。怒りだったのか。わからない。僕はひどく寂しい気持ちになった。
「アネキが好きなら、やめてほしいけどな」
そう言われた。結局僕は学生でなにもできなかった。
「あんたはいつでも正しい」
その言葉はなぜかナイフのように鋭かった。僕の錯覚だろうかと考えていた。喜一さんは顔をこわばっていたようだった。
「ありがとう、姉さん」と言った。鈴さんはしばらく黙っていたが、うんと言った。僕達は黙って作っていた。
「あー良かった」
おばちゃんの一人が言った。僕はなにがよかったのかわからないでもない。
「喧嘩にならなくてよかったわね」
「ええ。でもよく鈴さん折れたわよ。鈴さんの元恋人芳賀(はが)さんがいる会社も出店するらしい。うちが使えなくなったレピシで」
「シチューパンでしょう」
「どうやって」
「冷凍で持っていくらしくて」
なんでやめちゃうんだろうとおばちゃん達は言った。あんなに美味しいのに。と言った。
「見たくないんだよ。シチューパンは芳賀さんとの思い出のパンだし。いやなんじゃないかな。やっぱり誰かと同じ。自分の子、パンだけどそっくりな子は見たくないんだよ」
話題が政治になった。僕は外に出た。白い呼気がふわりと出た。冷たい風がないのに体が寒いと訴える。
喜一さんは自動販売機のベンチでちびちびとお茶を飲んでいた。僕はゆっくり近づいた。
「なにしに来た」
「ちょっと居づらくて」
「どうせ、ゴシップネタを聞かされたんだろう」
「はい」
ニッと喜一さんは笑った。喜一さんの隣に座る。冬のベンチは氷のように冷たい。僕は腰に大丈夫か心配になった。やっぱり立つ。
「おまえさ。泥船って奴、わかるか」
「はい」
「ここは泥船さ」
「そんなことはないです」
「アネキの城だからか」
「えっ」
「近くにライバル店がある。いやらしいことにうちが出せないパンを出している」
「それは」
「なんで、アネキが出さないかわかるか。あっちの方が数倍うまいからさ」
それだけだ。喜一さんは笑っていた。笑っているのに泣いているように見える。
「大企業の力はすごいな」
「うちのパンの方が美味しいです」
「あっちは工場で作り、人件費を減らしている。コストも安上がりな冷凍。現場の負担も軽く大量生産で安く売れる。冷凍がまずいなんて昔じゃあ言われたけど、実際は技術があがり、冷凍食品うまいだろう?」
「そんな」
「やめちまえよ」
一人やめれば、ゆっくりやめるぜ。教えてやる前にやめていく人もいるが、なと。喜一さんが言った。
僕は身じろぎできなかった。知らなかったからだ。
「おばちゃん達はやめていくぜ」
「あの。なんでそんなことを」
「アネキの城だから、いるのか」
「いえ。お金がほしいだけです」
「じゃあ、違うところに行けばいい。腰が痛まないところに」
「喜一さん。僕は怖いけれど、鈴さんが好きです」
「そうか。ありがとう」
喜一さんはようやくニヤリと笑った。そうしてお茶を飲んだ。それくらいしか言えない僕はバカやろう。 鈴さんはどうしたんだろうか。自分の力がないと気がついたとき、絶望したのだろうか。怒りだったのか。わからない。僕はひどく寂しい気持ちになった。
「アネキが好きなら、やめてほしいけどな」
そう言われた。結局僕は学生でなにもできなかった。
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