羅針盤の向こう

一条 しいな

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 出店は僕ではなく精鋭のおばちゃんがついていくことになった。
 僕は厨房でパンを作っていた。温かなパンの香りは香ばしく、またしばらく冷やすと艶やかな光を帯びていくパン。僕は勝手に負けないでほしいと願った。
 しかし、それもわがままなのではないかと考えていた。
 鈴さんは失意の中がんばったのだろう。彼女の顔には疲労が見えていた。エナジードリンクを飲んでいる姿を見かける。
「拓磨、ぼーっと、しない」
 と怒られてしまう前に作業に移る。小麦粉を吸わないように形成していく。喜一さんはちらりともこちらを見ない。パンを作っていく。あんパンのあんを作っているようだ。
そうして作ったあんを冷ましていてからパン生地に包む。丁寧に慎重に、包んでいる僕と違い、喜一さんはちょっとだけいじって包む。
「ベタベタ触るな」
 さっさとやれと言われてしまった。喜一さんに言われた通りにする。僕は慌ててやった。
 喜一さんの手伝いが終ると鍋を洗う。ごしごしとこびりついたあんをすくうように洗う。固い。冷えてしまったからだ。僕は洗っていると、喜一さんは確認してきた。
「なにやっているんだ。汚れが残っているぞ!」
 とまた怒られてしまった。喜一さんは目をつり上げて僕は必死にはいと返事をした。
 僕らは作る、売る、買う、作ると巡るようにパンを焼いていた。気がつけば深夜になっていた。掃除当番なので最後に厨房を掃除。鈴さんも一緒だ。
「あんた、また怒られたわね」
 またおばちゃんに笑われていたが、仕方がない。という僕は黙って掃除をした。鈴さんは疲れた顔で「そこ、やって」と言われた。大切にしているオープンの汚れを落としていると「いいじゃない」と言われた。
「掃除は慣れたみたいね」
「おかげさまで」
 僕はひっそりと笑った。単純にほめられて嬉しかったからだ。床をモップで拭く。
「残りのパン、あらかたとられたわね」
 呆れながらも鈴さんは言った。パンはまだ残っている。後十個くらい。
「はい。食べて」
 五個まるごと渡された。
「鈴さんも食べるんですか」
「当たり前」
 静かに言う。
「肩もみましょうか」
 鈴さんに警戒するような顔をされた。
「なにもしません」
 鈴さんの肩を触る。華奢な体つきではなく、筋肉がついている。それをそっと触る。ゆっくりと表面のこりを和らげようと背中全体をさする。まず固い腕、二の腕をもむ。固い。
「ああ。気持ちいいわね。整体に行ってないから、ひさしぶりってかんじ」
 こりを親指で指圧する。
「素人ですけどね」
「ふうん。喜一がさ。あんたを気に入っているみたい。なんでかな」
「気まぐれですよ」
「そうね」
 それきり僕は鈴さんの腕をほぐしていた。鈴さんの気持ちいいのか目をつぶっていた。
「ありがとう」
「指が痛いです」
「言わないの。そういうことは」
 十分経って鈴さんが言った。鈴さんは立ち上がり、うーんと腕を上にあげて体を伸ばした。
「気持ちよかった。ありがとうね」
「いえ」
「なんか。拓磨が優しい」
「そうですか」
「まあ。気にしない」
「鈴さん、この店どうなるんですか」
「つづけるわ」
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