羅針盤の向こう

一条 しいな

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 夜はなにが言いたかったのだろう。電話を切るなり僕は思った。暖房が風を送る。そうして、パソコンの中のファンが動く音。立ち上げたアプリが表示され、書きかけの企画書がある。ぼんやりと考えている暇なんてないんだと僕は言い聞かせていた。
 仕事というものをこなさなければならない。自分が満足しても周りはもっと質のいいものを求めてくる。
 夜の気持ちばかり考えていられない。夜だって僕の気持ちを考えたかという投げやりな気持ちに僕はなっていた。そんな僕は、時計との勝負だった。
 なにが正しいとか、なにが間違えとか僕にはわからない。ただ進むだけだ。進まなきゃ、結局みえないものがたくさんあってそれを知りたいような、知りたくないような複雑な気持ちだ。ただ、時間はまってくれない。
「夜、弱音を吐いていいかな」と言いたくなった。自分には無理じゃないか。自分なんて面白いものができないなんてマイナス思考に陥り、ぐだぐだと言いそうになる。
 夜とつぶやいた。理想ってなんだと言いたくなった。苦しくってたまらない。自分がわからなくなる。
「夜」とメッセージを送った。
 気持ちをぶちまけるように不安を書いた。怖い、自分に価値がないんじゃないかとか。ボロクソに言われるとか。自分に就職先が見つかるかなど。
『拓磨。おまえ、つらいのか』
『つらい』
『俺だけじゃないんだな。いいじゃないの。みんなそう思う。俺はおまえを価値があると思う。そう悩むやつが。悩まないやつなんてつまんねーもんを作る』
『……そうなのか』
『拓磨、自信持て。おまえは最後にイカした人間だ。悪かった。あまえて。おまえが先に行くような、遠くに行くような気がした』
 そうじゃないんだよなと夜は書いた。なぜか夜がありがとうと書いた。夜はニヤリと笑ったスタンプに「頑張って養ってくれ」と他力本願なことを書いた。
 僕は文字のやりとりだったけど、胸の奥にあるものがちょっとだけ軽くなった。胸のうちにあるもやもやは確かに増幅するようにある。それをどうしようとは思わない。
『夜、ありがとう』
 どこが不安なのか箇条書きしていく。そこを補強するように情報を集める。僕が見てきたことがある。パン屋で働いた経験がある。
『おまえさ。やる気出るスイッチがいきなり入るな』
『うん。まあ』
『あれでよくやる気が出るな』
 夜がやる気になったからだよとは言えなかった。まあね、と返すのがやっとだった。
 僕は集めているデータを探す。ネットに頼りするより、経験の方が強いと上司が言っていたことを思い出す。
 やるべきことはわかっている。自分には無理やり前を進んでいると思う。苦しいけど、進まなきゃと思う。夜は進んでいると信じて僕は無理やり進む。
 まるで泥道を歩いているような気分だ。


 やりたいことはよくわからない。自分というものは曖昧だ。自分をかたどったものが記憶という曖昧なものだから、嫌になる。
 確かな情報ではないから、自分の脳の中にあるものを刺激しようと必死だ。
 記憶を刺激しようとした。ただひたすら。
「なに、考えているんだ」
 安いチェーン店のラーメン屋。新しい建物で、黒い壁紙、黒い机、黒い椅子に統一されている。お客がOLばかりで、さっぱりした味のラーメンだ。醤油に大根のすりおろしとオリーブオイルがかけられ、小さい白魚と麺が入っている。
「いえ。別に」
 上司に食事を誘われた。別に他意はあるわけではない。と解釈している。企画書は午後から提出だ。そう僕は自分に言い聞かせた。
「いろいろ考えている面倒だぞ。もう今更引き戻せない」
 そんなことを言われたからプレッシャーだと感じる僕がいた。ラーメンをすすりながら、しばらく黙っていた。チャンポンを食べている上司は顔をあげた。
「なんか、落ち着かないな。俺が」
 クスクスと笑い出した。僕はきょとんとした。上司の気持ちがわからないからだ。
「確かに拓磨は頑張っているが、頑張りが実ることは実際少ない」
「いやなことを言いますね」
「世の中なんてそんなもんさ」
「はあ」
「実感ないだろう。これからどんどん増える。どんどんと、な」
 いやな世の中だと僕は感じたが、それくらい厳しい世界だと知る。荒波にもまれる前の僕には怖い言葉だ。
「企画書。楽しみにしているから。若者らしいフレッシュな」
 企画書を提出したら、小言をもらった。ただ、若者の求めているものがほしいのに、とも言われた。でも面白いよと言われた。たったそれだけでも嬉しかった。でも小言というか、注意、弱いところを指摘された。
「一度に直せ、それができねえのか」と言われなかっただけでもマシかもしれない。ちょっとした職種の違いにぶち当たるよりマシだ。
 今日で上司とはお別れで別の部署に回ることになっている。
「ありがとうございます」
「ほら」
 名刺なら持っていると戸惑っている僕に、上司は「SNSのID」と言われた。あーという間抜けな声が聞こえた。
「教えて。相談に乗るから」
「はい」
 と言っていた僕に上司は笑っていた。墨先(すみさき)さんという上司だ。助けてくれるのかわからないが、とりあえず心配なのだろうと思う。他にもSNSを交換したから別にいいかと僕は考えていた。
 疲れた体を運ぶ電車は緩やかな速度である。夜の中を正確な時間で最寄り駅まで運ぶ。体は安心して眠りにつこうとしている。この揺れ、暖かさがいけない。意識を気持ちよく手放す前にスマホが鳴る。
『元気?』
 いきなり夜からメッセージが届く。目が覚めるような思いがした。僕はスマホに近況を書いていく。それを夜は既読していく。
『お疲れ様』
『夜が優しい』
『俺はいつだって優しい』
『なに言っているんだ』
『まあ、また悩むだろうな。おまえ』
『夜だってそうだろう』
 既読された。返事を待つ。そうして新たな表示が出てくる。それに僕はほっとした。
『好きだ。だから、もうちょっとわがままで音楽をつづけたい』
『こっちに迷惑かけないならしたら。不安じゃなかったのか』
『これしか知らないから。やめるときはすっぱりやめるかもしれない。でもやれる内にはやりたい』
『そっか』
 ギターを弾く夜の姿が浮かんだ。それで満足している僕がいる。やっぱり夜は音楽をしている方がかっこいい。それを書くと調子に乗りそうだから『まあ。気張れよ』と書いた。
 夜の会話はそれだけで終わった。面と向かっていうには恥ずかしいことかもしれない。だから、メッセージを送ったのかもしれない。電車が最寄り駅に着く。
 夜に会ったらなにをいうべきか、そんなことを考えていた。
 街は静かだ。ゆっくり歩みながら、商店街を通る。閉まっていない店があり、そこでお惣菜を買う。コロッケ、メンチカツ、唐揚げとか。安い値段だから、嬉しい。FMが流れている。楽しげな会話がつづく。
 ありがとうございますに背中を押される形で家路を再び歩く。星があまり見えない。周りの明かりでそう見えるだけで星は輝いている。
 疲れた僕には広がる夜空には星があり、その星はもうないのかもしれない。土や砂でできている星、ましてやほこりでできている星もある。そんな不思議な感覚に僕はなる。
 歩いていく。思考はバラバラの方向に走る。もしかしたら、今日は誰かの悲しい日かもしれない。変な気持ちになる。
 ああ幸せなのかも、それに罪悪感を覚えるときや優越感のようなものを覚えるとき。どっちもくだらないと片付けてしまう。
 顔を上げる。月が出ている。小さなコインのような月が出ている。
『夜、月が出ているよ』
 写真つきのメッセージは既読されたままだった。月はきれいに撮れていないからそりゃあそうだと思った。ぱっと目に引くようなものではない。だから、緑のメッセージがチカチカする。
 返事くらいほしかったと思う。そんな気分になって、僕は忙しいんだと思う。僕だって忙しい。

「寒い」
 コートの襟を立てて、風が侵入しないようにする。スーツだと寒いと気がついた。早く帰ろうと思った。
 夜からメッセージはなかった。
「おっ」
 玉部先輩と鉢合わせした。玉部先輩は晴れやかな顔をしている。総菜の袋を見ると「飯か」と尋ねられたからうなずいた。
「ちょっと報告があるんだ。上がっていいか」
 僕ははい、どうぞと言った。玉部先輩は上がって、次僕で鍵を閉める。コートを脱ぐ。そうして上着を脱いで、エアコンをつける。
 ネクタイを緩めて、お茶を出す準備。
「インスタントコーヒーでいいですか」
「気にするな。なんでもいい」
 久しぶりに玉部先輩に会ったような気がする。玉部先輩は奥の部屋に座っている。僕は湯が沸いたことを確認すると、インスタントを入れた。
「どうぞ」
「おっ、悪い」
「飯食っていいぞ」
「じゃあ、そうします」
 唐揚げ弁当を食べていると玉部先輩は「就職先が決まった」と言い出す。
「おめでとうございます。えっ、どこですか。あっ言えないならいいです」
 ××と言われたが、ピンッと来ない僕には玉部先輩はどんな会社か話している。僕は聞いていた。
「すごいですね」
「いや、ありがとう」
「僕もがんばらなきゃ、な」
「おっ、やる気出たか」
「いえ」
 コーヒーを飲んでいる先輩はニヤリと笑った。
「どう、最近。オネエの彼女とは」
 僕は苦笑した。
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