ある美しい日に乾杯

夜明け

「時には泣いたって良い、涙は君の身体にとって害のあるものでも何でもない。ただの生理現象の一つにすぎない。それに涙の一滴一滴が君という人間を少しずつ大きくしていく。そしてその一粒一粒が君の心の中で泉のように湧き出るものへと変わっていく、そしてそれは多くの人に安らぎと適度な心地よさを与えてくれる。」
　彼はそう言って、僕に水色のナイロンのハンカチを渡した。　　　　　　　　　　　　僕は彼から手渡されたナイロンのハンカチをとるやいなや、思い切り海に投げ込んだ。　　　　　　　　　　　ナイロンのハンカチはヒラヒラと空を舞ってから、ハンカチは広がったまま、海へと落ち、静かな波に揺られながら、ただそこに浮かんでいるだけだった。７月の海風は僕らを心地よい気分へと導こうしてくれていた。少し冷えた風は僕らを何処かへと運ぼうとしているようだ。
　「ここはベネチアの泉じゃないんだぜ。覗いたって底は見えたりしないし、落ちた物だって取れやしない。」　　　　彼は大笑いしながら、そしてこう言った。
「もう一枚ハンカチがあるけど、もう一枚投げるかい。もう一枚投げて、俺と一緒になることを刹那に願うか、それとも君はそんな趣味はないのかい。」　　　　　彼は少し酔っていたのだろう。　　　　　　　　　　　普段の彼はそんな下品なことは言わない。　　　　　　　　　　　　　　　　　もっとクールに痛いことを言っている。例えば、通りがかりの綺麗な足を出したミニスカートの女の子に、ナイスレッグと声をかけたり、後輩にアイスを奢っただけなのにあたかも食事を奢ったかのような態度をしたりする。　　　　　　　　　おそらくアルコールが体内で彼をおかしくさせたのだろう。　　　　　　　　　　　いつもはもっと早く帰っているのだが、僕が長々と恋人と彼を挟まずに話ををしていたので、彼はその間ビールを飲んで時間を潰していたのだろう。　　　　　　まさか時間と一緒に酔い潰れるという酷体を晒している。　　　　　　　　　　　　彼の脳味噌はアルコールにで溶かされてしまったのかもしれない。　　　　　　本当にそう思わせるくらいの潰れ方をしながら、うまく回らない舌を無理やり回して、一丁前のことを語っている。

「ベネチアの泉はハンカチを２回投げると恋人になれるのかい。」　　　　　　　　僕は少し彼をからかいたくてそう言った。
　彼はそうさと言って、また大笑いした。　　　　　　　　　　　　　　　　　遠くから暴走族の物凄いエンジン音が聞こえてくる。　　　　　　　　　　　　　　そして近くでは大学生の集団がロケット花火を海に向けて飛ばしたり、打ち上げ花火をしたりしていて、おまけに焚き火もしてるから、あたり一面が煙でモクモクし始めた。　　　　　　　　　　　　　　このくらいで帰らないと良くないことに巻き込まれるのではないかと少し心配になったので、彼にこう言った。
「じゃあ僕はもう一度ベネチアの泉に行けることを願うね。君はそんなにナイスガイでもないし、それに僕はどんなに腹黒くて醜い女であっても、君を選ぶくらいならその女を選ぶね」　　　　　　　　そう言い切ると彼はまた大笑いして、テトラポットの上を信じられないほど転がり回った末にざぶんと海の中に落ちてしまった」　　　　　　　　　　　　　　　向こうで騒いでいた大学生のの集団がこちらを指差して笑っている。でも幸いなことに彼らはこちらを指差して笑っているだけでこちらに来て何かをしようとする気はなさそうだ。
　満月の下、彼は７月の海の中でようやく彼は酔いをさました。そして彼はこう叫んだ。
「７月の海は良いもんだぜ。このくらいの冷たさで俺を殺そうとしているのだから。
　良い度胸だと思うよ。
その勇気だけでも賞賛に値するものだね。
でもな、俺は今地球上でラリってるやつの次ぐらいにピンピンしているんだ。ビーチボーイズが聴きたいくらい俺はピンピン生きている。いっそのことここに住みたいぐらいだ」
　叫び終わるとまたあの集団が今度はこちらもはっきりと聞こえるぐらい大きな声で爆笑していた。
７月の海の中に落ちて、意味不明なことをいう頭のイカれた奴がいると。
　僕はもうこれ以上彼が海の中にいるのは危ないと思ったので右手を彼に向けて差し出した。けれども彼は思ったより重くて、かつしっかりと登ろうとしないので懸命に持ち上げようとして、最後はバランスを崩して、僕もテトラポットの上から落っこちてしまった。
そしてまたあの集団の笑いの的に揃ってなってしまった。
今度ばかりは心配の一つや二つするかと思ったら、彼らは携帯電話は片手に僕らのことを撮影しようとしていた。本当にひどい奴らだと思った。
もうこうなっては仕方がないので、彼を引っ張って、二人で海岸から陸へと上がった。
二人とも衣服がずぶ濡れで、重くて気持ちが悪い。
少し歩いて海岸を出る頃には彼はもう酔ってはいなかった。
僕がもう一度海岸の方を振り返ると海岸で何かが物凄い勢いで燃えていた。
あの集団の焚き火の勢いが強くなったのかと思っていたら、どうやら焚き火が風でテントに引火して色々なものが燃えているらしい。
　僕はそれを見て自分の心がスッキリとしたように感じられた。