羅針盤の向こう

一条 しいな

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 気がつけば、約束の時間だった。僕の体はくたくたに疲れているせいか、ずっしりと重い。電車に運ばれている間、眠っていた。立ったまま。
 プラスチックの手すりにつかまり、僕はだるい体で仕切りに身を預けていた。さぞ周りには迷惑をかけたと思う。
 駅に止まれば、一気に人が降りる。また人々が入るだろう。電車を降りれば、メロディーが流れる。寒い空気が一気に押し寄せるように包み込んで僕は身震いをした。階段まで登って、僕の淡々とした気持ちが浮上する。それは夜が待っているからだ。そんな単純なことに浮かれているのだ。
 乳酸が体中にたまっているのかと思うほど、仕事で体が緊張していたことにようやく僕は気がついた。やることはたくさんある。仕事の復習。教授に見てもらうレポート。そんなことを考えながら待ち合わせ場所にきていた。スマホを取り出して、SNSを開く前に。
「よっ」
 夜が寒そうにポケットに手を入れたまま言った。
「おっ。スーツ。なにバイト?」
 ああと僕がいうと、夜はあっ、そっかと、つぶやいた。
「就活の一環か」
「うん」
「まあ、いいんじゃないの」
 夜の顔が少し歪んだように見えた。僕はあえて気がつかないふりをしていた。
 夜はそんな僕の顔をのぞくように「なにしにきた」と言ってくる。夜はキラキラとした目をした。
 僕は言っていいのかわからなかった。恥ずかしいと今更我に返った。そんな僕を夜は「なんだよ」と言っている。
「いや、あの、その」
「うん」
「会いたかったから」
 目を丸くした夜がいた。そうしてふうんと言った。僕は夜の頭の中にどんなことを考えているのかわかっていた。自分勝手、ひとりで盛り上がって、気持ち悪い。
「ごめん。気持ち悪いよな」
「いいじゃん。なんかようやく実感した。そういうもんだよ。恋って」
「そういうものなのか」
「どんどん欲張りになる」
 夜はため息をついた。なにか考えているのか、僕はそれを知りたくなった。夜は歩き始めた。
「根城には案内できないけど。おまえに連れてきたいところがある」
 夜の後をついていく。
「寒いな」
 夜はそう言った。まだ店は開いているようで、窓からは美容師とお客さんがなにか話している様子が見えた。僕はそれを横目で見る。明かりを落としたカフェを通り抜けて、古着屋らしき服屋も通り過ぎて、黒一色で内装をしたケーキ屋を通り過ぎていく。
 この街に似合う若者があふれていた。友達と楽しそうに笑い会う、大学生。音楽を聞いているヘッドホンをつけた男性。そうしてナンパをしている男性。スーツの僕が浮いているようだった。
 夜は店に入る。
 棚や見世物のように低い台に色とりどりの箱や小さな本が飾られている。
「カセットテープって知っている」
「なにそれ」
「昔、スマホの代わりに使われた奴。CDの前。カセットテープに録音した曲を専用の機械で聞く」
「よくわからない」
「ラジカセに聞くんだ」
「ふうん」
 カセットテープに入った箱を物色する。有名なアーティストの洋楽があった。店の中はゆったりした時間が流れていた。知らない邦楽があって、スマホの画面とは違っていた。物が実際触れて、装飾からなにからなにまで、作品の一つということがわかる。触ってみると、チープな箱ではないことがわかる。箱の内装も一つ一つ違うその形状がかわいらしい。
「カセットテープにしか出さないアーティストもいて。いい洋楽もあるんだ。世界中で見直されている」
「ふうん。夜も出すの」
「スタジオ借りて、楽器を鳴らすには金がめちゃくちゃかかる。デジタルで楽器の音を作った方が安上がりなんだ。だから、そんな金はねえよ」
「ふうん。夜はなにがいいの」
 夜は嬉しそうな顔をした。カセットテープの専用のラジカセがないから聞けないけど、聞ける機械があって聞いた。デジタルとは違って、優しい音だった。柔らかく、僕のトゲトゲとした気持ちを刺激する。
「いいだろう」
「うん」
 カセットテープのくるくると巻いていく、回るスピードがみれる。ゆっくりと回るのは見ていて落ち着く。
「おまえ、どう」
「いいんじゃない」
 言葉とは裏腹に僕は笑っていた。夜は楽しげにカセットテープを物色していた。
「レコードもいいけどさ。レコードは高いじゃん。カセットテープならいい。安くて」
 へえ、と僕は言った。
「聞いていくか」
 恥ずかしそうな顔をした夜がいた。なにをという前にカセットテープを渡してきた。おもちゃみたいな青色のプラスチックにちゃんとカーバがかけられている。
「ラジカセないんだけど」
「買え」
「めちゃくちゃ」
「じゃあいい」
「聞くよ。CDの方がよかった。パソコンで聞ける」
「CDじゃあ味気ない」
「なんで、カセットテープ」
「簡単に録音できるから」
 それだけと夜は言った。
「なにが入っているんだ」
「俺の答え」
 僕はぎゅっとカセットテープを握りしめた。それってという前にじゃあなと夜が立ち去る。人ごみにまぎれた夜を僕はなにか言いたくて口を開けて言った。
「バカ野郎」と。



 ラジカセを買う。通販サイトで。一番安いの。ずらりと並んだラジカセは若者に向けたものが多かったが、シニア向けは高いものが多かった。ラジカセを聞くには時間がかかるということはわかっているのだろうか。通販サイトで注文しなければならない。そうしてちゃんと聞けるか不安。なんという遠回り、それがわかってそんなことをしたのか。
 カセットテープの裏側、曲が書いてある。それはパソコンやスマホに慣れた僕には読みにくい文字が並んでいた。友達、夕飯、眠りの歌と書かれているだけだった。三つ作られていただけも大変だったのではないかと僕は考えていた。
 多分、恥ずかしいから、言いたくないから、渡してきた。友達だからまた明日も、よろしくだろう。きっと。
 それともと僕は青いカセットテープをつついた。
 やることはたくさんある。やるべきことは山積みでそれに追われてしまう。机の引き出しに見えるところに、カセットテープをしまう。
 気になって眠れないとようやく僕は気がついた。
 もどかしい気分になる。また僕は夜に振り回されている。情けない。そんな僕に夜がロマンチックなところに笑っていた。だってなんで音楽。それは高校生が好きな子に曲や詩をプレゼントするような、恥ずかしいことをする。
「好きな、子?」
 顔が熱くなる。いやそんなはずではと思う。そんなはずはない。あるはずはないと頭の中で打ち消す。ノンケだぞ。ノンケと僕は思い出した。
 からかわれているのか。不安になる。
 夜が僕のことを好きならば、振り回さないと思う。やっぱり友達だろうか。ジリジリと胸を焦がすような気持ち。早く寝てしまえと僕は念じて目を閉じた。

 桜を見ると思い出す。先生に恋したことを。先生には言わなかったけど、先生には気がついただろうか。灰色の学校生活。明るくもなく、暗くもなく、たいして勉強も運動もできない。普通なのか、それ以下なのかわからない。
 友達はいたが、そんなに親しくない。親友と呼べる生徒などいなかったといえばそうだ。漫画や映画やドラマに出てくるような青春なんてなかった。ただ、日々が過ぎていく。毎日を消化するように授業をこなしていく。
 春だったと思う。一年の。現代文の先生だった。優しそうな先生だ。いつも柔らかく笑っていて、怒るけど女子にはおじさんと呼ばれた先生だ。若いくせに年老いた雰囲気があった。
 たまたま、だった。現代文の宿題をこなせなかった。
 居残りに準備室に呼ばれて、頭を抱えながら解いている僕と先生は言葉を交わした。指にはリングははめられていたのに、僕はときめいていた。
 そうなにも起こらなかった。先生は僕を生徒としてとらえ、僕は恋愛感情を抱いた。しかし、先生は男に好かれているなんて気がつかなかった。
 困った生徒。いやな噂も言った生徒を叱る。ものすごい剣幕で怒っていた。
「こいつはそんな邪な考えを持つ人間じゃない」
 ああ、わかりました。そうつぶやきそうになった。恋に罪悪感を抱いた。こんなに気持ちが揺れた。
 そんなトラウマのような思い出が桜を見ると時折責めてくる。
「あっ」
 涙をこぼしていた。涙の冷たさで目が覚めた。恋は罪悪ですよと授業で習った言葉を思い出す。
「罪悪なんかじゃない」
 そうつぶやいた僕がいた。悲しいからそんなことを言う。朝の日差しは薄く、まだ弱々しい。カーテンの隙間から外がすみれ色だと気がついた。寒い。暖房をつける。
 顔を洗い。準備を始める。淡々とした顔でやらなければならない。
 ひさしぶりにいやな夢を見た。
 夜のカセットテープを見る。手紙なんかないかなと思ったけどなかった。
 音楽に言葉をつめたならば、なにを伝えたい。僕はそんなことを考えて気をまぎらわしていた。
 同じように動いてもまったく違う毎日だ。ルーティンを繰り返して、代わり映えのない一日をありがたく思うか、退屈に思うかはひとそれぞれ。退屈に思うのはたいてい若者だと決まっている。
「おっ。なんだ」
 玉部さんがスーツ姿で僕と同じ時間に出かけるようで、外に出た瞬間に鉢合わせいた。
「おはようございます」
「おはよう。かっこいいな。そうすると」
「いえ、玉部先輩こそ」
 ニヤリと玉部先輩は笑った。そりゃあどうもと言っていた。
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