羅針盤の向こう

一条 しいな

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 夜は仕事に出て行くと言ったきり、帰っては来なかった。とパソコンに打ち込んでみたが、あまりにも不吉なので文章を消した。
 呆れてしまった夜の発言、距離を開けることは守られている。この空白はなんだろうか。本当に好きか確かめるってどういうことだ。そんなことを考えるより先に僕は大学に向かうことにした。
 身支度をして、大学内の就職を助けてくれる部屋に向かった。あらかじめ予約をしたわけではない。
 先輩達がいる。先生となにか熱心に話をしている。それを聞きながら僕は資料を見たりしていた。授業として就職に関するものは必須だったから、顔を知っている教授と話をしてみた。
 なにがなりたいのかわからないなら、バイトに関係する職種をしてみたらとアドバイスをもらった。今のバイトの話をしたら、へえすごいわねと言われた。
 なぜか見直された。何軒かバイト、というより職業体験をピックアップしてもらった。時期が遅いので、いいところはほとんど取られたあとだった。
「食品関連の会社なんてどう」
 うなずいた僕にパソコンを操作しながら、見せてくれた。大企業はないが、中小会社だ。
 ということで僕はバイト以外、職場体験をすることになった。
 空白を埋めるように僕の毎日は忙しいものになった。バイト、職業体験、職業体験と言っても社員と同じことをする。今回はブラックではなかったからちゃんとしたところだ。賃金をもらえた。
 僕はくるくると動きながらも、帰っては寝て、行って職業体験のことを復習して寝ての繰り返しだった。
「おまえ、やつれた」
 顔を上げたとたん、喜一さんが言った。喜一さんは休憩時間に言われた。喜一さんがまじまじと僕を見つめていた。
「職業体験をしていて」
「あーニュースでやっていたな」
「ええ。まあ」
「で、おまえはなにしている」
 一般社員と混じって仕事をと言っていたら目を丸くさせられた。
 会社を問われ、そのまま言った。
「で、どう?」
 コーヒー片手に話し始めていた。仕事がどんなにキツイか、どんなことで悩んでいるか、上司が嫌みったらしいとかいろいろ。
「たまっているみたいだな」
 のんきに喜一さんがいう。
「あー喜一さんみたいな彼女がいたらな」
「やめろ、気持ち悪い」
 そうですかと僕は言った。夜はどうしているんだろうか。喜一さんはちらりと僕を見ていた。
「早く彼女を作って癒やしてもらえ」
「喜一さんは彼女がいるんですか」
「まあな。いる」
 そうは見えないと言ったら怒りそうなので「いいな」と自然に僕は言えた。そんな僕を喜一さんはあっさりと「できる奴にはできる」と言ってのける。
 僕はああそうかと言った。そういうものかと理解したような気持ちになった。喜一さんは自分に自信がある。僕にはない。
 だから、その差があるのかもしれない。
 夜に強く言えないのは、僕に自信がないからだ。だから、振り回される。情けないなと僕は感じていた。
「僕はだめだな」
 そう言った僕を喜一さんはなにも言わなかった。
「おまえ、大丈夫か」
「えっ」
「疲れていると、みんなちょっとしたことでぺしゃんこにつぶれる」
 喜一さんは目を見つめるように、顔をのぞいてきた。
 僕はそれをぼんやりと見ていた。疲れた顔をしているつもりはない。体がだるいだけだった。そんな僕を喜一さんは心配してくれる。うっとうしいはずが、なぜかじんわりと気持ちがほぐれているようだ。
 単純に嬉しかった。ベンチは冷たい。冷たい風が頬に張り付く、なのに嬉しいなんてヤバいなと僕は思っていた。
「なんだ、泣きそうな顔をして」
「なんでもありません。行きましょう」
 無理やり笑っていた。寒いせいか表情筋がうまく動いていない。パリパリと凍りついてみたいに。背中も寒くて凍えている。
「温まりたいです」
「そうだな。よし、行くか」
 中に入ったらおばちゃんがあめ玉をくれた。それくらい顔色が悪いようだと僕は気がついた。そうしてさりげなくスマホを見たら、顔色が悪いと気がついた。
「さあ。やるわよ」
 スマホを慌ててロッカーにしまって、僕は作業を始めた。パンを形成していく。慣れた手つきになった。
 喜一さんは真剣に作っている。オーブンを温めて用意する。さっきより暖かいというより暑い部屋になったようだ。僕は手先を集中する。生地をコロコロと転がして、クリームパンを作っていた。
「おいしかったです」
 厨房をのぞくように若い女性がいう。それだけでやる気が出てきた。いやだったはずが、こんなにもその一言でやっていてよかったと思う。
 レジをしているバイトはいないときもある。そういうときおばちゃんや僕がする。
「やっ、混んでいるな」
 という人もいる。温かな食パンを求めている人もいる。
「すみません。これ、切ってください」
 パン一丁を切ることもある。それは慣れているので簡単にできるが、一人頼むと数人まとめてくるのだ。
 パンをナイフで切っていた。そんな僕を鈴さんは見ていたなんて知らなかった。
 帰りになった。営業時間は変わらない。深夜だ。はああとあくびをする僕に鈴さんが「あんた達、夕飯は」と喜一さんと僕に問いかけた。おばちゃん達にも問いかける。
「ラーメン、食べる人」
 鈴さんが問いかける。おばちゃん達はちょっとと言って、立ち去った。鈴さんと僕と喜一さんが残っていた。
「そりゃあ、そうか」
「まあ、疲れているから早く帰りたいんだよ。姉貴」
「あんた達は」
「あの、僕は」
「どうする」
 遠慮する理由がない僕はおずおずと「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「オーバー」
「それだけ姉貴が怖がらせるからだ」
 喜一さんはニヤニヤしながら笑っていた。
 人が悪いんだからと鈴さんは喜一さんに言っていた。
 三人で商店街を歩く。屋台のパン屋が見えている。食べたそうな顔をしている二人がいて、結局パンを買った。ココアを買ってもらい、パンも買ってもらって小さくなっている僕に鈴さんは笑いかけた。
「最近がんばっているみたいね」
「いえ、まだまだです」
「謙遜しない。あんたはがんばっている。自分で認めないとつらくなるよ」
「鈴さんの方も大変だったのでは」
 鈴さんはあーとつぶやいた。そうしてパンを食べる。
「これ、おいしいです」
「いらない心配かけた」
 喜一さんは言った。
「まあ、だって意外だった。みんな離れていくと思っていたけど」
 鈴さんはちょっとだけ照れくさいのか、うつむいている。みんな、あんなに噂話をしていたが、それは愛情の裏返しなのかもしれない。人間ってわからないなと思う。ただ、鈴さんが真面目にパンづくりをしていたのは僕にもわかる。だからか、な。
 夜の闇を見ながら考えていた。手が真っ赤になっていた。鈴さんも喜一さんも。働いた人の固い、ガチガチとした荒い手をしている。
 僕の手はどうだろうかと改めて考えていた。
「また難しいことを考えているんだね」
 鈴さんの言葉に僕は苦笑した。パンとココアを飲んだ僕達は家路についた。
 僕は疲れたからシャワーを浴びて、凍えながら布団の中に潜り込んで、暖かい部屋の中目をつぶっていた。確かに僕は考えすぎなのかもしれない。気を失うようにあっという間に眠りについた。


 桜が咲いている。白い花びらが風で散らされ、花吹雪となっている。ほこり臭い中、桜は悠然と咲いている。みな、強い風にきゃああとスカートの裾を押さえ、あるものは髪の毛を気にする。
 僕の髪型が乱れていくのも気にせず歩いていた。髪の毛が砂混じりというより埃まみれ。僕はそれに嫌悪感を抱いた。
 学校に向かっているのに歩いても、歩いても近づくことがない。まるで怪獣のように、あの校舎はどこかで待ち構え、僕を飲み込んでしまいそうな。
「夜」
 なぜか僕は夜の名前を呼んでいた。はっと目覚める。意識の浮上したように。カーテンから朝日が隙間から漏れていた。頭の中ではまだ夢の余韻のようなものが残っていた。
 口の中が砂っぽいのではと確かめる。それはなかった。そうして、スマホのアラームを止めた。
 会いたいという暴力的な感情が僕の奥底にあった。ふらふらしている僕には珍しい。
 スマホを持つ。意地なんてどこかに消し飛んでいた。会いたいから会う。だから、会いたいと電話をかけていた。夜は数回コールで起きた。
『なんだよ』
「今から会えない」
『はあ。今何時だと』
「会いたい」
『……そう。夜でいいか』
 うんと言った。夜に会えるんだと僕は思ったとたん、胸が締め付けられ、なぜか幸せを感じた。会いたいと言って会ってくれればいい。
『今日のおまえ、変だな』
「会いたかったから」
『今なにしている』
「起きたばかり」
『ふうん。じゃあな。寝る』
「おやすみ」
 うんと言って夜が眠る。そう想像してみた。ハンガーに掛けた背広をアイロンがけして、僕は朝食を食べていた。
 駆け出ししたいのを我慢する。革靴を履いて、コートを着る。鞄を持って、歩き始めていた。
 頭の中の夜を追い出して、僕は住宅街を歩き出した。駅まで歩いていく。早朝から勤め先に向かう人々が集まっていた。
 寒いのか顔が赤い人もいる。定期を改札にかざして、歩いていく。
 その流れは確かめるまでもなく、都心に向かっていた。
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